第二十九話「赤の季節」
星霊花祭から三日が経った。
領都の建物には、まだ赤い布や花飾りが残されている。
だが、早朝の街道を進む馬車に積まれているのは、祭りの商品ではなかった。
束ねられた訓練用の槍。
包帯や薬草を収めた木箱。
その間を、外套を着た兵士たちが行き来している。
「祭りの後とは思えない景色ですね」
馬車の窓から外を眺めながら言うと、向かいに座るレオンが頷いた。
「今日は四度目の東部合同演習がある。近隣領の兵も集まるからな」
「三年前の魔獣災害を受けて決まった演習でしたね」
「ああ。あのときは多くの支援を受けた。だが、普段から顔を合わせない部隊同士では、連携が難しくなる。負傷者をどこへ運ぶか。誰の指示で道を空けるか。平時に確かめておく必要がある」
災害が起きてから相談していては遅い。
そのための合同演習だった。
街道脇では、赤い星霊花が朝露に濡れている。
祭りでは、街を彩る花だった。
今日は、それを横目に何台もの軍用馬車が進んでいく。
同じ赤い花なのに、三日前とは違って見えた。
馬車が緩やかに速度を落とす。
窓の外に、高い木柵と石造りの監視塔が見えてきた。
東部駐屯地。
アストリア領東側の街道と、森林に近い村々を守るための拠点だ。
正門の上では、赤い星霊花を意匠化したアストリア家の旗が、朝の風を受けて翻っていた。
***
馬車を降りると、日に焼けた顔の男が歩み寄ってきた。
四十歳ほどだろうか。
短く刈られた黒髪と、太い首。
左の眉からこめかみにかけて、古い傷痕が走っている。
男はレオンの前で、右の拳を胸へ当てた。
「お待ちしておりました、レオン様」
「ご苦労、バルド」
東部駐屯隊長、バルド・ハイム。
これまで名前は何度も聞いていたが、直接会うのは初めてだった。
バルドは俺へ向き直る。
「レイン様も、ようこそお越しくださいました」
「はじめまして。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。——ただし、本日は伯爵家のご子息ではなく、演習の参加者として扱わせていただきます」
低い声が、少しだけ硬くなる。
「決められた場所から離れず、兵の指示に従ってください。魔法を使用できるのも、担当者から許可された場面だけです」
「分かりました」
俺が頷くと、バルドの表情が僅かに緩んだ。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
レオンは何も口を挟まなかった。
バルドに案内され、駐屯地の中へ入る。
広い敷地では、何百人もの兵士が演習の準備を進めていた。
槍を運ぶ者。
荷馬車の車輪を調べる者。
地面へ杭を打ち、天幕を張る者。
アストリア領軍の灰色の外套に交じって、茶色や深緑の外套も見える。
近隣領から参加している兵士たちだ。
その何人かが、通り過ぎる俺へ視線を向けた。
「あの方が、魔力を見られるという……」
「三年前、結界を支えた若君か」
声を潜めているつもりらしいが、僅かに聞こえた。
俺の魔力視については、近隣の領にも噂程度には広まっている。
魔力の色が見える。
魔獣の攻撃を一目で見抜いた。
中には、相手の使う魔法を何でも奪えるという話まである。
噂とは、遠くへ行くほど形が変わるものらしい。
視線を向けられるのは、やはり落ち着かない。
けれど——。
三年前のあの場所で、自分がしたことを覚えている。
自分の才能が、他人の目を引いている。
そう思うと、胸の奥がほんの少しだけくすぐったかった。
(……我ながら、現金だな)
そんな自分に苦笑しながら、今日の演習の本営となる場所へ進んだ。
そこには、東部駐屯隊の大きな軍旗が立てられている。
布地へ縫い込まれた銀糸の間を細い魔力が巡っているのが見えた。
旗の前では、軍務官たちが机を囲んでいる。
一人が書面を読み上げた。
「軍令第百七号。本日午前第三刻より、東部合同演習を開始する。アストリア領軍参加部隊は所定の位置へ移動。演習中の総指揮を領主レオン・アストリア、現場進行を東部駐屯隊長バルド・ハイムが執る」
読み上げが終わると、軍務官が書面をレオンへ差し出した。
その横には、赤い星霊花の紋章を刻んだ黒い金属印が置かれている。
「父様。それが《主印》ですか」
「そうだ。ちょうどよい。見ておけ」
レオンが《主印》を握る。
指先から魔力が流れ、黒い金属を満たした。
そのまま書面へ押す。
乾いた音が鳴り、紙に残った星霊花の紋章が一度だけ光った。
「これで、この命令へ私の魔力が付いた」
軍務官が書面を受け取り、軍旗の下にある銀糸へ触れさせる。
銀糸が淡い青色に光った。
「確認できました。レオン様が出された、書き換えのない命令です」
バルドが右の拳を胸へ当てた。
「東部駐屯隊、軍令第百七号を受領します」
軍務官が書面を軍令記録へ収める。
同時に、バルドの副官たちが各隊へ出す細かな指示を書き始めた。準備を終えた伝令が、次々と正門へ向かって走り出す。
「正式には、領軍軍令認証制度という」
レオンが軍旗を見上げた。
「だが、軍では昔から、軍令契約——旗契と呼ばれている」
仕組みは、見た目より単純だった。
「父様が命令書に魔力を付けて、受け取った部隊が旗で本物か確かめるんですね」
「そのとおりだ」
誰が出した命令なのか。
運ばれる途中で書き換えられていないか。
その二つを、受け取った側で確かめられる。
「バルド。試験札を」
「はっ」
バルドが、先ほどと同じ文章を記した小さな札を机へ置いた。
レオンが《主印》を押す。
まず、そのまま軍旗へ近づける。
軍旗の銀糸が青く光った。
次に、札の「第三刻」という文字を削り、「第五刻」へ書き換える。
再び軍旗へ近づけた。
今度は、軍旗の銀糸が光らない。
「改変あり。正規軍令として受領できません」
僅か一文字でも、途中で変えれば旗は反応しない。
「印そのものを盗まれた場合が気になります」
「《主印》だけでは署名できない」
レオンは印を机へ戻した。
「《主印》は私の魔力がなければ使えない。印だけを盗んでも、命令は作れん。旗にも、新しい命令を生み出す力はない」
「そして、軍旗だけでは命令を遠くへ送れない」
俺が正門へ消えた伝令を見ると、レオンが頷いた。
「命令を運ぶのは、今走っていった伝令と、通信兵だ。《旗契》がするのは、届いた命令が本物かを確かめることだけだ」
《旗契》は、命令を運ぶものでも、兵士を従わせる魔法でもない。
届いた命令が本物かを確かめるための仕組みだった。
バルドが腰に下げた小さな印を示した。
「駐屯地内の配置や巡回でしたら、私に登録された《部隊印》で命令できます。目の前の危険への対処や人命救助にも、逐一レオン様の印を待つ必要はありません」
「すべての指示を父様が認証していたら、それだけで一日が終わりますね」
「その頃には、部下が何もできない軍になっているだろうな」
レオンの返事に、バルドが低く笑った。
俺も少し笑ってから、もう一度軍旗を見る。
「十二歳の成人の儀を終えた後、お前の魔力も第一継承者として《旗契》へ登録する」
レオンの声が静かに落ちた。
「ただし、私が現当主だ。私が軍令権を持つ間、お前の署名で私の全軍命令を上書きすることはできない」
「今すぐ軍を動かす権限を得るわけではないのですね」
「ああ。現当主が命令できなくなった場合に備えるためだ。将来どの立場に立つとしても、第一継承者として制度は知っておけ」
風が吹く。
頭上で、軍旗が大きく翻った。
***
レオンはバルドから巡回表を受け取ると、駐屯地の中を歩き始めた。
俺も少し後ろをついていく。
「ハンス。左脚はどうだ」
レオンが、荷を運んでいた兵士へ声をかけた。
呼び止められた男は、驚いて姿勢を正す。
「はっ。寒い朝は少し痛みますが、任務に支障はありません」
「今日は伝令役から外れろ。街道の警備へ回れ」
「しかし、演習には参加できます」
「痛みを我慢して悪化させる方が、後で困る」
「……承知しました」
別の区画では、槍を点検していた若い兵士の前で足を止める。
「娘の熱は下がったか」
「はい。昨日から食事も取れるようになりました」
「そうか。帰ったら顔を見せてやれ」
「はっ」
長い会話ではない。
兵士たちも、大げさに感激したりはしない。
ただ、レオンに声をかけられた者は、皆少しだけ背筋を伸ばしていた。
「よく覚えていますね」
「全員ではない」
前を向いたまま、レオンが答える。
「だが、命を預かる相手のことは、できるかぎり知っておきたい」
人数や配置だけではない。
どこを怪我しているのか。
家に誰がいるのか。
それを知ったうえで、レオンは彼らを配置している。
俺がその背中を見ていると、近くで盾を並べていた年配の兵士が声をかけてきた。
着ているのは、他領の茶色い外套だ。
「レイン様は、十五年前の東部魔獣災害について聞かれたことはありますか」
「記録で読んだ程度です」
「では、レオン様が何をなされたかは」
俺が首を横へ振ると、兵士は懐かしそうに目を細めた。
「あのとき、私はアストリアとは異なる領の部隊におりました。森から溢れた魔獣に追われ、細い谷道まで退いたのです」
兵士が手にした盾を立てる。
「橋を渡れば助かる。ですが、負傷者が多く、列は思うように進まない。後ろからは魔獣が迫ってくる。誰もが、自分の部隊を先に渡そうとしていました」
「そこで父様が指揮を執ったのですね」
「ええ。所属に関係なく、歩けない者から先に渡せと命じられた。そして、負傷のない兵を最後尾に集めた」
盾の縁を握る手に、力が入る。
「最後には、レオン様ご自身が橋の手前に残られました。あの大剣で魔獣を止めながら、何度も『後ろを見るな、橋を渡れ』と叫んでおられた」
靄の漂う谷。
狭い橋を渡っていく負傷者たち。
その後ろへ立つ、若い頃のレオン。
見たことのない光景が、鮮明に浮かんだ。
「最後の一人が渡ったあと、レオン様は橋の綱を切り、崩れる橋からこちら側へ飛び移られた。着地した直後、初めて我々へ言われたのです」
兵士の口元が上がる。
「『全員いるか』と」
「父様らしいですね」
「ええ。あの方が退けと言えば、俺たちは退けます。背中を任せられると知っていますから」
それだけ言うと、兵士は再び盾を並べ始めた。
少し先で、レオンがこちらを振り返っている。
「何を話していた」
「十五年前の魔獣災害で、父様が兵士を守った話です」
「余計な話を」
そう言いながらも、声に怒りはなかった。
「父様が皆を助けたんですね」
「私一人ではない」
レオンは歩き出す。
「橋を支えた者がいた。負傷者を運んだ者がいた。私が残れたのも、隣で剣を振るった兵がいたからだ」
それ以上、自分の功績については語らなかった。
あの兵士は、アストリア領の者ですらない。
それでも、十五年経った今でも、レオンなら背中を任せられると言った。
そんなレオンの息子であることを、俺は誇らしく感じた。
そして——。
いつか。
レオンの息子だからではなく。
俺自身に、あんなふうに背中を預けてくれる人ができるのだろうか。
少し先を歩く、父の大きな背中を見る。
(……いつか、俺も)
その思いを胸にしまい、後を追った。
***
合同演習が始まるまで、まだ少し時間があった。
訓練場では、兵士たちが身体を温めている。
レオンは外套を脱いで従兵へ預けると、武器立てから木剣を二本取った。
「レイン」
一本が放られる。
両手で受け取った。
「演習前に身体を温める。相手をしろ」
「はい」
周囲にいた兵士たちが場所を空けた。
兵士たちの輪の中心で、俺は木剣を構えた。
レオンが正面に立つ。
「来い」
地面を蹴った。
踏み込む直前、両脚へ魔力を通す。
加速。
腰を回す瞬間に、魔力を脚から胴へ。
最後に肩と腕を強化する。
木剣が風を切った。
レオンは正面から受ける。
乾いた音が、訓練場へ響いた。
一撃目を流される。
レオンの右脚へ魔力が集まる。
蹴り出すより僅かに早く、その流れが見えた。
俺は左へ身体をずらす。
次の瞬間、レオンの木剣が、今まで身体のあった場所を通り過ぎた。
低い位置から胴を狙う。
レオンが剣を戻す。
二本の木剣が続けて打ち合った。
一度。
二度。
三度。
受けるたびに腕が痺れる。
体格も、剣の技術も、まだ遠く及ばない。
それでも、レオンの体内を走る魔力は見える。
脚へ集まれば踏み込む。
肩へ上がれば剣が来る。
目に見える一瞬先を追い、身体強化で遅れを埋める。
六度目の打ち合いで、レオンの木剣を外へ弾いた。
周囲から、どよめきが上がる。
空いた胴へ踏み込む。
だが、次の瞬間、レオンの左手が俺の手首を掴んだ。
視界が反転する。
「うわっ」
次の瞬間、背中が地面へ落ちた。
衝撃で肺から息が抜ける。
喉元には、レオンの木剣が止まっていた。
「剣に気を取られすぎだ」
「……体術も使ってくるんですか」
「当然だ」
差し出された手を掴み、立ち上がる。
レオンがもう一度、木剣を構えた。
再び打ち合う。
レオンの動きが少しずつ速くなった。
一撃が重くなる。
木剣を受けるたび、靴の底が土の上を滑った。
それでも離されないように食らいつく。
それまでほとんど隙を見せなかったレオンの胸元が、不意に空いた。
今なら届く。
反射的に踏み込み、木剣を振る。
見えていた。
このまま振り抜けば、届く。
——なのに。
本当に胸へ届くと思った瞬間、腕が止まった。
カンッ!
次の瞬間には木剣を弾き上げられ、俺は尻もちをついていた。
「今、なぜ止めた」
レオンが見下ろしてくる。
「それは……本当に父様に当たりそうだったからです」
「当てるために剣を振っているのだろう」
「……はい」
自分でも分かっている。
相手の動きは見えていた。
勝機だとも分かっていた。
それでも最後の一瞬で、身体がレオンを傷つけることを躊躇した。
レオンは静かに続けた。
「戦わぬと決めるなら、それでいい」
「だが、剣を抜き、勝機を得たあとで迷えば——お前だけでなく、後ろにいる者まで死ぬ」
レオンは少し考えるように黙ったあと、左足を半歩引いた。
剣先をわずかに外へ流す。
胸元への線が、完全に開く。
「覚えておけ、レイン」
「はい」
「稽古でこの形を見せた時は——迷うな。振り抜け」
「……罠だったら?」
「この構えを見せた時だけは、疑うな」
「……分かりました」
レオンが構え直す。
俺も木剣を握り直した。
再び、木剣同士がぶつかる。
一度。
二度。
三度。
そして——。
レオンの左足が、半歩下がった。
剣先が外へ流れる。
教わったばかりの形だ。
今度は止まらない。
踏み込む。
最後まで、振り抜く。
パァン!
乾いた音とともに、木剣がレオンの胸当てを叩いた。
一瞬、周囲の声が止まった。
俺自身が、一番驚いていた。
レオンは、「負けた」とも、「よくやった」とも言わない。
ただ、自分の胸元を一度見下ろし——。
「——それでいい」
バルドが、木剣を下ろした俺たちへ歩み寄ってきた。
「見事でした、若様」
「父様が打たせてくれただけです」
勝ったわけではない。
用意された一度の好機を、取りこぼさなかっただけだ。
バルドが感心したように息を吐いた。
「レオン様。後半は、五割ほど出されていましたな」
「ああ」
周囲の兵士たちがざわめいた。
「五割……」
「十一歳の子供に?」
俺自身も、少し驚いてレオンを見る。
「剣術と体術だけなら、まだ三割にも届かん」
レオンは淡々と言った。
「だが、魔力視で動きの先を読み、身体強化で差を埋めるなら、今のレインは総合で私の五割ほどまで来ている」
「十一歳で、レオン様の五割……」
バルドが俺を見る。
「噂より、よほど異常ですな」
「褒められている気がしません」
「最大限に褒めております」
周囲から笑いが起こった。
レオンの五割。
まだ半分。
そう考えるべきなのは分かっていた。
けれど、それより先に。
(……レオンの半分まで、来たんだ)
抑えきれない熱が、じわじわと込み上げてくる。
以前なら、比較さえできなかった。
ずっと背中しか見えなかった相手だ。
そこに、少しずつ近づいている。
努力が、実を結び始めている。
その事実が——どうしようもなく嬉しかった。
「嬉しそうだな」
見透かしたように言われ、少し頬が熱くなる。
「……はい」
ごまかすのはやめた。
「でも、まだ一度も勝てていません」
「その顔なら、問題ない」
レオンの口元が、僅かに緩んだ。
***
木剣を武器立てへ戻したところで、バルドの副官が駆けてきた。
「参加部隊、すべて配置につきました。一般の馬車は西側の迂回路へ案内済みです」
「通常の街道警備は」
「予定どおり残しております」
バルドがレオンを見る。
「いつでも始められます」
遠くで、角笛が短く鳴った。
駐屯地に散っていた兵士たちが、一斉に動き始める。
レオンは額の汗を布で拭うと、従兵から外套を受け取った。
先ほどまで、木剣を持って俺の前に立っていた父親。
その背中へ、濃灰色の外套が掛けられる。
レオンは軍旗の下まで歩き、並んだ兵士たちを見渡した。
風を受けた旗が、大きな音を立てる。
「これより、東部合同演習を開始する」
軍靴が、一斉に地面を踏んだ。
その振動が、俺の足の裏まで伝わってきた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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