第三十八話「落ちる」
中央の魔晶石から、光が完全に消えた。
「……壊れた?」
伝信札を裏返す。
ひびはない。
魔晶石も割れていない。
もう一度、魔力を流す。
何も起きない。
「予備を……」
腰の革袋に手を入れ、もう一枚の伝信札を取り出した。
魔力を流す。
中央の魔晶石が一瞬だけ淡く光る。
でも、すぐに弱くなった。
「こっちも……?」
故障じゃない。
二枚とも同じだ。
なら、この場所に何かある。
そう考えた瞬間、カシウスの言葉が頭に浮かぶ。
『四分で戻れ。何が見えてもだ』
「……戻ろう」
原因を調べるのは、俺の役目じゃない。
見えたものは、もう覚えている。
伝信できないなら、直接戻って伝えればいい。
身体を西へ向ける。
飛行魔法に魔力を流した。
「——え?」
身体を包んでいた風が弱い。
高度が少し下がった。
「何で」
もう一度、飛行魔法に魔力を送る。
白銀の光が身体の周囲に広がる。
そのはずだった。
でも、出した魔力が風に変わりきる前に、下へ引かれる。
「……何だ、これ」
身体の中には魔力がある。
減っていない。
なのに、外へ出した瞬間に流れが崩れる。
白銀の光が細い筋になって、森の方へ落ちていく。
「っ!」
高度がまた下がる。
慌てて出力を上げた。
もっと。
風を。
身体を支えろ。
白銀の魔力が一気に増える。
その瞬間、足元の森の奥で何かが僅かに光った。
「……え?」
飛行魔法に送った魔力が、また消える。
高度は上がらない。
むしろ、さっきより落ちるのが速い。
「待って……!」
さらに出力を上げようとして、止めた。
おかしい。
魔力を多く出すほど、風が強くなるどころか、下へ引かれる光が増えている。
(これ以上やったら……)
分からない。
でも、続けるのは駄目だ。
出力を落とす。
身体を前へ傾けた。
完全に浮こうとするんじゃない。
今ある風だけで、西へ少しでも進む。
慣性を使う。
けれど、高度は下がり続ける。
樹冠が急速に近づいてくる。
「くそっ……!」
このまま地面まで落ちたらまずい。
下を見る。
濃い緑。
枝葉の重なった森。
その中に、周囲より一回り大きく葉を広く茂らせた木がある。
「あそこ……!」
地面へ直接落ちるよりは、まだましだ。
残っている風を進行方向に集める。
身体が横へ滑る。
同時に、少しでも落下を遅くする。
狙うのは幹じゃない。
枝葉の広がった樹冠の外側。
「っ……!」
風が消えた。
身体が落ちる。
緑が一気に迫った。
「うわっ!」
枝葉に突っ込む。
バサッ!
顔に細い枝が叩きつけられる。
腕で頭を庇う。
次の瞬間、太い枝に右脚がぶつかった。
「ぐっ!」
枝が折れる。
その衝撃で、身体が横へ回った。
肩。
背中。
次々と枝にぶつかる。
痛い。
でも、落ちる速さは確実に落ちている。
もう一本、太い枝が脇腹にぶつかった。
「っ——!」
息が詰まる。
枝が撓み、身体が弾かれる。
さらに下へ。
葉。
細枝。
最後に、地面が迫った。
肩から落ちる。
そのまま身体を丸めた。
枯れ葉の上を一度、二度と転がる。
止まった。
「……っ、は……」
すぐには息が吸えなかった。
脇腹が痛い。
右肩も。
腕を見る。
何本も細い傷が走っている。
額にも温かい血が流れた。
でも、手足は動く。
立てる。
「……大丈夫」
多分、骨は折れてない。
ゆっくり立ち上がる。
上を見る。
折れた枝の向こう、樹冠の隙間に空が見えた。
さっきまで、あそこを飛んでいた。
もう一度、飛行魔法を少量だけ試す。
白銀の魔力が足元に広がり、風に変わる。
その途中で、また下へ引かれた。
「……やっぱり」
飛べない。
いや。
正確には、魔法そのものが発動しないわけじゃない。
風は生まれている。
でも、その前に魔力を持っていかれる。
どこへ?
流れを追う。
俺の身体から出た白銀の魔力が、地面へ。
さらに斜面の先へ。
森の奥へ流れている。
さっきから見えていた、魔力のない場所。
「……」
息を止める。
近い。
上空から見ていた時とは、まるで違う。
木々そのものは普通に立っている。
枯れてはいない。
葉も残っている。
なのに、静かだった。
鳥の声がしない。
虫の羽音も。
獣の気配も。
何もない。
森なのに、不自然なくらい何も聞こえない。
足元を見る。
岩の隙間に、小さな魔晶石が露出している。
本来なら淡く魔力を帯びているはずの石。
それが白く濁っていた。
「……何が」
起きてる?
顔を上げる。
魔力を見る。
森の光が薄い。
普通より、ずっと。
そして、木立の向こうに黒い巨大な盛り上がりが見えた。
「……岩?」
最初は低い岩山かと思った。
木の幹が邪魔で、全体の形までは見えない。
ただ、黒灰色の巨大な面が幹と幹の間を埋めるように左右へ続いている。
こんな場所に、あんな岩山。
次の瞬間、黒い隆起が動いた。
「……え」
ズ……ン。
地面が僅かに揺れる。
木々が横へ押される。
一本の太い幹が傾き、根元から倒れた。
その向こうから、黒い塊の輪郭が現れる。
岩じゃない。
「魔獣……?」
声が勝手に小さくなる。
大きい。
あまりにも大きい。
五十メートル。
いや、もっと。
六十メートル近くあるかもしれない。
平たく、地面に張り付くような身体。
さっき岩に見えた部分は、黒灰色の外殻に覆われた背だった。
その背には、白い筋。
水晶みたいなものが何本も走っている。
その一部がゆっくりと明滅していた。
腹の左右には三本ずつ、計六本の肢。
六本すべてを使って、巨大な身体を地面に這わせるように進んでいる。
そのうち四本、異様に太い肢がある。
一歩進むたび、その肢が一本ずつ地面から抜け、前方に突き立て直される。
深い。
ただ地面を踏んでいるんじゃない。
土の中まで刺し込んでいる。
「……何だ、あれ」
魔力を見る。
太い四本の肢。
地面に触れている部分から大量の魔力が肢を伝い、身体の中に流れ込んでいる。
四本とも光の太さは違う。
でも、流れる方向は同じだ。
地面から魔獣へ。
「……」
分からない。
地面の魔力。
森の魔力。
俺がさっき放った飛行魔法の魔力。
全部、あいつの方へ流れが集まっている。
その時、魔獣の背中を走る白い水晶の筋が淡く明るくなった。
俺が飛行魔法に魔力を流した直後と同じだ。
「まさか……」
言葉にしかけて、止める。
決めつけるな。
見えたもの。
まず、それだけ。
巨大な魔獣。
六本の肢。
そのうち四本が、歩くたび地面に深く刺さっている。
そこから魔力が身体に流れ込んでいる。
周囲の魔力が薄い。
俺の飛行魔法も、外へ出した魔力が魔法に変わる途中に吸い取られた。
これを伝えないと。
伝信札を取り出す。
予備も、もう残り少ない。
魔力を流す。
魔晶石が弱く光る。
『巨大魔獣を確認。全長推定五十——』
消えた。
「っ……!」
もう一度。
『六本の肢。うち四本から魔力流入を——』
また消える。
駄目だ。
ここでは伝信できない。
なら、戻る。
地上でもいい。
西へ。
この範囲から出れば、また魔法も使えるかもしれない。
走り出す。
木の根。
落ちた枝。
湿った土。
足元を選びながら、西へ。
でも、上空から見た距離と地上を走る距離は全然違う。
「はっ……はっ……」
後ろから。
ズ……ン。
また地面が揺れる。
巨大な魔獣が、ゆっくり動いている。
俺を追っている?
違う。
こっちを見てもいない。
あいつはただ北東へ進んでいる。
周囲の木々を押し倒しながら、一定の方向に。
(俺を狙ってるわけじゃない……?)
「……っ」
走りながら腰の時計を見る。
もう、四分で戻るという約束には間に合わない。
木の根を越える。
斜面を回る。
また走る。
それでも、上空を飛んだ時とは比べものにならないほど遅い。
このまま走れば、いつかは戻れる。
でも、いつになる?
カシウスは十数体の飛行魔獣と戦いながら、俺が戻るのを待っている。
俺からは連絡一つ送れない。
戻ってこなければ、何が起きたのかも伝わらない。
「……」
足を止める。
息を整える。
飛行魔法を、もう一度だけ試す。
ほんの少し浮くだけ。
魔力を流す。
風。
一瞬、身体が軽くなる。
直後、白銀の魔力が地面へ引きずられた。
「くっ!」
足が地面に戻る。
また、魔獣の背の白い筋が僅かに強く光った。
「……やっぱり」
出した魔力が、あいつに流れてる。
でも、全部じゃない。
身体の中の魔力は残っている。
外へ出した、その先。
そこだけ奪われる。
視線を四本の太い肢に向ける。
地面に触れている。
そこから魔力が流れている。
四本とも同じじゃない。
一番手前。
右側の一本。
そこだけ、流れが太い。
ほかの三本より明らかに。
「……あれが」
中心?
そうなら、あの一本を地面から離せば、ほんの一瞬だけでも魔力を引く力が弱くなるかもしれない。
その一瞬で飛べれば、ここから離れられる。
カシウスのところまで、すぐに戻れる。
失敗したら、そのまま西へ走ればいい。
あいつは俺を追ってもいない。
倒す必要はない。
ほんの一瞬、肢を地面から離させるだけ。
「……」
足元を見る。
岩の欠片。
その中に、細長く先の尖った石片があった。
拾う。
手のひらに乗せる。
外殻を壊す必要はない。
魔獣が肢を動かす。
太い肢が地面から抜け、次の場所に突き立てられる。
その途中で関節が曲がった。
黒灰色の外殻と外殻の間。
僅かに、暗い色の柔らかそうな部分が見える。
(あそこなら)
痛みで、反射的に肢を上げるかもしれない。
魔法そのものをあいつまで届かせる必要はない。
手元で石に速度を与える。
飛び出した後なら、魔力が奪われても石そのものは進む。
「……一回だけ」
右手の石片に魔力を集める。
長く維持しない。
瞬間、風を圧縮する。
狙う。
最も魔力の流れが太い肢。
その関節。
外殻の隙間。
「行け!」
風が爆ぜた。
バンッ!
石片が手元から弾け飛ぶ。
木々の間を抜ける。
次の瞬間、遠くで鋭い音がした。
石片が外殻そのものに当たる。
弾かれる。
でも、砕けた石の尖った先が関節の隙間を掠めた。
暗い膜が裂ける。
巨大な肢がびくりと跳ねた。
次の瞬間、反射的に地面から引き抜かれる。
「……!」
その肢を流れていた魔力が途切れた。
四本のうち一つ。
そして、周囲から魔力を引く力がほんの僅かに弱まった。
「いける!」
すぐに飛行魔法。
白銀の魔力を足元に。
今なら、風に——
その時だった。
残った三本。
地面に刺さった太い肢。
そこを流れていた光が、一斉に太くなった。
「……え?」
三本とも、さっきまでとは比べものにならない。
地面から大量の魔力が吸い上げられる。
背中の白い筋が、また明るくなった。
「待って」
違う。
弱くなってない。
残った三本が、一本分まで引き受けてる。
地面が鳴った。
ゴゴゴゴゴ……。
足元の小石が跳ねる。
「何……」
魔獣の周囲。
三本の太い肢が刺さっている場所から、次々と亀裂が伸びた。
土が盛り上がる。
木の根が地面から持ち上がる。
次の瞬間。
ズドンッ!!
「——っ!」
地面が一気に沈んだ。
木々が傾く。
根元から土ごと落ちる。
亀裂。
一本。
俺の足元へ真っ直ぐ走ってくる。
「まず——」
飛行魔法。
間に合わない。
魔力を流す。
風に。
でも、外へ出した瞬間にまた引かれる。
「来い……!」
もう一度。
もっと。
駄目だ。
風が形にならない。
亀裂が足元を通った。
地面が割れる。
「うわっ!」
身体が傾く。
斜面ごと落ちた。
土砂。
岩。
木の根。
全部、一緒に。
「くっ……!」
何かを掴む。
細い根。
手の中で抜けた。
さらに落ちる。
その間にも見えている。
傷つけた一本。
その魔力は完全には消えていない。
地面から離れただけ。
そして残る三本。
そこを流れる光が異常なほど太くなっている。
四本。
最初から見えていた。
それぞれを流れる魔力も。
太さが違うことも。
俺は一番強い一本だけを、中心だと思った。
「……違った」
強い一本が中心だったんじゃない。
四本で支えていた。
その一つを止めたから、残りに流れが集中した。
俺がやった。
見えていた。
四本も。
流れも。
全部。
なのに俺は、その意味を間違えた。
頭上の空が遠くなる。
崩れた土砂が次々と落ちてくる。
「っ……!」
腕で頭を庇う。
背中に衝撃。
息が止まる。
さらに落ちる。
最後に見えた空は、細い裂け目みたいだった。
その裂け目に土が崩れ込む。
光が細くなる。
消える。
そして。
何も見えなくなった。
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