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第二十話「父と娘」

 ゴホッ、ゴホッ。


 今度は、さっきより少し長く咳が続いた。


「父さん」


 セレナがすぐに席を立つ。


「昼の薬は飲みましたか?」


「朝は飲んだよ」


「昼の分です」


「……まだだったかな」


「まだなんですね」


 さっきまで父親に言い負かされていた人とは思えない。


 セレナは呆れたように息を吐くと、棚の上に置かれていた小さな木箱へ手を伸ばした。


(今度は先生が怒る側か)


 そんなことを思っている間にも、エドモンの咳は続いていた。


「薬を飲めば落ち着くよ。そんなに心配しなくても――」


「父さん」


 セレナの声が少し低くなる。


 エドモンは観念したように口を閉じた。


「少し、じっとしていてください」


 セレナが椅子の横へ回り、エドモンの背中へ手を添える。


 その瞬間。


 彼女の身体から、透き通った魔力が流れ出した。


 細く、柔らかな白い光。


 セレナの手が触れている背中から、エドモンの身体へ入り込み、全身へゆっくりと広がっていく。


(治癒魔法……)


 俺は食事の手を止め、その様子を眺める。


 エドモンの身体を流れていた魔力は、ところどころ不規則に揺れていた。


 だが、セレナの魔力がそこへ入り込むたびに、その揺れが少しずつ収まっていく。


 しばらくすると、エドモンの呼吸も落ち着いた。


「……ありがとう。ずいぶん楽になったよ」


「最初から薬を飲んでいれば、こんなことにはならなかったんです」


「それはその通りだ」


 笑うエドモンに、セレナは小さくため息をついた。


 俺も胸を撫で下ろす。


(よかった)


 どうやら治ったらしい。


 そう思った。


 けれど――。


「……?」


 エドモンの身体へ目を凝らす。


 おかしい。


 さっきまで乱れていた魔力の流れは、今は確かに整っている。


 だが、完全ではない。


 一度は真っ直ぐにエドモンの身体を循環していた光が、セレナの魔力が薄れていくにつれて、少しずつ元の歪んだ流れへ戻っていく。


 ほんの少しずつ。


 でも、確実に。


「先生」


「なんですか?」


「治ったんですか?」


 セレナの手が止まった。


 一瞬だけ、静かになる。


「……いいえ」


 その答えは短かった。


「今のは、症状を抑えただけです」


「症状を?」


「はい」


 セレナはエドモンの背中から手を離した。


「父の魔力回路は、正常な状態から少しずつ変化しています。治癒魔法で負担を減らすことはできますが、一度変わってしまった回路そのものを元へ戻す方法は、まだ見つかっていません」


 魔力回路。


 俺も訓練の中で何度か聞いたことがある。


 身体の中で魔力を循環させ、操作するためのもの。


 それ自体がおかしくなっているらしい。


「じゃあ……治せないんですか?」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。


 けれどセレナは怒らなかった。


 ただ、しばらく黙っていた。


 そして。


「……今の私には」


 静かに答えた。


 その言葉が妙に耳に残った。


 治せない。


 ではなく。


 今の私には。


「研究は、しているんですか?」


「もちろんです」


 今度は即答だった。


「既存の治癒魔法だけではなく、魔力回路そのものへの干渉、再生、置換……思いつくものは一通り調べています」


 そこでセレナは言葉を止めた。


「ですが、まだ治療法には至っていません」


(先生でも……)


 今日だってそうだ。


 俺には意味の分からない測定結果を読み解き、俺が感覚でやっていることを、言葉や式に変えようとしていた。


 俺から見れば、魔法についてほとんど何でも知っているような人だ。


 その先生にも、分からないことがある。


 俺はもう一度、エドモンを見る。


 俺の目には、エドモンの身体を流れる魔力の僅かな歪みがまだ見えていた。


(これも、何か意味があるのかな)


 先生には感じ取れないほど小さな魔力の変化でも、俺なら見ることができる。


 今日の実験みたいに。


 もしかしたら。


 もっと魔法を学べば。


 もっと、この目の使い方が分かれば。


 いつか、この歪みが何なのかも分かるのだろうか。


「そんな顔をしないでくれ」


 エドモンの声で我に返る。


 彼は困ったように笑っていた。


「病気とは長い付き合いなんだ。今すぐどうこうなるものじゃないよ」


「父さん。そう言って薬を忘れるから困っているんです」


「忘れたわけじゃない」


「では?」


「少し後で飲もうと思っていただけだ」


「それを忘れたと言うんです」


 きっぱり言い切られ、エドモンが俺を見る。


「厳しいと思わないかい?」


「僕に聞かれても...」


 さっきそう答えて酷い目に遭ったばかりだ。


 エドモンが笑う。


 セレナはそんな父親を呆れたように見ていた。


 けれど、その表情はどこか安心したようにも見えた。


 ***


 食事が終わる頃には、エドモンの咳もすっかり治まっていた。


「父さん。薬箱を見てきます」


「まだ十分残っているよ」


「前にもそう言って、残り三日分しかありませんでしたよね」


「……よく覚えているな」


「忘れるわけないでしょう」


 そう言って、セレナは部屋を出ていった。


 残されたのは、俺とエドモンだけ。


 さっきまで賑やかだったせいか、急に部屋が静かになったように感じる。


 エドモンがカップへ口をつける。


「驚いたかい?」


「少し」


「病気のこと?」


「それもですけど……先生のことも」


「セレナ?」


 俺は頷いた。


「エドモンさんといる時は、いつもと全然違うので」


「ああ」


 エドモンは納得したように笑った。


「外では、ああいう子じゃないのかい?」


「もっと……こう、研究者らしいというか、しっかりしています」


「それは遠回しに、家ではしっかりしていないと言っているのかな?」


「そこまでは言ってません」


 危ない。


 本人が戻ってくる前でよかった。


 エドモンが楽しそうに肩を揺らす。


「昔から、魔法のことになるとああなんだよ」


「昔から?」


「ああ。一度本を読み始めると食事を忘れるし、何か思いつけば夜まで机に向かっている。止めなければ、本当にいつまでも続ける」


「……今日と同じですね」


「だろう?」


 二人で小さく笑う。


 けれど、エドモンはふと入り口の扉へ目を向けた。


「だから、少し安心したんだ」


「安心?」


「あの子が誰かを連れてきたことにね」


 俺は首を傾げる。


「僕をですか?」


「そう」


「研究のためですよ?」


「それでもだよ」


 エドモンは穏やかに笑う。


「セレナは昔から、一人で何でもやろうとするところがある」


 少しだけ間を置く。


「でも今日は、君と一緒に随分楽しそうに研究していた」


「楽しそう……でしたね」


 少なくとも、訓練場にいる時よりは。


 測定器を動かしている時も。


 記録を見ている時も。


 自分でも重複操作を試そうとしている時も。


 ずっと目が輝いていた。


「一人で好きなことをするのと、誰かと一緒に夢中になるのは、少し違うからね」


 エドモンの言葉に、俺は研究室でのセレナを思い出した。


 俺が見たものを伝える。


 先生が考える。


 また試す。


 失敗する。


 条件を変える。


 そうやって、二人で答えを探していた。


 確かに。


 一人で魔法を練習している時とは、少し違った。


「だから、レイン君」


 エドモンが俺を見る。


「はい?」


「一つだけ、お願いしてもいいかな」


 さっきまでと変わらない穏やかな声だった。


「あの子を、魔法だけの人間にしないでやってくれ」


「……僕が?」


 思わず聞き返す。


 そんなことを頼まれても、六歳の俺に何ができるんだ。


 そんな俺の顔を見て、エドモンが吹き出した。


「そんな難しい顔をしなくていい」


「でも……」


「今日みたいに、昼になったら腹が減ったと言ってやってくれればいいんだ」


「それだけですか?」


「それくらいが丁度いい」


 エドモンは笑った。


「研究を止める理由が、たまには魔法以外にもあった方がいい」


「……なるほど」


 分かったような。


 分からないような。


 その時。


「父さん」


 扉の方から声がした。


 振り返ると、薬箱を抱えたセレナが立っていた。


「レインに何を話していたんですか?」


「昔話を少し」


「本当ですか?」


「もちろん」


 紫の瞳が今度は俺へ向く。


「レイン?」


「何も聞いてません」


「今、昔話をしていたと言ったばかりですよ」


「あ」


 しまった。


 エドモンが堪えきれずに笑い出した。


「父さん!」


「いや、すまない。レイン君は正直でいい子だ」


「もう……」


 セレナは深くため息をつく。


 けれど、その口元には、小さな笑みがあった。


 ***


 帰りの馬車。


 窓の向こうで、研究館が少しずつ遠ざかっていく。


 朝に見た時は、帝国最高峰の魔導師のものとしては少し簡素な研究所に見えた。


 今は少し違う。


 あそこは先生の研究館で、同時に、先生が父親と暮らしている家なのだ。


『あの子を、魔法だけの人間にしないでやってくれ』


 エドモンの言葉を思い出す。


(魔法だけの人間、か)


 正直、まだよく分からない。


 俺だって今は、魔法のことで頭がいっぱいだ。


 でも――。


 窓の外へ目を向ける。


 朝とは反対方向へ流れていく景色。


 遠くには領都の屋根が見え、その向こうには緑の丘がどこまでも続いていた。


 この世界に生まれてから、六年。


 最初は、母さんの腕の中から見える景色が、俺にとっての世界のすべてだった。


 やがて屋敷を歩けるようになった。


 文字を覚えた。


 魔法を知った。


 父さんと街へ出て、そこに暮らす人たちを知った。


 先生と出会って、自分にしか見えないものがあることを知った。


 そして今日。


 その先生にだって、まだ分からないことがあると知った。


 世界は、思っていたよりずっと広い。


 知らないことだらけだ。


(だったら――)


 もっと知りたい。


 もっと魔法を学びたい。


 この目に映っているものが何なのか、一つずつ理解したい。


 そして。


 もっと強くなりたい。


 今はまだ届かないものにも、いつか手を伸ばせるくらいに。


 前世では、何者にもなれなかった。


 何をやっても、自分より上がいた。


 だからいつの間にか、挑戦することすら怖くなっていた。


 でも、今は違う。


 知らないものがあることが、不思議と怖くない。


 むしろ――。


(楽しみだな)


 これから先、俺はどんな魔法を知るんだろう。


 どんな人と出会うんだろう。


 どこまで行けるんだろう。


 考えるだけで、胸の奥が少し熱くなる。


 その時。


 ぐぅぅ……。


 また腹が鳴った。


「……」


 そういえば、研究に夢中で昼食が遅れたせいで、あまりゆっくり食べられなかった。


(帰ったら何か食べよう)


 それから。


 先生がまた食事を忘れそうになったら、今日より少し早く声をかける。


 エドモンとの約束だ。


 馬車が緩やかな坂を越える。


 その瞬間、視界が大きく開けた。


 茜色の空の下。


 領都へ続く道が、ずっと遠くまで伸びている。


 俺は窓枠に手を置き、その先を見つめた。


 まだ知らないことは、山ほどある。


 だったら、一つずつ知っていけばいい。


 まだできないことも、山ほどある。


 だったら、一つずつできるようになればいい。


 この世界でなら。


 どこまでだって行ける気がした。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


これにて、幼年期編は完結となります。

次話からは、成長したレインを描く少年期編が始まります。


感想や評価などをいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。


次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。


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