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第五十五話「隣に立つために」

 エドモンが亡くなってから、セレナはほとんど研究館から出なくなった。


 葬儀や必要な手続きが終わると、レオンの了承を得て、しばらく俺の指導も休むことになった。


 それでも、研究だけは休まなかった。


 食事を届ける者から、朝に持っていったものが夕方になっても手つかずで残っているとか、夜遅くまで研究室の灯りが消えないとか、そんな話を何度か聞いた。


 俺も何度か研究館を訪ねようとした。


 けれど、一人にしてほしいのかもしれないと思うと、扉を叩くことがセレナのためになるのか、それとも邪魔になるだけなのか判断できなかった。


 そんな間も、頭から離れない言葉があった。


『あの子を、魔法だけの人間にしないでやってくれ』


 六歳の俺に、エドモンが頼んだことだった。


 そして、あの時は続けてこう言われた。


『今日みたいに、昼になったら腹が減ったと言ってやってくれればいいんだ』


 そこまで思い出して、自分が難しく考えすぎていたことに気づいた。


 昼前。


 二人分の食事を持って、研究館に向かった。


 扉を叩く。


「先生」


 返事はない。


 もう一度叩いた。


「先生。入りますよ」


 研究室に入ると、セレナは予想通り机に向かっていた。


 大量の紙と本に囲まれ、ペンを走らせている。数式や治癒術式、魔力回路の図が何枚もの紙を埋めていた。


 今度は、白紙ではなかった。


「レイン」


 セレナがようやく顔を上げる。


「指導は休むと伝えたはずですが」


「知っています」


「では、どうしました?」


「腹が減りました」


 ペンが止まった。


 俺は持ってきた籠を持ち上げる。


「二人分あります」


 セレナが俺を見る。


 少しして、その視線が机の上に落ちた。


「……父さんですか」


「……」


 沈黙の後、セレナはペンを置いた。


「そうですか」


 以前エドモンと三人で食事をした小さな食卓に、パンと温かいスープを並べた。


 ほとんど会話はなかった。


 それでもセレナは、久しぶりに一食分をきちんと食べた。


 食事を終えて研究室に戻ると、セレナは机の前に立ったまま、積み上がった紙を見つめていた。


「私は、父を救う魔法を作れませんでした」


 俺は黙って聞いた。


「ずっと考えていました。何か見落としているだけだと」


 セレナが一枚の紙を取る。


「既存の治癒術式なら理解できます。論文を読めば理論も分かる。欠点も、改善できる場所も分かります」


 紙を戻す。


「でも、そこまででした」


「私は結局、すでにある魔法を理解することしかできない」


 紫の瞳が伏せられた。


「なら、僕が創ります」


 セレナが顔を上げた。


「今の僕には無理です。エドモンさんを前にして、何もできなかった。それくらいは分かっています」


 だからこそ、ここで終わりたくなかった。


「僕はこれから、学院に行きます。今の僕が知らない理論も、治癒魔法も、術式も学びます。もっと魔法を知って、先生と同じところで考えられるようになる」


 紫の瞳を真っ直ぐ見る。


「必ず、先生の隣に立てるようになります」


 セレナは何も言わなかった。


「でも、たぶん僕が新しい魔法を創れても、最初は僕にしか使えません」


 俺には魔力視がある。


 他の人には見えない魔力の流れを見ながら調整できるし、普通なら成立しないような術式でも、魔力量で無理やり動かせてしまう。


「僕の眼や魔力量に頼った魔法になると思います。それでは、僕が使えるだけで終わる」


「それでは、治療法にはなりません」


「はい」


 だからこそ。


「先生がいるんです」


 セレナが僅かに目を見開いた。


「僕が感覚でやったことを、先生は術式にできる。僕にしか見えないものを、他の人にも分かる形にできる」


 風喰砲を作った時もそうだった。


 俺が風喰狼(かざはみおおかみ)の体内で見た魔力の流れを伝え、セレナが術式に置き換えた。試作品を動かせば、俺が内部のズレを見つけ、セレナがそれを直した。


 どちらか一人だけでは、あの形にはならなかった。


「だから、僕が創ります」


 一度、言葉を切る。


「先生が完成させてください」


 セレナを見据えた。


「僕にしか使えない魔法を、みんなが使える魔法にするんです」


 長い間、返事はなかった。


 やがてセレナが目を伏せ、小さく息を吐いた。


「ずいぶん難しい仕事を押しつけますね」


「先生ならできます」


「その信頼は、どこから来るんですか」


「八年間、ずっと見てきましたから」


 セレナが一瞬だけ目を丸くした。


 それから、ほんの僅かに口元が緩んだ。


「……それでは、仕方ありませんね」


 机に戻ると、新しい紙を一枚取った。


 ペン先が紙に触れる。


 今度は、止まらなかった。


「何を書いたんですか?」


「研究課題です」


「もうですか?」


「始めると言ったのはあなたでしょう」


 久しぶりに聞いた、いつものセレナの声だった。


 それから、セレナは少しずつ研究館の外に出るようになった。


 すぐに以前と同じになったわけではない。エドモンの椅子を見ると足が止まることもあったし、昼になると無意識に食卓の空いた席を見ることもあった。


 いなくなった人がいた場所は、簡単には元に戻らない。


 それでもセレナは食事を取り、眠り、研究を続けるようになった。


 そして俺が十四歳になる少し前、こう言った。


「アステリオンに行こうと思います」


「……アステリオン?」


「魔法都市国家アステリオンです」


 名前は知っていた。


 アルカディア帝国の北東にある、小さな都市国家。


 ただ、それ以上のことを詳しく調べたことはなかった。


「どうして、そこに?」


「新しい魔法を見に行くためです」


 セレナは机の上に数通の書類を置いた。


 帝国中央魔法学院の印章が押されている。


「特任教授には、一定期間、外部の研究機関を視察する権限があります。それを使います」


「アステリオンって、そんなに魔法研究が盛んな国なんですか?」


「帝国とは、考え方がかなり違います」


 セレナは少し考えながら説明した。


「アルカディアでは、長く積み上げてきた魔法体系や歴史を重視します。それ自体は悪いことではありません。危険な研究を制限する制度にも理由があります」


「はい」


「アステリオンは新しい国です。伝統が少ない代わりに、今まで存在しなかったものを試すことを非常に重視します」


「帝国では禁止されている魔法も?」


「研究されています」


「……大丈夫なんですか、それ」


「だからこそ、自分の眼で見たいのです」


 セレナらしい答えだった。


「私は、新しい魔法をゼロから生み出すことが得意ではありません」


 以前なら、その言葉には苦しさが混じっていた。


 今は違った。


「ですが、見た魔法を理解することならできます。危険な理由も、使える部分も、別の術式に応用できる部分も調べられる」


 そこでセレナは、ほんの少し笑った。


「なら、世界のどこかで生まれている新しい魔法を、できるだけ多く見ればいい」


「先生らしいですね」


「そうですか?」


「はい」


 できないことを嘆くのではなく、自分ができることを使って別の道を探す。


 俺も学院でそうしたかった。


 だから、十四歳になった今年。


 俺は帝国中央魔法学院に進み。


 セレナはアステリオンに向かうことになった。


 出発の朝、屋敷の玄関前にはレオン、テレシア、オスカーが揃っていた。


 荷物はすでに馬車に積まれている。


 テレシアは何度も俺の外套を直した。


「母様。さっきも直しましたよ」


「まだ少し曲がっています」


「多分、馬車に乗ったらまた曲がります」


「それでも今は直しておきたいのです」


 そう言われると、何も言えなかった。


 十四歳になっても、こういうところは変わらないらしい。


 オスカーは荷物の一覧を最後まで確認していた。


「入学書類、身分証明、研究記録の写し、衣類、日用品。すべてございます」


「ありがとうございます」


「筆記具の予備も入っております。薬類は右側の小箱に。到着後、荷物を開く前に── 」


「オスカー」


「なんでしょう」


「さっきも聞きました」


「念のためでございます」


 普段は課題一つでも容赦なく追い込んでくるほど厳しいくせに、こういう時だけ妙に過保護になる。


 少しおかしくなった。


 レオンは少し離れた場所で、そんな俺たちを見ていた。


「レイン」


「はい」


 呼ばれて近づく。


 レオンの手には、細長い箱があった。


「持っていけ」


「これは?」


 受け取って蓋を開ける。


 中には、濃紺の鞘に収められた短剣が入っていた。


 抜いてみると、細身の両刃が鈍い銀色に光った。余計な装飾はなく、握った時の重心も手によく馴染む。


「父様が?」


「三人からだ」


 テレシアとオスカーを見る。


「刀身と重さはレオン様が選ばれました」


 オスカーが説明する。


「柄や全体の寸法は、現在のレイン様の体格に合わせて調整しております」


「学院に持っていくものですから、あまり物々しくならないようにしてもらいました」


 テレシアが続ける。


 鞘に戻した時、裏側に一本の細い銀線があることに気づいた。


 鞘口から先端まで、途中で一度も途切れていない。


 指でなぞり、レオンを見る。


「……迷うな。振り抜け」


「ああ」


 昔、木剣を握る俺に教えてくれた言葉だった。


 今度は、家を離れる俺に持たせる短剣に残されている。


「ありがとうございます」


 腰に下げる。


 不思議なくらい邪魔にならなかった。


「使わずに済むのが一番だ」


 レオンが言った。


「だが、必要な時に使えないものを持たせるつもりもない」


「はい」


 レオンは少しだけ俺を見た。


「この二年、お前がここで何を見て、何を学んだかは知っている」


 低い声が続く。


「今度は外を見てこい。俺も、オスカーも、セレナ殿も知らないものを学んでこい」


「……はい」


「そして戻ってきたら、聞かせろ」


 胸の奥が少しだけ熱くなった。


「行ってこい、レイン」


「行ってきます、父様」


 テレシアには、そのまま抱きしめられた。


「身体には気をつけるのですよ」


「はい」


「食事も」


「はい」


「危ないことは」


「できるだけ避けます」


「できるだけでは困ります」


「……気をつけます」


 少し離れると、テレシアの目が潤んでいた。


 オスカーに向き直る。


「オスカー」


「はい」


「今まで、ありがとうございました」


 俺が頭を下げると、オスカーは僅かに目を見開いた。


「何を仰います」


「え?」


「私の教育が終わったような言い方をされては困ります」


 いつもの穏やかな表情に戻る。


「学院の休暇にはお戻りになるのでしょう。その際には、学院で何を学ばれたのか確認させていただきます」


「……まだ続くんですね」


「当然でございます」


 思わず笑った。


 家族との別れを終えた後、最後に研究館に向かった。


 セレナもその日の午後には、アステリオンに出発することになっていた。


 研究館の前に着くと、セレナが待っていた。


 身に着けているのは、いつもの純白の魔導衣だった。


 五歳の頃、初めて会った時から何度も見てきた姿だ。


 魔力を外に出すことすら止められたところから始まり、魔力の制御を覚え、空を飛び、風喰砲を一緒に作り、特級魔法まで学んだ。


 思い返せば、魔法について何か新しいことを知るたび、いつも近くにこの白い魔導衣があった。


 その人とも、今日でしばらく離れる。


「先生」


「はい」


「行ってきます」


「ええ」


 向かい合うと、言いたいことはいくらでもあったはずなのに、最初に出たのはそんな短い言葉だった。


「学院でも、ちゃんと勉強します」


「当たり前です」


「もう少し感動的な返事でもよくないですか?」


「では、期待しています」


「それはそれで重いですね」


「注文が多いですね」


 少し笑った。


 セレナも、僅かに笑う。


 それからセレナが、胸元から小さなものを取り出した。


「これを」


 差し出されたのは、深い紫色のペンダントだった。


 中央には小さな紫の魔晶石が嵌め込まれ、その周囲を黒銀の細い枠が囲んでいる。


「星霊花?」


「少し意匠を崩していますが」


 花弁の重なりを抽象化した形だった。


 華美ではない。それでも、細部まで丁寧に作られているのが分かる。


「先生が作ったんですか?」


「はい。あなたに合わせて調整してあります」


「効果は?」


「魔力制御の補助です。流れが乱れた時、僅かに循環を整えます」


 首に掛ける。


 紫の魔晶石が胸元に触れた。


「どうですか?」


「似合ってます?」


「効果について聞いたのですが」


「そっちですか」


 セレナが小さく息を吐いた。


「似合っていますよ」


「ありがとうございます」


 俺はペンダントに触れた。


「大事にします」


「壊さないでください」


「努力します」


「努力ではなく、壊さないでください」


「はい」


 今度は素直に頷いた。


 少しの沈黙が落ちる。


 次にいつ会えるかは決まっていない。


 俺は学院に行き、セレナはアステリオンに行く。


「先生」


「はい」


「次に会う時までに、もっと強くなります」


「強くなるだけでは駄目です」


「分かってます」


 少し考えてから、言い直した。


「先生の隣で、一緒に考えられるくらい学んできます」


 セレナは静かに頷いた。


「では私は、追いつかれないようにアステリオンで学んできます」


「それは困ります」


「なぜです?」


「いつまで経っても隣に立てないじゃないですか」


 セレナが笑った。


 今度は、はっきりと分かる笑みだった。


「なら、追いついてください」


「はい」


「次に会った時、お互いに何を見つけたのか話しましょう」


「約束です」


「ええ。約束です」


 セレナが右手を差し出した。


 俺も手を伸ばす。


 初めて会った時には、ずっと大きく見えた手だった。


 今は、もうそれほど違わない。


 握った手は温かかった。


「行ってらっしゃい、レイン」


「行ってきます、先生」


 手を離して研究館を出る。


 少し進んでから振り返ると、セレナはまだ玄関前に立っていた。


 風が吹き、純白の魔導衣の裾が揺れる。


 俺は手を上げた。


 セレナも小さく手を上げた。


 馬車に乗り込んだ後も、その白い姿はしばらく見えていた。


 やがて道が曲がり、研究館ごと見えなくなった。


***


 四度、街道沿いの宿場で夜を越えた。


 アストリア領を出てから、いくつもの街と宿場を越えた。街道を行き交う馬車の数は増え、道幅も広くなっている。


 俺は胸元のペンダントに触れた。


 セレナも今頃、アステリオンに続く道のどこかを進んでいるはずだ。


 俺も、これから自分の知らない場所に行く。


 馬車が緩やかな丘を越えた。


 御者が前方を見ながら声を上げる。


「レイン様。帝都が見えてまいりました」


 すぐに窓に近づいた。


 遠く、街道の先。


 地平線を横切るように、巨大な城壁が伸びている。


 その向こうには、幾つもの尖塔が朝の光を受けていた。


 胸が高鳴った。


 あの壁の向こうに、二年間待った場所がある。


 まだ知らない魔法も、まだ知らない人たちも、今の俺には答えられない問いも、全部あそこにある。


 馬車は速度を落とさないまま、巨大な城門に向かって進んでいく。


 アルカディア帝国の中心。


 帝都。


 そして、その中に。


 帝都中央魔法学院がある。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


次話から、いよいよレインの学院編が始まります。


感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。


次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。


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