第二十八話「星霊花祭」
魔獣災害から三年。
俺は十一歳になっていた。
あれからさらに、セレナとの魔法訓練やオスカーとの嫡男教育、レオンとの剣術の稽古に励み、以前より身体つきがしっかりしている。
魔法も、中級までは無詠唱で使えるようになった。
今日も午前にはセレナとの訓練が控えている。
朝食へ向かうため、庭園に面した回廊を歩いていると、ふと足が止まった。
右手には、星霊花が一面に咲いている。
星霊花はアストリア領の名産で、年中花を咲かせる植物だ。
アストリア家の紋章も、その花弁を意匠化したものが使われている。
細い茎の先で、五枚の花弁が星のように開いている。半透明の花弁は薄い硝子のように透き通り、その中心には青白い燐光が滲んでいた。
星霊花には、地中から吸い上げた魔力を内部に蓄えるという珍しい性質がある。
陽の当たる昼の庭園で涼やかに輝き、夜になれば無数の淡い光が浮かぶ。
その神秘的な光景は、俺にとって日常の一部になっていた。
だが、今日の庭園は、いつもとどこか違っていた。
「……赤い?」
庭園の奥。
一輪の星霊花の中心が、緋色に染まっている。
その赤が花弁の先へゆっくりと広がっていく。
やがて花全体が鮮やかな赤に染まる。
すると、隣の星霊花も同じように色づき始めた。
一輪。
二輪。
やがて、庭園のあちこちが赤みを帯びてくる。
「レイン様?」
後ろから、オスカーの声が聞こえた。
「どうなさいましたか?」
「庭の星霊花が……」
庭園を指さす。
オスカーはその先を見ると、目を見開いた。
「あれは……」
そのとき、少し離れた場所から、使用人の声が上がった。
「星霊花が赤くなっています!」
その声を聞きつけ、使用人たちが次々と回廊に集まってくる。
「本当だ!」
「庭師に知らせて!」
「旦那様と奥様にもご報告を!」
朝の屋敷が急に騒がしくなった。
集まった者は、みんなどこか嬉しそうだった。
「オスカー、これは?」
「レイン様は、初めてでしたな」
オスカーは次々と赤に変わっていく花々を見ながら答えた。
「星霊花は地中から魔力を吸い上げる、ということはご存知ですな」
「ええ」
セレナから教わったことがある。
それに、俺にはその流れが見えている。
地中から吸い上げられた普段より濃い魔力が、細い茎を通って上がっていく。
その魔力が花弁に満ちるにつれ、半透明の花びらは緋色へ変わっていく。
「大陸の地中には、魔力が流れる大きな道——地脈が張り巡らされております。その地脈が不定期に活性化し、土壌の魔力濃度が急激に高まると、星霊花は鮮やかな赤に染まるのです」
「前に地脈が活性化したのは、レイン様が生まれる前でしたな」
オスカーは懐かしそうに目を細めた。
「これから七日ほどかけて、領内の星霊花が赤く染まっていきます。全ての花が色づく頃、領都では星霊花祭が開かれるでしょう」
「星霊花祭……」
「私やレオン様、テレシア様はその公務のためご一緒できません。レイン様は、セレナ様と回られてはいかがでしょうか」
オスカーが穏やかに笑う。
「アストリアに生まれた者ならば、あの祭りは一度は見ておかなければなりません」
俺はもう一度、庭園に目を向けた。
最初は数えるほどだった赤が、今では庭園の半分近くまで広がっていた。
***
七日後の朝。
俺は、セレナ、エドモンとともに領都を訪れていた。
今日はいつもの仕立てのいい上着ではなく、飾り気のない茶色の外套を羽織っている。
お忍びで外出するときの服装だ。
大通りに入った瞬間、思わず声が漏れた。
「すごい……」
見慣れた領都が、まるで別の街のようだった。
通り沿いの建物には、赤い星霊花を描いた旗がいくつも掲げられていた。
頭上に赤の布が幾重にも渡され、星霊花の飾りが風に揺れている。
露店からは焼いた肉の香ばしい香りが漂い、どこからか笛と太鼓の音も聞こえている。
「レイン」
セレナに呼ばれ、振り返る。
セレナも今日は、いつもの白い魔導衣ではなかった。
落ち着いた深緑のワンピースに濃紺の外套を羽織っている。
普段は下ろしている栗色の髪も、後ろで緩くまとめられていた。
胸元の魔導師を表す記章も、今日は外されていた。
いつもは少し猫背気味なのに、今日は妙に背筋を伸ばし、落ち着かない様子で辺りを見回している。
「先生も、星霊花祭は初めてですか?」
「はい」
セレナは少し言いにくそうに答えた。
「そもそも、祭りというのが初めてです」
「魔法学院にいたときも?」
「正直、研究しかしていませんでした」
どこかばつが悪そうに言う。
「セレナは子供の頃から、祭りより本を選ぶ子だったからね」
隣を歩いていたエドモンが穏やかに笑った。
「前の星霊花祭でも、誘ったのに書庫から出てこなかったじゃないか」
「あのときは、本がちょうどよいところだったんです」
「いつもそう言うんだよ。セレナは」
「もう。レインの前で余計なことを言わないでください」
セレナがエドモンを見る。
少し不満げな、じとりとした目。
対して、エドモンは楽しそうに笑っていた。
「先生」
セレナがこちらを見る。
「今日は、僕が教えます」
「何をですか?」
「祭りの楽しみ方を、です」
普段は、セレナが魔法を教えてくれている。
今日は、俺が教える番だ。
「まずは、あれをつけましょう」
道端の露店を指さす。
店頭には、星霊花をあしらった大小さまざまな飾りが並べられていた。
祭りの間、領民は星霊花の飾りを身につける習慣があるらしい。
「先生には、これが良いと思います」
その中の一つを取る。
「なぜ私がつける前提なのですか?」
「祭りの習慣だからです」
「私は一応、アストリア領民ではありませんよ」
「でも、今日は祭りに来たんですよね?」
露店の女店主が笑みを浮かべている。
逃げ道を失ったセレナが、俺をじっと見た。
「では……これは、どこにつけるのですか?」
「女性は胸元か、髪に付ける人が多いみたいです」
「では、胸元で」
「セレナ。せっかくなら髪につけたらどうだい?」
エドモンが勧める。
「父さんまで何を言っているのですか?」
「よく似合うと思うよ」
セレナの視線が、再び俺へ向く。
「レインは、どう思いますか?」
「似合うと思います」
「……そうですか」
少し迷った末、セレナは髪に飾りをつけた。
栗色の髪に、緋色の星霊花。
思った以上によく似合っていた。
ただ、本人は落ち着かないらしく、何度も飾りに手を伸ばしている。
「先生」
「何ですか?」
「とても、似合ってます」
「そうですか」
そっけない返事だった。
隣でエドモンが楽しそうに笑っている。
「何がおかしいのですか?」
「いや」
エドモンは口元を緩めたまま、首を横に振った。
「お前が祭りにきて、花飾りまでつけている。それだけだよ」
「レインに勧められたからです」
「そうか。それなら、レイン君に感謝しなければならないな」
二人を見ていると、俺まで嬉しくなった。
俺たちは人の流れにまじり、大通りを歩き始めた。
***
中央広場では、祭りの開始を告げる式典が行われていた。
壇上には、レオンとテレシアが並んでいる。
「星霊花が赤く染まったことを皆で祝おう」
長々とは話さない、レオンらしい挨拶だった。
続いて、テレシアが赤く大きい星霊花の花束を祭壇に捧げる。
屋敷の庭の星霊花から作られたものだという。
花束を置いたテレシアが顔を上げる。
そのとき、レオンとテレシアの視線が重なった。
テレシアの表情が、僅かに柔らかくなる。
レオンも、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
俺は以前聞いた、レオンとテレシアの馴れ初めの話を思い出した。
(二人にとって、星霊花は始まり花なんだな)
式典が終わる。
太鼓が鳴り、広場に歓声が上がった。
セレナが周囲を見る。
「それで、これから何をすればよいのですか?」
「好きなものを見て回りましょう」
「順路は?」
「ありません」
「予定は?」
「決めていません」
セレナが黙った。
「ずいぶんと曖昧な催しですね」
「祭りとは、そういうものですよ」
俺は周囲を見渡す。
「まずは食べ物を買いましょう」
「先ほど、朝食を取ったばかりですが」
「先生。祭りで食べるものは別腹ですよ」
「胃は同じです」
「別です」
セレナは納得していないようだった。
だが、エドモンが袋入の焼き菓子を買ってくれたため、結局は一緒に食べることになった。
星霊花の形に焼かれた菓子。
表面には、赤い果実の蜜が塗られている。
かじると、香ばしい生地の中から酸味のある蜜が広がった。
「おいしいです」
「そうですね」
セレナも普通に食べている。
「先生、お腹いっぱいでも食べられましたね」
「まだ一つです」
「もう一つありますよ」
「レインはいらないのですか?」
「僕はもう二つ食べたので」
「では」
そう言いながら、セレナは迷わず二つ目に手を伸ばした。
俺とエドモンは顔を見合わせる。
「何ですか」
「いえ。なんでもありません」
今度は、二人で笑った。
***
祭りの通りを進んでいると、小さな工房が目に写った。
建物の前には荷馬車が並び、刈り取られた赤い星霊花が木箱いっぱいに詰められていた。
工房の中には、日に当たらないように無数の星霊花が茎を上にして吊るされている。
赤い星霊花のドライフラワーは、この祭りで一番人気の商品だ。
工房の奥から、一定の駆動音が聞こえてきた。
吊るされた花々へ、絶え間なく乾いた風が送られている。
その魔力の流れには、見覚えがあった。
「あれは……」
俺は工房に近づいた。
作業台の奥に、二本の金属筒を備えた魔道具が置かれている。
《風喰砲》だ。
セレナと研究を重ね、知り合いの魔道具技師の協力を得て、実用化された魔道具。
俺とセレナの共同研究の結果だ。
「先生。見てください」
「ええ」
セレナも足を止める。
「先端に拡散板がつけられていますね。圧縮率もだいぶ下げられています」
工房の職人が、俺たちに気づいた。
俺の顔を見た途端、驚いたように姿勢を正す。
「これは、レイン様」
服装からお忍びと察したのか、声は控えめだった。
「その風喰砲は、ここで使っているんですか?」
「ええ」
職人は、赤い星霊花が並ぶ木枠を指した。
「今までは、花を乾かすために何人も交代で風魔法を使っていました。一般的な送風用の魔道具は高価ですから、数十年に一度の祭りのために買うのも難しくて」
職人が風喰砲を見る。
「ですが、風喰砲は手の届きやすい値段だったので、思わず買ってしまいました」
風喰砲は、風喰狼の魔法の発動機構を真似て作ったものだ。
そのためか、魔力効率が他の魔道具より高く、安価で売れているのだった。
「砲、という名前には、最初はずいぶんと怯えましたが」
職人が笑った。
「そうですよね……」
「ですが、出力を下げれば全く問題ありませんでした」
吊るされた星霊花が、穏やかな風に揺れている。
武器として使えば、人を傷つける力にもなり得る。
だが今は、祭りを彩る花を乾かすために使われていた。
「先生」
セレナがこちらを見る。
「作ってよかったですね」
風喰砲と、その前で揺れる赤い花々を見つめる。
「そうですね」
小さく、けれどはっきりと答えた。
***
工房を出た俺たちは、帝国では見慣れない服装をしている商人たちの露店が並ぶ一角へと向かった。
並んでいる商品は、領都の店のものとは少し違う。
透明なガラス器。
金属を細く編み込んだスカーフ。
ツンと鼻を刺激する香辛料。
その中の一軒に、赤い星霊花を収めたガラス額が並べられていた。
「きれいだ……」
薄い二枚のガラスの間に、乾燥させた星霊花が一輪、丁寧に収められている。
花弁は鮮やかな赤色を保っていた。
「お気に召したかな?」
店主が、訛りのある帝国語で話しかけてきた。
服の形も、首元の金属の飾りも、帝国のものとは異なっている。
「はい。とてもきれいです」
俺は周囲の露天を見る。
「この一帯は、メルカトリアから来た方々の店ですか?」
「ええ」
商人は朗らかに笑った。
商業国家メルカトリア。
アストリア領の西に位置する、帝国の隣国だ。
「私たちは、メルカトリアからこちらの祭りへ商いに参りました。赤い星霊花は、我が国でも人気です」
子どもの俺にも、丁寧な口調だ。
「星霊花を買いに来たということですか?」
「それもあります」
商人は、ガラス額を一つ手に取った。
「ですが、行きの荷馬車を空で走らせるのは、面白くありません。こちらへ来るときは、ガラス器や香辛料を運び、帰りには赤い星霊花を積んでいくのです」
額の縁には、細い金属がはめ込まれている。
内部へ湿気が入りにくい構造らしい。
「その額の中の花は、今日買ったものですか?」
「いいえ。七日前にいち早く赤く染まった花を取り置いてもらって、工房で乾かしたのです」
商人は得意そうに笑う。
「今朝、私たちの職人が、この額に収めました」
「では、アストリアの花と、メルカトリアのガラスを組み合わせたんですね」
「そのとおりです。どちらか一方だけより、価値が上がります」
外国の商人と聞くと、どこか遠い存在のように感じていた。
違う国で暮らし、違う服を着て、違う文化の中で生きている。
だが、目の前にいるのは、商品を並べ、客へ笑いかける一人の人間だった。
「これは、いくらですか?」
俺は小さなガラス額を指さした。
「こちらですか?」
「はい」
「レイン。星霊花なら屋敷の庭にも咲いてますよ」
後ろからセレナが言う。
「でも、この額は屋敷にはありません」
俺はもう一度ガラス額を見る。
「保存する技術を買うんです」
先ほど商人から聞いたことを、自分の言葉で伝えた。
商人が楽しそうに笑った。
代金を払うと、商人はガラス額を丁寧に布で包み、渡してくれた。
「赤い星霊花が、良い思い出を残しますように」
「ありがとうございます」
受け取った包みは、思ったより軽い。
中の花を壊さないように、両手でそっと抱えた。
***
気づけば、日が傾いていた。
通りには赤い硝子灯が並び、夕闇に沈み始めた石畳を照らしている。
薄暗い中見る星霊花は、さらに鮮やかな赤に見えた。
広場では音楽が続いている。
エドモンは長椅子に腰掛け、演奏を聞いていた。
その隣では、セレナが座っている。
「先生。髪飾り、外さなかったんですね」
「レインがつけろと言うので、仕方なく」
「気に入りませんでしたか?」
「そうは言っていません」
エドモンが、また笑った。
「よかったな、セレナ」
「何がですか?」
「祭りに来て」
セレナは、赤い灯りに照らされた広場を見る。
しばらくして、小さく頷いた。
「……はい」
いつもは見られない表情だった。
エドモンも嬉しそうに、その横顔を見ている。
俺は二人の隣に座り、買ったガラス額の包みを膝の上に置いた。
赤い星霊花。
祭りの音。
人々の笑い声。
焼き菓子の甘い香り。
そして、セレナと、エドモン。
「また、三人で来たいですね」
「ええ」
セレナが答える。
この風景を、忘れないようにしよう。
俺は膝の上の包みを、そっと抱え直した。
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