第三十五話「非常伝信」
州庁舎を出ると、玄関前に並んでいた貴族の馬車は半分ほど姿を消し、代わりに州軍の軍用馬車が次々と視界に入ってくる。
兵士が木箱を運び、職員が書類を抱えて走る。
階段の下では、伝信札を持った通信兵が声を張っていた。
「州軍第三大隊、東部方面への移動を開始!」
「南東支線、商用大型車の通行制限を各関所へ通達!」
俺たちの馬車も、馬が新しいものへ替えられている。
レオンに続き、俺とセレナも乗り込む。
「出してくれ」
御者が手綱を鳴らした。
カシウスは馬車には乗らず、州軍から借りた軍馬に跨がっていた。
「総督から命じられた航空偵察のため、途中まで同行します」
「ああ」
レオンが短く答える。
飛行魔法を使わないのは、現場へ着くまで魔力を温存するためだ。
馬車が走り出す。
車輪が、朝よりも短い間隔で石畳を叩いている。
***
州都の城門を抜けて間もなく、街道の様子が変わった。
朝は東西を自由に行き交っていた荷馬車が、今は州兵の誘導を受けている。
西へ向かう馬車には、家財を積んだものが増えていた。
幌の隙間から顔を覗かせる子供や、荷台の後ろを歩く老人。
牛や山羊を引いて避難する者の姿もあった。
危険が迫っている東部からは、まだ遠い。
それでも、避難はもう始まっていた。
反対に、俺たちと同じ東へ向かうのは軍用馬車が多い。
兵士や武器、治療用の道具、魔晶石を積んだ箱を載せた軍用馬車が、次々と東へ向かっている。
その間を、騎兵が追い抜いていく。
街道脇の空き地では、商人らしい男たちが荷車から木箱を下ろしていた。
「荷は倉庫へ入れろ!」
「馬車を空けたら、すぐ西へ戻るぞ!」
朝には売り物だった荷物を倉庫に預け、空になった荷車で西へ引き返そうとしている。
同じ街道なのに、数時間前とはまるで別の道だった。
馬車の前方から、短い笛の音が聞こえた。
護衛についている通信兵が伝信札を取り出す。
銀縁の中央に嵌め込まれた魔晶石が、淡い光を三度放った。
兵士の目が文字を追う。
揺れる馬上だが、すぐに紙に書き写し、馬車の小窓から差し入れてきた。
「アストリア伯。州政府からの非常伝信です」
レオンが受け取る。
俺も、その紙へ目を向けた。
そこには短い文章が並んでいた。
── 州東部複数領において魔獣群との接触を確認。
── 人的被害、避難行動、複数種同時移動を総合し、本事案を第Ⅲ級魔獣災害に指定。
第Ⅲ級。
三年前の魔獣災害は、第Ⅱ級だった。
その一段上。
紙に並んだ文字が、急に重く見えた。
レオンは最後まで読むと、紙を折った。
「各領への非常配備命令は?」
「同時に送られています」
通信兵が答える。
「州軍第三大隊はすでに東進中。第二大隊も州都周辺で展開を開始したとのことです」
「分かった」
レオンが地図を見る。
「次の中継所で馬を替える」
「承知しました」
馬車は速度を上げたまま、東へ走り続けた。
***
日が西へ傾き始めたころ、最初の街道中継所に着いた時には、すでに交換用の馬が用意されていた。
御者と兵士たちが手早く繋ぎ替えていく。
俺たちは馬車から降りなかった。
カシウスは一度馬から降り、別の馬の準備をしている。
その間にも伝信は届く。
北東方面で新たな魔獣群を確認。
南東の火災は延焼を抑制中。
東部第五村から負傷者を後送。
州軍第三大隊、予定地点を通過。
一つ届くたびに、レオンは地図へ印を書き足していった。
だが、時間が経つにつれて、その印の意味が変わり始めた。
「この群れは、もうここにはいないな」
レオンが地図の一点を指した。
少し前に届いた斥候報告。
その直後、さらに西側の街道近くから同じ特徴の魔獣群を見たという報告が届いている。
セレナが地図を見る。
「移動速度が上がっていますね」
「情報が届く頃には、すでに魔獣が次の場所へ動いています」
レオンが新しい線を書き込もうとした。
その時だった。
通信兵の持つ伝信札が、再び光った。
一度。
二度。
三度。
兵士の表情が変わる。
「アストリア伯」
声が低くなった。
「領都からです。最優先指定」
レオンの手が止まる。
「読め」
「はい」
通信兵が伝信札へ視線を落とした。
「東部村落からの避難民流入が増加。アストリア領都東門周辺で混雑が発生」
馬車の中から音が消えた。
「東外郭結界の一部で出力低下。供給用魔晶石の交換間隔が想定より短くなっています」
「負傷者増加に伴い、領内治癒院の収容余力が低下。アストリア邸の客間および大広間を臨時収容所として開放」
「領都内の避難民受け入れ、物資配分はオスカー・クロイスが統括」
一度、通信兵が言葉を切った。
『飛行魔獣五体、領都空域へ侵入。二体がアストリア邸上空へ接近。屋敷守備隊が迎撃中』
「......は?」
屋敷に。
飛行魔獣が?
守備兵は?
結界は?
機能しているのか?
テレシア。
オスカーもいる。
『今日は、よく見てきてください』
今朝、言ってくれた。
助けなきゃ。
レオンは何も言わない。
なぜ。
「父様!」
領都に戻って。
そう続けようとした。
その時、地図の端が、レオンの親指の下で僅かに折れた。
「テレシアとオスカーは」
短い問いだった。
通信兵が二人の安否確認を短くまとめ、伝信札へ魔力を流した。
淡い光が三度明滅する。
馬車の外では、馬具を付け替える音が続いている。
金具が鳴る。
馬が鼻を鳴らす。
伝信札が三度光る。
「両名とも無事です」
俺はそこで初めて、息を止めていたことに気づいた。
ゆっくり吐き出す。
無事。
落ち着け。
冷静になれ。
レオンの表情は変わらない。
「そうか」
すぐに地図へ目を戻す。
「東部第二村の状況は?」
「避難継続中です。住民の一部がまだ村内に残っています。予定していた領軍増援は、現在移動中」
レオンは数秒、地図を見た。
領都。
東部第二村。
今なら。
村へ向かっている兵を、領都へ戻せる。
「父様」
レオンは顔を上げない。
「東門守備は現有兵力で維持」
通信兵が書き始める。
「西門を避難専用に切り替えろ。東部から入った避難民は、可能な限り西側の収容区画へ流す」
「はい」
「東部第二村への増援は予定通り送れ」
なぜ。
いや、本当は分かっている。
分かっているのに。
「でも、母様が」
レオンの目が俺へ向く。
「分かっている」
低い声だった。
「オスカーなら、持たせる」
レオンは再び地図へ目を落とした。
「領都には守備隊もいる。だが、第二村にはまだ逃げ切れていない住民がいる」
頭では分かる。
領都にはオスカーがいる。
守備兵がいる。
結界もある。
村の方が危険。
それでも。
「追加だ」
レオンが言った。
「東外郭の維持が困難と判断した場合、外側の区画に固執するな。住民を第二防衛線へ下げろ」
通信兵の筆が走る。
「守備隊は撤退路の確保を優先。建物や区画を守るために兵を残すな」
「承知しました」
命令文がまとめられる。
レオンは携行していた小さな印を取り出した。
領軍の主印。
命令書の末尾に押す。
刻まれた紋様が、一瞬だけ淡い光を放った。
「送れ」
「はい!」
通信兵が伝信札に命令を移していく。
「父様」
レオンが顔を上げる。
「僕なら飛べます」
「何?」
「ここから領都まで、馬車よりずっと早い。僕が先に── 」
「駄目だ」
言い切る前に遮られた。
「なぜですか!」
「母様が! 危ないのに!」
「分かっている」
レオンの声は低く、震えていた。
「だからこそ駄目だ」
「僕が行けば── !」
「お前が行けば、必ず安全になるのか」
遮られる。
「屋敷には守備隊がいる。結界もある。オスカーもいる」
「でも── !」
「お前が行けば、守備隊やオスカーはお前のことも守らなければならない」
「......っ! そんなこと── 」
「お前の役割は」
レオンが俺を見る。
「本当に、屋敷に戻ることなのか」
分かってる。
そんなことは、分かってる。
なら俺は、どうすればいいんだ。
俺の役割。
俺にしか、できないこと。
魔力を見る力。
それなら──
「......父様」
「今、足りないのは情報です」
「……続けろ」
「魔獣が、どこにいるのか分からない」
「斥候が見つけても、報告が届く頃には群れが動いています。......このままだと、避難路を決めても、その途中で魔獣とぶつかるかもしれない」
レオンは黙って聞いている。
地上から見れば、森の中に入った魔獣は木々に隠れる。
でも。
「僕なら、上から見られます」
レオンの眉が僅かに動いた。
「森に隠れていても、大きな群れなら魔力の集まりを追えます。数と進む方向が分かれば、避難路を決める材料になります」
三年前。
俺が見つけたのは、風喰狼が攻撃する直前の魔力の変化だった。
あの時は、次にどこに攻撃が来るのかを伝えた。
あの時のように。
俺の魔力視があれば──
「駄目だ」
レオンの返答は早かった。
「なんで——」
「飛行訓練と実際の災害現場は違う」
言葉を挟ませてもらえない。
「長距離を飛びながら観測した経験もない。魔獣と接触する可能性もある」
正論だった。
セレナの監督下で飛行魔法の訓練はしている。
自分で浮き、移動し、着地することもできる。
だが。
決められた訓練場の外を長距離飛行したことはない。
まして、魔獣が大量に移動している地域など。
「今必要なのは、できるかもしれない、ではない」
レオンが言った。
「確実に戻ってくる偵察だ」
何も言えない。
どうすれば──
「なら、俺が付きます」
カシウス。
なぜ。
「どういう意味だ」
「州総督から、東部方面の航空偵察を命じられています」
「どのみち俺は飛びます。こいつの目が使えるなら、偵察任務に組み込む価値はあります」
「護衛しながら飛べるのか」
「できます」
迷いはない。
「戦闘は俺が受け持ちます。こいつには見ることだけさせます」
レオンはすぐには答えなかった。
今度はセレナを見る。
「飛行そのものは?」
問いかけられたセレナは、少し考えてから答える。
「通常の離着陸と移動であれば問題ありません」
俺を見る。
「ただし、長距離飛行は初めてです。それに、飛行を維持しながら別のことを行う経験も十分ではありません」
「つまり」
「......カシウスさんの監督があり、かつ戦闘を避けるのであれば、偵察そのものは可能かと」
完全な賛成ではない。
条件付きだ。
レオンが俺を見る。
「レイン」
「はい」
「お前は、何をしに行く」
もう、答えは決まっていた。
今の俺に、できること。
「魔獣群の位置と数、進行方向を確認します」
「戦うのか」
「いいえ」
「魔獣を見つけたら?」
「距離を取って観測します。情報を伝信で送ります」
「追われたら」
「カシウスさんの指示に従って離脱します」
レオンは俺からカシウスへ視線を移した。
「レインの飛行許可は」
「州政府に申請できます。第Ⅲ級指定が出ているため、軍務省派遣班の監督下なら特別許可の対象になります」
「では、取れ」
「了解しました」
カシウスが腰の伝信札へ手を伸ばした。
すぐに返事が来た。
災害時特別飛行許可。
使用目的は航空偵察。
監督者は、軍務省魔導戦術局所属、帝国魔導師カシウス・ヴァレリウス。
対象者。
レイン・アストリア。
***
飛行のための準備をしている。
少し離れた場所では、魔法省の馬車が到着していた。
白い外套を着た魔導師たちが降りてくる。
その一人がセレナへ駆け寄った。
「ミレイユ魔導師。東部地脈観測班から支援要請です」
セレナが書類を受け取る。
「結界出力にも影響が?」
「はい。複数地点で」
「分かりました。では、私はそちらに向かいます」
俺を見る。
「先生」
「レイン」
セレナはいつもの穏やかな表情ではなかった。
教師というより、魔導師としての顔。
「見えたものと、そこから考えたことは分けて報告してください」
「はい」
「それと」
紫の瞳が少し細くなる。
「無理だと思ったら、戻ってください」
「分かりました」
答えると、セレナは一度だけ頷いた。
長杖を持ち直し、魔法省の一団へ向かっていく。
「先生も」
セレナが振り返る。
「無理、しないでください」
「......ええ」
その背中を見送ると、カシウスから声が飛んだ。
「おい、こっちだ」
開けた草地へ向かう。
革袋を腰へ固定する。
中には予備を含めた伝信札。
カシウスも装備を確認していた。
黒い軍杖。
伝信札。
腰の短剣。
外套の留め具を締め直す。
「条件を確認する」
レオンが俺たちの前に立った。
「飛行高度は許可された上限を超えない。観測区域は州政府指定範囲内」
俺とカシウスが頷く。
「交戦は可能な限り避けろ。魔獣と接触した場合、レインは戦闘に参加せず離脱を優先」
「はい」
「帰還期限までに必ず報告地点へ戻る。状況が変われば、伝信による帰還命令を優先しろ」
「はい」
最後に。
レオンはカシウスを見た。
「カシウス殿」
「はい」
「絶対に、レインを一人にするな」
声は静かで重かった。
「承知しました」
レオンの視線が俺へ戻る。
「レイン」
「はい」
「お前の役割は、倒すことではない」
「……見ること」
「ああ」
レオンが頷く。
「見て、伝えろ。それで十分だ」
俺の役割を果たす。
それでいい。
東の空を見る。
遠く。
地平線近くに、細い黒煙が上がっていた。
灼尾蜥による火災なのか。
それとも別の場所なのか。
ここからでは分からない。
テレシアがいる領都も。
避難を続けている村も。
森の中を移動している魔獣も。
地上に立っている今の俺には、見えない。
だから。
空から、見る。
カシウスが数歩先へ出た。
「飛べるな?」
「はい」
反射的に答えた。
高く飛んだことも、長距離を飛んだこともない。
災害現場で飛んだことはもちろんない。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも、ここで「できません」とは絶対に言いたくない。
「なら行くぞ」
俺は一度だけ振り返った。
レオンが立っている。
その向こうでは通信兵が走り、軍用馬車が東へ出ていく。
セレナを乗せた魔法省の馬車も、別の道へ動き始めていた。
誰も同じ場所へは向かわない。
それぞれが、自分の役目へ向かっている。
俺も。
前を向く。
一度、息を吸った。
集中しろ。
足元へ白銀の魔力を巡らせ。
何度も練習した術式を組み上げる。
「地よ、我が身を解き放て── 《飛翔》」
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