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第六十五話「世界の広さ」

 学院で最初の授業を受けてから、一週間が過ぎた。


 朝、教室に入るだけで少し緊張していたのが、もう随分前のことのように感じる。


「おはよう、レイン」


「おはよう」


 席に向かう途中、三組の女子生徒に声を掛けられる。


「昨日の魔法工学の授業、最後のところ分かった?」


「魔力回路を分岐させるところ?」


「それ。私、途中から置いてかれちゃった」


「俺もノート見直さないとちゃんとは分からないけど、後で見る?」


「ほんとに? すごく助かる。ありがとう!」


 そんな短いやり取りをしてから、ルシアンたちのいる席に向かう。


 クラス全員とはまだ仲良くなれていない。それでも、一週間も一緒に授業を受けていれば、顔と名前はかなり一致するようになった。


 廊下で会えば挨拶をするし、授業前にはその日の課題が解けたか話す。実技の後なら、誰の魔法がどうだったと自然に話題になる。


 それに、三組の生徒からは『特別選抜』という目で見られる機会も減ってきた気がする。


 以前よりも『特別選抜のレイン・アストリア』ではなく、普通に俺として話しかけてくれる人が増えた。


 それが、なんとなく嬉しかった。


 席まで来ると、ガレスがこちらを見た。


「遅いぞ」


「まだ鐘鳴ってないけど」


「俺たちはもういる」


「それはガレスが早かっただけでしょ」


 リネットが教本を机に置く。


「今日は珍しくね」


「珍しくって何だよ」


「昨日、教室に滑り込んできたでしょ」


「間に合っただろ」


「間に合えばいいって考え方なの?」


「いいだろ?」


「エミール」


 リネットが横を見る。


「何?」


「どう思う?」


「先生に怒られなければいい」


「ほら」


 ガレスが得意そうな顔をする。


「味方じゃない」


 エミールが続けた。


「どっちでもいいだけ」


「お前な……」


 またやってる。


 俺はルシアンの隣に腰を下ろした。


「今日は一組と合同だよね」


 ルシアンが時間割を見る。


「うん。地理・魔法史」


 一組の学生も次々に入ってきている。


 前方には、見覚えのある銀色の髪もあった。


 アルドリック・ヴァレリウス。


 入学してから一週間経ったが、直接話したことはまだない。


 ただ、名前を聞く機会は増えた。


 通常入試首席で、実技では圧倒的らしい。


 一方で、二組のリアは魔法理論で目立っている。


 俺についても、無詠唱や魔力視の話が、他組や専科の生徒たち、さらには上級生にまで想像以上に広まっていた。


「ルシアン、昨日頼んだやつありがとう」


 一組の学生が通りすがりに言った。


「役に立った?」


「かなり。今度何か奢る」


「じゃあ期待してる」


 学生が前の席に戻っていく。


「一組にもいるんだ」


「何が?」


「知り合い」


「一週間あるんだから増えるでしょ」


「一週間たっても、俺は一組に知り合いほとんどいないよ」


「けど、三組の人とはだいぶ仲良くなったみたい」


「挨拶するくらいなら」


「十分だと思うけどなあ」


 そういうものだろうか。


 学院の中をルシアンと歩いていると、毎日のように知らない人間から声を掛けられる。


 専科の学生だけでなく上級生もいるし、昨日は食堂で働いている人にまで名前を呼ばれていた。


 ルシアンは人と話すのが上手い。


 だけど、いくらそうだとはいえ、わざわざ自分から話しかけに行くものだろうか。


 釈然としない。


 そんなことを考えていると、


「前、見て」


 ルシアンが言った。


「ん?」


 教師が入ってきていた。


 後から、二人の助手らしい人が大きく巻かれた布を運んでくる。


(何だろう)


 教壇の前で布を広げ、上部を固定してから左右に伸ばしていく。


「……大きい」


 黒板のかなりの範囲を覆うほどだ。


「今日は一年総合科の地理・魔法史、その導入として大陸全体を見てもらいます」


 二人の助手が広げたのは、世界で唯一存在する大陸、その全域を描いた地図だった。


 教師が長い指示棒を持った。


「皆さんも帝国の地理については一定の教育を受けているでしょう。ですから、州名を一つずつ覚えるところから始めるつもりはありません」


 指示棒の先が地図の中央に触れる。


「魔法帝国アルカディア」


 大陸の中央に、広い領域を占める国がある。


 中央付近には帝都アルカディウムがあり、そこから伸びる街道や河川、各地方を繋ぐ線がいくつも描かれていた。


 教師の指示棒が東に移る。


「こちらが帝国東部です」


(あ)


 アストリア領だ。


 帝国全体から見れば端に近く、その先には大森林が広がっている。さらに東には高地があり、その向こうで国境線が引かれていた。


 領地にいた頃、俺の世界の大部分はここだった。


 屋敷があり、領都があり、村や街道があって、その先には森が広がっている。


 それだけでも、子供の頃の俺には十分すぎるほど広かった。


 けれど、大陸地図の中で見ると。


(小さい)


 アストリア領は、本当に小粒ほどに見える。


 そして帝国そのものですら、地図の中央の一つの国だった。


「アルカディアは大陸中央部に位置し、六つの国家と国境を接しています」


 指示棒が更に東に動く。


「竜盟国家ドラコニス」


 次に帝国の南を指す。


「聖教国ルクシア」


 そこから西に移る。


「商業連邦メルカトリア」


 北には霊峰王国ルミナリア。


 さらに南東に迷宮領ネヴァリス。


 最後に北東を示した。


「魔法都市国家アステリオン」


(アステリオン)


 その名前は、ほかの国より身近だった。


 地図で見ると、帝都から北東。


セレナが向かった国。


 今頃、この国のどこかにいるのだろうか。


「国名を暗記するだけなら、わざわざ学院で地理を学ぶ必要はありません」


 教師が言った。


「今日まず覚えてほしいのは、土地が違えば、人間の暮らしも、発展した技術も違うということです。当然、魔法も例外ではありません」


「例えば、商業連邦メルカトリア」


 教師が地図の西側、海に接した部分を指す。


「西海に開く港湾都市や河川都市を中心に、多数の都市が連邦を組んでいます。大商会や銀行、海運などが発達し、大陸中に商人が行き来しています」


 そのまま街道をなぞった。


「西海から入った品物がメルカトリアを通り、アルカディアに入る。そのまま帝国内の街道を使って東や北に運ばれることも珍しくありません」


 その話を聞いて、ふと星霊花(ルミア)祭のことを思い出した。


 祭りに来ていたメルカトリアの商人は、帝国に来る時にはガラス器や香辛料を運び、帰りには赤く染まった星霊花(ルミア)を積んでいくと言っていた。


 俺が買って、今は寮の机に飾っているガラス額も、アストリアの星霊花(ルミア)を乾燥させてメルカトリアのガラスに収めたものだった。


(あの商人も、こうして国を超えてきたんだな)



 当時は、一軒の露店と一台の荷馬車の話だった。


 今こうして地図で見ると、それも大陸を行き来する商人たちの流れの一つだったのだと分かる。


 一組の学生が手を挙げた。


「メルカトリアでは、魔法はどれほど発展しているのでしょうか」


教師が答える。


「もちろん研究されています。ただ、国の特徴としては、大規模な魔法兵団というより、輸送や流通の方が挙げられます」


「......地味じゃない?」


 どこかから小さな声が聞こえた。


「地味だと思いますか?」


 教師は声のした方へ視線を向けた。


「戦争でなくても、例えば数万人の都市に毎日食料を運ぶだけで膨大な仕事になります。魔晶石も、薬も、紙も、皆さんが先日売店で買った外国製の筆記具も、誰かが運ばなければここにはありません」


 教室の何人かが自分の筆記具を見る。


 俺も右手に握ったペンに眼を落とした。


 星霊花祭の荷馬車も、このペンも。


 同じように道を通ってここまで来ている。


「次は、南の聖教国ルクシアです」


 教師の指示棒が南に移った。


「最高位の宗教組織である聖座と、各地の諸侯が国を治める、信仰と政治の結びつきが強い国です。魔法についても、それを神から与えられた恵みとして捉える文化が根づいています」


「特に発達しているのが、治癒、結界、浄化系の魔法です。巡礼地には大規模な医療施設が置かれ、治癒術者が各地を巡る仕組みも整っています」


「帝国の治癒魔法と同じなんですか?」


 今度は三組の女子生徒が尋ねた。


「基礎理論には共通する部分があります。ただ、術式の組み方や治癒を始める条件、複数人で連携する方法などに違いがあります」


(複数人で連携)


 教本の余白に小さく書き込む。


 治癒魔法は多少使える。


 でも、複数人で一つの術式を扱ったことはないし、見たこともない。


(魔力は、どうやって繋ぐんだろう)


 聞いてみたい気持ちはあったが、教師はすでに次の国に移っていた。


「北の霊峰王国ルミナリアでは、精霊魔法が発達しています。森林、河川、鉱山などを単なる資源として扱わず、精霊との契約関係まで含めて管理する文化があります」


 精霊魔法。


 精霊と契約することで使える魔法で、その精霊の多くはルミナリアの秘境にいるらしい。


 名前は知っているが、実際に使われているところは見たことがない。


 精霊とは何なのか。


 魔獣とは異なるのか。


 そもそも、生物と呼べるものなのか。


 気になることが山ほどある。


 教本の端に、また一つ印をつけた。


「東の竜盟国家ドラコニスは、人間の諸侯と真竜が連盟を組む国家です」


 教室が少しざわついた。


 今度は前の方から声が上がる。


「真竜が国の政治にも関わると聞いたことがあるのですが、それは本当なのでしょうか?」


「関わります。帝国軍でも一部飼育されている飛竜とは、まったく別の存在だと考えた方がいいでしょう。真竜とは、高度な知性と言語を持ち、人間と条約を結ぶ独立した存在です」


(いつか、この目で見てみたい)


 また一つ、教本に印が増えた。


「山岳地帯が多いため、山岳戦や航空戦の技術が発達しています」


 教師が東部の高地を指す。


 アストリア領の先。


 自分が住んでいた土地のその先にも人が暮らし、まったく違う魔法を使っている。


 地図で見て初めて、それを実感した。


 その時、前方で手が上がった。


「ヴァレリウス君」


 アルドリックだった。


「先生。東部高地から帝国内に入る主要街道のうち、大型の輸送隊を継続して通せるのは、地図に太線で示された経路と考えていいですか?」


 教師が地図を見る。


「基本的にはそうです。ただし、季節や魔獣の活動域によって使用状況は変わります」


「大森林を迂回する経路は?」


「ありますが、大規模輸送には向きません。そこは後の授業で詳しく扱います」


「分かりました」


 アルドリックが座る。


 俺は改めて地図を見た。


 同じ東部を見ていたはずなのに、俺が気になったのは真竜や航空戦だった。


 一方で、アルドリックが聞いたのは輸送隊を通せる街道。


(同じ地図を見ているのに、全然違うところに注目してる)


 その違いも面白い。


 今度はルシアンが手を挙げた。


「メルヴィン君」


「はい。さっきの交易路なんですけど」


 やっぱり、そういう系だ。


「例えば東のドラコニスから西のメルカトリアに大量の商品を運ぶ場合、帝国の中央を通るのが一番早いんですか?」


「多くの場合はそうなります。大陸中央部を横断する帝国街道を避ければ、山地を大きく迂回する必要がありますから」


「じゃあ強いな」


 ルシアンが小さく言った。


「何が?」


 思わず聞く。


「交渉が」


「交渉?」


「他の国が帝国の道を使いたいなら、通行の条件とか関税とか、帝国側が持てるカードが増えるでしょ」


「……なるほど」


 俺にはただの線にしか見えていなかった交易路も、ルシアンには何か違うものに見えているらしい。


「ただし」


 教師がこちらを見る。


 聞こえていたようだ。


「中央にいることが、常に有利とは限りません」


 ルシアンが頷く。


 指示棒が地図の中心に戻り、アルカディアを示す。


「アルカディアは大陸中央に位置することで、東西南北の交易を仲介し、発展してきました。一方で、広い国土を横断する交易路を維持するには、街道や橋、宿駅、警備などに莫大な費用と人手が必要になります」


 教師が教室を見渡す。


「地理に、都合のいい部分だけはありません。利点と欠点は同時に生まれます」


(なるほど)


 魔法にも似ている。


 出力を上げれば制御が難しくなるし、距離を伸ばせば精度が落ちる。


 何かに向いている形には、大抵別の弱点があるものだ。


「次は、迷宮領ネヴァリス」


 教師の指示棒が南東に移った。


 地図には、都市を示す印とは別に、見慣れない記号がいくつも描かれている。


「ネヴァリスを特徴づけているのは、国土の地下に広がる《アビサル・クラウン》と呼ばれる超巨大迷宮です」


「超巨大迷宮って、一つの迷宮なんですか?」


 一組の学生が尋ねる。


「現在確認されている範囲では、そう考えられています。ただし、迷宮への入口は一つではありません」


 教師が地図上の見慣れない記号を順番に指した。


「地上の各地に複数の迷宮口が存在し、その中でも大きな入口の周囲には都市が築かれています。そうして発展した都市を、ネヴァリスでは迷宮都市と呼びます」


都市ができるほどの迷宮口。


 どれほど大きいんだろう。


「もっとも、《迷宮》と呼ばれてはいますが、誰かが作った建造物ではありません。地脈に沿って長い時間をかけて形成された巨大な地下洞窟群と考えられています」


「遺跡とか、宝物があるわけじゃないんですか?」


「少なくとも、そういった場所ではありませんね」


 教師が答える。


「最も価値があるのは、内部で採れる資源です。地上とは異なる環境で形成された魔晶石や鉱物などです。それに加えて、《アビサル・クラウン》内部には独自の生態系があります。当然、そこに適応した魔獣も生息しています」


独自の生態系。


 日の光もほとんど届かない地下で、地上とは違う植物や魔獣が生きている。


 そんな場所では、魔力の流れ方も地上とは違うのだろうか。


 ただ、それ以上に気になったことがあった。


「最深部はどこまであるんですか?」


 今度は別の学生が聞いた。


「分かりません」


「分からない?」


「人が最深部まで到達した記録がありませんから」


 教室が静かになる。


「探索済みの区画だけでも非常に広大です。それに《アビサル・クラウン》は、地脈の動きに伴って少しずつ姿を変えます。これまで通れた場所が崩れたり、反対に新しい空洞が繋がったりすることもあります」


 教師は地図の南東部、その中でもアルカディアとの国境に近い場所を指した。


「実際、近年はこの付近で地脈の流れに変化が観測されています」


「地脈の変化?」


「はい。地下から漏れ出す魔力や地盤の状態を見る限り、《アビサル・クラウン》の新しい迷宮口が形成されつつある可能性があります」


 指示棒の先が、わずかに帝国側に移る。


「しかも、開くとすればアルカディア側になる可能性が高いと見られています」


 前の席で手が上がった。


「入口が帝国側にできた場合、その入口は帝国が管理することになるんですか?」


「そこは簡単な問題ではありません」


 教師の口調がさっきより真面目になった。


「迷宮口がどちらの国にあるかだけで、その先の区画の扱いまで決まるわけではありません。実際に入口が形成されれば、そこから接続する区画の調査権や資源の採取権、管理方法について、両国で協議する必要が出てくるでしょう」


 新しい迷宮口。


 変わる地脈。


 地上からでは見えない場所で、今も何かが動いているのか。


「最後に、魔法都市国家アステリオン」


 教師が指示棒を北東に移した。


「比較的新しい国家です。研究者や職人、商人などが集まって発展した都市国家で、家柄より研究成果を重視する文化が強い」


 教師が別の資料を一枚掲げる。


 そこには高い塔と、その間を渡る橋、複数の研究区画を持つ都市が簡単に描かれていた。


「アステリオンで使われている魔法の基本原理や属性が、アルカディアと全く違うわけではありません。炎は炎、水は水ですし、魔力操作の基礎にも共通する部分が多い」


「特徴的なのは、既存の術式を完成されたものとして扱わないことです。術式を工程ごとに分解し、一部分だけを使ったり、順番を入れ替えたり、別の属性の術式と繋いだりする研究が盛んです」


「例えば、炎魔法を使いながら炎そのものを発生させず、ごく狭い範囲だけを加熱する術式があります。現地の工房では金属の切断や接合に使われていますね」


(炎を出さない炎魔法?)


 炎属性に変質させるところまでは同じで、そこから先の工程を変えているのだろうか。


「ほかにも、風を広く放つのではなく足元の一点に圧縮し、空中で一瞬だけ踏み込める場所を作る術式があります。長時間飛ぶことには向きませんが、建物の間を移動したり、高所で作業したりするには便利だそうです」


 何人かが隣の学生と顔を見合わせた。


「そんな使い方するのか……」


 囁き声が聞こえる。


 俺も、同じことを思った。


「ほかにも、一つ一つは小規模な術式を、役割ごとに組み合わせる研究があります。たとえば水魔法で細かな霧を広げ、風魔法で一定の範囲に留める。そこへ微弱な雷を流しておけば、人や物が霧の中を動いた時に電流の流れが変わります。その変化から、周囲の動きを探るわけです」


(一つ一つは難しい魔法じゃない。それでも、組み合わせ方でこんな効果が出せるのか)


 面白い。


ひょっとしたら、一番好きなタイプかもしれない。


「アルカディアでは、新しい術式が生まれても、安全性や再現性を確認し、正式に認可されるまでに長い時間をかけます。一方、アステリオンでは一定の安全基準を満たせば、限定された区域や用途で早い段階から試験運用されることがあります」


「研究室で生まれたものが、その年のうちに工房や街中で使われ始めることも珍しくありません」


「だからこそ、技術の普及も速い。ただし、実際に使いながら問題点を見つけて改良するため、事故や失敗もアルカディアより起きやすい」



 セレナも言っていた。


アステリオンは、革新的な研究が多いと。


 そして、それを国が支援していると。


「帝国では危険性が高いとして厳しく審査される研究でも、アステリオンでは公開審査や区域制限を設けた上で許可される場合があります」


「それ、危なくないんですか?」


 一組の女子生徒が質問する。


「もちろん、事故が起きないわけではありません。だからこそ危険区域を定め、研究内容を公開して審査する仕組みを作っています。ただ禁止するのではなく、どうすれば試せるかを考える。その姿勢もアステリオンの特徴の一つですね」


 教師は黒板から地図に向き直った。


 「そして」


 指示棒が北に動いていく。


 ルミナリアを越え、さらにその先。


 大陸北端には、国境線すらまともに引かれていない広い領域があった。


「ここは、人類未到達領域です」


 何人かが顔を上げた。


「国ではないんですか?」


「違います。この一帯には、人の国も都市も確認されていません」


 地図でも、その場所だけは他と全く異なって見えた。


 ルミナリアの北端だけ、地図の描き込みが急に途切れている。


「この一帯は極めて魔力濃度が高く、通常の人間が長時間活動することそのものが困難です。調査隊も何度か送られていますが、深部まで到達できた例はありません」


「何があるんですか?」


「ほとんど分かりません」


 教師は淡々と答えた。


「何があるのか分からないというより、調べるところまで辿り着けていない場所が多い、と考えた方が近いでしょう」


地図の北端へ視線を戻す。


 アストリア領にいた頃は、あの土地だけでも十分すぎるほど広いと思っていた。

 

その外には帝国があり、さらに六つの国がある。


 そして、その先にはまだ、地図に描けない場所まで残っている。


 広大、という言葉では到底表せない。


 帝国の、外の世界。


 胸の高まりを、抑えきれない。


 教師の指示棒が、ゆっくりと大陸中央に戻る。


「さて」


 教室の視線が、地図の中央へ集まった。


「ここまで見れば、アルカディアの地理が持つもう一つの特徴にも気づくでしょう」


 指示棒の先には帝国がある。


 その西にメルカトリア。


 南にルクシア。


 東にドラコニス。


 北にルミナリア。


 南東にネヴァリス。


 北東にアステリオン。


 地図の中央にあるアルカディアを、六つの国が囲んでいる。


「先程述べたように、アルカディア帝国は大陸中央に位置することで、東西南北を結ぶ交易の中心として発展してきました」


「しかし、安全保障という面では決して恵まれた地理ではありません」


 教室がしんとした。


「国境を六つの国家と接しているということは、情勢次第では複数の方向に同時に備えなければならないということです。一つの国境に兵力を集中させれば、別の国境が薄くなる」


 確かに、どこか一方面に備えればいい地形じゃない。


「もちろん、六国家すべてが敵国という意味ではありません。交易もありますし、長く友好関係を保っている国もあります」


 教師はそこで一度言葉を切った。


「ですが、友好関係は永遠を約束するものではありません。そのため国境は、最悪の事態まで想定して守る必要があります」


 静かな声だった。


「帝国が現在の領土と交易網を維持できているのは、国土が大きいからでも、中央にあるからでもありません。帝国軍、各地の要塞、整備された街道、そして何より、それらを支える魔法技術があるからです」


 指示棒が帝都から伸びる街道をなぞる。


「遠隔地への通信、物資輸送、城塞結界、軍用魔導具、魔法兵団。そうしたものを長い時間をかけて整備してきたことで、六方向に国境を持ちながら均衡を保っています」


 教室は静かだった。


 俺も、さっきまでとは違う気持ちで地図を見る。


 魔法と聞けば、どうしても一人の術者が何をできるのかを考えてしまう。


 どれほど強い魔法を使えるのか。


 どれほど精密に操れるのか。


 どんな術式を組めるのか。


 けれど、今挙げられたものは違う。


 魔法兵団。


 街道を通る物資。


 遠く離れた場所へ情報を届ける通信。


 国境を守る要塞。


 そこで使われる結界や魔導具。


 どれか一つだけで帝国を支えているわけではない。


 前方を見る。


 アルドリックも地図を見ていた。


 赤い瞳が向いているのは、帝都ではない。


 東部の国境線だった。


(やっぱり、そっちを見るんだな)


 俺が真竜や知らない魔法に目を向けている間に、アルドリックは街道や国境を見ていた。


 隣では、ルシアンが帝国を横切る交易路を目で追っている。


 同じ地図なのに、見ている場所が違う。


「今日紹介した国々について、今すぐ細かな地名まで覚える必要はありません」


 教師が指示棒を下ろした。


「地理・魔法史で学ぶのは、地図に書かれた名前だけではありません」


 黒板へ向き直り、チョークを取る。


《土地が、国の形をつくる》


「同じ魔力を扱う人間でも、暮らす土地が違えば、必要とするものは変わります」


教師が黒板の文字を軽く叩いた。


「何が採れるのか。どこへ物を運ぶのか。何から身を守るのか。そこに宗教や交易、戦争の歴史が積み重なれば、発展する技術も変わっていきます。魔法も例外ではありません」

 

「なぜ、その土地でその魔法が必要とされたのか」


 教師の声に、黒板へ視線を戻す。


「総合科の皆さんは、そこまで考えてください。それが地理と魔法史を一緒に学ぶ理由です」


(なぜ作られたのか、か)


 初めての視点だった。


 その時、授業終了の鐘が鳴った。


「今日はここまでです。次回からは、各地域をもう少し詳しく見ていきます」


 

教師が教本を閉じる。

 

椅子を引く音が一斉に重なり、教室が急に騒がしくなった。


「終わったー」


 ガレスが両腕を上へ伸ばす。


「地理ってもっと眠い授業だと思ってた」


「途中でよそ見してたけど」


 リネットが鞄に教本をしまいながら言う。


「一回だけだろ」


「三回」


 エミールが答えた。


「数えてたのかよ」


「目に入った」


「お前、人間観察好きすぎだろ」


 また始まった。


 ルシアンが鞄を持ち上げる。


「レイン、行く?」


「……先に行ってて」


 黒板の前には、まだ大陸地図が広げられたままだ。


 ルシアンが俺の視線を追う。


「地図?」


「うん。もう少し、眺めたい」


「分かった」


 ガレスたちと一緒に教室を出ていく。


 俺も教本を閉じ、席を立った。


 階段を下り、地図の前まで行く。


 近くで見ると、細かな街道や河川まで描き込まれていた。

 

中央にあるアルカディアを見つける。

 

帝都から東へ。

 

いくつもの線を辿った先に、アストリア領がある。

 

子供の頃は、屋敷から領都まで行くだけでも遠かった。

 

大森林の先など、ほとんど別世界のように思っていた。

 

けれど今、その場所は大陸の一角に収まっている。

 

そこから視線を動かす。

 

国境の向こうにも土地が続いている。

 

知らない街があり、知らない人が暮らし、俺の知らない魔法が使われている。

 

さらに北へ目を向ければ、地図そのものが描けなくなる場所まで残っていた。


(こんなに広いんだ)

 

帝都へ来た時も、世界が広がったと思った。

  

学院に入ってからも、知らないものばかりだと思っていた。

 

でも、それでもまだ、ほんの一部なんだ。

 

地図を、ゆっくり視線で辿る。

 

いつか、行ってみたい。

 

違う土地で暮らす人を見て、そこで使われる魔法を知りたい。

 

そしていつか——。

 

視線が、大陸北端で止まる。

 

その先だけは、街道も地名も途切れていた。

 

今はまだ、地図にできない場所。


未到達領域。

  

そこでは、俺の目は何を映すのだろう。


しばらくの間、地図から目を離せなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。


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