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第五十三話「二年」

 馬車の窓から見える景色が、少しずつ後ろに流れていく。


 街道沿いに続いていた農地が途切れ、その向こうに見慣れた山並みが広がっていた。何度も領内を視察する途中で見た景色であり、飛行訓練が解禁されてからは上空から眺めたこともある。


 それでも今日だけは、いつもと少し違って見えた。


 馬車が街道沿いの村を通りかかった時、畑で働いていた一人の青年が顔を上げた。


「レイン!」


 聞き慣れた声に窓を開ける。


「ニコ」


 二年前より背が伸び、日に焼けた肩や腕にも農作業で鍛えられた逞しさがあった。父親のヨハンの隣で鍬を持っている姿は、もう農家の少年というより、一人前に働く青年に見える。


 それでも、俺を見て笑う顔は昔とほとんど変わっていなかった。


「もう行くんだな」


「ああ。行ってくる」


「おう。がんばれよ。今度帰ってきたら、学院の話聞かせろ」


「分かった。ニコも元気で」


「お前に言われなくても元気だよ」


 ニコが笑いながら大きく手を振る。


 俺も窓から手を振り返した。


 馬車が進み、ニコの姿が小さくなっていく。やがて村そのものが見えなくなり、窓の外には再び農地と山並みだけが残った。


 俺は十四歳になった。


 これから向かうのは、帝国中央魔法学院だ。


 二年前なら、馬車の座席に深く腰掛けると足がわずかに浮いていた。今は靴底が床につき、膝の位置も高くなっている。肩幅も広がり、袖口から伸びる手も以前より大きくなった。


 座席の脇には、セヴェリン・メルヴィン伯父上から贈られた杖が立てかけてある。


 深い黒褐色の木肌を銀の紋様が走り、先端には青銀色の魔晶石が嵌め込まれている。初めて受け取った時には少し長く、重く感じた杖も、今では手に取った時の長さも重心も馴染むようになっていた。


 腰にはもう一つ、今朝受け取ったばかりの濃紺の鞘がある。三十センチほどの短剣で、華美な装飾はほとんどない。ただ、鞘の裏には一本の銀線が途切れることなく先端まで伸びている。


 その銀線を見ると、昔レオンに言われた言葉が自然と蘇った。


 迷うな。振り抜け。


 何を表した意匠なのかは、それだけで分かった。


 そして胸元には、深い紫色のペンダントが下がっている。小さな紫の魔晶石を黒銀の枠が囲み、よく見るとその線は星霊花(ルミア)の花弁を重ねた形になっている。


 セレナが俺のために作ってくれた魔導具だった。


 魔力の流れが乱れた時、循環を僅かに整えてくれる効果があるらしい。


『自分で制御することが前提です』


 渡された時にそう言われた。


 いかにもセレナらしい。


 窓から入った風で、胸元の魔晶石が僅かに揺れた。


 二年。


 長いと思っていた。


 実際に過ぎてみれば、そうでもなかった。


 十二歳で学院に入学するのを延期してから、まず大きく変わったのは魔法だった。


 セレナからの指導は、それまで以上に厳しくなった。


 上級までなら、基本五属性の火、水、風、雷、土を完全無詠唱で安定して発動できるようになった。特級にも手が届き、いくつかの術式なら実戦で使えるところまで来た。


 ただし、特級の完全無詠唱となると話は別だった。


 術式そのものを理解していても、処理する要素が一気に増える。属性に変える処理、出力、構造の維持、発動範囲。それらを詠唱の補助なしで同時に扱おうとすると、どこか一つが僅かに乱れる。


 五歳で初めて無詠唱を使った時には、魔力制御すらままならなかった。それが今では、上級を完全無詠唱で使えることは当然のように感じ、特級で同じことができないのを悔しがっている。


 昔の俺が聞けば、ずいぶん贅沢な悩みだと思うだろう。


 それでも、あの《氷凛静界(ひょうりんせいかい)》を思い出すと、自分が進んだ距離より、残っている距離の方がよく分かった。


 特級まで来れば、聖級というものが少しは理解できると思っていた。


 逆だった。


 山の麓まで辿り着いて、初めて頂上がどれほど遠いのか分かったようなものだった。特級と聖級の間には、階梯が一つ違うという言葉では済まない隔たりがある。


 しかも、俺が学んだのは魔法のほんの一部にすぎない。


 基本となる火、水、風、雷、土は初級から存在するが、特級になると、それまでにはない特殊属性の魔法が現れる。光、暗影、精霊の三つで、特殊属性の魔法は最低でも特級に分類される。


 その中で、俺が実際に学んだのは光属性だけだった。


 光属性は主に治癒や結界に使われ、階梯上は特級に分類されるものの、治癒魔術師をはじめ実際に扱える者はそれなりにいる。俺も基礎的な治癒と結界術式までは教わった。


 暗影については、セレナからほとんど触れさせてもらえなかった。


『危険性の高い術式です。学ぶなら学院の正式な講義を受けてください』


 そう言われて終わった。


 精霊魔法は、さらに事情が違う。


 術者一人では成立せず、精霊との契約が必要になる。そして、その契約相手となる精霊が存在するのは、精霊国家ルミナリアだけだと教わった。


 当然、アストリア領にいる俺には契約相手がいない。


 術式を知ったところで、今は使いようがなかった。


 暗影属性や、更に高度な特級魔法。


 そして、聖級以上の魔法。 


 学院に行けば、まだ知らない魔法がいくらでもある。


 そう思うだけで、二年前よりずっと胸が躍った。


 一方で、この二年間に見つかった弱点もある。


 魔法理論だった。


 苦手と言っても、成績が悪いわけではない。セレナの課題にも答えられるし、術式を読めと言われればかなりのところまで理解できる。


 ただ、俺には魔力が見える。


 それが時々、邪魔になった。


 目の前で起きていることなら、魔力がどこを通り、どこで変化し、どこに負荷が掛かっているかを見れば分かる。それを後から「なぜそうなるのか」と理論だけで説明しようとすると、途端に頭が止まった。


 普通に話せる言葉の文法を、一語ずつ品詞に分けて説明しろと言われるような感覚に近い。


 分かっているのに、それを言葉と式にしようとすると難しい。


 魔力の流れを見ながらなら、どこをどう調整すれば安定するのかは感覚的に分かる。けれど、なぜその調整が必要なのか、どうして同じ結果になるのかを順番に説明しようとすると、途端に難しくなる。


 俺はこの眼のおかげで、理屈を理解する前に魔法を使えてしまうことがある。


 それは長所であると同時に、弱点でもあった。


 学院では、その部分も学びたかった。


 魔法以外でも、この二年間で学ぶ内容は大きく変わった。


 十二歳までも、オスカーから政治や経済、税、法律、領軍の仕組みについて教わっていた。だが成人してからは、「知っているか」ではなく、「どう判断するか」を問われるようになった。


 一年前、領都に入る商人から徴収する通行税を一時的に引き上げ、その増収分を街道の補修に充てる案が上がったことがある。


 帳簿だけを見れば、筋の通った案だった。


 だが、過去の商隊の詳細な記録を調べると、税が一定以上になった時には隣の領地を通る遠回りの道に商人が流れていることが分かった。


 税率を上げても、通る馬車そのものが減れば予定したほどの増収にはならない。それどころか、市場に入る商品が減れば領都の物価まで上がる。


 俺は通行税を据え置き、急がない公共工事を半年ずらして、その予算を街道補修に回す案を出した。


 結果として商隊の数は落ちず、補修後には荷馬車の往来が増えた。翌年には市場から入る税収も伸び、先送りした工事の費用まで賄うことができた。


 数字の上だけでは得に見える判断が、領地全体では損になることがある。


 それを初めて実感した出来事だった。


 別の日には、東部の農村から小型魔獣の被害について報告が上がった。


 兎に似た魔獣で、人を襲うことはほとんどない。問題は農作物だった。


 身体が軽く、後脚が強い。


 村人が畑の柵を高くしても簡単に飛び越え、夜の間に若い葉や根菜を食い荒らしてしまう。数も多かったため、領軍を出して一斉に討伐してほしいという要望が届いた。


 俺も現地に行った。


 畑の周囲を歩いてみると、不思議なことに、被害は森から畑まで草や低木が続いている場所に集中していた。一方、荷車が何度も通って地面が剥き出しになった場所では、柵が低くても足跡がほとんどない。


 何度か夜に観察すると、理由が分かった。


 あの魔獣は高く跳べるくせに、身を隠せない広い場所にはなかなか出ようとしない。上空の魔獣を警戒しているらしかった。


 そこで兵を増やして追い回すのではなく、畑の外周に沿って草木を刈り、一定の幅で地面を露出させるよう指示した。森と畑の間に、身を隠せない帯を作ったのだ。


 完全に来なくなったわけではない。


 それでも被害は大きく減り、夜通し兵を配置する必要もなくなった。


 俺の魔法で何匹倒せるかは、ほとんど関係なかった。


 討伐数を増やすより、畑に入ってこない理由を作る方が早かった。


 以前の俺は、既に決められたことを見て学ぶ側だった。


 この二年で、その決定を作る側に少しだけ足を踏み入れたのだ。


 そして、もう一つ。


 十二歳のときにやりたいと言ったことも続けていた。


 東部の地脈観測だ。


 もっとも、地上に立って地下深くの地脈が直接見えるようになったわけではない。


 魔法省から許可を得て、東部の地脈観測所が記録した数値を定期的に見せてもらった。それと同じ日時、同じ地点で、俺は地表に現れる魔力の変化を記録した。


 観測対象にしたのは、深く根を張る植物、浅い土壌、それから一定期間地中に埋めた測定用の魔晶石だった。


 二年分の記録を並べてみると、面白い傾向が見つかった。


 地脈観測値が下がった場所では、まず深く根を張る植物を流れる魔力が弱まり、少し遅れて浅い土壌が保持する魔力量にも変化が出ることが多かった。地中に埋めた魔晶石に蓄積する魔力量も、さらに別の動きを見せた。


 地脈値が回復する時には、それぞれがまた違う時間差で戻っていく。


 完全に一致するわけではない。


 雨量や季節、植物の種類や土質でも変わる。


 それでも二年間記録を重ねると、地脈の変化と無関係とは考えにくい規則性が残った。


 地脈そのものを直接測らなくても、その上にある植物や土壌の反応を複数組み合わせれば、地下で起きている変化を推定できるかもしれない。


 そこまでが、この二年間で分かったことだった。


 今のところ、その微妙な違いを最も正確に拾えるのは俺の眼だ。これでは、俺にしか使えない観測方法でしかない。


 だからこそ、続きを学院で調べるつもりだった。


 植物の反応を数値として測る方法。


 土壌の魔力量を安定して比較する方法。


 魔晶石の変化を読み取る魔道具。


 それらを組み合わせられれば、いつか俺の魔力視がなくても、地脈観測所を置けない場所で地脈の異変を探れる魔導具を作れるかもしれない。


 二年前、あの森で魔力の流れを見て、その意味を間違えた。


 今度は、見えたものを俺だけの答えにしない。


 そのための二年間だったとも思う。


 ただ、この二年を振り返った時、最初に浮かぶのは魔法でも、領地教育でも、地脈観測でもなかった。


 十三歳になった頃、エドモンの病状が決定的に悪化した。


 そこから一年の間に、エドモンは亡くなった。


 そして、セレナもアストリア領を去った。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


ここから学院前夜編が三話ほど閑話的に挟まります。


感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。


次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。


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