第四十九話「まだ」
角笛の音が、旧採石跡に長く響いた。
セレナの準備開始を告げる合図だ。
十二分後。
セレナの準備が整うまでに、脈喰獣の魔力を吸う四本の肢を切断する。
その時機を見るのが、俺の役割だ。
「レイン様」
すぐ横から声がした。
「少しでも吐き気がしたら、すぐに言ってください」
「はい」
「痛みが強くなった場合もです」
「分かりました」
救護員が俺を見る。
「本当に、言ってくださいね」
「……言います」
どうやら信用されていない。
仕方ない気もする。
背もたれのある椅子に身体を預ける。
左足は固定具で動かないようにされ、腰にも太い布が回されていた。
右の脇腹を圧迫しないよう姿勢まで決められている。
その上から、厚い毛布。
立つことはできない。
戦うこともできない。
でも、見ることはできる。
「……来た」
旧採石跡の向こう。
東側の森を見る。
黒灰色の巨体が、木々の間から少しずつ姿を現していた。
救護所でセレナに報告した時、頭の中では何度も思い出していた。
六本の肢。
岩のような外殻。
そこを走る白い結晶の筋。
だけど、こうして全身を見るのは初めてだった。
「……大きい」
思わず声が出た。
地面を這うように低い身体なのに、周囲の木と比べれば異様なほど巨大だった。
頭部らしいものはほとんど見当たらず、巨大な外殻の中に埋め込まれているように見える。
魔獣の先端の両側に、小さな眼があった。
身体の大きさには、あまりにも似つかわしくない。
細く、退化したような眼。
あれで周囲を見ているようには、とても思えなかった。
一歩、太い肢が前に出る。
地面に沈む。
そのたびに、身体全体が少しずつ西に動く。
変な生き物だった。
あれだけ大きいのに、鳴かない。
聞こえるのは、木が折れる音だった。
バキバキと枝が潰れる。
黒灰色の外殻が幹を擦り、低い音を立てる。
肢が地面に沈むたび、石と土が押し退けられる。
なのに、あの魔獣自身の声だけがない。
「……」
採石跡では、兵士たちが動いている。
命令を叫ぶ声。
装備を運ぶ音。
脈喰獣は、そちらを見向きもしなかった。
先端が兵士たちのいる方向を向いても、見られている感じがしない。
ただ、西に進んでいる。
***
セレナの準備ができるまで、あと五分ほど。
一方で、脈喰獣は着実に歩みを進めていた。
俺のいる高台からも、その姿がさっきより鮮明に見える。
「レイン様」
反対側にいた記録係の兵士が声をかけてきた。
膝の上に記録紙を置き、筆を構えている。
「観測を始められますか」
「はい」
右手側には、赤旗を手にした信号兵が待機している。
俺が切断の時機を見つけて「今」と告げた時だけ、信号兵が赤旗を上げる。
その赤旗をレオンが確認し、角笛を鳴らす。
その音が、四つの切断班への攻撃命令になる。
視線を再び魔獣に移す。
巨体。
外殻。
六本の肢。
そこに重なる魔力を見る。
奇妙なのは、巨体そのものはほとんど光っていないことだった。
人や普通の魔獣なら、身体の中に魔力の光が見える。
でも、こいつは違う。
吸い上げた魔力は全身に広がらず、限られた場所を流れている。
四本の太い肢から、外殻を走る白い結晶の筋へ。
「……四本」
六本のうち、明らかに太い四本。
地面から光が伸びていた。
土の中を走っていた魔力が、四本の肢に向かって流れている。
そのまま白い結晶へ、外殻へ吸い込まれていく。
「四本とも、地面から魔力が流れています」
「四本すべてですね」
「はい」
筆が走る。
「強さは?」
見る。
同じではない。
「今は、一番前にある一本が強いです」
「他は?」
「三本とも流れています。でも、前の一本より弱い」
「時刻、記録します」
兵士が横に置かれた時計を見る。
俺は脈喰獣から目を離さなかった。
地面。
木。
草。
そこにも本来なら、それぞれの光がある。
でも、脈喰獣の近くだけは違う。
「……やっぱり」
「何か?」
「あいつの周り、地面の魔力が薄くなっています」
森で空から見たものを思い出す。
木はあった。
地面もあった。
なのに、魔力だけがない場所。
今、それが目の前で動いている。
脈喰獣が近づいた場所から、地面を走っていた光が薄くなる。
その魔力は、四本の太い肢に流れ込んでいる。
地面から吸っている。
それは、もう間違いない。
ただ、木々の中に見えていた淡い魔力まで弱くなっていた。
「植物の魔力も薄くなっています」
「植物からも吸収している?」
「可能性はあります。でも、直接吸っているかは分かりません」
記録係を見る。
予想というのも込みで、紙に書いてくれた。
もう一度、四本を見る。
強い。
弱い。
弱い。
弱い。
それだけ。
だが、一番強い一本が中心だとは限らない。
それは、もう知っている。
「……変わる」
「何がですか」
「強い場所です」
さっきまで強かった前側の一本。
そこを通っていた光が、少しずつ弱くなっている。
代わりに、右側の一本へ伸びる流れが強くなる。
「前が弱くなっています。右側が強くなってる」
「時刻、記録しました」
地下で見たものと同じだ。
天井。
右。
奥。
左。
強くなる場所が順番に変わった。
今も、四本の間で強い場所が移っている。
ただ。
「……今」
声が漏れた。
「どうしました?」
記録係が顔を上げる。
「一瞬だけ、四本とも弱くなったように見えました」
「四本とも?」
「はい。ただ、一回だけです。次も確認します」
「分かりました。今の時刻も記録します」
今、前の一本が弱くなって、右側が強くなるまで。
一瞬だけ、四本全部の流れが落ちたように見えた。
見間違いかもしれない。
でも、見えたことは伝えた。
あとは、もう一度見る。
視界を四本すべてに広げる。
その間にも、脈喰獣は進み続けていた。
先頭の肢が採石跡に入る。
ズン。
地面が揺れた。
椅子の脚から振動が伝わってくる。
「っ……」
右脇腹に痛みが走った。
「大丈夫ですか」
「……はい。揺れただけです」
「痛みは」
「さっきと同じです」
救護員は俺の顔をしばらく見たが、何も言わなかった。
視線を戻す。
採石跡の東側。
兵士が一人、大きな岩の陰で待機している。
その近くを、脈喰獣の肢が通った。
兵士が身体を固くする。
武器を握ったまま、動かない。
脈喰獣も何もしない。
顔すら、その兵士には向けない。
そのまま太い肢を地面につけた。
瞬間。
「……っ」
光が集まった。
地面を走っていた魔力が、一気にその肢に流れ込む。
黒灰色の外殻を走る白い筋が明るくなる。
そのすぐ近くに、人がいる。
なのに、脈喰獣には、まるで見えていないみたいだった。
「……何なんだよ、こいつ」
脈喰獣は、また一歩、西に進んだ。
「レイン様」
「はい」
「先ほど強くなった右側、変化しています」
記録係にも、外殻の白い筋の発光は分かるらしい。
俺はすぐに魔力を見る。
「弱くなってます」
四本。
一番目。
二番目。
三番目。
四番目。
全部を見る。
右側の流れが落ちていく。
次に強くなる場所は、まだ。
「……」
一瞬、四本全部が弱くなった。
次の瞬間、今度は奥の肢の光が強まる。
「……あった」
「何がですか?」
「さっきと同じです」
記録係の筆が止まる。
「強い場所が切り替わる間に、一瞬だけ四本とも弱くなりました」
「二回目ですね?」
「はい。二回続けて同じです」
記録係が頷いた。
「では、そのまま送ります。『同様の変化を二回確認。ただし、再現性と持続時間は未確定』」
「お願いします」
信号兵が報告用の小旗を上げる。
下の観測連絡所から、別の旗が返った。
今の報告が本営に送られていく。
「変化の時刻も残します」
「はい」
記録係が時計を見る。
「先ほどの切り替わりから……百秒を少し切っています」
「その前は?」
紙を確認する。
「先ほどのより、四秒ほど早いです」
四秒。
ぴったり同じじゃない。
「次も同じとは限らないですね」
「はい」
時計だけ見て、次を決めることはできない。
生き物だから、ぶれて当然だ。
でも、俺は見るしかない。
採石跡では、兵士たちが少しずつ位置を変えている。
四本の太い肢の周囲に、切断班が入る準備をしている。
まだ近づかない。
脈喰獣がどこを通るかに合わせて、少しずつ距離だけを縮めている。
「レイン様」
「はい」
「また変わり始めています」
見る。
三度目。
さっき強くなった一本の光が弱くなる。
今度は、そこだけを見ない。
四本全部。
地面から伸びる流れ。
一つが落ちる。
次は、まだ強くならない。
四本全部が。
「今」
俺が言う。
「数えます」
記録係が時計を見る。
四本とも、ほとんど流れていない。
一。
二。
三。
次の一本に光が戻る。
「戻りました」
「……三秒と少しです」
記録係が言った。
俺はもう一度、四本を見る。
強い一本が、またできている。
「やはり、あります」
息を整える。
「四本とも、ほとんど魔力を吸わなくなる瞬間があります」
記録係の筆が止まった。
「同時に、ですね?」
「少なくとも、俺にはそう見えました」
「この三回ですか」
「はい」
そこまで。
それ以上は、まだ言えない。
すぐに紙に書き込まれる。
隣の信号兵がこちらを見る。
「本営に更新します」
「はい。お願いします」
再び四本の肢を見る。
信号兵が小旗を上げる。
下の観測連絡所から、小旗が返った。
報告がレオンのところまで送られていく。
これで切れる。
そう考えかけて、止める。
違う。
切れるかもしれない時間が、分かっただけだ。
一本だけ地面から外した時、残った三本の流れは強くなった。
一本ずつ切れば、そのたびに残った肢に流れが集中する可能性がある。
でも、四本を同じ瞬間に地面から離せば、負荷を引き受ける肢そのものが残らない。
だから。
四本全部を。
魔力を吸わない瞬間に。
同時に切る。
そのための三秒だ。
そのとき、下で短い詠唱が聞こえた。
第一班の魔術師だ。
大型の刃に淡い白銀の光がまとわりつく。
風で刃を加速させるつもりだ。
だが、光はすぐに揺らいだ。
刃の周囲の魔力が、糸を引くように地面に流れていく。
「維持できません!」
魔術師が叫ぶ。
やっぱり。
俺の《飛翔》の時と同じだ。
身体の外に出した魔力が、地面に持っていかれる。
「強化術式は切れ! 切断の瞬間だけ使え!」
下から命令が飛ぶ。
刃を覆っていた光が消えた。
兵士たちは大型の切断具を構え直す。
「第一班、配置につきます!」
採石跡から声が上がった。
遠い。
でも、静かな脈喰獣の周りだからこそ、兵士たちの声はよく響いた。
「第二班、南側から接近!」
大型の切断具を持った兵士たちが、巨体の周囲に散っていく。
三班目。
第四班も、すでに東側で待機している。
だが、脈喰獣が一歩進む。
第四班の担当する太い肢が、巨体の向こうに隠れた。
「……見えない」
下の観測連絡所から小旗が上がる。
第四班、攻撃位置を変更中。
「そろそろ百秒です。次の変化が近いかもしれません」
記録係が言った。
「はい」
四本を見る。
一番強い一本。
今、第一班の近くにある。
兵士が大型の刃を構えた。
ほんの少し、前に出る。
「まだです」
信号兵がこちらを見る。
赤旗には触れない。
第四班は攻撃位置を変えている。
今、その三秒が来ても、四本同時には切れない。
俺が「今」と言わない限り、赤旗は上がらない。
下でも、第一班が止まった。
目の前に太い肢がある。
手を伸ばせば、ではないけど。
走れば、攻撃できる距離。
それでも、誰も動かない。
レオンの角笛は鳴っていない。
脈喰獣は、兵士たちの動きにも反応せず、地面から魔力を吸い続けていた。
外殻の白い筋が、ゆっくり明滅する。
その姿を見ていると、ぞっとする。
こいつは、俺たちと戦ってるんじゃない。
勝とうとも、殺そうともしていない。
ただ、吸って進んでいる。
それだけで、これだけの脅威になっている。
「第四班、まだです!」
下から声。
脈喰獣が、また一歩、西に進む。
森林口の方向。
「百秒、来ます」
記録係の声が低くなる。
四本を見る。
強い一本の光が落ち始めた。
次の一本は、まだ上がらない。
来る。
赤旗は、まだ畳まれたまま。
「レイン様」
四本が弱くなる。
全部、薄くなる。
「まだです」
信号兵は動かない。
三秒。
光が戻った。
次の一本が、一気に明るくなる。
誰も何も言わなかった。
脈喰獣だけが、また一歩、西に進む。
「四班、攻撃位置に到着!」
下から声が聞こえる。
俺は息を吐いた。
あと一歩、遅かった。
セレナの準備まで、もう二分を切っている。
次こそ。
逃せない。
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