第三十六話「空から見る領地」
詠唱を終えた瞬間、足元を巡っていた白銀の魔力が風へ変わった。
外套の裾が大きく膨らむ。
身体を包んだ風が俺を押し上げる。
靴の裏から地面の感触が消えた。
一メートル。
二メートル。
中継所の柵を越える。
馬車の屋根も下になる。
(もっと、上へ!)
身体を支える風を強める。
視界が一気に開けていった。
飛行魔法そのものは初めてではなかった。
セレナとの訓練で、浮上も、旋回も、加速も、着地も繰り返してきた。
それでも、訓練場の上を飛ぶのと、その外に出るのとではまるで違った。
まず、高度が違う。
中継所がみるみるうちに小さくなっていく。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
東部幹線街道。
その横を流れる川。
川に架かる橋。
街道から枝分かれした細い道の先には、村がある。
その周囲を取り囲む畑。
さらに向こうには森。
地図で見てきたものが、全部一つにつながっていた。
しかも、地図とは違う。
動いている。
街道を進む馬車。
列をなして歩く人々。
畑の間を動く小さな魔力。
人間とは少し違う鈍い光。
牛や馬だ。
川面には、傾き始めた日の光が揺れている。
全部、見える。
なんて、美しいんだ。
「顔」
横から声がした。
見ると、カシウスが少し高い位置を飛んでいる。
軍服の外套が白銀の風にはためいていた。
「何ですか?」
「緩んでるぞ」
言われて気づく。
口元が緩んでいた。
でも、こんな高さを飛ぶのは初めてなんだ。
少しくらい気持ちが高まるのは、仕方ないじゃないか。
「だって、こんなに——」
「状況を忘れるな」
その一言で、今すべきことを思い出した。
高揚している場合じゃなかった。
俺たちは遊びに来たわけじゃない。
「……すみません」
気を引き締める。
「前を見ろ」
「はい」
視線を東へ向けた。
さっきまでとは違うものが見えてくる。
街道を埋める、長い避難列。
西へ進む荷馬車。
子供の手を引いて歩く人々。
その横を、逆方向へ走る軍用馬車。
橋の両端には兵士が集まり、通行を整理している。
さらに東では、一部の草地と林が黒く焼け、細い煙が何本も空へ伸びていた。
地上にいた時は、一つずつしか見えなかったもの。
それが今は、一度に視界へ入ってくる。
地図なら、何度も見てきた。
オスカーの授業でも、レオンとの視察でも。
東部の地形は覚えている。
この川を越えれば街道が二つに分かれる。
北側は農村地帯へ。
南側は採掘場へ。
さらに東へ行けば、大森林が広がっている。
全部、知っていた。
でも、地図の上では一本の線だった街道を、今は何百人もの人が歩いている。
点でしかなかった村には家があり、畑があり、そこから人が逃げている。
川に引かれた短い線の上では、兵士たちが橋を守っている。
地図が現実になっていた。
「おい」
カシウスの声で我に返る。
「見えるか」
「はい」
俺は意識を切り替えた。
普通の景色。
そして、その奥。
世界に満ちている魔力を見る。
煙とともに立ち上がる茜色。
川を流れる蒼。
街道を進む人々から漏れる、無数の淡い燐光。
森を覆う植物の光。
その中を、いくつもの強い魔力の塊が動いていた。
「……いました」
「どこだ」
「北東です」
カシウスが俺の視線を追う。
けれど、その先にあるのは森だけだ。
地上からなら、木々に隠れて何も見えないだろう。
俺には見える。
樹冠の下。
何十。
いや、その奥にもいる。
「少し待ってください」
飛行を維持したまま、意識をそちらへ集中する。
一つ。
二つ。
十。
二十。
重なっている。
木々に遮られて身体までは見えないが、魔力の光なら追える。
「かなりいます。百……それ以上」
「進路は」
「南西です」
「速度」
群れの先頭を見る。
地形を見る。
その先にある街道を見る。
「徒歩の人より、かなり速いです」
カシウスが頷く。
「近づくぞ」
「はい」
俺たちは北東へ進路を取った。
風が正面から叩きつけてくる。
飛行を維持する。
同時に、森を見る。
地形を見る。
魔力を見る。
訓練場とは違う。
ただ飛ぶだけでは駄目だ。
身体を支える風へ意識を残したまま、遠くに焦点を合わせる。
少し気を抜くと、高度が落ちる。
「っ」
身体が左へ傾く。
すぐに風を調整した。
「飛行を崩すな」
「はい」
「見えるものに集中しすぎるな。落ちたら偵察どころじゃないぞ」
「分かってます」
「なら高度を合わせろ」
「……はい!」
言い方は相変わらずだ。
けれど、カシウスは俺から離れすぎない位置を飛んでいる。
いつでもこちらへ寄れる距離。
俺を監督するためだ。
やがて、アストリア領に近づいていく。
見覚えのある景色が増えてきた。
川や丘。
領内の東街道。
そこから村へ伸びる小道。
赤く染まる星霊花の畑。
休みのたびに見て回っていた領内の様々な場所が、一度に見渡せる。
本当なら、このまま小一時間くらいぼんやり眺めていたかった。
けれど。
「右です」
森の中。
先ほど見つけた魔力群が、はっきり見えるようになっていた。
近づくほど、一つ一つの光を分けられる。
「百五十……」
さらに奥。
「二百……」
まだいる。
「二百四十前後です」
「種は」
「複数です。ですが、木が邪魔で、種類までは分かりません」
「それでいい」
カシウスが即答する。
「見えないものを埋めるな」
「はい」
「進路」
「南西」
森の先を見る。
領内東街道。
西へ進む避難民の列があった。
群れの先頭と避難列の最後尾。
距離が縮んでいる。
「……まずい」
「接触するか」
「このまま進めば、接触する可能性があります」
「どこで」
地図を取り出す。
風に持っていかれそうになる紙を片手で押さえた。
現在地。
東街道。
森。
橋。
村。
上から見える景色と地図を重ねる。
「東街道第四橋より東。ここです」
「到達まで」
群れを見る。
避難列を見る。
お互いの距離を比べる。
「二十分前後だと思います」
「予測か」
「はい。今の速度と進路が変わらなければ」
「分かった。送れ」
俺は腰の革袋から伝信札を取り出した。
場所。
規模。
進行方向。
観測した時刻。
そして、そこから考えたこと。
セレナの言葉を思い出す。
見えたものと、そこから考えたことは分けて報告する。
「領内東街道北東の森林内に魔獣群。推定二百から二百五十。南西へ移動中」
一度区切る。
「現在の速度と進路を維持した場合、約二十分後に東街道第四橋付近で避難列と接触する可能性あり」
カシウスが頷いた。
「それでいい」
伝信札へ魔力を流す。
淡い光が三度明滅した。
文字が消える。
東部指揮所へ送られた。
「返事を待つな。次を見るぞ」
「はい」
周囲へ視線を広げる。
北。
南。
さらに東。
森の中には、他にも動く魔力がある。
「南東にもいます」
「数」
「五十前後」
「進路」
「西です」
急いで数字を確定しようとしない。
見える範囲で、必要な情報だけ。
「南東森林内、魔獣群。推定四十から六十。西進中」
群れの向きを確認する。
その先に街道はあるが、今の進路なら少し南側を抜ける。
「現在の進路を維持した場合、街道南側を通過する見込みです」
「送れ」
「はい」
二度目の伝信が消える。
現在地。
高度。
確認した魔獣群。
その進行方向。
地上の街道状況。
上から見る。
整理する。
伝える。
それを繰り返した。
その情報がどこまで役に立っているのか、空にいる俺には分からない。
ただ、しばらくしてカシウスの伝信札が強く光った。
「返答だ」
俺たちは速度を落とした。
カシウスが文字を追う。
「北東方面。東街道第四橋を閉鎖。避難列を南側農道へ変更」
「……間に合いますか?」
「続きがある」
次の文字が浮かぶ。
「進路上の村は避難完了。残留住民なし。現地部隊も街道から後退中」
「本当に……?」
「ああ」
もう一度、文字を読む。
「現時点で、魔獣群との接触なし」
「……よかった」
思わず息が漏れた。
右手を握る。
魔獣を倒したわけではない。
一頭も。
俺がしたのは、見つけたこと。
数を確かめたこと。
進む方向を伝えたこと。
それだけだ。
それでも、地上では人の進む道が変わった。
村が空になった。
魔獣と人がぶつからずに済んだ。
三年前。
俺は風喰狼が攻撃する直前の魔力の変化を見つけた。
あの情報が、兵士たちを守った。
今は、もっと遠くを見ることができる。
魔獣だけじゃない。
人の流れも、道も、橋も、村も。
全部を一緒に見る。
そして、誰かが判断するために必要な情報を伝える。
(これも……俺の目の使い方なんだ)
弱点を見つけるためだけじゃない。
敵より早く攻撃するためでもない。
見ることで、戦わずに守れる人がいる。
嬉しかった。
自分の力が、こんなふうにも役に立つことが。
「顔」
「……またですか?」
「今度はいい」
見ると、カシウスはほんの僅かに口元を緩めていた。
「ただし、まだ終わってない」
「はい」
俺も東へ向き直る。
もっと見よう。
まだ、見落としているものがあるかもしれない。
さらに森林の奥へ視線を向けた。
一つ。
二つ。
三つ。
別々の魔獣群が動いている。
北西へ向かう群れ。
西へ向かう群れ。
南西へ向かう群れ。
進行方向は少しずつ違う。
けれど。
「……あれ?」
妙だった。
「どうした」
「少し待ってください」
群れを見る。
今、どこへ向かっているかではなく、逆にどこから来たのかを考える。
北西へ逃げる群れ。
その動きを東へ戻す。
西へ向かう群れ。
それも逆へ。
南西へ向かう群れ。
さらに東へ。
頭の中で、幾つもの線を伸ばしていく。
ばらばらだった線が、少しずつ一つの場所へ集まった。
「カシウスさん」
「何だ」
「やっぱり変です」
「何が」
「あの群れも。その向こうも」
指で示す。
「進んでいる方向は違います。でも、逆に辿ると……」
さらに奥。
北東の深い森。
「ほとんど同じ場所から離れています」
カシウスもそちらを見た。
「つまり?」
「魔獣が、そこから逃げている」
声に出すと、三年前から感じていた違和感が一つの形になった。
風喰狼。
灼尾蜥。
普段なら生息域の違う魔獣たち。
それが一斉に東部の奥から出てきている。
州政府で見た地図では、赤い矢印が東部から外へ向かって伸びていた。
今は、その動きを自分の目で見ている。
森の奥から、幾つもの魔獣群が扇状に広がって逃げている。
「何かいるのか」
カシウスが言った。
「……分かりません」
「見えないのか」
「遠いです」
魔力へ意識を集中する。
目の奥が重くなる。
それでも、強い魔力があるなら多少距離が離れていても見えるはずだ。
森。
木々。
魔獣。
草。
川。
大地。
無数の魔力の光。
その奥。
「……え?」
何かがおかしい。
最初は、遠すぎるせいだと思った。
瞬きをする。
もう一度見る。
やっぱり同じだ。
「どうした」
答えず、さらに意識を集中した。
光が強いわけではない。
巨大な魔力があるわけでもない。
逆だ。
そこだけ、ない。
「……魔力が」
「強いのか?」
「違います」
喉が乾いた。
「あそこだけ、見えません」
「見えない?」
「はい」
カシウスが森を見る。
もちろん、普通に見れば何も変わらない。
木々が続いている。
森がある。
地面もある。
なのに、俺の目にはそこにあるはずの魔力だけが見えない。
森を覆う光が、途中でごっそりと抜け落ちている。
円ではない。
森の奥を横切るように、巨大な帯が伸びている。
まるで、光に満ちた世界へ黒い穴を開けたようだった。
「何もないんです」
「何も?」
「木は見えます。地面も。でも……魔力だけが、ない」
そんな場所、今まで見たことがない。
そして、もう一つ気づいた。
「カシウスさん」
「ああ」
「あの空白を見てください」
「俺には普通の森にしか見えん」
「その周りです」
周囲の魔獣を見る。
北へ逃げている。
西へ。
南西へ。
すべて、その空白から離れるように。
「魔獣が……」
口に出す。
「あそこから逃げてる」
カシウスの表情から、僅かに余裕が消えた。
「位置は分かるか」
「大体なら」
「距離」
目測する。
「ここから数キロ……」
空白を見る。
その縁が、僅かに動いたような気がした。
「……待って」
「何だ」
さっきと位置が違う。
遠近の錯覚か?
いや。
周囲の木々と比べる。
間違いない。
「動いてる……?」
「何が」
「あの、魔力のない場所です」
カシウスが腰につけた時計を見た。
「異常の位置だけ確認する。時間が掛かるようなら引き返す」
「分かりました」
俺は頷いた。
任務は観測だ。
何があるのか、まず見る。
そして、伝える。
それ以上はしない。
見えている。
なら、調べられる。
そう思った。
これまでだって、俺の目は誰にも見えないものを見つけてきた。
風喰狼の攻撃の前兆も。
魔法の流れも。
さっきの群れも。
見えたから、誰かを守れた。
だが。
見えている。
だから大丈夫だ。
そう言い切るには、目の前の空白はあまりにも大きかった。
その時だった。
空白の縁。
森の樹冠が大きく揺れた。
「——おい!」
カシウスが叫ぶ。
木々の梢が弾け飛んだ。
何かが森の中から飛び出す。
一つ。
二つ。
三つ。
いや、その後ろにもいる。
巨大な翼。
長い尾。
別の個体は、鳥のような翼を大きく広げている。
種類が違う。
なのに、同じ場所から次々と空へ上がってくる。
「飛行魔獣……!」
十を超える魔獣が。
俺たちの前で一斉に空へ舞い上がった。
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