第三十九話「帰ってこない」
「カシウス殿、帰還!」
その声に、地図から顔を上げた。
中継所の扉が開く。
黒い軍服。
濃い銀髪。
カシウス・ヴァレリウス。
一人だった。
「……レインは」
自分でも、声が低くなったのが分かった。
カシウスは俺の前まで来る。
僅かに呼吸が乱れていた。
右手には、まだ軍杖が握られている。
「戻っていません」
頭の中で、何かが止まった。
「……何だと」
もう一度、カシウスの後ろを見る。
開いた扉。
廊下。
誰も続いてこない。
「なぜ、お前一人なんだ」
「俺の判断で、単独先行させました」
カシウスは目を逸らさない。
「北東森林内で、広範囲の魔力反応が消失する移動現象を確認。追跡できるのはレインだけでした」
「それは報告を受けた」
伝信札で届いた。
風裂鷲。
岩翼蜥。
十数体の混成群。
カシウスが拘束し、レインを北東へ四分間先行させる。
判断責任は、カシウス・ヴァレリウス。
あの報告を読んだ時、すぐに帰還命令を出そうとした。
だが、すでに二人は動いていた。
「四分で引き返させるという話だったな」
「はい」
「では」
声が掠れた。
「レインはどうした」
「指定時刻を過ぎても戻りませんでした」
一瞬、カシウスの奥歯が噛み締められた。
「飛行魔獣を処理した後、俺が北東へ追いました」
「……探したのか」
「はい」
「見つからなかったのか」
カシウスが僅かに視線を伏せた。
「見つけられませんでした」
「無事なのか」
「……分かりません」
その一言が、重く落ちた。
「伝信は」
「応答なしです」
「……そうか」
拳を握る。
今すぐ、自分で探しに行きたかった。
でも、その前に。
「なぜ、一人で行かせた」
声が思ったより強く出た。
カシウスは少しも言い訳をしなかった。
「魔獣群を俺が拘束しなければ、先へ進めなかった」
「撤退はできた」
「できます」
「なら、戻ればよかっただろう」
「最初に命じたのは西への撤退です」
カシウスが答える。
「レインが、自分にしか異常を追えないと言った。その上で、先へ行くと」
あいつが、自分で決めた。
「それを許可したのは俺です」
カシウスの軍杖を握る手に力が入った。
「四分で戻すつもりでした」
短く息を吐く。
「戻ってこなかった」
そして、俺を見る。
「責任は俺にあります」
「……」
怒鳴りたかった。
絶対に一人にするな。
そう言った。
カシウスも、承知したと答えた。
それを破った。
腹が立たないはずがない。
だが、分かってもいる。
レイン自身が行くと言った。
あの状況で、異常を見られるのはレインだけだった。
カシウスは何も考えずに、十二歳の子供を放り出したわけではない。
「……処分の話は後だ」
カシウスの目が僅かに動いた。
「今ここでお前を責めても、レインは戻らない」
「……はい」
「最後に見た場所は」
「分かっています」
俺は地図を広げた机へ戻った。
「どこだ」
カシウスも、すぐ横まで来る。
北東森林。
その一点に指を置いた。
「この付近です」
「根拠は」
「レインを先行させた方角と速度。それから、最後に俺が視認した位置です」
「そこまで行ったのか」
「行きました」
カシウスの指が動き、その地点の少し手前で止まる。
「ただし、ここで異常が起きました」
「異常?」
「飛行魔法が維持できなくなった」
室内にいた軍務官たちの動きが止まった。
「どういう意味だ」
「術式は発動します。ですが、魔力を流すと、外へ出した分が地面側に引かれる」
カシウスが自分の軍杖を見る。
「出力を上げても同じでした。高度が落ち始めたため、そこで引き返しました」
「レインも」
言葉が勝手に出た。
「同じことになった可能性があるのか」
「高いです」
指先が冷えた。
「その先は」
「上空から確認しました」
カシウスが答える。
「……森林内に、大規模な崩落があります」
「……崩落」
「数十メートルでは済みません。木ごと地面が落ちています」
呼吸が一瞬、止まった。
「レインの反応は」
「ありません」
「伝信札からの連絡は」
「ありません」
「声は」
「届く範囲まで近づけませんでした」
そこで初めて、カシウスの声が僅かに掠れた。
「……戻せませんでした」
「なら——」
全隊を北東へ回せ。
言葉が喉まで出た。
探せ。
森を全部、ひっくり返してでも。
見つけろ。
俺の息子だ。
十二歳だ。
あんな場所に、一人で。
「——っ!」
拳を机へ叩きつけた。
ドンッ!
地図の上の駒が跳ねる。
書記の筆が止まった。
近くの通信兵が息を呑む。
室内から、一瞬だけ音が消えた。
痛みが遅れて拳に来る。
俺は一度、目を閉じた。
視線が地図の一点から動かない。
飛べなくなった。
その先で地面が崩れた。
そして、レインはいない。
「……時刻」
口を開く。
「レインを先行させた時刻を」
カシウスが答える。
「午後第二刻二十二分です」
「最後に姿を確認したのは」
「そこから四分後です」
「崩落を確認した時刻」
「午後第二刻三十七分」
「規模」
「上空から見える範囲だけで、南北に百メートル以上」
「地形は」
軍務官がすぐに別の地図を開く。
「北東森林深部。傾斜地です。既存の街道はありません」
「地質資料」
「確認します!」
一人が走る。
「周辺の地脈観測値は」
「照会中です!」
「急げ」
「はい!」
室内が動き始める。
地図。
記録。
伝信。
報告。
やることはいくらでもある。
だから、考えるな。
今は。
考えるな。
「カシウス殿」
「はい」
「お前が行け」
返事より先に、カシウスの顔が上がった。
「……はい」
地図を指す。
「最後に姿を見た人間が、お前だ。捜索隊を率いろ」
「了解しました」
「ただし」
声を強める。
「一人で突っ込むな」
「はい」
「飛行魔法が不安定になる場所があるなら、同じことが他の魔法にも起こる可能性がある」
カシウスが頷く。
「工兵を入れる」
軍務官へ向き直る。
「崩落地での救助経験がある者を優先」
「はい!」
「土属性の術師。ただし大規模魔法は使わせるな。まず地盤を調べろ」
「了解!」
「地脈測量員も」
「州魔法局へ要請します!」
「救護員を同行させろ。担架、固定具、止血具。夜までかかる前提で照明と水も持たせろ」
「はい!」
次々に書き取られていく。
カシウスが言う。
「俺が先行して経路を示します」
「駄目だ」
即答した。
「部隊から離れるな」
「しかし」
「お前が消えたら、最後の位置を知る人間がいなくなる」
カシウスが口を閉じる。
「捜索は救助だ。戦闘じゃない」
崩れた地面を、魔法で吹き飛ばせばいいわけじゃない。
どこにいるか分からない人間の上から、土を動かすことになる。
「工兵の判断に従え」
「……分かりました」
「レオン様。領軍からも人を出します」
近くにいた軍務官が言った。
「東防衛線の第二中隊を——」
「動かすな」
俺は遮った。
「ですが、レオン様」
「第二中隊は東防衛線だ」
「捜索人数が足りません」
「予備隊から出せ」
「予備隊は、南東方面からの第二波に備えて——」
「分かっている」
言葉が少し強くなる。
「だから全部は出すな」
俺は地図を見る。
赤い駒。
村。
街道。
防衛線。
避難所。
その一つ一つに、人がいる。
レインを探したい。
全員で。
今すぐ。
全隊を北東へ回せ。
そう命じられたら。
だが、防衛線を薄くすれば、そのせいで危険に晒される領民が出る。
「工兵一個班。地脈測量員。土系術師。救護員。護衛は予備隊から必要数だけ」
軍務官が唇を結ぶ。
「……承知しました」
「主力は動かさない」
「はい」
自分で言った言葉が胸に刺さる。
息子が崩落した森のどこかにいる。
生きているかも分からない。
それでも、全てを探しに回すことはできない。
分かっている。
分かっているから、苦しい。
「レオン様!」
扉が開いた。
別の軍務官が、紙束を抱えて入ってくる。
「北東観測所から追加報告です!」
「読め」
「地脈観測値が急落しています!」
机の上に紙が広げられる。
数字。
時刻。
観測点。
北東森林の奥から、順番に数値が落ちている。
「これまでの異常と同じか」
「似ています。ただ——」
地脈測量を担当していた男が紙を指で追う。
「落ち方が急すぎます」
「どのくらいだ」
「朝の変動とは比較になりません」
次の紙。
「それと、先ほど大きな振動を観測しています。時刻は——」
読み上げられる。
カシウスがすぐ反応した。
「崩落を確認した時間とほぼ同じです」
「場所は絞れるか」
「観測所が二つしかありません。正確な座標までは」
「増やせ」
「はい」
「携帯式の地脈計を持たせろ。捜索隊とは別に測量点を作る」
「了解!」
男が別の記録を広げる。
「もう一つあります」
「何だ」
「地脈観測値が大きく落ち込む範囲そのものが、移動しています」
俺は顔を上げた。
「魔力反応が動いているのか」
「いいえ」
男が首を振る。
「強い魔力を検出しているわけではありません。逆です」
地図の上、いくつかの観測点を指す。
「ここ。次にここ。その次はこちら。魔力が急激に減少した地点が、順番に移っています」
北東森林。
レインが向かった先。
「レインが見たものと同じか」
「可能性はあります」
男はそれ以上を断定しなかった。
「進行方向は」
「現在の観測では北東です」
「止まっているのか」
「先ほどの崩落以降、急落域の移動はほぼ止まっています」
俺は地図を見る。
崩落地点。
その先にある、魔力が失われている範囲。
そして、途絶えたレインの伝信。
「……捜索隊に共有しろ」
「はい」
「異常域へ不用意に入るな。目的はレインの捜索だ」
カシウスが俺を見る。
「レインを見つけたら即時報告」
「はい」
「生死を確認するまで」
そこで一瞬だけ、言葉が止まった。
生死。
口にしたくなかった。
それでも、命令に曖昧な言葉は使えない。
「捜索を続けろ」
「了解」
カシウスが敬礼する。
踵を返す。
「カシウス殿」
呼び止めた。
振り返る。
「……必ず」
続きが出なかった。
必ず連れて帰れ。
そんな命令、出せるわけがない。
できないことを、できると言わせるだけだ。
「見つけろ」
結局、それだけ言った。
カシウスが一度だけ、深く頷く。
「はい」
扉が閉まった。
すぐに廊下から声が飛び交い始める。
「工兵班、装備確認!」
「地脈計を二基!」
「救護員、担架を追加!」
「北東森林の地形図を!」
動いている。
皆が、レインを探すために。
俺はここに残る。
「レオン様」
「東防衛線です。南側で魔獣群を確認。推定百五十」
「進路は」
「西北西。現在のままなら第三避難路と接触する可能性があります」
地図を見る。
判断する。
「第三避難路を閉じろ。避難列は第二へ回す」
「第二は混雑しています」
「荷車を止めろ。人を先に通せ」
「はい!」
「第一遊撃隊を南へ。接触前に群れを北へ逸らせ」
「了解!」
次。
次。
次。
報告は止まらない。
レインだけを考えている時間はない。
それが腹立たしかった。
俺は領主だ。
父親である前に、何千、何万という領民の命を守らなければならない。
分かっている。
ずっと、そうしてきた。
それでも。
一瞬だけ、部屋から人が途切れた。
机に自分の左手を置く。
拳を打ちつけた右手は赤くなっていた。
その横に、小さな手が浮かんだ。
まだ五歳だった。
初めて木剣を握った日の、レインの手。
両手で握っても、柄が大きく見えた。
何度転んでも、また立って剣を持った。
「……」
行かせなければよかった。
その言葉が頭に浮かぶ。
俺が許可しなければ、今頃あいつはここにいた。
「レオン様!」
声。
顔を上げる。
通信兵が扉の前に立っていた。
「北東方面より緊急報告!」
「言え」
「捜索予定線の周辺で、再び強い地盤振動を確認!」
机の上の地図へ、新しい印が置かれる。
崩落地点の少し北東。
そして、地脈観測値の急落した範囲も、また一つ先の観測点に現れていた。
俺はそのすぐ横にある、レインの最終位置を見た。
行かせなければよかった。
その後悔は消えない。
でも、今俺が崩れるわけにはいかない。
「捜索隊へ伝えろ」
声を出す。
「振動中は崩落地に入るな。止まったことを確認してから進め」
「はい!」
「それと」
地図から目を離さない。
「急げ」
通信兵が走り出す。
俺は誰にも聞こえない声で、一度だけ名前を呼んだ。
「……レイン」
頼む。
生きていてくれ。
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