第五十二話「その後」
脈喰獣との戦いが終わった日のことを、俺はあまり覚えていない。
張り詰めていたものが切れた途端、身体の痛みと疲労が一気に押し寄せてきた。
救護員たちに担架に乗せられ、採石跡の外に運ばれた。
その後も誰かに話しかけられた気がするが、返事をしたかどうかも曖昧だった。
結局、その日は東部の臨時治癒所から一歩も出ないまま眠った。
翌朝。
目を覚ますと、天幕の薄い布越しに朝の光が差し込んでいた。
身体を起こしただけで、右脇腹が鈍く痛む。
左足には固定具が巻かれ、肩や腕にも新しい包帯が増えている。
だが、昨日までのように息をするだけで痛むことはなかった。
寝台の横に置かれた水に手を伸ばした時、天幕の入口が開いた。
入ってきたのはレオンだった。
濃紺の外套には土埃が付き、いつもは整えられている髪も少し乱れていた。
「父様」
俺は杯を置いた。
「あの、ご心配を── 」
「レイン」
言葉を遮られる。
レオンは寝台の前まで来ると、しばらく俺の顔を見ていた。
何か言わなければと思った。
命令を守らなかったこと。
多くの兵士に自分を探させたこと。
生きて戻ると約束したのに、戻れないかもしれないと思ったこと。
「よく戻ってきた」
それだけ言って、レオンは俺の身体を抱き寄せた。
大きな腕に背中を包まれる。外套に残った砂埃と、かすかな煙の匂いがした。
暗闇の中で、もう二度とこの声を聞けないかもしれないと思った。
その怖さが、ようやく過ぎ去ったものになった。
俺はレオンの外套を掴んだ。
「痛っ……」
脇腹に痛みが走り、思わず声が漏れた。
レオンがすぐに腕を緩める。
「すまん」
「いえ。大丈夫です」
「大丈夫な者は、これほど包帯を巻かれない」
「……そうですね」
レオンは腕を緩めたが、すぐには離れなかった。
やがて俺の肩に置かれた手が、ごく僅かに震えていたことに気づいた。
「......朝食は取れそうか」
「はい」
レオンは一度目を閉じ、再び俺を見た。
父親の顔ではなく、領主の顔をしていた。
「食べ終えたら、本営の天幕に来い。歩けなければ人を寄越す」
「......何かあるんですか」
「カシウス殿にも来てもらう」
短い返事だった。
何のために呼ばれるのかは、聞かなくても分かった。
* * *
一時間後。
俺は杖をつきながら、本営の天幕に入った。
中央の机には、北東森林の地図と災害時特別飛行許可の書面が置かれている。
その向こうにレオンが座り、横には記録係の軍務官がいた。
カシウスは、すでに机の前に立っていた。
黒い軍服の右袖に裂けた跡が残り、額には薄い包帯が巻かれている。
「座れ」
レオンに言われ、俺は用意されていた椅子に腰を下ろした。
カシウスは立ったままだった。
「先に言っておく」
レオンが俺を見る。
「今から話すのは、お前の父親としてではない。この作戦の総指揮を預かった者としてだ」
「はい」
レオンは飛行許可の書面に手を置いた。
「この許可には条件があった。飛行目的は観測。交戦を避け、状況が変われば帰還を優先する。そして、監督者は対象者を一人にしない」
どれも、出発前に確認されたものだ。
「カシウス殿」
「はい」
「飛行魔獣との交戦中、レインに四分間の単独先行を命じた。結果として監督条件を独断で変更し、帰還手段も確保しなかった。間違いないな」
「間違いありません」
カシウスは言い訳をしなかった。
次に、レオンの視線が俺に向く。
「レイン・アストリア」
「はい」
「お前は指定時刻を過ぎても帰還せず、正体も仕組みも確定していない魔獣に攻撃を行った」
「......飛行魔法を使える隙を作ろうとしました」
「それは報告で読んだ」
低い声だった。
「だが、お前が狙った一本を中心だと判断した根拠は、そこを流れる魔力が最も強く見えたことだけだ」
「……はい」
「結果、残る三本に負荷が集中し、地面が崩落した。お前自身だけでなく、捜索隊まで危険に晒した」
地下に助けに来てくれた工兵たちの姿が浮かんだ。
もし、あの場所でもう一度崩落していたら。
帰れなかったのは、俺だけではなかったかもしれない。
「申し訳ありませんでした」
俺は頭を下げた。
レオンはすぐには答えなかった。
俺たちが提出した報告に、すでに目を通している。
あの異常を追えたのが俺だけだったことも、飛行魔獣を引き受けられたのがカシウスだけだったことも知っている。
それでも、俺たちの判断が正しかったとは言わなかった。
「軍令は、結果が良かったから破ってよいものではない」
レオンは机の上の地図に指を置いた。
「戻るはずの者が戻らなければ、探すために人を割く。その分だけ、別の場所が手薄になる。独断で命令を変えるとは、見えない場所にいる誰かにまで危険を負わせることだ」
俺とカシウスは何も言わなかった。
レオンが一枚の書面を取った。
「昨夜、州政府と軍務省に報告した」
先にカシウスに向く。
「カシウス殿には、本日付で東部の任務から外れていただく。必要な引き継ぎを済ませ、中央に戻るように。正式な処分は、軍務省の審査に委ねる」
「はい」
続いて、レオンが俺を見る。
「レインには当面、新たな飛行許可を出さない。指定訓練場以外での飛行も禁じる。今回の行動は、報告書にまとめろ」
「分かりました」
あの森で起こしたことを考えれば、重いとは思わなかった。
「以上だ」
レオンが書面を机に戻す。
話は終わったと思った。
だが、レオンは別の書面を取り出した。
「次に、功績について伝える」
「……功績ですか」
思わず聞き返した。
「処分と功績は別だ」
レオンは淡々と続ける。
「カシウス殿は飛行魔獣を引き受け、捜索隊と決戦部隊の双方で救助と戦闘にあたった。レインは異常の移動を発見し、地下で脈喰獣の魔力吸収の機構を観測した。四本を同時に切断する作戦が成立したのも、レインの観測があったからだ」
書面には、俺たち以外の名も並んでいた。
地下に降りた工兵や救護員、地脈測量員、四つの切断班、信号兵の名も記されている。
「州政府に、作戦参加者の功績記録を提出する。褒賞の内容は審査後に決まる」
「違反していても、ですか」
俺が尋ねると、レオンが頷いた。
「悪かったことを記録するために、良かったことを消す必要はない。その逆も同じだ」
褒められたから、処分が軽くなるわけではない。
処分を受けたから、助けた人までいなかったことになるわけでもない。
起きたことを、そのまま残す。
「理解したか」
「はい」
カシウスも静かに頷いた。
***
昼前。
州都に戻る軍用馬車の前で、カシウスと向かい合った。
東部での任務から外されたため、予定より早く中央に戻るらしい。
「カシウスさん」
「何だ」
「その……ありがとうございました」
「何に対する礼だ」
「地下から出た後も、採石跡でも、何度も助けてもらいました」
カシウスは少し黙った。
「俺は、お前を一人で行かせた」
「行くと言ったのは僕です」
「許可したのは俺だ」
そこで話を終わらせるように、カシウスは馬車に手を掛けた。
「中央の軍務省の演習場を見せてくれる話は、まだ有効ですか」
「今日、それを聞くのか」
「カシウスさんが、東部の任務から外されたらしいので」
「……お前だって、当分飛べないんだろう」
「飛べなくても、見ることはできるので」
「生意気さはちっとも変わってないんだな」
カシウスの口元が、僅かに緩んだ。
カシウスは馬車に乗り込んだ。
扉を閉める直前、こちらを見る。
「次に戦場で会うときは、今度こそ一人で行くなよ」
「行けと言ったのはカシウスさんですけど」
「……そうだったな」
馬車が動き出す。
黒い車体が街道の向こうに小さくなるまで、俺はその場で見送った。
***
午後。
救護員の許可を得て、セレナとともに採石跡を望む高台に出た。
昨日まで戦場だった場所は、まだ蒼白い氷に覆われていた。
中央には、凍りついた脈喰獣の巨体が横たわっている。
その周囲では、魔法省の調査員たちが、氷の外側から測定を続けていた。
「まだ溶かさないんですね」
「内部にどれほど魔力が残っているか分かりません。念のため、外殻と晶脈の状態を記録し、安全を確認しています」
セレナが答えた。
高台からでも、外殻を走る白い結晶の筋が見える。
その光はもう消えていた。
「先生。あの魔獣は、何だったんですか」
「昨日までに分かったことを含めても、まだ推測の方が多いです」
セレナは最初にそう断った。
「過去の記録で確かだったのは、地の魔力を喰らうこと。地面に接している間、周囲の術式を弱めること。殻に白い晶脈があること。その三つだけでした」
「幼体の殻片しか残っていなかったんでしたね」
「はい。成熟した個体の大きさも、肢の数も、生態も、何も分かっていませんでした」
セレナが、凍りついた四本の太い肢に視線を移す。
「今回の観測で、あの四本が地脈から魔力を吸う器官だと分かりました。体の大きさに比べて眼が小さく、近くの兵士にもほとんど反応しなかった」
俺は凍りついた頭部を見る。
外殻に埋もれるような、小さな眼。
採石跡でも、近くにいた兵士にほとんど反応していなかった。
「地下で生きていたから、眼が退化したんでしょうか」
「可能性は高いでしょう。視覚より、地脈の流れや魔力を感じ取って移動していたのかもしれません。ただし、解剖するまでは確定できません」
「では、どうして今回は地上に出てきたんでしょう」
「分かりません」
セレナの返答ははっきりしていた。
「地下で地脈から魔力を吸っていたとすれば、なぜ今回は地上に出てきたのか。そこが分かりません」
北東森林で見た、魔力のない空白を思い出す。
周囲の魔獣たちは、あいつから逃げていた。
「脈喰獣が地脈を食べ尽くして、別の場所を探していたとか」
「それも考えられます」
セレナは頷いた。
「ですが、脈喰獣が到達していない場所でも、地脈値の低下は観測されています。あの個体が全ての異常を起こした、と考えるには説明できないことが多い」
「先に、地脈の方で何か起きていた……?」
「その可能性もあります」
風が吹き、高台の草が揺れた。
採石跡の氷は、陽光を受けてもほとんど溶けていない。
「脈喰獣が異常を起こしたのか。異常があったから、脈喰獣が地上に出てきたのか。両方の可能性もあります」
倒したからといって、全部が分かったわけではなかった。
「あの個体は、このあとどうなるんですか」
「魔法省の調査に回されます。外殻や晶脈、吸収に使っていた器官は現地で切り分け、帝都の研究施設に運ぶ予定です」
「解剖するんですね」
「はい。成熟個体を調べられる機会は、これが初めてになるかもしれません」
魔法省の調査員が、脈喰獣の周囲に新しい測定具を置いていく。
その動きを眺めているうちに、昨日の蒼い光が蘇った。
地面も、岩壁も、空も、一つの巨大な術式に組み込まれていた。
無数の魔力の流れは、確かにこの眼に映っていた。
それなのに、術式の全体はまるで見えなかった。
「先生」
「はい」
「昨日の魔法は、聖級ですよね」
セレナは少しだけ俺を見た。
「その質問には答えられません」
「でも、僕は見ました」
「あなたが見て何だと判断したかと、私が自分の扱える階梯を公言することは別です」
以前、セレナ自身から聞いたことを思い出した。
誰が、どの魔法を、どの階梯まで扱えるのか。帝国魔導師は、それを公言することを禁じられている。
「……すみません」
「いいえ。今のは、今後も覚えておいてください」
「では、質問を変えます」
もう一度、採石跡に広がる蒼氷を見た。
「あれほどの魔法には、どうすれば辿り着けますか」
「まずは、杖なしで歩けるようになってください」
「すぐ治します」
「飛行許可も停止されたばかりでしょう」
「それとこれとは別です」
少し呆れたように、紫の瞳でじとりと見られた。
それでも、尋ねずにはいられなかった。
「でも、知りたいんです。あれほどの術式を、どうやって組み上げるのか。どこで、誰に学ぶのか」
セレナはすぐには答えなかった。
「学院に行けば学べますか」
「今は答えられません」
「先生からは?」
「それも、今は」
セレナは少し間を置いた。
「ただ、レインほどの才能を持つ人が、このまま魔導師への道を進むのなら、どこかで知らなければならなくなるでしょう」
セレナの視線が、凍りついた採石跡に戻る。
「……分かりました」
***
治癒所に戻ろうとした時、街道の方から一台の馬車が近づいてきた。
見覚えのある、アストリア家の星霊花紋章が扉に刻まれている。
馬車が止まる。
扉が開くより先に、俺の足が前に出ていた。
けれど、固定具の巻かれた左足では速く歩けない。
「レイン!」
先に降りてきたのはテレシアだった。
いつもなら使用人の手を借りてゆっくり降りるのに、今日は自分で裾を持ち上げて地面に降りた。
俺の姿を見つけると、歩みが途中から速くなる。
「母様」
目の前まで来たテレシアは、俺の包帯と左足の固定具を見て、そこで足を止めた。
両腕が上がる。
けれど、どこに触れれば痛ませずに済むのか分からないように、手は宙で止まった。
俺はその手を取り、自分の頬に重ねた。
青い宝石の指輪と、細かな模様の刻まれた銀の指輪が、ひんやりと肌に触れる。
「ちゃんと、帰ってきました」
碧い瞳から、涙が零れた。
テレシアは傷に触れないように、俺の身体を抱きしめた。
「おかえりなさい、レイン」
「……ただいま、母様」
答えた途端、視界が滲んだ。
テレシアの声を聞いて、ようやく帰ってきたのだと思った。
「申し訳、ありませんでした」
「今は、それを聞きに来たのではありません」
テレシアが首を横に振る。
「帰ってきてくれました。それで十分です」
背後から、ゆっくりと足音が近づいた。
「レイン様」
オスカーだった。
いつも通り背筋を伸ばしている。
だが、金縁眼鏡の奥にある灰色の瞳は赤く、その縁に僅かな涙が残っていた。
「オスカーも、来てくれたんですね」
「当然でございます」
オスカーは眼鏡の位置を直した。
「ご帰還、心よりお待ちしておりました」
「心配をかけました」
「ええ。大変、心配いたしました」
いつものように穏やかな声だった。
ただ、最後の言葉だけが少し震えていた。
俺は片手で涙を拭った。
うまく止まらなかった。
テレシアがもう一度、俺の背中にそっと手を回す。
オスカーは何も言わず、その傍に立っていた。
***
その後、東部に起きたことが少しずつ数字になっていった。
避難した住民は二万人を超えた。
死者と行方不明者は合わせて百人を超え、重傷者は数百人に及んだ。
以前、風喰狼の群れが引き起こした第Ⅱ級魔獣災害では、被害を示す印は幾つかの村に集中していた。
今回は違った。
セレスタ州の地図には、東部のほぼ全域に印がついていた。
灼尾蜥が起こした火災で家が焼け、大型魔獣に畑と用水路が踏み荒らされた。
柵を破られて森に逃げた家畜も多い。飛行魔獣に屋根を裂かれた倉庫や治癒所まであった。
壊れた街道と橋のせいで、救援物資が届かない地域まで生まれた。
脈喰獣が死んでも、森から出た魔獣が一斉に元の生息域に戻ることはなかった。
傷つき、興奮したまま街道近くに留まる個体もいる。
領軍と州軍は復興作業と並行して、それらの捜索と討伐を続けなければならなかった。
兵だけでは人手が足りなかった。
そのため、州政府は各地の冒険者ギルドに広域の緊急依頼を出した。
東部に集まってきた冒険者たちは、揃いの軍服を着ていなかった。革鎧や旅装の胸元に、ギルドの登録札を下げている。
彼らは物資を積んだ馬車を護衛し、森に逃げた魔獣の足跡を追い、崩れた家屋から人や家財を運び出した。
冒険者ギルドは、討伐だけを請け負う組織ではないらしい。
軍が手の届かない細かな仕事や、専門的な技術を必要とする捜索活動なども行っていた。
これらに加えて、風喰狼の災害のときと同じようにメルヴィン家からも物資の援助があった。
また、離れた地域の地脈値がほぼ同時に低下した。
本来なら別々の生息域にいる魔獣が一斉に移動し、記録のない脈喰獣まで現れた。
人的被害だけでなく、起きた現象の広さと異常さを合わせ、州政府は今回の災害を正式に第Ⅲ級と認定した。
セレスタ州で、この規模の災害が記録されるのはおよそ百六十年ぶり。
州の公報には、『セレスタ州東部大災害』という名が記された。
ただし、原因の欄だけは空白のままだった。
脈喰獣の吸収だけでは、離れた地域で同時に起きた地脈低下を説明できない。
地脈の異常と脈喰獣の出現のどちらが先だったのか。それとも、双方に別の原因があったのか。
魔法省の調査は、一か月経っても終わらなかった。
俺も、治療の合間に今回の行動と判断を記した事故報告書を何度も書き直した。
***
災害から一か月後。
屋敷の机に、帝国中央魔法学院から届いた手紙を広げていた。
特例入学資格を認める通知。
返答期限は、今日だった。
向かいにはレオンが座り、その隣にはオスカー。窓際にはセレナがいる。
「まだ迷っていますか?」
セレナに尋ねられ、俺は手紙に目を落とした。
「……少し」
行きたくないわけではない。むしろ逆だった。
学院には、俺の知らない魔法がある。
セレナが脈喰獣に使った魔法のように、魔力が見えているはずの俺にさえ全体を捉えられない術式がある。
セレナとは違う専門を持つ教授も、異なる考え方をする魔導師もいる。大勢の学生と学び、研究設備や書物にも触れられる。脈喰獣や地脈について、俺たちの知らない記録を知る者だっているかもしれない。
早く行けば、その全部に早く触れられる。
それは、通知が届いた時から変わらない。
「レイン」
「はい」
「決める前に、一つだけ」
セレナが俺を見る。
「特例入学の利点については、もう話しましたね」
「はい」
通常より二年早く学院の課程に入れる。
その分、専門的な教育や研究に進む時期も早められる。
何より。
他の人より早く、先に進める。
「ですが、早く入学することと、普通の学院生活を早く始められることは同じではありません」
「……特例課程だからですね」
「ええ」
その話も聞いている。
それでも、今日になって改めて言われると重みが違った。
「どの授業を通常生と受け、どこから個別の課題や指導にするかは、レインの到達度を見ながら決まります。ですが、通常の一年生とまったく同じ時間割にはならないでしょう」
共通して受ける授業もある。
その一方で、個別講義や別課題、研究室で指導を受ける時間も増える。
「それ自体は、早く学ぶための制度です。ですが、人間関係については少し違います」
「人間関係?」
「同級生はできます。友人もできるでしょう。ただ、同じ授業を受け、同じ課題に追われ、同じ時期に同じ壁にぶつかる——そういう意味での仲間は作りにくくなると思います」
少し想像する。
同じ学院にいる。
昼食を一緒に食べることも、共通の授業を受けることもある。
でも、その後。
相手は次の授業に行き、俺だけ別の教室に向かう。
翌日の課題も違う。
進む速度も違う。
「それに」
セレナが続けた。
「そもそも特例入学をしなくても、レインは目立つと思います」
「……やっぱりですか」
「魔力視。魔力量。今回や前回の災害での活躍。それから、私の弟子であることも知られるでしょう」
「かなりですね」
「かなりです」
セレナは一度息を吐いた。
「そこに十二歳の特例入学まで加われば、最初から周囲と同じ立場で始めるのは、さらに難しくなります」
「先生もそうだったんですか?」
「私も、普通の学院生活とは言い難かったですね」
セレナは十二歳で学院に入った。
研究室に入り浸り、一年生のうちから専用の机まで与えられていたとマルティナ教授は言っていた。
「ただ、私とレインでは事情が違います」
「どういうところが?」
「私には、十二歳から十四歳までの二年間を家に残って過ごす理由が、ほとんどありませんでした」
セレナは少しだけ考えて続ける。
「魔法については、その時点で学院に進んだ方が学べることが多かった。それに私は、貴族家の後継者でもありません。領地を治めるための教育を受ける必要もありませんでした」
俺とは違う。
オスカーが口を開く。
「レイン様は、これまでも領地について学んでこられました」
「はい」
地理や政治、経済、法律、領軍、税について、オスカーやレオンから何年も教わってきた。
「ですが、成人後は段階が変わります」
「段階?」
「これまでは、領地がどのように動いているかを見て学ぶことが中心でした。これからは、その知識を実際の領地運営に使っていただきます」
オスカーが机の上の書類に手を置く。
「予算書を読み、家臣から上がる報告を確認し、領内を視察する。軍務、産業、治水、復興についても、実際に判断を下す側の仕事に触れていただきます」
今回の災害の光景が浮かぶ。
領軍が動き、避難路が作られ、結界班が魔獣を食い止める。救護所では負傷者が運び込まれ、測量員や工兵が崩れた地面を調べ、食料や治癒薬が各地に送られていた。
知識として知っていたものが、全部、本物として目の前に現れた。
そして俺は、そのほとんどを動かすことができなかった。
「父様は、どう思いますか?」
レオンは少し考えてから答えた。
「どちらを選んでも、得るものはある」
「……どちらでも?」
「ああ。今学院に入れば、二年早く先に進める。ここに残れば、成人した今だから学べるものがある」
そこで言葉を切る。
「どちらを選んでも、もう一方を二年間は手放すことになる」
「……はい」
「だから俺が決めることではない」
レオンは俺を見る。
「お前が決めろ」
「はい」
手紙を見る。
それでも、心のどこかに引っかかるものがあった。
十二歳で帝国中央魔法学院に特例入学する。
ほとんど前例がない。
その事実を、俺はかなり気に入っていた。
認めたくはないけれど、たぶん、すごく。
前世の俺は何者にもなれなかった。
特別な才能もなく、大きなことを成し遂げたわけでもないまま人生が終わった。
だから今度は違う。
そう思ってきた。
十二歳で特例入学する天才。
そんな肩書きをもらえることが、嬉しくなかったと言えば嘘になる。
「……やっぱり、早く入った方が早く先に進めますよね」
俺が言うと、セレナは否定しなかった。
「はい。それは特例入学の大きな利点です」
それだけじゃない。
学院そのものにも、強く惹かれている。
セレナ以外の教授からも学べる。個人では用意できない設備や資料を使えるし、帝国中から集まった学生にも会える。
セレナ一人から学べば十分だから、学院なんて必要ない。
そんなことはない。
セレナ自身、それを一度も言わなかった。
「ただ」
俺は少し考えてから聞いた。
「魔法の勉強だけで考えたら、この二年をここで過ごすのは、かなり遅れになりますか?」
「いいえ」
返事は早かった。
「魔法理論の基礎から、特級までの術式と制御であれば、私が教えられます」
「特級まで?」
「もちろん、使えるようになるかはレイン次第です」
「……はい」
「完全無詠唱で扱うなら、さらに別の話になりますけどね」
そこは。
まだ先らしい。
「学院との差は?」
「この二年間に学ぶ範囲だけを比べるなら、大きくはありません」
セレナが少し考える。
「学院の価値は、それより先でさらに大きくなります。一人の教師では扱えないほど、分野が広がっていきますから」
「……なるほど」
術式構造。
魔法工学。
治癒。
魔獣生態。
戦闘魔法。
俺の知らない分野を本格的に学ぶなら、学院に行く意味は大きい。
けれど、十四歳になってからでもその価値は失われない。
逆に、今ここにいなければ追えないものもある。
机の端に置かれた東部の観測記録を見る。
脈喰獣が死んだ後も、地脈の観測値は完全には元に戻っていない。
もちろん。
俺に地下深くの地脈そのものが見えるわけではない。
地下に落ちた時は、目の前の岩盤や結晶脈を流れる魔力が見えていたが、地上から同じことはできない。
それでも。
俺にしか記録できないものはある。
「今回の異変、これからも魔法省は調べるんですよね」
「ああ」
レオンが答える。
「観測は継続すると聞いている」
「その記録を、僕も見られますか?」
「許可が出れば」
俺は机の上の地図を見る。
「魔法省が測った地脈の数値と、同じ時期、同じ場所で僕に見える周囲の魔力を比べたいです」
地表に漏れ出す魔力。
植物の魔力。
魔晶石の変化。
今回の異変では、そういうものにも変化が現れていた。
俺に地脈は見えなくても、その変化が地上にどう現れるのかは見られる。
「今から記録を続ければ、地脈が戻っていく途中で何が変わるのかも見られます。それに、来年の同じ時期にも同じ場所を見れば、一年前との比較もできます」
脈喰獣が死ねば、すぐ元に戻るのか。
何か月も影響が残るのか。
一度戻ったように見えて、また変化するのか。
今は、誰にも分からない。
「二年間、記録を続けてみたいです」
セレナが僅かに頷いた。
「意味はあると思います」
「あの森で、僕は見えたものの意味を間違えました」
強い流れが見えた。
それだけで、そこが中心だと決めつけた。
「次は、僕に見えるものだけで決めつけないようにしたいです。測定された数字や、実際に起きた変化と比べて、記録に残したい」
今度は、見るだけでは終わらせない。
見えたものと、そこから考えたことをちゃんと分ける。
「二年分あれば」
セレナが机の上の観測記録を見る。
「地脈の測定値と、地表でレインに見える魔力の変化が、どこまで対応しているのかも調べられそうですね」
「はい」
「学院に入ってから、その理由を調べることもできます」
その言葉で、何かが決まった。
学院に行かないと思うから、惜しく感じる。
違う。
二年後に行く。
その時までに、できることがある。
セレナから特級までの魔法を学ぶ。
成人した後継者として、領地を実際に動かす側の仕事を知る。
東部に残った異変を、魔法省の観測と自分の眼の両方から記録する。
そして。
分からないものを、分からないままにせず、学院で確かめたい問いにする。
学院でしか学べないものは、学院で学ぶ。
今、この土地でしか学べないものは、今学ぶ。
早く進むことと、遠くまで進むことは同じじゃない。
俺は帝国中央魔法学院から届いた入学意思確認書を机の端に置き、代わりに別の用紙を手元に引き寄せた。
《特例入学猶予願》。
その隣には、セレナが作った《監督継続及び教育計画書》の草案がある。
「決めたか」
レオンに聞かれる。
「はい」
迷いはなかった。
「学院に入学するのを、二年延ばします」
口にすると、ほんの少しだけ惜しかった。
十二歳の特例入学生。
その肩書きは、やっぱり格好いい。
でも、それでいい。
希望する猶予期間の欄に「二年」と書き、最後に署名する。
レイン・アストリア。
ペンを置いた。
学院に行きたくなくなったわけじゃない。
教授たちに会いたい。
知らない魔法を見たい。
セレナ以外の魔導師とも、たくさん話してみたい。
俺と同じように魔法を学ぶ人間とも、競ってみたい。
二年後には。
今の俺より、ずっと多くのことを知っているはずだ。
特級まで磨いた魔法。
二年間の観測記録。
領地で実際に見て、考えて、判断した経験。
そして、学院で答えを探したい問い。
それらを持って。
俺は書面をレオンたちの前に置いた。
「二年後、帝国中央魔法学院に行きます」
自分でも少し笑っていた。
十四歳。
通常の入学年齢。
そこから、俺の学院生活が始まる。
そして——
二年は、思っていたよりずっと早く過ぎた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回で、第Ⅲ級魔獣災害を巡る一連の出来事はひとまず一区切りとなります。
次話からは少し時間が進み、レインの新たな節目へと物語が動いていきます。
感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。
次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




