第二十一話「正解のない問い」
セレナに師事してから、早くも三年が経った。
今日は、八歳の誕生日だ。
朝、顔を洗って鏡を覗く。
そこに映っているのは、もう幼児とは呼びにくくなった自分の顔だった。
空色の髪は、レオンの濃い青と、テレシアの銀髪。その間を取ったような鮮やかな色をしている。目元と碧い瞳はテレシア譲りだが、鼻筋や輪郭には少しずつレオンの面影も出てきた。
五歳の頃と比べれば背もずいぶん伸びた。テレシアを見上げる角度も、以前より少し浅くなっている。
それでも今朝の朝食では、「もうこんなに大きくなったのですね。よく育ってくれました」と、テレシアが俺の頭へ手を伸ばしてきた。
「もう八歳だぞ」
レオンが横から口を挟む。
「あら。『まだ』八歳ですよ」
テレシアはそう言って、まったく気にした様子もない。
俺としてはそろそろ頭を撫でられるのは恥ずかしい。
「母様。いつもありがとうございます」
伸びてきた手を見ながら、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
「……これからは、僕も母様を守れるように頑張ります」
「まあ」
テレシアは少しだけ目を丸くした。
そして――結局、頭を撫でられた。
八歳になっても、この人にとってはまだ子供らしい。
この三年間、俺は色々なことを学んできた。
セレナとの魔法訓練と研究。
オスカーからは政治、経済、地理、歴史、法律をはじめとする、領主になるための教育。
六歳になってからは、レオンとの剣術の稽古も始まった。
休日には領都や周辺の村へ出向き、領民たちがどんな暮らしをしているのか、自分の目で見るようにもしている。
以前、レオンと遠出した際に出会った東部の農家の少年、ニコ・アルバとも、領都へ出るたびに何度か顔を合わせるようになった。
朝から授業、訓練、稽古。
夕食を終えれば、その日の課題。
休みの日には領地を歩く。
そんな毎日を繰り返すうちに、俺の中にも少しずつ、次期領主としての意識が芽生え始めていた。
* * *
朝。
澄み切った青空の下、俺は訓練場で測定の準備をしていた。
簡易机の上には、セレナから昨日出されていた実験課題の測定結果と、それについてまとめた小レポートが置いてある。
その横には、今朝取り直した測定結果もある。
セレナが来る前に、自分の考察が本当に正しいのか確認しておこうと思ったのだ。
魔力操作について学んだあの日以来、俺が魔法に触れない日はほとんどなかった。
以前のように、セレナが横についていなければ魔法を使わせてもらえない時期も、もう終わっている。
自分の魔力量がどれほど危険なのか。
どう扱えば暴走させずに済むのか。
三年かけて、少しずつ学んできた。
今では初級の属性魔法ならひと通り扱えるようになり、中級魔法の訓練にも入っている。
「おはようございます、レイン」
声に振り返る。
セレナが、いつもの純白の魔導衣を纏って歩いてきた。
「おはようございます、先生」
「昨日の課題はどうでしたか?」
俺は測定結果とレポート、それから今朝取り直した記録をまとめて渡した。
セレナは受け取るなり紙面へ目を走らせる。時折ペンを入れながら、数枚を一気に読み終えた。
「全体的によくできています」
少なくとも、測定全体に大きな不備はなかったらしい。
「特に、圧縮率を段階的に変えた測定は綺麗に取れていますね」
「ありがとうございます」
「ただし」
ただ、これで終わるはずはない。
セレナの指先が、測定結果の後半で止まる。
「この部分について、レインはどう考えましたか?」
今回の課題は、使用する魔力量を一定にしたまま圧縮率を変え、最終的な出力がどう変化するのかを測定するものだった。
途中までは予想通りだった。
圧縮率を上げるほど、出力も大きくなる。
ところが、一定のところを越えた途端、ほとんど数値が伸びなくなったのだ。
「測定器の上限は確認しました。使った術式の手順にも、この程度の圧縮で頭打ちになる要因はありませんよね?」
「ありません」
「ですよね……」
俺はレポートへ目を落とす。
「なら、圧縮率以外の何かが出力を抑えているはずなんです。でも、条件は全部揃えたつもりで……そこが分からなくて」
セレナはすぐには答えなかった。
代わりに、一枚目から測定記録を順番に並べていく。
「使用した魔力量は?」
「すべて同じです」
「標的までの距離」
「同じです」
「発動時間、使った術式の手順、測定器の位置は?」
「全部揃えました」
そこは何度も確認した。同じ条件で圧縮率だけを変えなければ、比較にならない。
「そうですね。記録を見る限り、問題ありません」
じゃあ、何が違うんだ?
セレナは最後の数枚を指で叩いた。
「では、ここを見てください」
示されたのは、魔法を発動する直前の魔力流量だった。
最初の数回はほぼ一定。
だが、圧縮率を大きくした後半だけ、わずかに下がっている。
「……出力が落ちてる?」
「はい」
思わず記録へ顔を近づける。
「でも、そんな操作はしてません」
少なくとも、した覚えはない。使用する魔力量も、出力も一定に保ったつもりだった。
「おそらく、そこが原因でしょうね」
「え?」
セレナは自分の掌へ小さく魔力を集めた。
「圧縮率を上げれば、それだけ魔力の制御は難しくなります。わずかなズレでも、魔力操作の手順全体が不安定になる」
それは分かる。
俺自身、圧縮するほど魔力が暴れようとする感覚はあった。
「あなたは、その不安定さを感じた瞬間に、無意識に別の操作を加えているんです」
「無意識に……?」
「おそらく出力をわずかに抑えています。魔法の形が崩れないように」
そんなことをした覚えはない。
けれど、改めて昨日の感覚を思い返してみる。
圧縮を強める。
少し扱いにくくなる。
だから、崩れないように整える。
それくらいのことは、確かに何度もやっていた。
ただ、それを一つの操作として意識すらしていなかった。
「……もしかして、それも測定結果に入ってしまった?」
「当然です」
セレナはあっさり頷いた。
「実験では、術者自身も条件の一つですから」
なるほど。
測定器がおかしいわけでも、理論が間違っているわけでもない。
俺自身が、知らないうちに結果を変えていたのか。
「魔法を使ううえでは、悪いことではありません」
セレナが続ける。
「むしろ逆です。不安定になった瞬間に、考えるより先に修正できる。実戦では大きな長所になります」
そこまで言ってから、俺のレポートを軽く持ち上げた。
「ですが、研究するうえでは厄介な癖ですね」
思わず肩を落とすと、セレナの口元がわずかに緩んだ。
「次は、圧縮以外の操作へ意識的に手を加えないようにして測ってください。それでも補正してしまうようなら、その補正そのものを測ります」
「補正そのものを?」
「ええ」
セレナの紫の瞳に、研究者らしい光が宿る。
「自分で何をしているのか分からないなら、分かるまで調べればいいだけです」
相変わらずだ。
「分かりました。後でもう一度やってみます」
セレナが頷く。
「では、せっかくですから今日は測定条件を揃えて、基本属性ごとの違いも確認してみましょうか」
「お願いします」
セレナは記録用紙を机へ置いた。
「基本属性は五種類。これはもう覚えていますね?」
当然だ。
「炎、水、風、雷、土です」
「はい。その通りです」
セレナが片手を前へ出す。
掌へ集められた魔力が、俺の視界の中で次々と色を変えていった。
茜。
蒼。
白銀。
青紫。
そして、琥珀。
五つの色が現れては消え、最後には元の淡い燐光へ戻っていく。
何度見ても鮮やかなものだ。
「では、魔法の才能は、主に何によって決まりますか?」
「魔力量、魔力効率、術式への理解、それから属性適性の四つです」
セレナが頷く。
「そうですね。よく勘違いされますが、魔法の才能は魔力量だけで決まるものではありません」
再び、掌に小さな茜色の光が灯った。
「同じ量の魔力を持っていても、どれだけ無駄なく扱えるかで結果は変わります。これが魔力効率」
茜色が消える。
「魔力をどう動かせばその魔法になるのか、手順と因果をどこまで理解し、応用できるか。それが術式への理解。そして、どの属性や技術と相性がいいのかという適性。この四つを総合して見る必要があります」
セレナの紫の瞳が、俺へ向けられた。
「レインは、魔力量と魔力効率については申し分ありません。基本五属性も、今のところ極端に苦手なものは見えていませんね」
そこは素直に嬉しい。
「ただし、術式への理解は……まだまだです」
反論はできない。
感覚で魔力を操えてしまう俺にとって、それを理屈として理解するのは、どうにも難しかった。
言うなら、誰よりも速く走れるのに、『では、なぜその走り方で速く走れるのか説明してください』と問われているようなものだ。
できることと、説明できることは別らしい。
「……頑張ります」
「ええ。そこは幸い、私の得意分野です」
セレナは記録用紙を俺へ返した。
「一緒に頑張っていきましょう」
「はい、先生」
* * *
午前の訓練を終え、昼食を済ませる。
午後に待っているのは、オスカーの講義だった。
今日の題材は、領の財政だ。
「本日は、限られた予算をどのように配分するか、お教えいたします」
オスカーはそう告げると、机の上に銀貨を並べ始めた。
十枚ずつ、十列。
合わせて百枚。
「これは?」
「銀貨ですね」
「ええ。ですが本日の銀貨の役割は」
オスカーは百枚を手で示す。
「とある領地が一年間に自由に使える予算――そうお考えください」
その横へ、三枚の紙が置かれた。
一枚目には橋。
二枚目には剣を持った兵士。
三枚目には、寝台へ横たわる人が描かれている。
「この領地には、三つの問題があります」
オスカーが橋の紙を指した。
「まず、領内を流れる川に架かる橋が老朽化しています。十分に修繕するには、銀貨四十枚が必要です」
「直さないと、どうなるんですか?」
「すぐに崩れるとは限りません。しかし、大型の荷馬車は通行を制限する必要があるでしょう」
オスカーが橋の絵を軽く叩く。
「農村から町へ穀物を運ぶにも、商人が商品を運ぶにも時間がかかるようになります」
なるほど。
ただ古い橋を直すだけの話ではないらしい。
続いて、兵士の紙。
「次に領兵です。国境と村々を守るため、五十枚必要です」
「これは減らせないのでは?」
「減らすことはできます」
削れない費目だと思ったが、オスカーはあっさり否定した。
「ただし、兵の数を減らせば街道の警備は薄くなります。魔獣への対応も遅くなり、盗賊が現れた際にも十分な兵を送れないかもしれません」
「……なるほど」
最後に、治癒院。
「こちらは領都の治癒院です。薬や治癒魔術師への給金、設備の維持に三十枚を求めています」
四十。
五十。
三十。
「百二十枚……」
「はい」
オスカーが頷いた。
「ですが、使えるのは百枚です」
机に並んだ銀貨を見る。
二十枚足りない。
「さて、レイン様」
オスカーは三枚の紙を、俺の前へ押し出した。
「あなたが領主なら、どうなさいますか?」
「……橋を二十枚にします」
「理由を伺っても?」
「橋は、すぐに崩れるわけではないのですよね。なら今年は応急補修だけにして、残りは来年に回します」
「なるほど」
オスカーは否定しなかった。
「では、その結果を考えてみましょう」
「結果?」
「補修が不十分なため、大型の荷馬車は通行できません。商人の一部は、遠回りをして隣の領地を通るようになりました」
「……あ」
「商人が減れば、市場で行われる取引も減ります。つまり――」
「税収も減る?」
「その通りです」
オスカーの口元がわずかに緩む。
「来年、この百枚が九十五枚になるかもしれません」
思っていたより嫌な問題だった。
削れば終わり、というわけではない。
「じゃあ、兵士を減らしたら?」
「二十枚減らしましょうか」
「はい」
「領兵の一部を解雇します。すると、今年は予算内に収まります」
数字の上では、これで収まる。
そう思った俺を見透かしたように、オスカーは続けた。
「ですが一月後に、東の森から魔獣が現れました」
「……」
「十分な兵がいれば、村へ到達する前に討伐できたでしょう。しかし、今は兵力が足りません。三つの村から住民を避難させる必要が生じました」
「畑は?」
「放棄されます」
「じゃあ、収穫も……」
「減ります」
まただ。
兵士に使う金を減らしたはずなのに、そのせいで別の場所が苦しくなる。
「治癒院なら……?」
口にしてから、嫌な予感がした。
オスカーは静かに答えた。
「薬の購入を減らし、治癒魔術師を一人解雇しましょう」
「……」
「平時であれば、問題はないかもしれません」
「平時なら?」
「流行病や魔獣災害が起きなければ、です」
俺は黙り込んだ。
どこを削っても、何かが悪くなる。
「……ずるくないですか、この問題」
そう言うと、オスカーの口元がわずかに緩んだ。
「ええ」
あっさり認められた。
「領地を治めるというのは、往々にしてそういうものです」
「全部必要じゃないですか」
「はい」
「だったら、百二十枚使えばいいのでは?」
「ないものは使えません」
あまりにも単純な答えだった。
俺は銀貨を睨む。
そこで、一つ思いついた。
「じゃあ……税を増やす?」
オスカーの眉がわずかに動いた。
「それも一つの方法です」
「二十枚分だけ増やせば、全部できますよね?」
「できます」
不足分だけを増税で補う。数字だけなら、これで帳尻は合う。
しかし。
「では、誰から取りますか?」
「え?」
「農民からですか。商人からですか。職人からですか」
オスカーは淡々と続ける。
「今年は雨が少なく、農村の収穫は例年より少なかったとしましょう」
「……」
「商人へ課せば、その分を商品の価格へ上乗せするでしょう。塩や布、農具の値段が上がるかもしれません」
また行き止まりだ。
俺は腕を組んだ。
「……借りるのは?」
「どこからでしょう」
「裕福な商人とか……中央の貴族とか」
「できます」
オスカーは頷いた。
「非常に有効な手段です」
意外だった。
「では、それで――」
「ただし、借りたものはいずれ返さなければなりません」
反論はできない。
「金銭だけとは限りません」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「どういうことですか?」
「困っているときに助けてもらえば、恩が生まれます」
オスカーは机の銀貨を一枚、俺の前へ滑らせた。
「今日、あなたが誰かから一枚を借りる」
もう一枚。
「明日も借りる」
さらに一枚。
「それを十年続ける」
俺の前に銀貨が積み上がっていく。
「その者から『今度はこちらの頼みを聞いていただきたい』と言われたとき、果たして断れるでしょうか」
俺は積み上がった銀貨を見つめた。
「……難しいと思います」
「ええ」
オスカーは銀貨を元の場所へ戻していく。
橋。
兵士。
治癒院。
税。
借金。
全部つながっている。
「では……正解は何なんですか?」
俺が尋ねると、オスカーは少しだけ目を細めた。
「ありません」
「……ない?」
「少なくとも、いつでも通用する正解など存在いたしません」
予想外の言葉だった。
「橋を優先した結果、魔獣に襲われるかもしれない。兵を優先した結果、交易が衰えるかもしれない。治癒院を優先した結果、街道の整備が遅れるかもしれない」
オスカーは真っ直ぐ俺を見る。
「だからこそ、領主は考え続けなければなりません」
「……何を?」
「何を守るべきか。そのために何を諦めるのか。そして――」
一度、言葉を切る。
「自分が選んだ結果に、誰が苦しむのかを」
俺は机の上の百枚の銀貨を見つめた。
魔力の訓練とは、まるで違う。
魔力なら、うまくいかなければ正しい形との差を探せばいい。
間違いを一つずつ直していけば、いつか正解へ辿り着ける。
だが。
この問題には、最初から正解がない。
「領主というのは……大変なんですね」
「はい」
オスカーは穏やかに頷いた。
「ですからレイン様には、今から学んでいただくのです」
* * *
講義を終え、夕食のためレオンとともに食堂へ向かっていた。
何を守り、そのために何を諦めるのか。
領主という仕事には、魔法のような明確な正解がない。
それは分かった。
でも――。
もし、その領主自身に圧倒的な力があったら?
魔法で橋を直せる。
魔獣が現れても、自分一人で倒せる。
疫病が流行っても、治癒魔法で多くの人を救える。
俺自身がもっと強くなれば、諦めるものを減らせるのではないか。
そんな考えが、胸の奥に浮かんだ。
そのとき――。
カンカンカンカン!
けたたましい警鐘が、屋敷中へ響き渡った。
(この音は――)
直後、正面玄関の扉が勢いよく開く。
泥だらけの伝令が屋敷へ駆け込んできた。
「緊急! 第Ⅱ級魔獣災害、発生!」
息を切らしながら、それでも声を張り上げる。
「風喰狼の複数群を確認! 北東、南東の二方面から接近中です!」
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次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




