第七十一話「ここ」
翌日。
一組と三組の合同授業。
地理・魔法史で使う大教室に入ると、一組の学生はすでに半分ほど席についていた。
ここ数日。
一組と同じ教室に入る時だけ、前より周囲の視線を感じる。
気のせいではないと思う。
俺を見てから隣の学生と何か話す人もいる。
「後ろ?」
ルシアンが聞く。
「うん」
いつものように後ろ寄りの席に向かう。
ガレスとリネット、エミールも近くに座った。
教本を机に出す。
すると、斜め前に見覚えのある黒髪があった。
(エヴァン)
昨日、ルシアンから聞いた学生だ。
教師が入ってくる。
教室の話し声が止まった。
「今日は前回の続きから始めます」
黒板に大きな地図が広げられる。
帝国中央部。
いくつもの街道。
河川。
都市。
その中の一つに、教師が印をつけた。
「ここに大きな橋があるとします」
川を横切る街道。
北側には二つの都市。
南側には州都。
「この橋が十日間通行不能になった場合、周辺にどのような影響が出るか。配った資料を使って考えてください」
紙が前から回ってくる。
受け取る。
三枚。
一枚目には、都市と州都の人口。
二枚目には、街道ごとの輸送量。
三枚目には、主な産品と備蓄量。
「橋そのものの修復方法は考えなくてかまいません。迂回路は地図上に示したものだけを使うこと。まず個人で整理してください」
教室のあちこちで紙をめくる音がする。
俺も地図を見る。
橋が止まる。
北側から州都に来る主要街道が使えなくなる。
迂回路はある。
ただ。
かなり遠い。
(食料は……)
北側の都市から州都に運ばれている穀物。
一日あたりの輸送量。
備蓄。
十日。
計算する。
完全に不足するわけじゃない。
でも。
別の都市からの流入も考えないといけない。
その時。
「一つ補足します」
教師の声がした。
黒板を見る。
「資料二枚目の『州内輸送量』は、州政府が直接管理する輸送だけではありません。その州内を通過する民間輸送も含むこととします」
何人かが紙を見直した。
俺も自分の計算を見る。
(あ、ならここ違うな)
さっき除外した数字を入れ直す。
斜め前で、エヴァンの手が止まった。
すでにかなり書き込んでいる。
少し直せば済みそうにも見えた。
でも。
エヴァンは途中までの計算に一本線を引き、次のページを開いた。
最初からやり直すらしい。
(真面目だな)
俺も自分の課題に戻った。
橋。
食料。
迂回路。
運送日数。
資料を見ながら答えをまとめる。
* * *
授業が終わった。
「疲れた……」
ガレスが机に突っ伏す。
「計算多すぎだろ」
「途中からほとんど書いてなかったじゃない」
リネットが言う。
「考えてたんだよ」
「手を動かさずに?」
「頭で」
「便利ね」
ガレスが何か言い返している。
俺は教本を閉じた。
「エヴァンって、かなり真面目なのかな」
隣で鞄を閉じていたルシアンがこちらを見る。
「どうして?」
「さっき、途中までやった課題を全部最初からやり直してたから」
「ああ」
ルシアンが一度だけ前を見る。
「まあ、してると思うよ。多分ね」
「多分?」
「どれくらいやってたかまでは聞いてないから」
ルシアンが立ち上がる。
「でも、入試は十位だよ」
「十位?」
思わず聞き返した。
「うん」
「順位って分かるの?」
俺が知っているのは。
首席がアルドリック。
次席がリア。
そこまでだ。
三位以下の名前なんて聞いたことがない。
「首席と次席以外は公表されてないよ。得点開示すれば、本人には分かるけど」
「じゃあ何で知ってるの?」
「エヴァンから聞いた」
「いつ?」
「入学式の日」
(またか)
「……何で順位まで聞いたの?」
「奨学金の話になったから」
「奨学金?」
「通常入試の上位十人は、学費の一部が免除されるんだよ。エヴァンは十位だったから」
「じゃあ、本当にぎりぎりだったんだ」
「そうなるね」
十位。
十一位なら対象外。
一つ間違えれば、変わる結果だ。
さっきエヴァンは、訂正された条件を確認すると、途中までの答案を捨てて最初からやり直していた。
ああいうのを、何度も積み重ねてきたのかもしれない。
それ以上、ルシアンはエヴァンのことを話さなかった。
俺も聞かなかった。
* * *
教室を出る。
廊下に出たところで、学生が集まっていた。
一組。
その中心にアルドリックがいる。
「ヴァレリウス」
誰かが呼んだ。
「一つ聞いていいか?」
「何だ」
「特別選抜のこと」
周囲の会話が僅かに減る。
俺も足が止まった。
「お前はどう思ってる?」
「何についてだ」
「アストリアのことだよ」
聞かれたアルドリックの赤い眼が動く。
一瞬。
俺と目が合った。
でも。
すぐ質問した学生に戻る。
「お前の方が強かっただろ」
その学生が続けた。
「それなのに、アストリアは特別選抜で、お前は通常入試だ」
アルドリックは迷わなかった。
「俺が勝ったことと、特別選抜に何の関係がある?」
「え?」
「模擬戦の結果で選抜方法が決まるのか?」
「いや、そういうことじゃないけど」
「なら関係ない」
別の女子学生が口を挟む。
「でも、あなたは首席でしょ」
「ああ」
「普通に考えたら、一番評価されてるのはあなたじゃないの?」
「通常入試ではな」
アルドリックの返事は短い。
「俺は通常入試を受けるよう言われた。受けて、首席だった。それだけだ」
「特別選抜じゃなかったことは気にならないの?」
「ならない」
即答。
「何で?」
「必要がなかったからだろう」
「……」
「学院が俺に通常入試を受けさせ、それで入学できた。俺はそれで困っていない」
誰もすぐには返さない。
アルドリックはそのまま歩き出そうとした。
「じゃあ」
別の声。
「今、騒いでるやつらが間違ってるってことか?」
また足が止まった。
「何を言っているかによる」
「制度の基準が分からないって話」
アルドリックは少し考えた。
「制度の基準が分からないという疑問を抱くのは、不自然ではないと思う」
それだけ言って、今度こそ歩いていった。
周囲の学生も少しずつ散る。
ガレスが腕を組んだ。
「結局どっちなんだよ」
「どっちって?」
リネットが聞く。
「レインの味方なのか、あっちの味方なのか」
「今の話を聞いて、どうしてその二択になるのよ」
「だって」
「アルドリックはレインの選抜がおかしいとは言ってない。でも制度に疑問を持つことも否定しなかった。それだけでしょ」
「……ややこしいな」
「ガレスが二つに分けたがるからでしょ」
その横で、ルシアンはまた何も言わなかった。
* * *
昼休み。
食堂に向かう途中で声が聞こえた。
「だから、何度言えば分かるんだよ」
いつもより大きい。
食堂前の広い回廊。
一年生が何人も足を止めている。
「またか」
ガレスが言う。
ただ。
今日は今までとは違った。
声を上げている学生が一人ではない。
三組。
一組。
専科の制服もある。
十人。
二十人。
直接話しているのはその一部だけだがら周囲に人が集まってきていた。
「学院が認めてるんだから、それでいいだろ!」
「だから、その学院に何を基準にしたのか聞きたいって言ってるの!」
「それで何でレインの名前が出るんだよ!」
ガレスの足が速くなった。
「ガレス」
リネットが呼ぶ。
止まらない。
「おい!」
そのまま会話の中に入っていった。
「一回負けただけで好き勝手言い過ぎだろ!」
「またそれか」
一組の男子学生が振り返る。
「俺たちは模擬戦の勝ち負けの話をしてない」
「してたやつもいただろ!」
「そいつに言えよ!」
声が重なる。
もどかしい。
けど、俺が前に出るのは良くない。
「俺は選ばれるだけの能力がある」
なんてことを言えば、それこそ自己弁護になる。
でも。
何も言わないのも逃げているみたいで嫌だ。
結局。
何をすればいいのか分からない。
横を見る。
ルシアンもいる。
なのに。
動かない。
人の間から。
ただ会話を見ていた。
「普通の学生は全員、通常入試を受けてる」
声がした。
エヴァン。
昨日と同じように、使い込まれた入試要項を手に持っている。
大声ではない。
それでも、周囲の言葉が重なる中で、はっきり聞こえた。
「だから何だよ」
ガレスが返す。
「通常入試を受ける人間には、何を評価されるのか最初から示されている」
エヴァンが要項を開く。
「試験科目。評価項目。選考方法。少なくとも、自分が何を求められているのかは分かる」
「だから特別選抜はズルいって?」
「違う」
「何が違うんだよ」
「特別選抜が必要ないとは言っていない」
エヴァンはガレスから目を逸らさない。
「通常入試では測れないものを見る制度があってもいいと思う」
「ならいいだろ」
「でも、別の基準を使うなら」
手元の要項に視線を落とす。
「その基準が何なのかは、説明されるべきだ」
ガレスが言葉を詰まらせる。
「審査があります、だけじゃなくて?」
リネットが聞いた。
エヴァンがそちらを見る。
「ああ」
「個人の選考理由まで全部出せってこと?」
「そこまでは言ってない」
「じゃあ何を?」
「制度として、何を評価するためのものなのか」
エヴァンは一度、要項を閉じた。
「俺が知りたいのはそれだ」
さっきまで怒鳴り合っていた学生の何人かが黙る。
でも。
ガレスは納得していない。
「結局よ」
「何だ」
「レインが試験受けてないのが気に入らないだけじゃないのか?」
その瞬間。
エヴァンの口が止まった。
今までの質問にはすぐに返していた。
だから。
その一拍だけは目についた。
「……」
手に持った要項の端が僅かに曲がる。
「図星じゃない?」
女子学生の声がした。
「違── 」
エヴァンが言いかける。
止まる。
だが、完全には否定しなかった。
「……それと、制度の問題は別だ」
「別って」
「俺がどう思ってるかで、要項に書かれていない内容が増えるわけじゃない」
声は変わらない。
「俺に個人的な感情があるなら、それは俺の問題だ」
そこで一度区切る。
「制度の目的が学生に分からないこととは別だ」
ガレスが何か返そうとする。
その前に。
「そもそもさ」
別の学生が口を挟んだ。
一組でも三組でもない。
制服の襟元。
専科の女子学生。
「アストリア君本人が本当に知らないっていうのも変じゃない?」
俺を見る。
周囲の視線も。
こっちに集まる。
「視察受けたんでしょ?」
「受けた」
「何を見られたの?」
「魔法とか、提出した記録とか」
「じゃあ何が評価された?」
「それは……」
答えられない。
「ほら」
その学生が言う。
「結局本人も分かってないんでしょ」
「だからってレインを責めても仕方ないでしょ」
リネットが返す。
「責めてないって」
「さっきから本人に答え求めてるじゃない」
「知ってるか聞いただけ」
また。
声が増える。
誰が誰に返しているのか。
分からなくなる。
「学院が隠す必要があるんじゃないか?」
「何で?」
「特殊な能力とか研究なら、公開できないだろ」
「それはアストリア君個人の話でしょ。制度の説明まで隠す理由にはならない」
「そもそもミレイユ教授が── 」
セレナの名前。
「ミレイユ教授も特別選抜だったんだろ?」
「らしいな」
「アストリアの師匠なんだよな?」
「そうだけど」
嫌な感じがした。
次に何を言うのか。
まだ分からない。
いや。
分かりたくなかった。
「なら、自分の弟子を同じ枠に入れるくらい── 」
「先生をその話に使うな」
周囲が止まる。
さっきまで重なっていた話し声が切れた。
「何だよ」
相手がこちらを見る。
「可能性の話だろ。そんなに反応するってことは本当に── 」
「やめろ」
エヴァンだった。
「何だよ」
「その話はやめろ」
「お前だってアストリアの選抜には疑問あるんだろ?」
「ある」
「なら、ミレイユ教授が関わってる可能性だって── 」
「根拠がない」
はっきり遮った。
「俺たちが問題にしているのは制度だ」
「でも── 」
「アストリアが不正した証拠はない」
言葉を重ねる。
「ミレイユ教授が審査を曲げた証拠もない」
「お前も、さっき試験受けてないのが気に食わないって── 」
「だからやめろ」
止めた。
今度は相手も黙った。
「俺がアストリアをどう思ってるかは関係ない」
エヴァンが続ける。
「根拠のない話を混ぜたら、制度の話まで成り立たなくなる」
誰もすぐには返さなかった。
俺も何も言えなかった。
「ここ」
隣から。
小さな声がした。
「え?」
ルシアンを見る。
緑の眼はエヴァンを見ていた。
「何?」
聞いた。
ルシアンは答えない。
代わりに一歩。
前に出た。
今までは、ずっと見ていただけだったのに。
人の間を抜ける。
ガレスが気づく。
「ルシアン?」
ルシアンはガレスを見ない。
エヴァンの前で止まった。
「エヴァン」
名前を呼ぶ。
エヴァンが振り返る。
「……メルヴィン?」
「久しぶり」
「入学式以来だな」
「そうだね」
まるで、今までの言い争いなんてなかったみたいな声。
周りは静かなまま。
ルシアンはいつもの調子で言った。
「エヴァンの言ってること、正しいと思うよ」
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