第四十五話「ここにいる」
水は、もう足首の高さではなかった。
「……っ」
右手を岩壁につき、身体を起こす。
冷たい水が脛を越え、膝のすぐ下まで来ていた。
いつから、こんなに上がった。
「くそっ......」
壁際に手を伸ばす。
さっきまで水面から出ていた石が、半分ほど沈んでいる。
見間違いではない。
確実に増えている。
「まずい……」
声に出すと、それだけで現実味が増した。
出口を塞いでいる土砂を見る。
暗闇の中でも、天井の岩盤を通る淡い魔力の線だけは見える。
けれど、その向こうがどうなっているのかは分からない。
落ちた時の感覚から、地上がすぐそこではないことくらいは分かる。
ただ、崩れた土砂のどこを抜けば外に出られるのか。
どこまでなら崩しても大丈夫なのか。
それは分からない。
試しに、指先にほんの少し魔力を集めた。
「……」
消えない。
以前のように、術式を組んだ瞬間から地面側に引かれる感覚はなかった。
天井や壁の魔晶石の鉱脈を走っていた、あの強い魔力の流れも、今はほとんど見えない。
あの巨大な何かは、もう近くにはいないのかもしれない。
だからといって。
ここで大きな魔法を使うのは危険だ。
地盤は一度、大きく崩れている。
出口を作ろうとして、支えている岩まで崩せば意味がない。
水が膝に触れた。
「……」
ここで待つ。
捜索隊は来ているはずだ。
カシウスなら、俺が戻らなければ探してくれる。
レオンも。
セレナも。
きっと。
なら、余計なことをせずに待った方がいい。
動けば怪我が悪化する。
だから。
ここにいればいい。
そう考えたとき。
脇に置いていた水筒が。
ゆっくり動いた。
「……?」
水に浮いている。
俺の膝に当たり、向きを変えて流れていった。
「……違う」
思わず呟いた。
待つことが安全なんじゃない。
何もしないことを、安全だと思いたいだけだ。
このまま水が増え続けたら。
ここは沈む。
周囲を確かめる。
左足に体重をかけることはできない。
足元を探るのに使っていた細長い石を手に取り、壁際を探る。
右側の岩壁。
手を滑らせていくと、途中で指先が奥に入った。
「……隙間?」
両手で確かめる。
岩と岩の間が、縦に裂けている。
正面を向いたままでは狭い。
だが、身体を横向きにすれば、入り込めそうだった。
細長い石を差し込む。
先端は奥までいっても何にも当たらない。
そのまま石の先で床を探る。
入口から奥に進むにつれて、少しずつ高くなっていた。
「上がってる……」
このまま奥まで続いているかは分からない。
途中で狭くなっているかもしれない。
それでも。
今いる場所より、水から離れられる可能性はある。
「……行くしかない」
言ったところで、身体は簡単には動かなかった。
隙間の入口に手を置く。
冷たい石の感触。
息が浅くなる。
暗い。
狭い。
足も痛い。
右脇腹も、身体を捻るだけで刺すように痛む。
ここで待てば。
誰かが。
「……っ」
まただ。
結局、同じところに戻っている。
「行くしかない」
細長い石を先に押し込んだ。
届くところまで入れる。
何にも当たらない。
頭の中に、違う景色が浮かんだ。
訓練場。
木剣。
正面に立つレオン。
『── 迷うな。振り抜け』
剣じゃない。
今は、ただの岩の隙間だ。
それでも。
迷っているだけでは、何も変わらない。
「……行け」
右肩を入れた。
次に頭。
息を吐いて、胸を細くする。
服が岩肌に擦れた。
左足はなるべく使わず、右膝と肘で身体を押す。
少し。
また少し。
前に進む。
「はっ……はっ……」
狭い。
顔のすぐ横に岩がある。
右肩をさらに入れる。
そこで。
動かなくなった。
「……え」
肩が引っかかっている。
身体を戻そうとする。
動かない。
「待って」
誰に言ったのか分からない。
「待って、待って……」
前にも。
後ろにも。
身体が動かない。
息を吸う。
胸が岩に当たる。
「っ、あ……」
まずい。
まずいまずいまずい。
力任せに肩を動かす。
右脇腹に痛みが走った。
「ぐっ……!」
目の奥が白くなる。
動くな。
違う。
動かなきゃ。
どっちだ。
呼吸。
十回。
そうだ。
まず吐く。
「ふぅ……」
肺の空気を吐く。
胸が少しだけ縮む。
右肩を前に傾ける。
あと少し。
『迷うな。振り抜け』
「分かってる……!」
右肘に力を込めた。
一気に身体を押す。
服が岩に引っかかり。
次の瞬間。
上半身が前に抜けた。
「うわっ」
そのまま地面に倒れ込む。
右脇腹が痛んだ。
しばらく動けなかった。
「はっ……はぁ……」
息ができる。
それだけを確かめる。
少しして、身体を起こした。
さっきまでいた場所より狭い。
けれど。
手を床につく。
乾いている。
隙間の向こうに手を伸ばすと、水面は少し下にあった。
「……上がれた」
助かった。
まだ。
左足も痛い。
脇腹も痛い。
でも。
生きている。
壁を見る。
魔晶石の鉱脈が、何本か岩の中を走っている。
崩落した直後から見えていたものと同じだ。
魔力の淡い光が、その中をゆっくり流れている。
指先を触れさせる。
「これ……」
ごく少量の魔力を流した。
触れた場所が明るくなる。
その光が、結晶の筋に沿って岩の奥に伸びた。
「……届く?」
どこまで続いているのかは分からない。
地上まで繋がっている保証もない。
誰かがこの変化を測っている保証もない。
でも。
捜索隊が来ているなら。
地脈の状態も調べているはずだ。
「……やってみるか」
ただ魔力を流し続けるだけでは、自然に起きた変化と区別がつかない。
なら。
明らかに不自然な形にする。
短く。
もう一度、短く。
最後だけ長く。
同じ形を繰り返せば。
誰かが記録を見たとき、偶然ではないと気づくかもしれない。
「短く、短く、長く」
指先を鉱脈に当てる。
短く魔力を流し、止める。
もう一度、同じくらい短く。
止める。
最後だけ、少し長く。
できるだけ、人為的なものに見えるように。
魔力を、制御する。
セレナとの訓練で、何度も繰り返してきたことだ。
白い光が岩の奥に消えていく。
「……」
何も起きない。
当然だ。
返事が来るようなものじゃない。
それでも。
俺はしばらく待った。
息を整える。
二回目。
短く。
短く。
長く。
さっきとできるだけ同じ長さで。
同じ間隔で。
「頼む……」
誰に頼んでいるのかも分からない。
誰か。
気づいてくれ。
ここにいる。
俺はまだ。
ここにいる。
三回目。
指先が震えていた。
魔力を流す。
短く。
止める。
短く。
止める。
最後。
長く。
「っ……」
魔力を止める。
体内の魔力はまだ残っている。
それは分かる。
けれど、身体の方は違った。
寒さと痛みで指先は震え、意識を集中させ続けるだけでも疲れる。
三回。
ほぼ同じ形で送った。
今は、それでいい。
「……見つけてくれ」
額を壁につける。
冷たい。
助けてほしい。
そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。
自分一人では出られない。
足もまともに使えない。
どこを掘れば地上に出られるのかも分からない。
だから。
助けてほしい。
ここにいると伝えることだけは。
俺にしかできない。
そのとき。
何かが聞こえた。
「……?」
顔を上げる。
静かだ。
遠くで水が流れる音だけ。
気のせいか。
いや。
もう一度。
ごく遠く。
硬いものが岩に当たるような音。
それに続き、かすかな振動。
コン。
少し間が空く。
また。
コン。
「……掘ってる?」
壁に耳を当てた。
音は途切れる。
しばらくして。
今度は少しだけはっきり響いた。
振動も僅かに増した。
間違いない。
何かを掘っている。
「……っ」
喉の奥が熱くなった。
「ここだ!」
声が出た。
でも。
返事はない。
叫んだ声は、岩にぶつかって自分に返ってきただけだった。
地下にいるなら、声より。
「……振動だ」
足元を探る。
手に収まる石を拾った。
あの掘削音が、岩を伝ってここまで届いたなら。
声より、岩を叩いた方が、届くかもしれない。
さっき魔力で送ったのと同じ並び。
石を岩に当てる。
コン。
短く。
もう一度。
コン。
そして。
少し間を置いて、長く。
ゴン── 。
「ここにいる!」
もう一度。
短く。
短く。
長く。
「ここだ!」
何度も叩く。
石の角が指に食い込む。
握り直したとき、指先が切れた。
ぬるいものが掌を伝う。
それでも止めない。
短く。
短く。
長く。
「頼む.......!」
返事はない。
壁に耳を当てる。
何も聞こえない。
「……」
違ったのか。
あの音も。
俺が聞きたかっただけなのか。
石を握る手から、力が抜けそうになる。
そのとき。
遠くで。
コン。
俺は動かなかった。
もう一度。
コン。
そして。
少し間を置いて。
ゴン── 。
「……」
息が止まった。
短い。
短い。
長い。
俺が送ったのと。
同じだった。
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