第六十二話「魔法の話なら」
食堂に着いた時には、ちょうど昼食を取る学生たちが増え始めていた。
訓練場から来た学生も多いのだろう。
制服の袖を捲ったままの者や、杖を魔導帯に差し直しながら歩く者がいる。
俺とルシアンも列に並び、料理を受け取った。
今日の昼食は、鶏肉と野菜の煮込みにパン。
それに薄く切った果物。
空いている席を見つけ、向かい合って座る。
「いただきます」
「いただきます」
パンをちぎる。
身体を動かした後だからか、朝より腹が減っていた。
一口食べたところで。
「ねえ、レイン」
「ん?」
ルシアンがまだ料理に手をつけず、俺を見ていた。
「さっきの最後の測定」
「発動速度?」
「うん」
実技が終わってから、ルシアンだけは何も聞いてこなかった。
「どうやったの?」
「どうって?」
「普通の無詠唱でも、あそこまで一瞬では発動できないよ」
俺はパンを持ったまま、少し考える。
「普通の無詠唱って、心内無詠唱のこと?」
「そう」
「それなら、俺がやってるのとは少し違う」
ルシアンの手が止まった。
「違うの?」
「うん」
「でも詠唱してなかったよね?」
「してない」
「心の中でも?」
「してないよ」
「……」
緑色の眼が少し細くなる。
冗談を疑っている顔ではない。
本当に分からないらしい。
「何ていうの?」
「完全無詠唱」
セレナが命名した名前だ。
「初めて聞いた」
そう言ってから、ルシアンは少しだけ身を乗り出した。
「心内無詠唱とは、何が違うの?」
俺はパンを皿に置いた。
「心内無詠唱って、声に出してないだけで、実際には詠唱してるんだ」
「頭の中で?」
「うん。普通の詠唱なら、言葉に合わせて必要な魔力操作を順番に進めていくだろ?」
「そこは知ってる」
「心内無詠唱も基本は同じ。口に出す代わりに、頭の中で詠唱をなぞって術式を組む。だから声にする時間はなくせるけど、術式を作る工程そのものは残ってる」
「なるほど」
ルシアンが頷く。
「じゃあ完全無詠唱は、その工程を飛ばす?」
「いや」
すぐに首を横に振った。
「工程はある」
「あるの?」
「そこを飛ばしたら、魔法にならないと思う」
「じゃあ、何であんなに速いの?」
「それは……」
少し考える。
説明するのは難しい。
自分ではずっと当たり前にやってきた。
でも。
セレナと一緒に調べた時、どうして俺だけがそれをできるのかは何度も考えた。
「俺には、完成した魔法の魔力が見えるから」
「魔力視?」
「うん」
俺は指先で、机の上に小さな円を描く。
「例えば風弾なら、完成した時に魔力がどんなふうに流れて、どれくらい圧縮されて、どこで風に変わるかが見える」
「自分の魔法の?」
「うん。他の人が使った魔法も、見える範囲なら」
幼い頃から。
何度も見てきた。
料理人が使う火。
庭師が使う水。
オスカーの魔法。
セレナの魔法。
同じ魔法でも、使う人によって少しずつ違う。
それでも。
魔法として成立した瞬間には、必ずある種の完成した形がある。
「だから俺は、そこに直接合わせにいく」
「……直接?」
「普通なら、まず魔力を動かして、必要な量を集めて、圧縮して、外に出して、属性を変えて……って一つずつ確認するだろ?」
「うん」
「俺は完成した時の色とか、密度とか、流れを知ってるから、それを見ながら一気に合わせる。何か違っても、自分で見えるからすぐ直せるし」
「それで工程を同時に?」
「多分、それが近い」
感知。
循環。
移動。
圧縮。
分割。
出力。
変質。
必要な操作自体が消えているわけではない。
ただ、一つを終えてから次に進む必要がない。
完成した形が分かっているから。
そこに近づくように、全部をまとめて動かせる。
「だから、さっきも先生が『よし』って言うまでは何もしてないよ」
「合図を聞いてから、全部?」
「うん」
「……」
ルシアンがしばらく黙った。
俺も待つ。
「それ」
「うん?」
「レイン以外にできるの?」
「分からない」
「分からないんだ」
「完全無詠唱を使う人と会ったことないから」
「心内無詠唱だけでも相当難しいはずなんだけど」
「そうみたいだね」
「他人事みたいに言うね」
「だって俺、そっちはあんまり使わないし」
ルシアンが額に手を当てた。
「どうしたの?」
「いや。レインが普通だと思ってるところが、普通じゃないから」
「……そうかな」
「そうだと思うよ」
少し納得できない。
完全無詠唱が珍しいことは分かっている。
でも、自分にとっては今さら詠唱しながら使う方が難しい魔法も多い。
「僕にもできるかな?」
ルシアンが言った。
「完全無詠唱?」
「うん」
「魔力が見えれば、多分——」
「そこは真面目に答えなくていいよ」
「え?」
「冗談」
「あ」
少し遅れて気づいた。
ルシアンが笑う。
「……分かりにくいよ」
「今のは分かりやすかったと思うけどなあ」
「魔法の話してたから」
「理由になる?」
「なるよ」
少なくとも俺の中では。
料理を一口食べる。
少し冷めていた。
説明している間、思ったより長く喋っていたらしい。
「でも」
ルシアンが今度こそパンをちぎる。
「面白いね」
「完全無詠唱?」
「それもだけど。レインが魔力を見るっていうのが、ようやく少し分かった気がする」
「昨日も実験棟で話したよ?」
「あの時は、『本当に見えるんだ』くらいだったから」
ルシアンはパンを口に入れる。
「今日のガレスたちの魔法を見てる時も、僕らとは全然違うところ見てたでしょ?」
「そう?」
「ガレスにいきなり胸の中の魔力の話してたよ」
「あれは気になったから」
「リネットの水弾も」
「風の入れ方が面白かった」
「エミールも」
「……あれはまだ聞けてない」
笑われる。
「後で聞くよ」
「忘れてなかったんだ」
「忘れるわけない」
あの距離。
あの精度。
魔力の細さ。
どう補正していたのか。
できれば実際にもう一度撃ってもらって、今度はもっと近くで見たい。
「レイン」
「何?」
「また顔」
「……何も言ってないよ」
「もう、分かるようになってきた」
それは困る。
食事を再開する。
少しして。
「……あの」
横から声がした。
自分たちに向けられたものだと気づくまで、一瞬かかった。
顔を上げる。
女子生徒が二人立っていた。
二人とも襟元の銀線は一本。
一年生。
「あ」
一人には見覚えがあった。
肩口で揃えた栗色の髪。
今朝、食堂でルシアンに声を掛けていた女子生徒だ。
「エマ?」
ルシアンが先に名前を呼ぶ。
「うん。今朝ぶり」
エマが笑う。
「よく会うね」
「本当だね」
その隣にいる少女も、同じくらいの年齢。
柔らかそうな淡い金髪を横で細く編んでいて、丸い眼がこちらを見ている。
二人とも手には教本を持っていた。
表紙にある文字が目に入る。
《人体と魔力循環・基礎》
(治癒魔法科か)
エマが治癒魔法科なのは、今朝ルシアンから聞いた。
隣の少女も同じらしい。
「どうしたの?」
ルシアンが聞く。
「あのね」
エマが。
俺を見る。
目が合った。
「さっきの実技、見てたんだけど」
「俺の?」
「うん」
思わず姿勢が少しだけ伸びる。
「私たちの移動中に、ちょうど最後の方が見えて。すごかったよね」
「出力も見たことないくらい大きかったし、発動速度も本当に一瞬だった」
隣の少女も言う。
「あ、私、リリィ。同じ治癒魔法科」
「レイン・アストリアです」
「知ってる」
即答された。
「……そっか」
「今朝から結構名前聞くよ」
リリィが少し笑う。
近くで見ると。
二人とも可愛らしい。
それも。
わざわざ俺に話しかけに来ている。
(……ちょっと緊張するな)
ガレスやにリネットに話しかけられた時とは違う。
何を話せばいいのか。
魔法のことなら分かる。
でも、それ以外は。
「エマは今朝、レインも見てるよ」
ルシアンが言った。
「そうなの?」
「うん。ルシアンに話しかけてたから」
「ああ!」
エマが少し目を見開く。
「隣にいたの、レイン君だったんだ」
「うん」
レイン君。
今まで家名で呼ばれることの方が多かったから。
少しだけ変な感じがする。
「ごめんね。朝、ルシアンしか見てなかった」
「いや、全然」
何故かすぐに答えてしまった。
「……」
ルシアンが俺を見る。
「何?」
「別に」
少し笑っている。
「二人は治癒魔法科なんだよね?」
ルシアンが自然に話を変えた。
「そう。よく分かったね」
「その教本」
「あ」
エマが抱えている本を見る。
「隠しようがなかった」
リリィが笑う。
「午後から最初の治癒実習なの。魔力循環の確認からだって」
「楽しみ?」
俺が聞く。
「うん。結構」
エマが笑った。
「治癒魔法を学びたくて学院に来たから」
「私は楽しみ半分、怖いの半分かな」
リリィが言う。
「何で?」
「先生が厳しいって聞いた」
「誰から?」
「寮の二年生。昨日、談話室で話したの」
「けどその先輩は、『最初だけ怖そうに見えるけど優しい』って最後に言ってたじゃない」
「でも最初は怖いんでしょ?」
「そこだけ覚えてるの?」
二人で笑う。
俺もつられて少し笑った。
何だろう。
ガレスたちといる時とも。
ルシアンといる時とも違う。
もっと。
普通の同年代の会話という感じがした。
「総合科は?」
エマが聞く。
「次も実技?」
「午後は魔法理論だよ」
ルシアンが答える。
「二組と合同」
「魔法理論かあ」
リリィが少しだけ顔をしかめた。
「私、術式論ちょっと苦手」
「でも入試、結構取れてたじゃない」
「エマよりはね」
「何でそこで私を出すの?」
「比べやすいから」
「ひどい」
また笑う。
魔法理論の成績。
順位。
そういう話をしているのに。
どこか軽い。
だからといって、勉強に興味がないわけでもなさそうだった。
治癒実習を楽しみにしている顔は、本物だった。
「総合科って」
エマが俺とルシアンを見る。
「昼休みもずっと魔法の話してるの?」
「いや」
ルシアンがすぐ答えた。
「レインだけだと思う」
「俺だけ?」
「少なくとも僕は、昼飯を食べながら完全無詠唱の仕組みを説明し始めたりしないよ」
「聞いたのルシアンだけど」
「聞いたけど、あそこまで詳しく返ってくるとは思ってなかった」
「詳しく聞かれたから答えたのに」
「やっぱり面白い」
エマが笑った。
「完全無詠唱って、さっきの?」
「うん」
聞かれた。
「普通の無詠唱は、心の中で詠唱して術式を組むんだけど——」
「あ」
ルシアンが止めた。
「今からもう一回始める?」
「聞かれたから」
「分かった。僕が短く言う」
「説明できるの?」
「今教わったからね」
ルシアンがエマたちを見る。
「普通の無詠唱は、声に出さず頭の中で詠唱する。レインのは、魔力が完成した状態を見ながら、そこに一気に合わせる。だから頭の中でも詠唱しない」
「……合ってる?」
俺を見る。
「大体」
「大体なんだ」
「細かく言うなら、工程を飛ばしてるわけじゃなくて——」
「ほら始まった」
ルシアン。
エマとリリィが同時に笑った。
「……」
「レイン君、本当に魔法好きなんだね」
エマが言う。
「うん」
そこは迷わない。
「かなり」
「それは見てれば分かる」
今度はリリィ。
昨日から。
何度言われているのだろう。
「でも、いいなあ」
エマが教本を抱え直す。
「私たち、攻撃魔法の実技はそんなに多くないから。さっきみたいなの、見てるだけでも面白かった」
「治癒魔法も見てみたい」
「本当?」
「うん」
今度は俺の方が身体を少し前に出す。
「治癒魔法って、外から魔力を流した時に相手の魔力循環がどう変わるの? 傷の場所だけに流すのか、それとも一度全身の循環に合わせて——」
「レイン」
「あ」
また。
ルシアンが笑っている。
「ごめん」
「いや、私もまだ分からない」
エマが笑った。
「今日から習うところだから」
「そっか」
「分かったら教えてあげる」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、お願い」
少し嬉しい。
治癒魔法は多少は使える。
でも。
治癒魔法科で専門的に何を学ぶのかは知らない。
「その代わり」
リリィが言う。
「また魔法見せてよ」
「俺の?」
「うん。今度は遠くからじゃなくて、近くで見たい」
「許可が出れば」
「やった」
リリィが笑う。
「エマもでしょ?」
「もちろん」
「じゃあ二人で見に行く」
「授業だったら、勝手に見に来られないと思うけど」
「そこは何とかする」
「何とかって?」
「まだ考えてない」
エマがまた笑った。
俺も笑う。
何となく。
悪い気はしなかった。
むしろ。
かなりいい。
ついさっきまで。
同年代から注目されるのが嬉しいと思っていた。
そして今は。
女の子二人に、自分の魔法をまた見たいと言われている。
(……これは)
嬉しい。
普通に。
少しくらい浮かれても仕方ないと思う。
「そうだ」
エマが言う。
「今更だけど、レイン君って呼んでもいい?」
「うん」
「じゃあ私も」
「もちろん」
「私たちもエマとリリィでいいよ」
「分かった」
「ルシアンはもういいよね」
「僕だけ扱いが雑じゃない?」
「昨日から知ってるし」
「一日も経ってないけど」
「十分でしょ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
ルシアンが笑う。
自然だった。
相手が話せば拾う。
俺が黙れば話を繋ぐ。
かといって。
自分ばかり喋るわけでもない。
気づけば。
最初に二人が話しかけてきた時に感じた緊張は、かなり消えていた。
(こういうのが、上手いんだな)
昨日。
知らない人たちと夕方まで話していた理由が、少しだけ分かった気がする。
「そろそろ行こうか」
リリィが時計を見る。
「うん。実習前に準備あるし」
エマも立ち上がる。
「じゃあ、またね。ルシアン」
「また」
そして。
俺を見る。
「レイン君も」
「うん。また」
二人が人の間に消えていく。
しばらく。
そちらを見ていた。
「レイン」
「何?」
「楽しそうだね」
「……そう?」
「かなり」
「魔法の話だったから」
「本当にそれだけ?」
「……」
少し考える。
「多分」
「そこは素直なんだ」
「可愛い女の子に話しかけられて、嫌な人いる?」
「それはまあ」
ルシアンが笑う。
「僕も嬉しいよ」
「なら同じじゃないか」
「そうだね」
少し安心する。
俺だけではなかった。
「でも」
ルシアンが果実水を飲む。
「随分馴染むの早かったね」
「俺が?」
「うん。今朝は教室に入るだけで緊張してたのに」
「……」
言われてみれば。
まだ。
今日の朝の話だ。
教室の前で立ち止まって。
知らない同年代にどう話せばいいのか悩んでいた。
それが今は。
ガレス。
リネット。
エミール。
そして。
エマとリリィ。
知っている名前が増えている。
「魔法があったからかも」
「魔法?」
「最初に何話せばいいのかは、まだよく分からない。でも魔法の話になったら話せるから」
「なるほど」
「それに」
少し考える。
「向こうから話しかけてくれたし」
「そこはまだ変わらないんだ」
「そんなに急には変わらないよ」
「それもそうか」
俺たちは残っていた昼食を食べる。
食堂の中は、いつの間にかかなり騒がしくなっていた。
いくつもの学科の学生が長机を囲んでいる。
教本を開いたまま食べている者。
午後の実技について話す者。
友人同士で笑っている者。
誰かが昨日帝都で買ったものを見せているらしく、数人が身を寄せていた。
さっきのエマたちも。
俺たちとは違う授業に行く。
学ぶものも。
得意なものも。
学院でやりたいことも違う。
でも。
同じ食堂で昼飯を食べて。
面白い魔法があれば見に来る。
(なんか、いいな)
上手く言葉にはできない。
でも。
学院に来てから。
こういうことが少しずつ増えている。
「レイン」
「ん?」
「今度は何見てたの?」
「学生」
「……随分範囲が広くなったね」
「そう?」
「昨日は魔法ばっかりだったのに」
「今も魔法は見てるよ」
「そういう意味じゃないんだけどなあ」
よく分からない。
「まあいいや」
ルシアンが最後の一口を食べる。
「そろそろ行こうか」
「午後の授業?」
「うん」
机の脇に置いていた時間割を確認する。
「魔法理論。今日は二組と合同」
「二組か」
「大きい教室を使うみたいだね」
俺も時間を見る。
まだ少し余裕はある。
でも。
初日の授業。
遅れるわけにはいかない。
「行こう」
「レイン」
「何?」
「食器」
「あ」
立ち上がりかけていた。
盆を持つ。
「……危なかった」
「魔法理論って聞いた瞬間これだよ」
「忘れてただけ」
「それを言ってるんだけど」
二人で食器を返す。
食堂を出ると、同じように午後の授業に向かう学生たちが歩いていた。
その流れに混ざる。
実技。
完全無詠唱。
知らなかった同級生の魔法。
初めて話した専科の学生。
まだ一日の半分しか終わっていない。
なのに。
朝から、随分いろんなことがあった気がする。
「楽しみ?」
隣から聞かれる。
「魔法理論?」
「うん」
「楽しみ」
これは即答した。
「かなり」
「やっぱり」
ルシアンが笑う。
やがて、指定された教室に着いた。
扉の向こうから、すでに多くの声が聞こえている。
三組だけではない。
二組の学生たちもいる。
六十人を超える同年代。
その中で受ける。
学院に来て初めての魔法理論。
俺は期待に胸を膨らませながら、ルシアンと教室に入った。
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