第五十一話「聖級魔法」
セレナが閉じていた眼を開いた。
紫の瞳が、脈喰獣へ向けられる。
その眼を、俺は知っていた。
五歳の頃、初めてセレナと会った時。
俺の魔力を、俺自身を、何一つ見落とさないように見ていた、凍てつくような眼。
怒っているわけでも、威圧しているわけでもない。
ただ、冷たいほど真っ直ぐに対象を見ている。
あの時、その視線の先にいたのは俺だった。
今は違う。
黒灰色の巨体が、残った二本の肢で地面を掻いている。
四本の肢を地面から切り離されても、脈喰獣は止まらなかった。
魔力を吸い上げることは、もうできない。
それでも外殻の白い結晶には、これまで蓄えた莫大な魔力が残っている。
残った肢が土を抉り、巨体を少しずつ西へ押し進めようとしていた。
セレナは、その姿を微動だにせず見据えている。
やがて、右手が静かに上がった。
直後。
俺の視界が、蒼で埋まった。
セレナから伸びた魔力の線が、一斉に地面を走り出す。
最初の数本だけは目で追えた。
岩の割れ目を抜け、窪地の縁を巡り、崩れた斜面を駆け上がる。
一筋の光が二つに分かれ、その先でまた枝分かれする。
地表だけではない。
蒼い光は岩壁を這い、空中へ弧を描き、地面の浅いところを抜けて別の場所から現れた。
十や二十ではない。
百を越えたと思った時には、視界の反対側で、その何倍もの光が生まれている。
千なのか。
それ以上なのか。
もう、数える意味さえなかった。
採石跡のあらゆる場所へ、蒼い魔力の道が張り巡らされていく。
一本の光が、地面に漂っていた淡い燐光へ触れた。
その瞬間、燐光の向きが変わる。
セレナへ吸い寄せられたわけではない。
その場に留まったまま蒼い流れへ連なり、同じ規則で巡り始めた。
岩の隙間でも。
空気の中でも。
採石跡にもともと存在していた光が、次々と向きを揃えていく。
セレナの魔力が、周囲の全てを呑み込んでいるんじゃない。
散らばっていた魔力へ道を与え、巨大な術式の一部として編み上げている。
俺に分かったのは、そこまでだった。
セレナを見る。
普段なら身体の周囲にはっきり見える燐光が、今は妙に薄い。
だが、消耗したわけではなかった。
セレナの莫大な魔力が、数え切れないほど細く分かれ、採石跡の隅々まで広がっている。
視線を右へ動かす。
蒼い光は岩場の向こうへ続いていた。
左を見る。
切り立った岩壁を越え、その上の空にまで伸びている。
どれだけ追っても、術式の端に辿り着けない。
魔力を見ることのできる俺が、一つの魔法の全体を視界に収められない。
一本だけでも追おうとした。
その光は途中で三つに分かれ、一つは地面へ潜り、一つは空を渡る流れへ接続し、最後の一つは離れた場所の燐光へ触れた。
次の瞬間には、三つとも別の流れへ組み込まれていた。
見失った。
視線を戻すと、さっきまで何もなかった場所に、新たな蒼が生まれている。
見えているのに、把握できない。
それでも。
その光景は、息を呑むほど綺麗だった。
これほど複雑なのに、乱雑さがない。
無数の流れが互いを妨げることなく分かれ、重なり、つながっていく。
世界の中には。
最初から巨大な模様が隠されていて。
セレナだけが、その正しい線を知っている。
そんなふうに見えた。
澄んだ声が、採石跡を渡った。
「蒼き静寂よ、我が定めし界を満たせ」
無数の光が、一段強く輝いた。
外周を巡っていた蒼い線がつながり、採石跡を囲む一つの境界を作り上げる。
そこから内側へ、さらに細かな流れが伸びた。
剥き出しの岩盤。
深く抉られた地面。
切断された四本の肢。
そして、まだ動き続ける黒灰色の巨体。
境界の内側にある全てが、蒼い網の中へ収められていく。
「熱を鎮め、水を縛り」
頬を撫でていた空気が、急速に冷えた。
吐いた息が白く曇る。
遠く離れた岩肌に薄い霜が浮かび、地面に残っていた水が白く濁った。
東側の斜面。
採石跡の中央。
西側の岩場。
互いに離れた場所で、ほとんど同時に霜が生まれている。
その全てに、すでに蒼い流れが通っていた。
「天より落つるもの、地より満つるもの」
空中を横切る蒼が増えた。
地面を巡る流れと、空を渡る流れが幾重にも接続し、採石跡を上下から包み込んでいく。
セレナを中心に魔法が広がっている。
もう、そんな規模ではない。
採石跡そのものに、一つの巨大な術式が編み込まれている。
俺がこれまで見てきた魔法とは、比べ方そのものが違った。
三年前、セレナが築いた巨大な氷壁。
カシウスが何十本もの雷をつなぎ、魔獣を空へ閉じ込めた《雷鎖天牢》。
どちらも特級魔法だった。
一人の人間が起こしたとは思えないほど、巨大な現象。
だが、それでも氷壁は壁であり、雷の檻は檻だった。
どれほど大きくても、一つの現象として見ることができた。
今、目の前にあるものは違う。
地面も、岩壁も、空も。
そこに存在する魔力まで、同じ術式の中へ組み込まれている。
規模。
込められた魔力。
無数の流れを同時に操る技術。
その全てが、俺の知る特級から飛び抜けていた。
かつて、セレナから教わったことが脳裏をよぎる。
特級の次。
国家でも扱える者が限られる領域。
使えるかどうかさえ、公言することを禁じられている力。
聖級。
たぶん。
今、目の前にあるものがそれだ。
「巡る脈さえ、凍てつく沈黙に沈めよ」
脈喰獣が反応した。
残った肢が地面へ深く食い込み、黒灰色の巨体が持ち上がる。
表面に生じていた霜が剥がれ、薄い氷膜が弾け飛んだ。
外殻の白い結晶が強く輝く。
身体の中に残されていた魔力が激しく巡り、肢へ流れ込んでいく。
それでも、セレナは動かない。
右手の指先が、僅かに動いた。
その瞬間、採石跡の蒼が形を変えた。
脈喰獣の動いた場所へ、周囲の流れが寄っていく。
密度を増した蒼が外殻を撫で、剥がれたばかりの場所へ新たな霜を生んだ。
氷が重なる。
脈喰獣が強引に肢を動かすと、それも砕けた。
だが、蒼い流れは途切れない。
別の線が崩れた場所を埋め、露出した外殻を再び白く染め上げる。
何度も攻撃を放っているわけではなかった。
この境界の内側では、凍結そのものが終わらない。
脈喰獣は、セレナの魔法を受けているんじゃない。
もう。
セレナの魔法の中にいる。
「境より満ちて、余すことなく」
採石跡を満たす蒼が、波打つように輝いた。
北の岩壁から。
南の斜面から。
地面の下から。
空を覆う無数の流れから。
絶え間なく魔力が巡り、境界の内側へ凍結を重ねていく。
脈喰獣が肢を振り下ろした。
轟音とともに地面が砕け、土と氷が高く舞い上がる。
それでも、巨体はほとんど前へ進まなかった。
肢の付け根へ白い氷が食い込み、外殻の隙間を埋めている。
力任せに動けば割れる。
割れたと思えば、新しい氷が生まれる。
残った二本の肢が、少しずつ動きを失っていく。
白い結晶の筋は、まだ強く光っている。
地面から切り離されるまでに吸い上げた魔力が、閉じた巨体の中を激しく巡っていた。
だが、その流れにも蒼い光が重なる。
外から押さえつけているだけではない。
外殻を覆い、関節を閉ざし、魔力が通るたびに生じる僅かな動きまで凍結が捉えていく。
風の音が消えた。
砕けた氷が地面を跳ねる音も、外殻が岩を削る音も、凍てつく世界へ沈んでいく。
採石跡から、動くものが一つずつ失われていった。
揺れていた草が止まり。
舞い上がった土が白い地面へ落ち。
脈喰獣の肢が、持ち上がりかけた位置で止まる。
それでも巨体の内側では、魔力が抗い続けていた。
白い結晶が眩いほど輝き、外殻を覆った氷へ無数の亀裂が走る。
次の瞬間。
脈喰獣が、最後の力を振り絞って身体を捩った。
轟音。
巨体を覆っていた氷が、一斉に弾け飛んだ。
白い破片が陽光を反射し、採石跡の上空を埋め尽くす。
黒灰色の外殻が露出する。
残った肢が地面を捉えた。
動く。
まだ進もうとしている。
白い結晶の筋が、これまでで最も強く輝いた。
その光景を前にしても、セレナの表情は変わらなかった。
凍てつくような眼。
怒りも、恐怖も、焦りも、そこにはない。
ただ、目の前の災いを見定めている。
帝国魔導師、セレナ・ミレイユの眼だ。
紫の瞳が、僅かに細められる。
「そのすべてを、我が静謐なる掌中に閉ざせ」
弾け飛んだ氷片の向こうで。
採石跡を巡る全ての蒼が、同時に向きを変えた。
地面。
左右の岩壁。
背後の斜面。
そして、空。
あらゆる方向から伸びた光が、黒灰色の巨体へ殺到する。
白い結晶の輝きと、蒼い魔力がぶつかった。
採石跡全体が震える。
脈喰獣は氷を砕いた。
だが。
この地を満たす冬までは、砕けない。
セレナが右手を閉じた。
「――《氷凛静界》」
瞬間。
採石跡の全てが、蒼氷に変わった。
東からでも、西からでもない。
地面からでも、空からでもない。
岩壁も、斜面も、砕けた地面も、宙を舞っていた氷片も。
境界の内側に存在する全ての場所で、同時に凍結が成立した。
蒼い魔力と無数の氷晶が重なり、採石跡を一つの冷たい輝きで満たす。
黒灰色の巨体が、蒼氷の中へ呑まれた。
脈喰獣は前へ出ようとした。
残った肢が地面を押す。
表面の氷が砕けた。
その亀裂を埋めるように、次の氷晶が生まれる。
もう一度、外殻が軋むほど力を込める。
僅かに動く。
だが、その動きさえ新たな凍結に捉えられた。
最初の一歩は、地面を抉った。
次は、半分も動かなかった。
そして三度目には。
残った肢は、震えただけだった。
白い結晶の筋が明滅する。
巨体の中を巡っていた光が、一か所へ集まり、別の道を探すように外殻を走った。
その先にも蒼がある。
向きを変える。
そこにも、すでに蒼氷が満ちている。
逃げ場はなかった。
白い流れが、少しずつ遅くなっていく。
肢へ向かっていた光が止まった。
腹部を巡っていた光も、その場で動きを失う。
最後まで強く輝いていた一本の晶脈が、震えるように明滅した。
脈喰獣の頭部が、僅かに西へ向く。
森林口。
その先に何を見ていたのかは、分からない。
もう一歩。
進もうとしたのかもしれない。
だが、巨体は動かなかった。
残っていた白い光が、静かに消える。
脈喰獣は。
蒼氷に閉ざされた世界で、息絶えた。
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