第四十八話「十二分」
「アストリア伯」
顔を上げる。
セレナ殿が指揮所に入ってきた。
手には一枚の紙を持っている。
「……レインは?」
「今は休ませています。意識は保っています」
「そうか」
それだけ聞くと、セレナ殿は紙を差し出した。
「レインから聞き取った内容と、現時点での作戦案です」
『地面から魔力を吸収する太い肢は四本』
『一本の接地が外れた際、残る三本への流入増大を確認』
ここまでは、レインが確認した事実だ。
続く行に目を移す。
『四本すべてを同時に地面から切り離す案を第一案とする』
『切断後、広域拘束術式による対象の停止を図る』
『術式準備に十二分を要する。切断時機は現地観測により判断』
「十二分か」
紙を机に置く。
「最新位置は」
「魔力低下域は西進を継続。森林口まで五キロ前後です」
地図に新しい印が置かれた。
北東森林を西に進み、森林口に近づいている。
そこを抜ければ、進路の先には農業盆地がある。
さらに西が領都だ。
森林口にはすでに領軍の予備隊を置いている。
盆地から西に抜ける避難路には州軍も入っていた。
だが、あれを森林口まで通すつもりはない。
「セレナ殿」
「はい」
「十二分について聞きたい」
セレナ殿が地図の前に立つ。
「今回使う術式を、発動できる状態まで組み上げるために必要な時間です」
「現地を見て変わるのか」
「いいえ。時間は変わりません」
即答だった。
「現地で決めるのは、境界をどこに置くかだけです」
「境界?」
「対象を閉じ込める範囲です」
「何を使う」
一瞬だけ、セレナ殿が口を閉じた。
「術式の名称と階梯は、お伝えできません」
「……分かった」
「作戦に必要な範囲で説明します」
「頼む」
「一定範囲を閉じ、その内部の動きと魔力の流れを止める術式です」
「それで、あの魔獣を止める」
「はい」
「四本が地面についている間は?」
「レインとカシウスさんの魔法と、同じことが起きる可能性があります」
身体の外に出した魔力が、地面側に奪われる。
「術式を展開しても、完成する前に魔力を持っていかれる?」
「その可能性が高いです」
「だから、先に四本を地面から離す」
「はい」
セレナ殿の指が、地図の一点に触れた。
「そこまで作ってください」
「その後は」
紫の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「私が止めます」
迷いはなかった。
「対象が予想より大きい場合は?」
「術式を変えるつもりはありません」
「……」
「境界を広げます」
その瞳には、確固たる自信と覚悟が滲んでいた。
なら、俺が考えるのはそこまでの十二分だ。
「森林口の手前に、開けた場所はあるか」
軍務官が地形図を引き寄せた。
「旧東断層沿いに、使われなくなった採石跡があります」
指されたのは、森林口より東。
まだ北東森林の中だった。
「広さは」
「森林内ではかなり開けています。四方から部隊を動かせます」
「今までの低下域の進路は」
「旧東断層に沿っています」
地図を見る。
北東森林を抜け、農業盆地を横切り、その先で領都方面まで延びる断層。
低下域はここまで、その線に沿って西に進んできた。
「採石跡を通る可能性は」
「高いと思われます。ただし、まだ予測です」
「ああ。それでいい」
確定する必要はない。
今は、使える場所を先に作る。
「工兵と測量員を採石跡に送れ。地盤と部隊の進入路を確認」
「はい!」
「森林口の予備隊から四班を編成する。太い肢一本につき一班」
「切断方法は」
「持続する魔法には頼らない」
レインの《飛翔》も、カシウス殿の魔法も、近づけば維持できなかった。
「大型の切断具を用意しろ。魔法を使う場合も、長時間維持する術式は避ける。一撃で切断する手段を各班で組ませろ」
「承知しました」
「一班でも準備できていなければ攻撃しない」
「はい」
「一本だけ先に攻撃することは絶対に許可するな」
一本が地面から外れれば、残り三本が強くなる。
その直後に、崩落も起きている。
同じことを繰り返すわけにはいかない。
「外周部隊は、採石跡に入る他の魔獣への対処を優先。森に逃げる個体は追うな」
「了解!」
次々に命令が書き取られる。
「それから、レインです」
セレナ殿が言った。
「本人は、もう一度観測することに同意しています」
「救護員は何と」
「移動させるなら、身体を固定した状態で。短時間に限る、と」
「歩かせるな」
「もちろんです」
「観測場所は」
測量員が別の地図を開いた。
「採石跡の西側に少し高い場所があります。採石跡全体を見渡せます」
「低下域からは」
「現在は十分に離れています」
「地脈計を置け」
「はい」
「観測地点で低下が始まったら、レインの判断を待たずに後退させろ」
「承知しました」
レインが来るのを、魔獣が現れてから待つわけにはいかない。
「今から移動させろ」
「はい!」
「救護員を一人。護衛もつける」
「了解!」
通信兵が走り出した。
俺も地図を畳む。
「東防衛線はどうする」
セレナ殿に聞く。
「結界班長に引き継ぎます。予備術者も入れます」
「セレナ殿が抜けても維持できるのか」
「現在の状態なら」
「分かった」
東防衛線を守ることも必要だ。
だが、魔力低下域がまだ森の中にある今でさえ、領都外縁結界の東側では魔力供給が落ちている。
これ以上近づけば、領都の防衛まで持たない。
そうすれば、領都に向かってくる魔獣を防ぐことができない。
「俺も採石跡に指揮位置を移す」
軍務官が顔を上げた。
「本営は」
「残す。東防衛線と盆地側の報告は、これまで通り集約しろ」
「現地指揮は」
「俺が取る」
「承知しました」
セレナ殿が踵を返す。
「行きましょう」
「ああ」
***
夕暮れ。
旧採石跡。
森林口より東、まだ北東森林の中だ。
周囲を木々に囲まれているが、採石に使われていた一帯だけは広く開けている。
西に進めば森林口。
その先には農業盆地があり、さらに西には領都がある。
ここで止める。
「第一班、北側配置完了!」
「第二班、南側に入ります!」
「第三班、西側待機!」
「第四班、移動中!」
兵たちが採石跡の周囲に散っていく。
まだ攻撃位置には入らない。
対象が来てから、四本の位置を確認して動く。
測量員たちは、セレナ殿の指示で採石跡の外周に目印の杭を打っている。
「観測班は」
「配置完了しました!」
通信兵が答える。
「レイン様は西側高所。救護員、護衛ともに到着しています。容体にも変化なし」
「分かった」
こちらからレインの姿は見えない。
だが、それでいい。
あそこは戦列の外だ。
その位置から、一歩も前には出させない。
「合図は」
「観測班が赤旗を上げます。それをこちらで確認し、角笛で四班に伝達します」
「伝信札は合図に使うな。使えなくなる可能性がある」
「はい」
「全班の時計も合わせろ」
「了解!」
セレナ殿は採石跡の中央付近を見ていた。
「十二分の間、何をすればいい」
「私が術式を組みます」
「護衛は」
「つけてください」
今回は、拒まなかった。
「ただし、私の周囲を固めすぎないでください。必要になれば位置を変えます」
「分かった」
「大きな魔法を使わなければいいのか」
「はい。術式の構築を続けながらでも、移動と最低限の防御はできます」
それなら、十二分間ずっと動けない人間を守るわけではない。
だが、セレナ殿に別の役目をさせれば、その分だけ術式の完成が遅れる。
「セレナ殿は術式だけに集中してくれ」
「そのつもりです」
「他は俺たちがやる」
セレナ殿が僅かに頷いた。
その時だった。
「東側、動きあり!」
斥候の声が飛んだ。
採石跡にいた兵たちの動きが止まる。
東の木々の向こうで、一か所が大きく揺れた。
風ではない。
次の木も、その次の木も、幹ごと横に押されていく。
低い振動が靴底から伝わった。
「来ます!」
誰かが叫ぶ。
森の中に、黒灰色のものが見えた。
最初は岩肌かと思った。
だが、動いている。
木々の間から、巨大な身体がゆっくりと姿を現した。
「……何だ、あれ」
兵士の一人が呟いた。
それを咎める者はいなかった。
俺も一瞬、言葉を失った。
地面を這うように低い巨体。
岩のような黒灰色の外殻。
その表面には、白い結晶状の筋が走っている。
六本の肢。
そのうち四本だけが、明らかに太い。
報告では聞いていた。
だが、数字と実際に見るのとでは、まるで違う。
「……六本」
隣で、セレナ殿が小さく言った。
驚いた様子があったのは、ほんの一瞬だった。
「太い肢は四本。外殻は黒灰色。白い晶脈もある」
視線は、すでに巨体の各部を追っている。
「レインの報告と一致します」
「古い記録は」
「一致する特徴が多いです」
「脈喰獣として扱うか」
「はい」
断定ではない。
だが、脈喰獣と思われる巨体がさらに西に進む。
採石跡に近づいてくる。
「セレナ殿」
「はい」
「想定より大きいか」
「かなり大きいですね」
「作戦は」
「変えません」
即答だった。
「境界を広げます」
セレナ殿が採石跡を見回す。
対象と部隊、それに西側の観測地点を順に確認する。
「目印の杭を少し外側に移してください」
測量員が動く。
「十二分は」
「変わりません」
「分かった」
必要な時間は変わらない。
変わるのは、どこまで閉じるか。
それだけ。
「対象、進行継続!」
黒灰色の巨体が、一歩、また一歩と近づく。
四班がそれぞれの待機位置で構える。
誰も先には動かない。
「攻撃時機は、レインの観測を待つ」
「はい!」
「赤旗を確認したら、俺が角笛を鳴らす」
「了解!」
「一班でも届いていなければ、その前に中止を知らせろ」
「はっ!」
セレナ殿が静かに息を吸った。
「始めます」
「今からか」
「はい」
まだ脈喰獣は採石跡の東側にいる。
だが、進路はこちらに向いている。
隣で白い魔導衣が、夕方の風に揺れる。
「必要なのは、間に合わせることだけです」
「……分かった」
時計を取り出す。
「全隊!」
声を張る。
「セレナ殿の準備開始! ここから十二分!」
「はっ!」
復唱が採石跡の各所から返ってくる。
セレナ殿が目を閉じた。
まだ、目に見える変化はない。
ただ、その表情から余分なものが消えた。
東では、脈喰獣が近づいている。
西には、農業盆地と領都がある。
四本を同時に切る。
その時機を、レインが見る。
その瞬間までに、セレナ殿の術式を完成させる。
俺は時計に目を落とした。
針が動き始める。
十二分。
その時間を、必ず作る。
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