第四十一話「地下」
冷たい。
最初に、そう思った。
頬が冷たいものに触れている。
「……っ」
息を吸った瞬間、右の脇腹に鋭い痛みが走った。
「ぐ……っ」
目を開ける。
暗い。
何も見えない。
「……ここは?」
声が妙に近くで返ってきた。
身体を起こそうとする。
右肩。
脇腹。
左足。
あちこちが痛む。
それでも、手をついて上半身を起こした。
額から何かが頬を伝う。
指で触る。
濡れている。
血。
「……」
思い出す。
森。
巨大な魔獣。
四本の太い肢。
地面から流れ込む魔力。
一番強かった一本。
石。
傷。
残った三本。
地面が沈んだ。
「……落ちた」
俺は地面ごと落ちた。
急に胸が苦しくなる。
顔を上げる。
けれど、天井がどこにあるのかも分からない。
暗い。
本当に何も見えない。
魔力を見る。
意識を切り替える。
黒の中に、淡い光が浮かんだ。
壁。
いや、岩盤の一部を走る細い魔力の筋。
ところどころ、結晶のようなものが微かに光っている。
でも、それだけだった。
足元に何があるのか。
どこまで地面が続いているのか。
目の前に岩があるのか、穴があるのか。
分からない。
魔力が見えても、暗闇が見えるようになるわけじゃない。
「……っ」
立とうとした。
左足に体重を乗せる。
「ぁっ!」
力が抜けた。
身体が横に倒れる。
咄嗟についた右手。
指の感覚が鈍い。
「何だよ……」
もう一度、左足を動かす。
動く。
でも、足首に力を入れるだけで痛い。
「……飛べば」
そうだ。
飛べばいいんだ。
上に戻れば。
「地よ、我が身を解き放て── 《飛翔》!」
魔力を流す。
身体を包むはずの風が生まれる。
でも、次の瞬間。
外に出た魔力が、周囲の岩盤へ引かれるように散った。
「っ……!」
風が消える。
「もう一度……!」
魔力を込める。
「《飛翔》!」
駄目だ。
身体の周りに留まらない。
周囲へ奪われていく。
「なんで……!」
分かっている。
森でも同じだった。
それなのに。
「《飛翔》!」
もう一度。
「飛べよ!」
風が生まれる。
消える。
「《飛翔》!」
消える。
「っ、なんで……!」
呼吸が速くなる。
吸っても、吸っても足りない。
「はっ……はっ……」
暗い。
痛い。
誰もいない。
上がどこかも分からない。
「誰か!」
叫んだ。
「誰かいませんか!」
返事はない。
「カシウスさん!」
声が岩にぶつかって戻ってくる。
「先生!」
何も返ってこない。
「父様!」
声が震えた。
「父様!」
もう一度。
「母様……!」
駄目だった。
喉が詰まる。
「母様……」
涙が出た。
止めようとしても、止まらなかった。
「怖い……」
口から、そのまま出た。
「怖い……っ」
死にたくない。
こんなところで、一人で。
誰にも見つけられないまま。
まだ何も成し遂げていない。
まだ何者にもなっていない。
「嫌だ……」
前の人生を覚えている。
大人まで生きた記憶もある。
でも、その記憶が死ぬのを怖くなくしてくれるわけじゃない。
ここから俺を連れ出してくれるわけでもない。
今はただ、暗闇の中で一人だった。
「……っ」
嗚咽を噛み殺せなかった。
身体を丸めようと、少し動いた。
その時。
パラッ。
音がした。
「……え」
頭上から何かが落ちてくる。
小さな土の粒。
次に、小石。
カツン。
すぐ横で音がした。
「……」
身体を固める。
崩れたばかりだ。
どこまで地面が安定しているのかも分からない。
不用意に動くのはまずい。
呼吸がまだ速い。
怖い。
どうすればいい。
どうすれば。
頭の中に何も浮かばない。
「……一つ」
声をできるだけ小さくする。
「一つずつ……」
全部考えようとするから駄目なんだ。
出られるか。
助かるか。
誰か来るか。
そんなこと、今の俺には分からない。
「水」
まず、水。
腰を探る。
革袋。
「……ない」
手が空を切った。
何度か探って、裂けた革に触れた。
袋の口が大きく破れている。
「地図……」
ない。
救護用品もほとんどなくなっている。
手を少しずつ周囲に伸ばす。
石。
土。
折れた枝。
指先が硬いものに触れた。
「……伝信札」
拾う。
魔力を流す。
反応しない。
中央の魔晶石に亀裂が入っている。
「……」
捨てそうになって、やめた。
何かに使えるかもしれない。
腰の反対側。
水筒は残っていた。
振る。
ちゃぷ。
音がする。
「……半分くらい」
まず、水はある。
「次」
足。
左足首に触れる。
「っ……」
腫れている。
でも、今ここで折れているかどうかなんて判断できない。
体重をかけない。
それでいい。
裂けた革袋から、使えそうな布を取る。
足首に巻く。
一周。
二周。
強く締めすぎない。
「……次」
呼吸。
吸う。
ゆっくり吐く。
それを一回と数える。
一回。
二回。
三回。
途中で、また怖さが込み上げる。
出口がない。
ここで死ぬ。
「……っ」
違う。
今は十回。
それだけ。
吸う。
吐く。
四回。
五回。
六回。
七回。
八回。
九回。
十回。
「……」
少しだけ息が戻った。
涙は止まっていない。
それでも、さっきより考えられる。
俺は手近にあった細長い石を拾った。
立つのはやめた。
左足に体重をかけられない。
石を前へ伸ばし、地面を軽く叩く。
コツ。
何もない。
両手と右膝を使って、少しだけ這う。
左足はできるだけ地面につけない。
また石を前へ。
コツ。
ゆっくり進む。
魔力視では、岩盤を走る光が見える。
でも、手前の石までは見えない。
足元にある穴も見えない。
だから、石で確かめる。
何度か進んだところで、左手が壁に触れた。
冷たい。
湿っている。
壁に沿って手を伸ばす。
まだ奥へ続いている。
石を反対側へ伸ばす。
先端が何にも当たらない。
少なくとも、俺が身体を動かせるだけの空間は残っている。
床もその先へ続いている。
奥の方から、水の音が小さく聞こえる。
ちょろちょろと。
手を伸ばす。
指先が冷たい水に触れた。
浅い。
指先が濡れる程度だ。
「……空洞?」
自然にできたものなのか。
崩落で残ったものなのか。
分からない。
でも、ここから動ける場所はある。
それだけで、少し息が楽になった。
その時。
ズ……ン。
「……!」
頭上から重い振動が伝わった。
身体を伏せる。
細かな土がぱらぱらと落ちてくる。
ズ……ン。
もう一度。
今度は少し近い。
天井に露出した魔晶石の鉱脈が、明るさを増した。
「……?」
一箇所だけではない。
右の壁。
頭上。
少し奥。
そのさらに左。
離れた四か所で、魔晶石の鉱脈を流れる魔力が強くなっている。
次の瞬間。
バキッ!
「っ!」
頭上の岩が砕けた。
土と小石が一気に落ちてくる。
俺は頭を庇って伏せた。
ガリッ。
岩を削る音。
恐る恐る顔を上げる。
天井に開いた裂け目から、黒灰色の太いものが先端だけ突き出していた。
「……あれ」
岩のような殻。
その表面を走る白い結晶の筋。
森で見た、四本の太い肢の一つ。
「……っ」
息を殺す。
肢はそれ以上、下には伸びてこない。
天井に食い込んだまま動きを止めた。
その瞬間、すぐ近くの魔晶石の鉱脈が一気に明るくなった。
淡い光が、天井の裂け目へ向かって流れていく。
「……吸ってる」
森で見たものと同じだ。
地面から、あの肢へ魔力が流れ込んでいた。
今も、岩の中の魔力を吸い上げている。
しばらくして、目の前の光が弱くなり始めた。
「……?」
代わりに、少し離れた右の壁。
そこを走る魔晶石の鉱脈が明るくなる。
さらに待つ。
右の光がゆっくり弱くなる。
次は奥の壁。
別の鉱脈が強くなった。
「……順番に?」
俺は動かずに見る。
強く光る場所が、一つずつ変わっている。
天井。
右。
奥。
左。
四か所。
「……」
森では、一番強く見えた一本を中心だと思った。
でも、違った。
今度は決めつけない。
「四つある」
それだけ。
「強い場所が、変わる」
それだけだ。
天井。
右。
奥。
左。
順番だけを頭の中で繰り返す。
何のために変わっているのかは分からない。
だから今は、見たものだけを覚えておく。
ズ……ン。
「っ」
天井に食い込んでいた肢が動いた。
ガリガリと岩を擦りながら、上へ引き抜かれていく。
黒灰色の先端が裂け目の向こうへ消えた。
直後、上から土砂が流れ込んだ。
ザザッ!
「うわっ!」
俺は慌てて後ろへ下がる。
小石。
土。
砕けた岩。
肢が開けた裂け目を、次々と塞いでいく。
やがて落下が止まった。
そこに残ったのは、崩れた土砂と僅かな隙間だけだった。
「……」
上へ抜けられるような穴じゃない。
振動も少しずつ遠ざかる。
俺はそのまま動かず、待った。
何も落ちてこない。
ようやく息を吐いた。
その時。
ちゃぷ。
「……?」
足元。
右足の靴に、冷たいものが触れた。
水。
さっき向こうから細く流れていた。
右手を床につく。
冷たい。
水が指の第一関節近くまで来ている。
「……増えてる」
さっきは指先が濡れる程度だった。
それが今は、明らかに深くなっている。
背中に冷たいものが走った。
この場所は安全じゃない。
水が。
少しずつ増えている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。
次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




