第七十話「特別扱い」
甲高い音が。
安全核から鳴った。
終わった。
目の前にはアルドリックがいる。
俺の杖を掴んでいた左手が離れた。
右手にあった火球も、茜色の光を残して消えていく。
「そこまで!」
教師の声が響く。
「勝者、アルドリック・ヴァレリウス!」
訓練場の外から声が上がった。
拍手。
誰かがアルドリックの名前を呼んでいる。
その全部が、遠く聞こえた。
俺は動けないまま、地面を見る。
長剣が落ちている。
アルドリックが最後に手放した剣。
(……捨てた)
あの瞬間まで。
狙い通りだった。
身体強化に残していた余力を全部回した。
押し合いに持ち込んだ。
アルドリックが剣を押し返すために、右腕と体幹に魔力を集めるところまで見えた。
そこに背後から雷。
防がせた。
雷を消して、魔力を左腕に戻す。
アルドリックは結界に魔力を取られる。
俺が押し切る。
全部。
狙った通りになった。
なのに。
アルドリックは押し返さなかった。
剣を手放した。
当然だ。
剣を握っていなければ。
剣を押し返す必要なんてない。
「……くそ」
声が漏れた。
魔力は見えていた。
アルドリックの身体のどこに、どれだけ魔力が動くのか。
最後まで見えていた。
でも。
右手を開くことに、魔力は必要ない。
剣を捨てるという判断まで。
俺の眼には映らなかった。
「アストリア」
顔を上げる。
アルドリックが剣を拾っていた。
刀身を確かめてから鞘に戻す。
「最後の雷」
「……うん」
「最初から出力を入れていなかったのか?」
「ほとんど」
アルドリックが一度、自分の左手を見る。
「なら、完全に乗せられたな」
「……」
「剣を握ったままなら、あのまま押し切られていた」
負けた相手から、そんなことを言われても。
今は何も返せない。
「短剣も想定より——」
その先は、ほとんど頭に入らなかった。
教師が近づいてきて、安全核を確認する。
問題なし。
アルドリックにも目立った怪我はない。
試合は終わった。
それだけだった。
石柵の切れ目に向かう。
観戦していた学生たちも動き始めていた。
「最後、何やったんだ?」
「剣を落としたんだよ」
「わざと?」
「当たり前だろ」
近くを歩く学生たちの声が耳に入る。
別の場所では、背後から出した雷の話をしている。
水。
凍結。
短剣。
剣と魔法を繋げるアルドリックの戦い方。
話題はあちこちに飛んでいた。
石柵を出ようとした時。
「でも、すごかったな。アストリア」
「無詠唱だろ? あれ」
「そうらしい」
専科の制服を着た学生が三人、少し前を歩いていた。
一人が振り返る。
俺と目が合った。
気まずそうにするわけでもない。
嘲る様子もない。
次に出た言葉も、本当に疑問を口にしただけだった。
「……でも、アストリアってなんで特別選抜なんだ?」
***
翌朝。
食堂に入ったところで。
「昨日の見た?」
知らない声が耳に入った。
「見た。ヴァレリウス君が勝ったやつでしょ」
「アストリア君、特別選抜なのにね」
足は止めなかった。
隣を歩いていたルシアンも何も言わない。
朝食を受け取って、いつもの席に座る。
それで終わった。
昼。
講義棟の廊下。
「ヴァレリウスは通常入試首席だろ」
「セリウスだって次席だぞ」
「じゃあアストリアは?」
「だから特別選抜だって」
「それは知ってる。何を評価されて選ばれたのかって話」
横を通り過ぎる。
二人は俺に気づいていない。
その日の放課後には、別の言葉を聞いた。
「強いかどうかじゃなくないか?」
「じゃあ何なんだよ」
「普通に受験したやつは、何を評価されるか分かってただろ」
次の日。
また。
その次の日も。
同じような言葉が、場所を変えて耳に入った。
最初は。
特別選抜なのに負けた。
そんな話だった。
それがいつの間にか。
どうして特別選抜なのか。
そして。
そもそも特別選抜は、何を評価する制度なのか。
少しずつ、話の形が変わっていた。
* * *
「何なんだよ、あいつら」
机の前で、ガレスが腕を組んだ。
大きな身体のせいで、座っていても妙に存在感がある。
「一回負けただけで何なんだよ。あの試合見てたんじゃないのか?」
「だから、強いかどうかだけの話じゃないんでしょ」
リネットが返した。
「何でそっちの味方するんだよ」
「してないわよ」
赤い髪を耳に掛けながら、リネットは机の上の紙を見る。
「レインが不正して入ったって言われてるなら、私も違うと思う。でも、制度が分かりにくいって話は別でしょ」
「別か?」
「別」
即答だった。
「レインに戦闘力があるかどうかと、学院がどういう基準で特例選抜を決めてるかは同じ話じゃないでしょ」
ガレスが俺を見る。
「レイン。お前、何かズルして入った?」
「してないよ」
「だろ?」
「だから、それを私に言われても」
リネットが呆れたように返す。
俺は二人を見ながら、椅子に座った。
授業が始まるまで、まだ時間がある。
周囲でも似た話をしている学生がいた。
全員ではない。
気にせず教本を読んでいる学生もいるし、課題に取り組んでいる学生もいる。
でも、ここ数日で、明らかにこの話をする人が増えた。
「これ」
横から紙が置かれた。
エミールだった。
「何?」
「入試要項」
黒い前髪の隙間から、紙面を見ている。
いつの間に持ってきたんだろう。
「持ってたのか?」
ガレスが覗き込む。
「受験したから」
「俺は、もうどこにやったか分からねえ」
「そう」
エミールは興味なさそうに返して、ページを開いた。
「通常入試」
指先が紙面をなぞる。
試験科目。
各試験で評価される項目。
結果の扱い。
文章は細かく、何を受けることになるのかは読めば分かるようになっている。
「こっち」
数枚進む。
見出し。
特別選抜。
通常の入学年齢に達していない者について、学院が審査を行い、十二歳時点で入学資格を認める制度。
視察。
提出記録。
審査。
そういった言葉はある。
でも。
「……あれ?」
読み進める。
読み終わる。
もう一度。
前の行に戻る。
「何を見て選ぶのか、書いてない?」
俺が言うと、エミールが頷いた。
「少なくとも、ここには」
ガレスが紙を取る。
「審査するって書いてあるだろ」
「だから、何を審査するかよ」
リネットが横から指す。
「通常入試なら、試験を受ける前から自分が何を評価されるか分かる。でも、こっちは『審査する』で終わってる」
「……本当だ」
ガレスがページをめくる。
前。
後ろ。
もう一度戻す。
書いてある内容は変わらない。
「レイン」
「何?」
「お前、何で選ばれたんだ?」
今度は。
すぐに答えられなかった。
「……分からない」
「分からないのかよ」
「全然分からないわけじゃないけど」
思い当たるものなら、いくつもある。
魔力視。
完全無詠唱。
魔力制御。
セレナと続けてきた研究。
視察団の前でも魔法を使った。
魔獣災害で経験してきたことも、提出された記録の中には入っているはずだ。
でも、どれが理由だったのか。
どの程度評価されたのか。
俺は知らない。
それに。
「俺には魔力視があるし、完全無詠唱もできるから選ばれて当然だ」
そんなことを、自分から言う気にはなれない。
自分が疑われているのは、確かに悔しい。
でも今は、アルドリックに負けたばかりだ。
自分の長所を一つずつ並べても、言い訳をしているようにしか聞こえない。
「学院から届いた書類には?」
リネットが聞く。
「事前視察と、提出記録を審査した結果って書いてあった」
「具体的には?」
「……なかったと思う」
「なら、レイン本人に聞いても分からないのね」
「うん」
リネットが要項をもう一度見る。
ガレスは納得していない顔だった。
「でもさ」
「何?」
「学院が認めたんだろ?」
「そうね」
「なら、別によくないか?」
「それで納得する人もいるんじゃない?」
「お前はしないの?」
「私は、そこまで興味はない。でも、学院が認めたってだけで納得できる人ばかりじゃないと思うわ」
そこで会話は終わった。
***
それから二日。
話は消えなかった。
むしろ、前より面倒な形になっていた。
「不正した証拠なんてないだろ」
三組の教室を出たところで、前を歩く学生の声が聞こえた。
「実際、ヴァレリウス相手にあれだけ戦えたんだぞ」
「それはそうだけど」
「学院が認めたならいいだろ」
その少し先。
一組らしい学生が別の集団と話している。
「だから、強さの問題じゃないって」
「普通の学生は全員入試を受けてる」
「特別扱いをするなら、どういう条件で特別扱いするのかくらい説明されるべきじゃないかしら?」
俺を庇う側の言い分も分かる。
制度の基準を知りたいという意見も分かる。
でも。
全員が同じ理由で話しているわけではなかった。
「負けたのに特別選抜って、おかしくない?」
そう言う学生もいた。
「アストリア本人は何もしてないだろ」
そう返す学生もいる。
「そもそも伯爵家だからって——」
「家柄ならヴァレリウスとセリウスの方が上だろ」
「じゃあ余計に何でアストリアなんだよ」
そこまで来ると。
制度の話なのか。
俺の話なのか。
もう分からない。
一方で。
「別にアストリアを責めたいわけじゃない」
「俺も。ただ基準を知りたいだけだ」
そう話している学生もいた。
友人だから俺を庇う人。
学院が決めたことだから正しいと言う人。
特別扱いそのものが気に入らない人。
俺を妬んでいる人。
純粋に制度を知りたい人。
アルドリックに負けたことを面白がっているだけの人。
それが全部、同じ話題の中に入っている。
いつの間にか。
俺を庇う側と、俺の特別選抜を疑う側。
外から見れば、そんな二つに分かれ始めていた。
「なあ、ルシアン」
昼休み。
食堂でガレスが言った。
俺たちの席から少し離れた場所でも、特別選抜の話をしている一年生がいる。
「どうすんだよ」
「何を?」
「何をって、これだよ」
ガレスが周囲を指す。
「お前、こういうの得意だろ」
「まあ、嫌いではないけど」
「じゃあ何とかしろよ。このままだと面倒だろ」
ルシアンはすぐには答えなかった。
緑の眼が、一度だけ食堂の中を動く。
俺たちの近く。
反対側の長机。
入口の近く。
学生たちがいくつかの集まりに分かれて話している。
「まだ」
ルシアンが言った。
ガレスの手が止まる。
「まだ?」
「うん」
「何が?」
「レイン個人を妬んでる人」
ルシアンが一つ目を数える。
「特別扱いされること自体が嫌な人」
二つ目。
「それから、本当に制度の基準を知りたい人」
三つ目。
「多分、今は全部混ざってる」
ガレスが眉を寄せる。
「だから?」
「だから、まだ」
「いや、分かんねえよ」
「そう?」
「そうだよ」
俺にも分からない。
「ルシアンは、何を待ってるの?」
聞いてみる。
「んー」
それだけ言って。
ルシアンは答えなかった。
「おい」
ガレスが追及しようとした時、近くの声が大きくなった。
「だから、それじゃ説明になってないだろ」
視線を向ける。
一組の生徒。
それから、専科らしい学生も混じっている。
五、六人。
議論というほど大げさではない。
でも、全員が同じ話をしているのは分かった。
「学院が決めたんだから正しいって言うなら、基準なんて何も公開しなくていいことになるだろ」
「そこまで言ってない」
「でも、アストリアが強いのは見ただろ?」
「強い弱いの話じゃないって」
その中に。
一人だけ、ほとんど話していない学生がいた。
焦げ茶に近い黒髪。
短く切られていて、前髪も目に掛からない。
灰褐色の瞳は、話している相手よりも、手元の紙を見ている時間の方が長かった。
入試要項。
俺たちが教室で見たものと同じ。
ただ、角が潰れている。
何度も開いたのか、背の部分にも細かな折れ目があった。
「ほら、ここ」
隣にいた学生が要項を指す。
「審査するって書いてあるだろ」
黒髪の少年は、すぐには答えなかった。
指された行を読む。
前の項目も確認する。
ページを一枚戻す。
それから口を開いた。
「審査があることは書いてある」
「なら問題ないだろ」
「何を基準に審査するかは書いてない」
「何が言いたいんだ?」
「審査をするかどうかと、何を評価するかは別だ」
そこで、別の学生が口を挟む。
少年はそちらを見る。
最後まで聞いてから、また要項に視線を戻した。
議論の中心に立っているわけじゃない。
声も大きくない。
ただ。
誰かが要項に書かれていないことを言うたびに、確認してから訂正している。
俺が見ていることに気づいたのか、ルシアンが横から言った。
「エヴァン」
「え?」
「あの黒髪の学生」
「知ってるの?」
「うん。入学式の日に少し話した」
「入学式の日?」
「そう」
ルシアンは普通に果実水を飲む。
「いつの間に」
「レインが寮で荷解きしてるとき」
「……」
入学式の日。
二人で食堂で昼食をとり、俺は荷解きに寮に戻った。
その間にルシアンは、色々な人と話して回っていた。
「一組?」
「うん」
それだけだった。
ルシアンはエヴァンの話を続けなかった。
俺は、もう一度エヴァンの方を見る。
エヴァンは誰かの話を聞きながら、また入試要項のページをめくっていた。
***
午後。
授業が終わる。
教本を鞄に入れながら、教室の外を見る。
廊下には学生がいる。
いつも通り。
授業の話をしている人。
次の教室に急ぐ人。
食堂に行く相談をしている人。
その中にまた、「特別選抜」という言葉が聞こえた。
数日前までは、俺とアルドリックの試合の話だった。
今は違う。
俺の名前から始まったはずなのに。
学院の制度。
入試。
公平さ。
説明責任。
そういう言葉まで混ざっている。
ガレスが鞄を肩に掛ける。
「まだ何もしねえの?」
教室の出口にいたルシアンに言った。
「うん」
「まだかよ」
「まだ」
ルシアンはそれ以上言わなかった。
廊下の先。
何人かの学生が話している。
その中には、使い込まれた入試要項を持ったエヴァンもいた。
別の場所では、三組の学生が俺を庇っている。
少し先では、一組の学生が制度の基準について話している。
まだ言い争いになるほどではない。
誰かが誰かを罵っているわけでもない。
俺には。
何をすればいいのか分からない。
ルシアンを見る。
茶色い髪の下で、緑の眼だけが、廊下を行き交う学生たちを追っている。
ルシアンが何を待っているのか。
まだ分からなかった。
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