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第五十四話「届かない」

 エドモンが病気であることは、ずっと前から知っていた。


 初めて研究館で会った頃から、エドモンはよく咳をしていた。セレナが治癒魔法を使えば一時的に症状は和らいだが、時間が経つとまた身体を流れる魔力が歪んでいった。


 原因は魔力回路の異常だった。


 身体の中で魔力を循環させる回路そのものが、正常な形から少しずつ変化していく。治癒魔法で臓器の負担を軽減したり、乱れた魔力を一時的に整えたりすることはできても、一度変化した回路を元の形に戻す方法はなかった。


 それでも、長い間は付き合っていける病気に見えていた。


 エドモン自身がそう振る舞っていたからかもしれない。


 薬を忘れてセレナに怒られ、俺が研究館に行けば食事を出し、研究に夢中になる俺たち二人を見て呆れたように笑う。


 だから一年前ほどから咳が以前より長く続くようになっても、俺はどこかで、またセレナが何とかするのだと思っていた。


 その考えが甘かったと分かったのは、エドモンが食卓から立ち上がれなくなった日だった。


 それからセレナは、ほとんど研究館に籠るようになった。


 俺の指導は続けてくれた。


 ただ、以前とまったく同じではなかった。


「今日は水属性の圧縮術式を見ます。第百八十二頁を開いてください」


 ある日の訓練で、セレナが一冊の術式集を差し出した。


 言われたページを開く。


「先生」


「なんですか?」


「ここ、結界術式ですけど」


「え?」


 セレナが本を受け取り、開かれたページを見る。


 数秒ほど黙った。


「……百二十八頁です」


 ページを戻すと、そこには水属性の圧縮術式が載っていた。


「大丈夫ですか?」


「問題ありません」


 そう答えた目の下には、濃い隈があった。


 こんなことは以前ならなかった。


 オスカーから、セレナは一度読んだ本なら内容だけでなく、どのページに何が書かれていたかまで覚えていると聞いたことがある。実際、俺も何度もそれを見てきた。


 百八十二頁と百二十八頁を取り違えただけだ。


 術式を間違えたわけでも、俺に危険が及ぶような失敗でもない。


 それでも、セレナがページを間違えたこと自体が、俺には妙に引っかかった。


 別の日には、いつもの時間に研究館を訪れても返事がなかった。


 一度ノックしたが、反応はない。


 もう一度叩こうとすると、扉が完全には閉まっていないことに気づいた。


「先生?」


 声をかけながら、少しだけ開ける。


 セレナは奥の机に座っていた。


 気づいていないらしい。


 左手で額を支え、右手にはペンを持っている。机の上には紙が一枚置かれていた。


 いつものセレナなら、紙とペンを前にして手を止めることはほとんどない。


 考えている時でさえ、図を書き、式を書き、矢印を引きながら頭の中を整理する。


 その日は違った。


 ペン先が紙の少し上で止まっていた。


 書こうとする。


 止まる。


 もう一度ペンを下ろしかけて、また止まった。


 やがてセレナはペンを置き、両手で顔を覆った。


 俺は声をかけられなかった。


 しばらくしてセレナが顔を上げたので、そこで改めて扉を叩いた。


「先生」


「……レイン。来ていたんですか」


「今来たところです」


 嘘をついた。


 その日の指導が終わりかけた時、奥の部屋から物音がした。


 セレナの顔が変わった。


「少し待っていてください」


 すぐに席を立ち、エドモンの寝室に向かう。


 一人残された俺は、使った資料を机の端にまとめた。


 その時、さっきセレナの前に置かれていた紙が目に入った。


 何が書かれていたのか、見るつもりはなかった。


 けれど、見るまでもなかった。


 何も書かれていなかった。


 題名も、術式も、式の一本もない。


 真っ白な紙だった。


 その時は、その意味が分からなかった。


 数日後。


 指導のために研究館を訪れると、セレナは机に積み上げた論文を読んでいた。


「すみません。少しだけ待ってください」


「はい」


 俺は向かいの椅子に座った。


 机の上には、見たことのない資料が何冊も積まれている。


 治癒魔法、生体魔力、魔力回路、回路再生。


 どの論文にも付箋と細かな書き込みが大量に残されていた。


 セレナが一つを読み終え、静かに閉じる。


「……これも駄目です」


「何がですか?」


「既存の回路が残っていることを前提にしています」


 隣の論文を開く。


「こちらは変容した部分を切除して周囲から再生させる方法ですが、父の場合は範囲が広すぎます」


 また閉じる。


 読む速さも、問題を見つける速さも、いつものセレナだった。


「先生」


「はい」


「僕の眼で、何かできませんか」


 セレナの手が止まった。


「エドモンさんの魔力回路なら、昔より細かく見えます。変化している場所を記録したり、普通の測定器では分からないところを探したりすれば——」


「あなたの記録も使っています」


 声はまだ落ち着いていた。


「以前の状態との比較もしました。変化している場所は追えています」


「なら、今の状態をもう一度見ます。もっと細かく——」


「必要ありません」


 少し強い声になった。


「でも、僕にしか見えない変化があるかもしれません」


「レイン」


 そこで一度、止められた。


 止めるべきだったのだと思う。


 けれど、その時の俺は、何かできることがあるなら見つけたかった。


「ほんの少しでも違うところが見つかれば、そこから——」


「見えれば治せるなら、とっくに治しています!」


 研究館に声が響いた。


 俺は口を閉じた。


 セレナ自身も、自分の声に驚いたようだった。


 しばらくして、紫の瞳が伏せられる。


「……すみません」


「いえ」


「あなたに言うことではありませんでした」


 セレナは椅子に座り直した。


 両手を組み、祈るように額に押し当てる。


 少しの間、何も言わなかった。


「分からないんです」


 やがて、小さな声が聞こえた。


「既にある魔法なら、どれだけ複雑でも分かるんです」


 セレナの視線が、机の上の論文に落ちる。


「術式を見れば、なぜその形なのか分かる。どこを変えれば効率が上がるかも、どこが壊れれば失敗するかも分かります」


 そのことについては、俺も何度も見てきた。


 俺が数日かけて考えた術式を、セレナは一度見ただけで理解する。


 他人が何年も積み上げた理論でさえ、読み終える頃には自分のものにしている。


「なのに」


 セレナの指が、紙の端を強く押さえた。


「どうして私は、新しい魔法を創れないんでしょう」


 そこで、あの白い紙を思い出した。


 書かなかったのではない。


 書けなかったのだ。


 どれほど名剣の造りを正確に見抜けても、自ら名剣を鍛えられるとは限らない。


 完成したものを読み解き、優れている理由や欠点を正確に指摘する力と、白紙から新しいものを生み出す力は別だ。


 セレナの才能も、それに似ていた。


 既に存在する魔法を理解することについて、この人以上の人間はいないだろう。


 けれど、何もないところに最初の一本の線を引くことは、それとはまったく別の才能だった。


 俺はずっと、セレナを魔法の頂点にいる人だと思っていた。


 それは今でも間違っていない。


 ただ、頂点にいることと、何でもできることは同じではなかった。


 そして俺は、そのセレナより遥か下にいた。


 自分がもう少し知っていればと思った。


 セレナと同じくらい魔法を知っていたら。


 せめて、違う考えを一つ出せるだけの知識があれば。


 俺の眼に何かが見えていても、何をすればいいか分からない。


 セレナが答えを出せずにいる隣で、俺には問いの形すら作れなかった。


 それから数週間で、エドモンは急速に弱っていった。


 不思議なことに、死が近づくほど症状は静かになった。


 以前は一度始まれば長く続いていた咳が、ほとんど聞こえなくなった。


 初めは、少し良くなったのかと思った。


 違った。


 咳き込む力さえなくなっていた。


 ベッドに横たわる身体は以前よりずっと細く、話す声も小さくなった。


 治癒魔法を使えば痛みや呼吸の苦しさは抑えられたが、それ以上はできなかった。


 ある朝、セレナから短い伝言が届いた。


『父が、レインに会いたがっています』


 すぐに研究館に向かった。


 エドモンは窓際のベッドに横たわっていた。


 カーテンの隙間から柔らかな光が差し込み、部屋の中は驚くほど静かだった。


 セレナはベッドの横に座り、父親の手を握っていた。


「レイン君」


 呼ばれ、近くまで行く。


「はい」


「大きくなったね」


「もう十三歳ですから」


「そうか。初めて来た時は六歳だったね」


 エドモンが微笑んだ。


 その顔を見ていると、初めて研究館で一緒に食事をした日のことを思い出した。


 パンとスープを囲んで、エドモンとセレナが言い合っていた。


 俺がどちらの味方をするのかと聞かれて困り、エドモンが笑った。


 星霊花(ルミア)祭では、セレナと三人で一緒に出かけた。


 初めての祭りに慣れないセレナを二人で少しからかった。


 また三人で来ようと約束した。


 随分前のことなのに、不思議なくらい鮮明に思い出せた。


「レイン君」


「はい」


「来てくれて、ありがとう」


「そんな。僕の方こそ、何度もお世話になりました」


 エドモンはゆっくりと目を細めた。


「君が来るようになってから、あの子も少し変わった」


 隣でセレナが僅かに顔を上げる。


「父さん」


「悪い意味じゃないよ」


 穏やかな声だった。


「前より、よく笑うようになった」


 その言葉を聞いた瞬間、昔の声が蘇った。


『あの子を、魔法だけの人間にしないでやってくれ』


 六歳の俺には、何を頼まれているのかよく分からなかった。


 今なら、少し分かる。


 魔法から遠ざけてほしいと言われたわけではなかった。


 研究以外の時間も、失敗も、食事も、くだらない会話も。


 そういうものまで含めて、セレナの人生なのだと。


 俺は何も答えなかった。


 ただ、エドモンに頷いた。


 それだけで伝わったのか、エドモンも小さく頷き返した。


 それから、隣にいる娘を見る。


「セレナ」


「はい」


「少し休みなさい」


「今は、父さんの話をしています」


「私の話だから言っているんだよ」


「……」


「ずっと、まともに眠っていないだろう」


 セレナは答えなかった。


 エドモンは困ったように笑った。


「昔から、そういうところは変わらないな」


「父さん」


「うん」


「私、まだ——」


 エドモンの手が僅かに動き、セレナの指を握った。


「十分だよ」


「十分じゃありません」


「私には十分だった」


 セレナが俯いた。


 握られた指に、自分の指を重ねる。


「まだ、何も返せてません」


「たくさんもらったよ」


「何をですか」


「それを、私に説明させるのかい?」


 エドモンが少し笑った。


 セレナは何も言えなくなった。


 俺も黙っていた。


 しばらくして、エドモンの胸がゆっくりと上下した。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 その次の呼吸は、来なかった。


「父さん?」


 セレナが呼ぶ。


「父さん」


 少しだけ声が大きくなる。


 エドモンの手を握る指に力が入った。


「父さん」


 何度呼んでも、返事はなかった。


 いつもなら、どれほど複雑な術式を前にしても迷わなかった人だった。


 そのセレナが今は、何もできずに父親の手を握っていた。


 小さな背中が、ゆっくりと丸くなる。


 セレナはエドモンの手を両手で包み、その甲に額を押しつけた。


 しばらく、声は聞こえなかった。


 やがて、押し殺していた息が一度だけ大きく崩れた。


「……お父さん」


 細い声だった。


 俺は何も言わなかった。


 どんな言葉をかけても、今は違う気がした。


 ただ、セレナがその手を離せるまで、同じ部屋にいた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。


次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。


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