第三十二話「模擬戦——レイン対カシウス」
「なら── 俺と一度、戦ってみろ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……僕が、ですか?」
「ああ」
カシウスは平然としている。
「あなたは帝国魔導師ですよね」
「そうだ」
「僕は十一歳ですが」
「それも知っている」
分かっていて言っているらしい。
「必要ありません」
真っ先に拒否したのはマルティナだった。
「今回の目的は、特別選抜候補としての事前視察です。戦闘能力は必須項目ではありません」
「だが、災害時の実績も評価資料に含まれている」
カシウスが答える。
「なら、実戦時の判断力を確認する意味はある」
「十一歳の子供ですよ」
「分かっている」
「あなたは帝国魔導師です」
「それも分かっている」
いい加減聞き飽きた、とでも言いたげにカシウスは答えた。
マルティナの眼鏡が、わずかに光った。
二人をよそ目に、ノアが僅かににやつきながら俺へ顔を寄せる。
「面倒な性格でしょう?」
小声だった。
俺としては、にやついている場合ではないのだが。
「聞こえているぞ、ノア」
「聞かせてるんですよ」
こいつも大概だ。
「昔からなんですか?」
「学院の同期ですから」
「同じ二十八歳だ」
カシウスが付け加えた。
「入学から卒業まで、ずっと一緒でした」
「腐れ縁ってやつですね」
「誰が腐っている」
「やっぱり反応するね」
マルティナが額へ指を当てている。
たぶん、先生として苦労したのだろう。
カシウスが俺を見る。
「もちろん、拒否して構わない」
その言葉に、なぜか少しだけ引っかかった。
多分、見下されている。
でも、無理やり戦わせようとしているわけではない。
「条件は?」
俺が尋ねる。
「レイン」
セレナの声が飛ぶ。
振り返る。
「やってみたいです」
「理由は?」
少し詰まった。
実力を知りたい。
本物の魔導師と戦ってみたい。
それもある。
でも、一番大きいのは。
(……負けたくない)
この人に。
俺を大したことがないと思っているこの人に。
自分の実力を、認めさせたい。
「やりたいです」
もう一度言う。
セレナが俺を見る。
レオンも黙っている。
数秒。
「条件を決めろ」
レオンが言った。
***
使用可能なのは、上級魔法以下。
殺傷を目的とする魔法は禁止。
訓練場全体を、セレナとマルティナによる二重結界で覆う。
互いの胸元には判定札。
一定以上の衝撃か魔力を伴う攻撃が札へ触れれば、赤く発光する。
先に光らせた方が勝ち。
試合開始前、セレナが俺の胸元の札を固定する。
「レイン」
「はい」
「カシウスは、上級魔法を実戦の中で使い慣れています」
「はい」
「上級魔法を真正面から撃ち合わないこと」
「……分かりました」
「それから」
少し声を落とす。
「勝ちに固執しないでください」
「試合なのに?」
「勝とうと考えることと、勝つために無理をすることは違います」
紫の瞳が俺を見る。
「危険だと思ったなら、負けて構いません」
少し不満だったのが、顔に出たのかもしれない。
横からレオンが歩いてくる。
「レイン」
「はい」
「先日の稽古を覚えているか」
木剣を、届くと思った瞬間に止めたことを思い出す。
そして、『迷うな。振り抜け』という言葉。
「はい」
「セレナ殿の言うとおり、無理に勝つ必要はない」
一度、言葉を切る。
「だが」
俺を見る。
「自分で戦うと決め、勝機を見つけた瞬間には、迷うな」
行くと決めた瞬間だけは、止まらない。
「分かりました」
今度は、はっきり頷いた。
***
訓練場。
カシウスが黒い軍杖を抜く。
俺も杖を構える。
距離は、二十歩ほど。
その間に障害物はない。
真正面から。
帝国魔導師と向き合う。
心臓が速い。
怖い。
それでも。
逃げたいとは思わなかった。
マルティナが片手を上げる。
「互いに、相手を傷つけることを目的とした攻撃は禁止。私かミレイユ教授が危険と判断した場合、即座に中断します」
「了解した」
「はい」
一度。
息を吸う。
「── 始め!」
その瞬間。
カシウスの右腕へ。
鮮明な魔力が走った。
大きい。
あまりにも、分かりやすい。
(左に避ければ── )
身体が反応する。
左へ踏み出した。
直後。
カシウスの左足から。
糸のように細い魔力が、地面へ流れ込むのが見えた。
(しまっ── )
ドンッ!
俺が避けた先の地面から。
石柱が突き上がった。
「っ!」
完全無詠唱。
風。
横から自分の身体を叩き。
強引に軌道を変える。
石柱が外套の裾を掠めた。
足が地面につく。
その瞬間。
目の前に影。
(速い!)
カシウス。
すでに踏み込んでいる。
右腕へ集めていた魔力の一部は。
ただ見せるためのフェイク。
残りは身体強化へ流れていた。
黒い軍杖が振り抜かれる。
土壁。
完全無詠唱。
ゴッ!
一撃。
岩が砕ける。
破片が視界を塞ぐ。
その向こう。
深紅の瞳と、目が合った。
カシウスが。
初めて、僅かに笑った。
「……本当に見えているんだな」
「え?」
杖が来る。
杖で受ける。
硬い衝撃。
腕が痺れた。
「今の右腕」
距離を取る。
「最初から、攻撃するつもりはなかった」
「── っ」
「魔力だけを流した」
カシウスは追ってこない。
その場で、俺を観察している。
「普通なら、あの時点では動かない」
赤い瞳が俺を射抜く。
「だが、お前は魔力が動いた瞬間に左へ避けた」
最初から。
試されていた。
魔力視が本物なのか。
それを確かめるためだけに。
わざと、見える餌を置いた。
「報告書は本当らしい」
黒い軍杖を構え直す。
僅かに腰が落ちる。
「なら── 」
口元から笑みが消えた。
「ここからは、本気で騙すぞ」
背筋がぞくりとした。
***
魔力が動く。
右腕。
左肩。
脚。
杖。
一度に四か所。
どれが本命だ。
カシウスが踏み込む。
脚。
俺は風弾を二発。
完全無詠唱。
一発目。
首を傾けて避けられる。
二発目。
杖で弾かれる。
左手に光。
次の瞬間。
光が消えた。
違う。
地面。
「地よ、穿て!」
石槍。
右へ避ける。
待っていたように。
風刃。
「っ!」
水膜。
一瞬で生成。
風刃が水面を裂く。
威力が落ちる。
身体を捻る。
白銀の刃。
頬を掠める。
息を吐く暇もない。
今度は。
杖。
脚。
背中。
三か所。
(どれだ)
一つずつ読むな。
全体を見ろ。
カシウスの魔力は。
何度も、意味のない場所へ流れている。
全部を信じれば。
全部に反応してしまう。
「地よ、連なれ── 」
声。
今度は詠唱。
魔力の総量が一気に跳ね上がる。
上級。
これは。
さすがに偽物じゃない。
「穿て、《岩槍列》!」
地面が爆ぜた。
一本。
二本。
三本。
時間差で来る。
土壁。
完全無詠唱。
一枚。
ドンッ!
砕ける。
二枚目。
ドンッ!
これも割れる。
三枚目を作る時間はない。
なら。
水。
足元へ広げる。
風。
水面を一気に押す。
濡れた土が崩れ。
岩槍の一本がほんの僅かに傾く。
隙間ができた。
「っ!」
そこへ身体を滑り込ませる。
最後の岩槍が肩を掠めた。
痛み。
だが。
判定札は光らない。
転がる。
立つ。
すぐに杖を向けた。
水弾。
一発。
カシウスが払う。
弾ける。
地面へ。
二発目。
これも杖で防がれる。
また。
水が落ちる。
三発目。
「同じ手を── 」
カシウスの言葉が止まった。
気づいた。
(遅い)
右手を下へ向ける。
雷。
完全無詠唱。
「── 《雷針》」
青紫の閃光。
狙うのは。
カシウスではない。
足元。
濡れた地面。
バチッ!!
雷光が。
薄く広がった水を走った。
「ちっ!」
カシウスが跳ぶ。
当然だ。
直撃させるほどの出力ではない。
でも。
濡れた地面で立ったまま受ける理由はない。
(跳んだ)
見える。
脚へ集中した魔力。
空中。
そこでは。地面を蹴れない。
軌道を大きく変えられない。
落ちる位置を追う。
(そこだ)
土。
着地点だけを。
僅かに盛り上げる。
カシウスの足が地面へ触れる。
「な── 」
斜めになった足場。
重心が崩れた。
今!
風弾。
一発。
二発。
三発。
三方向。
カシウスが身体を捻る。
一発目。
避ける。
二発目。
腕で逸らす。
三発目。
胸。
届く。
(今度こそ── !)
そう思った瞬間。
黒い軍杖が。
胸の前へ滑り込んだ。
バンッ!
風弾が弾ける。
「惜しかったな」
着地。
同時。
カシウスの左手。
茜色。
(火── )
「っ!」
火球。
速い。
土壁。
間に合え!
ドンッ!!
爆発。
熱。
赤。
衝撃。
土壁ごと押される。
靴底が地面を滑った。
一歩。
二歩。
三歩。
「はっ……」
熱い息を吐く。
腕が重い。
でも。
立っている。
向こうを見る。
カシウスも。
俺を見ていた。
先ほどまでとは。
目が違う。
「なるほど」
低く。
呟く。
「確かに、戦える」
その一言。
胸の奥が。
熱くなった。
大したことがない。
そう思われていた。
少なくとも。
今は違う。
(まだだ)
もっと。
認めさせたい。
***
攻防が続く。
風。
土。
火。
水。
魔法がぶつかるたび。
訓練場に音が響く。
息が上がる。
額から。
汗が落ちる。
腕も重い。
対して。
カシウスの呼吸には。
まだ余裕がある。
強い。
やっぱり。
本物の魔導師は強い。
真正面からでは。
届かない。
それでも。
戦ううちに。
一つ。
分かってきた。
カシウスは。
魔力視そのものを。
破っているわけではない。
俺には。
全部見えている。
右腕へ魔力を流した。
左脚へ流した。
途中で止めた。
杖へ戻した。
地面へ送った。
全部。
見えている。
ただ。
俺が勝手に。
右腕へ魔力が行った。
だから右から攻撃。
地面へ行った。
だから土魔法。
そう。
意味を決めつけている。
カシウスは。
そこを利用している。
見えている情報を。
わざと増やして。
俺自身に。
間違った答えを選ばせる。
(……そうか)
だったら。
魔力を動かしたからといって。
使う必要はない。
魔法を作ったからといって。
完成させる必要もない。
相手に。
そう思わせればいい。
カシウスから。
教えられた。
なら。
(俺も使う)
次の風刃を避ける。
火弾。
撃つ。
水壁で防がれる。
土弾。
二発。
一発は杖へ。
二発目は。
わざと外す。
地面へ。
パキッ。
石が砕ける。
小さな破片が。
カシウスの後方へ転がった。
誰も。
気にしない。
俺も。
視線を向けない。
カシウスが。
踏み込む。
火球。
俺は。
水球。
衝突。
ジュッ!
白い蒸気。
視界が消える。
その中で。
後ろの小石へ。
弱い風を。
一度だけ送る。
コロッ。
少しだけ。
位置が変わる。
それだけ。
蒸気が晴れる。
カシウス。
正面。
息が苦しい。
魔力は。
まだある。
むしろ。
あり余っている。
でも。
身体が。
追いつかない。
頭も。
少しずつ。
熱を持っている。
これ以上。
長引かせたら。
勝てない。
(次だ)
次で。
決める。
杖を構える。
深く。
息を吸った。
そして。
胸の奥にある魔力を。
一気に引き出した。
空気が。
震えた。
「── っ」
結界の外。
誰かが息を呑む。
今まで。
抑えていた。
セレナとレオンに。
見せすぎるなと言われたから。
だけど。
もう。
そんなことを気にしていたら。
勝てない。
茜色。
大量の光が。
全身から腕へ。
杖へ。
集まっていく。
火。
これまでの魔法とは。
桁が違う。
カシウスの表情が。
変わった。
「……お前」
さらに。
集める。
圧縮。
熱が。
周囲の空気を。
歪ませ始める。
でも。
まだ完成させない。
詠唱。
「紅蓮よ── 」
カシウスが。
即座に動いた。
当然だ。
この魔力量。
無視する方が。
おかしい。
「蒼水よ、重なり── !」
カシウスも。
詠唱する。
水。
正面へ。
大量の魔力。
厚い水壁が。
立ち上がる。
その後ろ。
さらに。
土。
防壁を。
重ねるつもりだ。
二重防御。
俺の炎を。
正面から。
受け止める構え。
(そうだ)
それでいい。
もっと。
意識を向けろ。
さらに。
魔力を集める。
茜色の光が。
膨らむ。
頬を。
熱気が撫でる。
カシウスの赤い瞳が。
俺を見る。
杖を見る。
その先。
作られつつある。
巨大な炎。
だけを見る。
「紅蓮よ、我が前に集いて── 」
あと。
一節。
それで。
上級火魔法が。
完成する。
カシウスの防御へ。
さらに。
魔力が流れた。
水。
土。
身体強化。
全部が。
正面へ偏っていく。
魔力視で。
見える。
俺には。
見えている。
右。
左。
脚。
杖。
どこに。
どれだけ。
何のために。
魔力を回しているか。
狙いは。
完全には。
分からない。
でも。
一つだけ。
分かる。
今。
カシウスの意識は。
完全に。
俺の正面へ向いている。
(── 見つけた)
俺は。
詠唱を止めた。
「── ?」
カシウスの。
眉が動く。
完成直前。
魔法が。
止まった。
茜色の魔力は。
大量に残っている。
でも。
撃たない。
「な── 」
カシウスの目が。
見開かれる。
その瞬間。
完全無詠唱。
風。
ほんの。
僅かな出力。
カシウスの。
右後方。
さっき転がしておいた。
小石が。
ふわりと。
浮いた。
見ていない。
カシウスは。
見ていない。
俺の目の前にある。
巨大な火の魔力。
それが。
意識を。
注意を。
全部。
奪っている。
風。
横から。
僅かに。
小石を押す。
軌道が。
変わる。
カシウスの。
右後方。
胸元。
真っ直ぐ。
「カシウス!」
ノアの声。
カシウスが。
振り向いた。
でも。
(── 遅い)
カッ。
乾いた。
小さな音。
小石が。
カシウスの胸元。
判定札へ。
当たった。
一瞬。
何も起きない。
そして。
札が。
赤く光った。
静寂。
俺自身。
動けなかった。
本当に。
当たった。
マルティナが。
赤く染まった札を。
確認する。
一秒。
二秒。
「……有効打」
その声が。
やけに大きく聞こえた。
そして。
「勝者── レイン・アストリア」
***
膝が、落ちそうになる。
杖を、地面へ突く。
何とか、立つ。
疲れた。
本当に。
疲れた。
顔を上げる。
カシウスが、自分の胸を見ていた。
赤く光る札。
動かない。
長い沈黙。
やがて。
ゆっくり、こちらを見る。
「……俺の真似をしたのか」
「はい」
荒い呼吸のまま、答える。
「最初に……やられたので」
「……」
「魔力を集めても……使うとは限らない」
一度。
息を整える。
「そう教えてもらいました」
カシウスの眉間へ。
深い皺が刻まれる。
「それで、あの炎は全部囮か」
「全部ではないです」
「何?」
「防がれなかったら、そのまま撃つつもりでした」
数秒。
沈黙。
結界の外から。
「ぶっ」
妙な声。
ノアだった。
口元を押さえている。
肩が震えている。
「……何がおかしい」
「いや」
ノアが。
ものすごく、にやついている。
「見事に自分のやり方で負けたなと思って」
「ノア」
「はいはい」
全く反省していない。
カシウスが、俺へ歩いてくる。
少し、身構える。
目の前。
深い赤の瞳。
さっきまで。
俺を、本当に戦えるのかと疑っていた目。
「次は通じんぞ」
「はい」
素直に、頷いた。
多分。
本当に通じない。
この人なら、一度見た手は、対策する。
なら。
「僕も」
「次は別の方法を考えます」
一瞬。
カシウスが黙った。
「……生意気なガキだ」
踵を返す。
でも。
その声からは。
最初にあった侮りが、消えていた。
***
「レイン」
試合が終わって少し経ったところで、セレナとレオンに呼ばれた。
声を聞いた瞬間、それまで胸の中に残っていた高揚が少しだけ萎む。
嫌な予感しかしない。
二人のところまで歩く間に、呼吸もほとんど平常へ戻っていた。
身体のあちこちに疲労は残っているが、もう戦いの最中のように頭が熱くなってはいない。
だからこそ。
セレナの腕が組まれているのを見て、ちゃんと怖いと思えた。
「実力を出しすぎないように、と言いましたね?」
「……はい」
「今の魔力量は?」
「かなり出しました」
「完全無詠唱は?」
「何度も使いました」
「複数魔法の連続・並列使用は?」
「……かなり」
「上級火魔法の構築まで見せましたね?」
「はい……」
セレナはそれ以上何も言わなかった。
静かな方が怖い。
助けを求めるように横を見ると、レオンも黙ってこちらを見ていた。
どうやら逃げ道はないらしい。
「なぜですか」
セレナが短く尋ねる。
言い訳なら、いくらでも思いついた。
相手が帝国魔導師だったから。
勝つには必要だったから。
そもそも模擬戦を申し込んできたのはカシウスだ。
けれど。
興奮が薄れてきた頭で考えてみれば、どれも本当の理由ではなかった。
勝つために力を見せる必要があった。
それは事実だ。
では、なぜそこまでして勝とうとしたのか。
その答えは、もっと単純だった。
「……負けたくなかったんです」
レオンもセレナも何も言わない。
俺は少し視線を落とした。
「僕のことを、大したことがないと思われているのが分かって」
口に出した瞬間、今さらになって恥ずかしくなってきた。
十一歳の子供が、大人の魔導師に意地を張った。
事実だけ並べれば、それだけの話でもある。
「だから……認めさせたくて」
しばらく、レオンは黙って俺を見ていた。
やがて。
「そうか」
それだけだった。
「……怒らないんですか?」
思わず聞いてしまう。
「怒ってほしいのか」
「そういうわけじゃ……」
横でセレナが小さく息を吐いた。
「負けたくないと思うこと自体は、悪いことではありません」
「はい」
「私も、自分の研究をろくに読みもせず否定されれば腹が立ちます」
セレナは真顔のままだった。
「ですが、自分の感情と、何を外へ見せるべきかは別問題です」
その言葉で、さっきまで胸に残っていた熱がもう一段冷めた。
訓練場の向こうでは、マルティナとノアが何かを話している。
少し離れた場所では、カシウスが何やら書類に筆を走らせていた。
俺が今日見せたもの。
完全無詠唱。
大量の魔力。
五属性を切り替えながらの戦闘。
複数魔法の連続操作。
魔力視を利用した戦術。
たぶん、その多くがこれから公になる。
最初にレオンとセレナから言われた通り、もう「見なかったこと」にはできない。
「次からは、勝った後に何が起きるかまで考えてください」
セレナが言った。
「……はい」
今度は、素直に頷いた。
試合前にも、二人の忠告の意味は理解していたつもりだった。
けれど。
実際にカシウスから軽く見られた時、俺はその先のことより、自分を認めさせたいという気持ちを優先した。
そこは、間違いなく反省すべきところだ。
ただ。
全部を後悔しているかと言われれば、そうでもなかった。
何となく、訓練場へ視線を戻す。
地面にはまだ戦った跡が残っていた。
砕けた土壁。
岩槍が突き出した穴。
雷を流すために撒いた水。
最後の小石も、少し離れたところに転がっている。
あの中で、俺は何度もカシウスに騙された。
魔力が見えるから、相手より多くの情報を持っている。
どこかで、そう思っていたのかもしれない。
でも。
情報が多いことと、それを正しく使えることは違った。
カシウスは、俺に見えていることを逆に利用した。
そして俺は、その戦い方を途中で学んだ。
最後には、自分の魔力量と完全無詠唱、それに魔力視を組み合わせて、同じ考え方をカシウスへ返した。
誰かに正解を教えてもらったわけではない。
戦いながら、自分で考えた。
そうして本物の魔導師から一本を取れた。
思い返すほど、胸の奥には静かな満足感が残った。
少し前までの「勝った!」という熱そのものではない。
もっと落ち着いた。
自分が少しだけ前へ進めたと確認できた時に感じる、あの嬉しさに近かった。
(……もっと強くなれる)
きっと。
まだまだ。
そう思えた。
***
視察団が帰る頃には、身体の疲れだけがはっきり残っていた。
正門前には、朝と同じ三台の馬車が並んでいる。
試験前はあれほど緊張していたのに、終わってみれば一日が妙に短く感じられた。
マルティナは最後の書類を確認すると、鞄の中へ丁寧に収めた。
「本日の結果は、特別選抜評議会へ提出します」
「はい」
答えながら、やはり気になってしまう。
少し迷った末、尋ねた。
「僕は……どうだったのでしょうか」
マルティナが眼鏡の奥で目を細める。
「まだ視察の段階ですよ」
「あ」
「あなたは、まだ十一歳です」
そうだった。
今日は、あくまで事前視察。
何かに合格したわけではない。
さっき帝国魔導師に勝ったせいで、妙に大きな一日になってしまった。
だが、本来の目的を考えれば、学院が俺を実際の目で確認するための視察だった。
そんな俺の横へ、ノアが近づいてくる。
「私は、模擬戦より最初の制御試験の方が驚きましたけどね」
「……あれですか?」
「あれです」
差し出された手を握る。
ノアは今日一日、《風喰砲》ばかり見ていたような気もするが、試験そのものもしっかり見ていたらしい。
「大きな魔法を一度撃てる人間なら、帝国にもいます。でも、同じ結果を十回、百回と再現できる人間は、意外と少ないんですよ」
ノアは屋敷の方へ視線を向けた。
「《風喰砲》も同じです。最大出力だけなら、もっと強い魔導具はいくらでも作れます」
「はい」
「少ない魔力で動く。出力が安定する。使う人間が変わっても、ほぼ同じ結果が出る。そういう地味な強さを、私はかなり評価します」
「地味なんですね……」
「褒めていますよ」
「本当に?」
「八割くらい」
「残り二割は?」
「私の趣味です」
真面目な顔で言われた。
やっぱり、少し変な人だ。
でも、不思議と嫌いにはならない。
ノアはそこで笑みを少し収めた。
「研究は続けてください」
「はい」
「戦う以外にも、魔法で救える人間は大勢いますから」
その言葉には、さっきまでのおちゃらけた調子がなかった。
だから俺も、今度は真面目に頷いた。
「はい。続けます」
「あ、それと」
ノアは何かを思い出すように言った。
「中央への現物提出が始まる時は、僕にも一報ください」
「ノアさんに?」
「ええ。魔法省にも、こういうものを好きな人間はいますから」
ノアは笑う。
「研究を続けるなら、中央に知り合いが一人くらいいても損はないでしょう?」
「……そういうものですか?」
「そういうものです」
ノアは少し低い声でそう告げた。
少し離れたところでは、カシウスがすでに馬車へ乗ろうとしていた。
最後まで話しかけてこないのかと思っていると、乗り込む直前にこちらを見る。
目が合った。
「次は負けん」
本当に、それだけだった。
でも、朝のカシウスなら、そもそもそんな言葉さえ俺へ向けなかった気がする。
「僕もです」
カシウスは鼻を鳴らした。
そのまま馬車へ乗るのかと思ったが、足を止める。
「それと。中央に来たら、一度軍務省の演習場を見に来い」
「僕がですか?」
「ああ」
カシウスの暗い赤の瞳が、俺を真っ直ぐに見る。
「お前の眼は、研究室の中だけで使うには惜しい」
「……見せてもらえるんですか?」
「見学だけだ。勘違いするな」
それだけ言うと、今度こそカシウスは馬車へ乗り込んだ。
やはり、次に会う時には、今日使った方法はもう通じない。
向こうは、さらに俺の魔力視を利用する方法を考えてくるだろう。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、次はどう戦えばいいのだろう。
そんな考えが自然と浮かんでいた。
最後に、マルティナがこちらへ向き直る。
「レイン・アストリア君」
「はい」
「もし学院へ来ることになっても、無理に『普通の学生』になろうとする必要はありません」
「……え?」
突然の言葉に目を瞬く。
マルティナは一瞬だけ、セレナへ視線を向けた。
「昔、それをさせない方がいい学生がいましたから」
「教授」
セレナが少し低い声を出す。
だが、マルティナは気にした様子もない。
「学院は、学生を同じ形へ削る場所ではありません。皆と学ぶべきことは皆と学び、一人で先へ進めることは先へ進めばいい。少なくとも、私はそう考えています」
セレナの横顔を見る。
先生は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ懐かしそうに目を細めている。
たぶん。
この人がいたから、十二歳だったセレナ先生は、学院でも自分のやり方で魔法を学び続けられたのだろう。
「必要なら、研究室の机くらい用意します」
「……先生みたいに?」
「ええ。ただし、閉室時刻は守ってもらいます」
「私は守っていました」
セレナが即座に訂正する。
「守っていません」
マルティナも即答した。
ノアが横で笑う。
俺も、つられて笑った。
帝国中央魔法学院。
これまで、話の中にしかなかった場所。
そこにも魔法を研究する人たちがいて、先生が十二歳の頃に使っていた研究室があって。
もし俺が学院へ行けば。
そこに、自分の机が置かれるかもしれない。
そう考えると、胸がゆっくりと高鳴った。
さっきカシウスに勝った時とは違う。
あの時は、身体中が熱くなるような興奮だった。
今はもっと静かで。
遠くに見える知らない景色へ、早く辿り着いてみたい。
そんな気持ちだった。
マルティナが馬車へ乗ろうとして、ふと足を止める。
こちらを振り返った。
「レイン・アストリア君」
「はい」
「成人の儀を迎えたら── 」
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「封筒が届くでしょう」
そう言い残し、マルティナは馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まり、御者が手綱を鳴らす。
三台の馬車がゆっくりと正門を離れていった。
俺はその場に立ったまま、遠ざかる馬車を見送る。
側面には、開いた書物と塔を象った学院の紋章。
朝にも見たはずのものだった。
けれど今は、少しだけ違って見える。
あと一年で、成人の儀を迎える。
その先に。
帝国中央魔法学院がある。
馬車が街道の向こうへ見えなくなるまで、俺はその紋章を眺めていた。
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