閑話「セレナ・ミレイユ」
夜。
研究館は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
レインを見送ってから、もう何時間か経っている。
私は父さんの寝室へ入り、枕元の薬瓶を確認した。
夜の分は、きちんと減っている。
「……ちゃんと飲みましたね」
返事はない。
父さんはもう眠っていた。
規則正しい寝息が聞こえる。昼間の咳も、今は落ち着いているようだった。
私はベッドの横に置かれた椅子へ腰を下ろした。
掛け布団から出ている父さんの手が目に入る。
細い。
昔は、この手がもっと大きく見えた。
そっと触れる。
温かい。
それを確かめて、ようやく小さく息を吐いた。
その手を見ていると、ずっと昔のことを思い出した。
***
私が生まれたのは、アストリア領近郊の貧民街だった。
母さんは、私を産んだ時に亡くなった。
だから、顔も覚えていない。
覚えている家族は、最初から父さん一人だけだ。
家は狭かった。
寒波が来れば壁の隙間から冷たい風が入り、屋根から雨が漏れることもあった。毎日、十分な食事が並ぶような家でもなかった。
父さんは農作業の補助をしていた。
魔法の才能はほとんどなく、もともと身体も丈夫ではなかった。それでも少しでも多く稼ぐため、仕事では無理をして魔力を使っていた。
身体を悪くしたのはその頃からだった。
周りの人間はよく言った。
――父親に才能がないんだから、娘にもあるわけがない。
――魔法なんて諦めろ。
――そんな本ばかり読んで、何になる。
嫌いだった。
私が何を考えているのかも、何ができるのかも知らないくせに。
どうして勝手に決めるのだろう。
だから、いつの頃からか、人と話すことをやめた。
代わりに、本を読んだ。
父さんが昔買ったという、ぼろぼろの魔導書を何度も。
最初は、もちろん意味なんて分からなかった。
それでも読む。
一つ分かると、前に分からなかった別の一つが分かる。
また最初から読むと、今度はもっと分かる。
そうしているうちに、読むだけでは我慢できなくなった。
本当に書いてある通りに魔力が動くのか、自分で試してみたくなったのだ。
本当なら、やってはいけない。
帝国では、幼い子供が魔法を使うことは法律で禁じられている。
父さんにも、何度か止められた。
それでも。
私が育ったのは貧民街だった。
役人が一軒一軒の家を見回っているわけでもない。大人の生活魔法を真似して、こっそり魔力を動かしている子供もいた。
私も、その一人だった。
家の裏や人のいない空き地で、魔導書に書かれた通りに魔力を動かしてみる。
最初は少しだけ。
うまくいけば、もう一度。
失敗すれば本を読み直して、どこが違ったのかを考える。
気づけば、それを何度も繰り返すようになっていた。
本に書かれていたことが、自分の中で繋がっていく。
人間と話すより、ずっと楽しかった。
***
六歳になった年。
私は、帝国全土の子供が受ける魔力量測定で、測定器の上限を超えた。
結果だけ見れば、測定不能。
周りからの評価は、「天才」に変わった。
けれど、私が住んでいた辺境の貧困街には、それだけで中央から専門家が派遣されることはなかった。
六歳の測定は、将来どの程度の魔法教育が必要になりそうかを大まかに振り分けるための一次検査だ。
地方に置かれている測定器も、極端に大きな魔力量まで正確に測れるようには作られていない。
それに、六歳では魔力量そのものがまだ成長途中にある。
測定器の上限を超えた時点で、高い素質があることは分かる。
なら、その場で高価な測定器と専門家を用意して正確な上限まで調べるより、記録を残し、進路を考え始める年齢で改めて精密に測る。
そういう制度だった。
私の記録にも、
『測定上限超過。要再検査』
と残された。
それだけだった。
***
十歳になる頃には、父さんの書斎の本棚にあった魔導書はほとんど読み終えていた。
近所で借りられる本も、役所の小さな書庫に置かれていた本も、一通り読んだ。
読んでは試し、分からなければまた読む。
そんなことを繰り返していた。
そして十歳。
二年後の進路を見据えた再検査で、六歳の時の記録が改めて引っ張り出された。
その再検査に来たのが、オスカー・クロイスだった。
当時からアストリア家に仕え、領地行政の実務にも深く関わっていた。帝国魔法学院を卒業しており、魔法にも詳しい。
「まずは、実際に魔力を見せてもらってもよろしいですかな」
私は頷いた。
最初は、単純な出力試験だった。
指定された量の魔力を放出する。
次に、もう少し多く。
さらに多く。
測定器の数値が次々と上がっていく。
やがて、オスカーが記録を書く手を止めた。
「……十歳、でしたな」
「はい」
「まだ魔力量が伸びる年齢だというのに……」
彼は測定器をもう一度確かめた。
「この歳で、すでに学院の上位生にも引けを取らないとは」
その言葉を聞いた時は、少し嬉しかった。
昔から、才能がないと言われ続けてきたから。
ただ、後から思えば、異能はそこではなかった。
「では、次へ参りましょう」
オスカーが卓上に小さな金属輪を五つ並べた。
「魔力を、この輪の中だけへ通してください」
簡単だ。
「では、輪の縁には触れないように」
「今度は、流す量を半分に」
「そのまま三つに分けられますかな?」
「三つを、それぞれ違う速さで動かしてみてください」
どれも簡単だった。
そこから、注文はさらに細かくなった。
一つだけ圧縮する。
残り二つは密度を変えない。
指定された位置で止める。
一定量だけ外へ出し、また戻す。
私は言われた通りに魔力を動かした。
途中から、オスカーが何も言わなくなった。
「次は?」
「……少々お待ちください」
オスカーは測定結果と私を交互に見た。
「魔力量だけでも十分に異例です。しかし、私が本当に驚いているのは、こちらです」
「こちら?」
「操作精度です。これだけ異なる操作を続けて行いながら、ほとんど誤差が出ていない」
金属輪へ視線を戻す。
「学院生でも、ここまで正確に行える者はそう多くありません」
「そうなんですか?」
「ええ。どこで習われたのです?」
「本です」
「誰かに教わったことは?」
「ありません」
「……なるほど」
オスカーは、もう一度金属輪へ目を落とした。
私にとっては、言われた通りに動かしただけだった。
「では、もう一つ確認してもよろしいですかな」
「はい」
「初級魔法を一つ、発動していただけますか?」
「はい」
そう答えて、右手を前へ出す。
声には出さず、頭の中だけで短い詠唱を唱えた。
掌の先に水が集まり、小さな球になる。
そのまま数秒維持してから消した。
オスカーは水球があった場所を見たまま、しばらく黙っていた。
「……今、詠唱は?」
「心の中で唱えました」
「それだけで?」
「はい」
今度は、オスカーが私を見る。
「難しくはありませんでしたか?」
「特には」
何を聞かれているのか分からなかった。
「口に出さず、頭の中で同じ詠唱を唱えればいいんですよね?」
「……理屈だけなら、そうなのですが」
オスカーは小さく息を吐いた。
「それを簡単にできないから、無詠唱は高等技術なのですよ」
「そうなんですか?」
また同じことを聞いてしまった。
「ええ。そうなのです」
この人は、今日何度同じ説明をするのだろう。
そんなことを考えていた。
そこで、前から本人に会ったら話してみたいと思っていたことを思い出した。
「ところで、オスカー様」
「なんでしょう」
「オスカー様の卒業論文、読んだことがあります」
彼の手が止まった。
「……私の?」
「はい。水系術式の効率化に関する論文です」
役所の書庫にあった学院紀要で読んだものが、記憶に残っていた。
「あの理論ですけど、もう少し広げられるんじゃないかと考えたことがあります」
「広げる、と申しますと?」
机の紙を一枚借りる。
「この術式は出力効率を上げる代わりに、ここの制御負荷が増えていますよね」
術式を書きながら説明した。
「でも、この工程とこっちの工程は、途中まで同じ処理をしています」
「……ええ」
「なら、別々に構築する必要はないと思います。ここまでは共有して、必要になるところから分けた方が、全体を短くできます」
私が術式を修正すると、オスカーが紙へ顔を近づけた。
「それは、どなたかに教わったのですか?」
「いいえ。論文を読んだあと、自分で考えました」
しばらく、オスカーは書き換えた術式を見ていた。
やがて鞄から別の紙を取り出す。
「では、これはどうでしょう」
オスカーが学院時代に考案したという、水属性の高位魔法だった。
発動自体はできる。
ただ、術式が複雑すぎて実用性に乏しい。その開発過程で見つけた効率化の一部を、卒業論文としてまとめたらしかった。
「セレナさんなら、どこを直しますかな」
紙を受け取り、最初から最後まで目を通す。
少し考えてから、二つの箇所を指した。
「ここです」
「もう分かりましたか」
「ここと、ここをまとめられると思います。目的は違いますけど、途中までやっていることは同じですよね」
「……確かに」
「なら、共通部分を一度だけ構築して、その後で枝分かれさせればいいです」
私は術式を書き換えた。
「これと似た構造を、前に本で読んだことがあります」
「何の本でしょう」
名前を答える。
「確か、二百七十三ページです」
オスカーがこちらを見る。
「本の内容を、詳しく覚えておられるのですか?」
「え?」
何を驚いているのか分からなかった。
「読んだ本って、普通は覚えているものでは?」
「……普通は、一度読んだ複雑な術式を覚えてはいません」
「そうなんですか?」
「そうなのです」
そこで初めて、昔から感じていた違和感の正体を少しだけ理解した。
私にとって普通のことが、他の人にとってはそうではないらしい。
そして、その日の調査結果は、想像していたよりずっと大きな話になった。
***
オスカーの報告は、アストリア家を通してセレスタ州と魔法省へ送られた。
そして、その情報に目を留めた家があった。
メルヴィン公爵家。
ヴァレリウス家、セリウス家と並ぶ帝国三大公爵家の一つだ。
ヴァレリウス家が軍を、セリウス家が魔法を担うのに対して、メルヴィン家が長く担ってきたのは行政だった。
税、予算、法律、官僚人事、地方への補助、物資の流れ。
魔法そのものに秀でた家ではない。むしろ三家の中では、魔法との縁は最も薄い。
けれど、才能のある人間を見つけた時に、どの制度を使えばいいのか。誰の推薦が必要なのか。どこから費用を出すのか。どの書類を、どこへ通せばいいのか。
そういうことに関しては、彼らほど強い家もなかった。
後になって知った。
メルヴィン家は地方の貴族や役所からの情報を通じて、有望な平民や、経済的に恵まれない子供を支援することがある。
もちろん、ただの慈善ではない。
支援した人間が将来、官僚や研究者として働けば、地方と中央を繋ぐ人脈になる。メルヴィン家が地方の才能を拾い上げたという実績にもなり、支援された側には恩が残る。
そうやって人と制度を繋ぎ、長い時間をかけて関係を築いていく。
それが、あの家のやり方だった。
***
私の家にも、ある日使者が来た。
学院進学に必要な学費を支援する。
教材や魔導書も用意する。
帝都までの旅費も負担する。
十二歳で成人の儀を迎えた暁には、帝国魔法学院の特例選抜を受けるための手続きも支援する。
そんな話だった。
最初は疑った。
どうして公爵家が、私のような貧民街の子供にそこまでするのか。
使者は言った。
「身分ではなく、能力ある者を適切な場所へ送る。それもまた、国を運営する者の仕事です」
綺麗な言葉だと思った。
だが今でも、そのすべてが純粋な善意だったとは思っていない。
しかし、私の家には金がなかった。
父さんには、私を帝都へ送り出せるだけの余裕なんて到底なかった。
そして、彼らが手を差し伸べてくれたことも事実だった。
私は迷った。
父さんを一人にしたくなかったから。
ただでさえ、身体が弱い。
私がいなくなったら、誰が父さんの面倒を見るのか。
そんなことばかり考えた。
でも、父さんは言った。
「行きなさい」
「でも、父さんは……」
「私は大丈夫だ」
「全然大丈夫じゃないでしょう」
「そうだな」
父さんは笑った。
それから、大きな手が私の頭に置かれた。
「でも、セレナ。お前は、好きなことをしなさい」
昔から、父さんだけは同じだった。
才能があるかどうかも、金があるかどうかも、平民かどうかも。
そんなことを一度も言わなかった。
ただ、私が魔法を好きだということだけを見ていた。
だから、私は学院へ行くことを決意した。
***
十二歳。
帝国魔法学院へ特例入学した。
通常より二年早かったが、入学試験は難しくなかった。
精密な魔力量測定、魔力制御、初級と中級魔法の実技、そして筆記。
全て容易だった。
ただ、魔力量だけを見れば、私より上はいた。
帝国は広い。生まれつき、私より多くの魔力を持つ人間もいる。
それでも、十二歳の時点で私の魔力量は学院の上位層に食い込むほどあった。
まだ成長する余地を残して、だ。
そして、魔力操作ではもっと差があった。
指定された量だけを出す。
決められた位置で寸分違わず止める。
分ける。
別々に動かす。
圧縮する。
術式へ流し込む。
少なくとも、入学してから私が見た学生の中に、私より正確にできる人はいなかった。
無詠唱も、入学時点ですでに使えた。
しかし、私の一番の才能は魔法理論にあるようだった。
***
入学してすぐ、私は良い意味でも悪い意味でも目立ってしまった。
「今回の試験、難しくなかった?」
同級生の令嬢にそう聞かれたことがある。
私は本気で考えた。
「……どこがですか?」
翌日から、その子はあまり話しかけてこなくなった。
なぜなのか。
当時の私には、本当に分からなかった。
模擬演習でも同じだった。
学院へ入って半年ほど経った頃、学年混合の対人演習があった。
相手は二つ年上の男子学生。
有名な貴族家の長男で、実技成績も上位。
だから、少し楽しみにしていた。
開始の合図と同時に、相手が詠唱を始める。
火属性。
短い詠唱と杖の向きから、正面を狙っているのが分かった。
結界を展開するまでもない。
私は一歩だけ横へ動いた。
火球が脇を抜ける。
同時に、無詠唱で水弾を三つ放つ。
一つ目で、続けて放たれた火球を相殺する。
二つ目を足元へ。
三つ目で、濡れた地面を凍らせる。
相手の足が止まった。
すぐに防御結界が展開される。
正面から破る必要はない。
結界が完成する直前、わずかに構築の遅れた右端へ風を集中させた。
一撃目で結界が大きく揺らぎ、二撃目で砕ける。
相手が次の詠唱へ入ろうとした。
その前に杖を弾き飛ばす。
それでも魔法を使おうとしたので、そのまま攻撃を続けた。
一発目を避けられる。
二発目は防がれる。
しかし、これらは囮だった。
本命は、魔力を温存していた三発目。
狙い通り、相手に命中した。
そして気づけば、相手を演習場の端まで追い込んでいた。
私は次の魔法を構築する。
「そこまで!」
教官の声が飛んだ。
すぐに魔法を解く。
相手は地面へ座り込み、荒い息を繰り返していた。
「……?」
私は首を傾げた。
「まだ降参していませんが」
教官が額を押さえた。
「もう勝負はついている!」
「でも、模擬戦ですよね?」
「だからだ!」
意味が分からなかった。
防御結界がある以上、大怪我はしない。
相手も降参していない。
なら、最後まで続けるものだと思っていた。
あとになって知った。
相手は学院でもかなり強い学生だったらしい。
二つ年下の新入生を相手に、まともに攻撃を当てることもできず、一方的に追い詰められた。
周りが驚いていた理由を知ったのも、その時だった。
座学講義では、教授が講義で術式を間違えれば、その場で指摘した。
同級生が試験に落ちて落ち込んでいれば、
「勉強すれば次は受かるのでは?」
と答えた。
正しいと思ったことを、そのまま口にした。
その結果、気づけば私は一人になっていた。
貧民街出身のくせに。
服装もまともに整えない。
目立ちたがり。
生意気。
可愛げがない。
色々言われた。
腹は立った。
でも、途中からどうでもよくなった。
話す相手がいないなら、その時間で本が読める。
研究ができる。
術式は、少なくとも私の生まれた場所を理由に私を嫌ったりしない。
だから、ますます魔法へ没頭した。
***
入学から一年ほどで、学院で学生が習う基礎的な魔法と理論はほとんど学び終えた。
そこからは研究室へ入り浸った。
教授と議論する。
論文を書く。
既存術式を分解する。
なぜこの工程があるのか。
なぜこの順番なのか。
もっと少ない魔力で、もっと短い術式で、同じ結果を出せないのか。
私は、新しい魔法を思いつくことより、すでに存在している魔法を理解することの方がずっと得意だった。
術式を読み、構造を分け、原因を探し、無駄を削って組み直す。
それなら、誰にも負ける気がしなかった。
***
十五歳。
三年で学院を卒業し、その直後に帝国魔導師試験を受けた。
学院を卒業したからといって、魔導師になれるわけではない。
魔導師は、国家資格を持つ魔術師の中でも、高度な理論、技術、実績を認められた者だけが名乗れる上位の称号だ。
学院で研究を続ける者。
宮廷魔術師として中央の貴族に仕える者。
帝国軍の特別な魔法部隊に従軍する者。
そうした道を目指す者にとって、一つの大きな関門でもある。
当然、試験で見られるのは魔力量だけではない。
理論、術式構築、上級実技、危険な魔法を扱う際の制御、それまでの研究実績。
最後には、複数の試験官を相手にした口頭審査もある。
筆記は問題なかった。
実技も、指定された威力を超えずに標的だけを破壊する試験、複数属性を切り替える試験、与えられた術式をその場で組み替える試験と続いたが、どれも学院でやってきたことと大差なかった。
研究成果の審査も通った。
一番危なかったのは、最後の口頭審査だった。
「セレナ・ミレイユ」
試験官の一人が言った。
「君は、なぜ魔導師を目指したのかね?」
私は答えた。
「最近、術式の最適化について研究しています」
試験官が頷く。
「私は、それを『絶対最適化』と『相対最適化』の二つに分けて考えています」
「絶対最適化と、相対最適化?」
「はい。術者が誰であっても変える必要のない部分から無駄を削り、術式そのものを最も効率の良い形へ近づけるのが絶対最適化です」
例えば、同じ火球なら、炎へ変質させるために必ず必要になる工程がある。
そこには、術者が変わっても共通する最適解がある。
「一方で、術者ごとの魔力量、魔力操作の精度、属性適性、出力上限に合わせて、変えた方がいい部分を調整するのが相対最適化です」
魔力量が多い人と少ない人。
圧縮が得意な人と出力が得意な人。
同じ術式を使っても、全員にとってまったく同じ形が一番扱いやすいとは限らない。
「絶対最適化で共通部分を固定し、相対最適化で術者ごとの差だけを調整する。二つを組み合わせれば、術式全体をもっと効率化できると考えています」
そこから、どこまでを固定するか。
魔力量の差をどう補正するか。
属性適性や魔力操作精度、出力上限をどう反映するか。
可変部分を術式側へ組み込む場合の問題。
教授と共同で組み立てていた理論と、実証に必要な条件。
聞かれてもいないのに、全部説明した。
気づいた時、試験官が三人とも黙っていた。
「……以上です」
しばらくして、顔見知りの教授が口を開いた。
「つまり、君はその術式最適化によって、より多くの帝国民が効率よく魔法を使えるようにしたい。そういうことだね?」
妙に強い声だった。
「いえ」
私は答えた。
「それは別にどうでもいいです」
教授が目を閉じた。
面接は壊滅的だったが、それでも試験には受かった。
私は十五歳で帝国魔導師となり、そのまま学院の助教になった。
***
人間について少しずつ分かるようになったのは、それからだった。
助教になり、今度は自分が学生へ魔法を教える側になった最初の頃。
「ここを圧縮するだけです」
そう説明して、何人もの学生ができなかった時には本気で困った。
なぜできないのか。
私には簡単なのに。
一人ずつ確認すると、魔力を目的の場所へ動かす時点で躓いている人もいれば、量を一定に保てない人もいた。
圧縮しようとすると、無意識に魔力を外へ出してしまう人もいる。
同じ「できない」でも、原因がまるで違った。
そこで初めて知った。
教えるというのは、答えを言うことではない。
相手がどこまでできるのかを見る。
どこで躓いているのかを探す。
危険なら止める。
一段ずつ先へ進める。
そして、自分の判断が間違っていたなら、認めて謝る。
それは、術式を理解するより難しかった。
人は、術式ではない。
正しいことを言えば、必ず正しい方向へ動くわけでもない。
同じ言葉を使えば、全員が同じ意味に受け取るわけでもない。
学生時代には、研究室の教授に何度も怒られた。
「正しいことを言えばいい、というものではない」
「なぜです? 正しいんですよね?」
「そこから説明しなければならないのか……」
そんな会話を何度したか分からない。
今でも、人付き合いが得意だとは思わない。
父さんにもよく言われる。
先日だって、レインの報告を疑い、テレシア様へ随分と配慮のない言い方をしてしまった。
ただ、間違えたと分かってから、頭を下げることはできた。
レインの魔法も同じだ。
できるからといって、属性魔法を好き勝手に使わせなかった。
検査をして、基礎を確認して、止めることから教えた。
今も、私がいないときに属性魔法を使うのは禁止にしている。
だが十二歳の私なら、
「できるなら、やればいいでしょう」
などと言っていたかもしれない。
そう考えると、少し恐ろしく感じる。
***
帝国魔導師試験に合格した頃、メルヴィン家との関係も以前とは少し変わっていた。
十二歳の私にとって、彼らは学院へ行くための金と道を用意してくれた家だった。
十五歳になる頃には、私自身にも論文や研究、帝国魔導師資格という成果があった。
もう、ただ支援されるだけの子供ではない。
向こうにとっても、私は支援する価値のある研究者になっていた。
魔法を担うセリウス家ではなく、行政を担うメルヴィン家が、貧民街出身の一人の少女を中央へ送り出し、十五歳で帝国魔導師にした。
それ自体、彼らにとって一つの成果だったのだと思う。
私は、メルヴィン家を家族だと思ったことはない。
忠誠を誓ったこともない。
でも、恩がないとは絶対に言えない。
本も、学費も、帝都までの旅費も、推薦に必要な手続きも。
父さんを残して進学する私が、帝都で困らないための手配までしてくれた。
私一人では、どれ一つ用意できなかった。
魔導師試験に合格した後、メルヴィン家の人間から、
「何か望みはあるか」
と聞かれた時、私は一つだけ答えた。
「もし、私が特任教授になれたら」
「なれたら?」
「研究場所を自由に選べるようになります」
少し考えてから続ける。
「アストリア領の近くに、研究館が欲しいです」
「帝都ではなく?」
「はい。父と暮らしたいので」
それだけ述べた。
***
十八歳。
私は研究の成果が認められ、准教授の段階を飛び越えて、念願の特任教授になった。
原則として講義義務はない。
十分な研究費が与えられ、国家研究にも参加できる。必要なら帝国内外へ出張し、研究拠点も選べる。
成果さえ出せば、学院に籍を置いたまま、かなり自由に研究できる立場だった。
そして、メルヴィン家は三年前の約束を守った。
アストリア領近郊に、父さんと暮らせる研究館を用意してくれた。
「今日も研究は楽しいか?」
ここへ越してきた日、父さんはそう聞いた。
「もちろん」
即答した。
本当に、楽しかった。
……そのはずだった。
***
私は椅子に座ったまま、眠る父さんを見る。
この研究館へ来てから、私は一つ新しいことを始めた。
既存術式の改良ではない。
まったく新しい魔法を作る研究だ。
できると思っていた。
私は、魔法を理解することなら誰にも負けない。
魔力量だって、帝国最高というわけではないが十分すぎるほどある。
実戦でも、ほとんどの魔導師には負けない自信がある。
そして、魔力操作、術式解析、魔法理論。
その三つなら、帝国一と言っても過言ではない。
なら、新しい魔法くらい作れるはずだ。
でも、できなかった。
理論はすぐに理解できる。
既存の術式なら、問題点が見える。
どこを直せばいいのかも分かる。
なのに、何もないところから、今まで存在しなかったものを形にしようとすると手が止まる。
理解することと、創ることは同じではない。
そんな当たり前のことを、そこで初めて思い知った。
正直、腹が立った。
そんな時だった。
レイン・アストリア。
五歳で、無詠唱魔法を使った子供がいる。
監察と指導を頼む。
そんな話が来た。
最初に聞いた時は、心底面倒だった。
ようやく父さんと暮らせるようになった。
新しい研究もうまくいっていない。
そんな時に、どうして子供の相手までしなければならないのか。
五歳の子供が、本当に無詠唱を使った?
無詠唱そのものなら、私も十歳の頃には使えていた。
心の中で詠唱し、声に出す過程を省略するだけ。
難しい技術ではあるが、理屈の上では説明できる。
しかし、五歳の幼児がそれを行うのは、あまりに現実味が無さすぎる。
だからこそ、最初は報告を疑った。
どうせ、詠唱らしき声を周囲が聞き逃したか、魔力制御に失敗して偶然火が出ただけだろう。
確認する。
危険なら止める。
必要なら基礎から教える。
報告書を書く。
そして、父さんの待つ研究館へ帰る。
そのつもりだった。
今思えば、随分と偉そうだった。
いや。
今でも、自分が優秀だという考えは変わっていない。
事実だと思っている。
だから、六歳の子供に自分の知らないものを見せられるなんて、考えてすらいなかった。
そして、レインは私の予想の悉く上を行った。
魔力を見る。
そして、既存の魔法理論を覆しかねない、完全無詠唱。
私は十歳の頃から無詠唱を使ってきた。
けれど、それは詠唱を消したわけではない。
声に出していないだけで、頭の中では唱えている。
レインは、それすらしていなかった。
詠唱を口に出さないのではない。
詠唱という補助輪そのものを使っていない。
そして今日。
点火魔法で測定した、移動、圧縮、出力、変質。
本来なら順に処理される四つの操作が、重なっていた。
本人は、大した理論も知らない。
術式の歴史も知らない。
なのに、できる。
初めてそれを見た時、ほんの一瞬だけ、腹が立った。
私は何年勉強したと思っている。
何冊の本を読んだ。
何百の術式を分解した。
何本、論文を書いた。
それなのに、目の前の子供は、私の知らない場所へ何の苦労もなく踏み込んでいるように見えた。
ずるい。
確かに、そう思った。
でも、その感情は長く続かなかった。
分からなかったからだ。
どうしてできる?
何が起きている?
ただ処理が速いだけなのか。
それとも、本当に工程が重なっているのか。
今日、最高級の測定器を使って、ようやく一つ分かった。
記録に残った四本の線。
前の操作が終わる前に、次の操作が始まっている。
確かに、重なっていた。
でも、まだそれだけだ。
レインは感覚でやっている。
本人にも、なぜできるのか説明できない。
つまり、まだ理論がない。
「……」
知らない。
私が、知らない。
それが、たまらなく面白かった。
今日使った測定器は、帝国でも最高級のものだ。
レインの重複操作は、はっきり記録できた。
けれど、私が一瞬だけ成功させたごく微弱な重複操作は拾えなかった。
レインには見えた。
私には感じ取れない。
測定器にも出ない。
でも、起きている。
だったら、測れるところまで持っていけばいい。
もっと安定させる。
もっとはっきり重ねる。
測定器が拾える強さまで。
そこまでいけば、調べられる。
どの程度まで二つの操作を重ねられるのか。
いつ重ね始めれば安定するのか。
それぞれの強さに、どんな関係があるのか。
どこから制御が崩れるのか。
条件を一つずつ拾う。
条件が分かれば、理論にできる。
理論にできれば、術式へ落とし込めるかもしれない。
そうなれば、これはレインだけが感覚で使える技術ではなくなる。
誰かが学び、誰かが再現できる。
新しい魔法技術になるかもしれない。
レインが見つける。
私が理解する。
そして、形にする。
今日の研究室で、初めてその形が見えた気がした。
私が思いつけなかったものを、レインは理屈も知らないまま見つけてくる。
なら、私はそれを理解し、再現できる形へ変えればいい。
「……ふふ」
笑いが漏れた。
少し前まで、子供のお守りなんて面倒でしかなかったのに。
今は、明日の訓練が待ち遠しい。
再び、父さんの手が視界に入った。
私は、その細い手を握り直した。
この研究館へ来たのは、父さんと暮らすためだった。
一緒に食事をして、薬を飲んだか確認して、ときどき研究のしすぎだと叱られる。
そんな毎日は、思っていた以上に心地いい。
そして今は、そこにレインとの時間も増えた。
次は何を見せてくれるのか。
明日の訓練を考えるだけで、少し楽しみになる。
「……結局、魔法のことを考えているんですけどね」
眠る父さんへ呟き、私は小さく笑った。
父さんと過ごす時間も。
レインと魔法を学ぶ時間も。
どちらも、今の私には大切だった。
私は父さんの手を握ったまま、椅子の背にもたれる。
明日もきっと、悪くない一日になる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、幼年期編と少年期編の間の閑話として、セレナ視点のお話でした。
次話からは、成長したレインたちを描く「少年期編」が始まります。
感想や評価などをいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。
次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




