第十九話「先生の研究館」
翌朝。
俺は馬車に揺られ、アストリア領の近郊にあるセレナの研究館へ向かっていた。
(先生の研究館か……)
帝国でも指折りの魔導師が使う研究施設。
いったい、どんな場所なのだろう。
「到着いたしました」
御者の声に、窓の外へ目を向ける。
馬車から降りて最初に目に入ったのは、巨大な塔でも、庭一面を埋め尽くす魔法陣でもなかった。
アストリア邸の四分の一ほどの大きさしかない、二階建ての質素な建物だ。
けれど、門をくぐると印象が変わった。
建物を囲うように細い術式線が走り、少し離れた場所には丸い屋根の実験棟らしき建物がある。本棟も厚い白石の壁で造られており、庭の一角には黒い焦げ跡の残った標的が立っていた。
(普通の家……と思ったけど、やっぱり違うな)
やがて大きな木製の扉の前まで来ると、セレナがこちらを振り返った。
「ようこそ、私の研究館へ」
***
「ここが今日使う研究室です」
廊下を進んだ先で案内されたのは、『魔力測定室』と書かれた部屋だった。
中へ入る。
壁際には大小さまざまな測定器が並び、中央の大きな作業机には、分厚い本や研究報告書がいくつも積まれていた。
セレナは白衣――ではなく、いつもの白い魔導衣の袖をまくる。
紙を何枚か机へ並べると、大きめの魔導具へ魔晶石を嵌め込んだ。
キィィン――。
甲高い音が響き、魔導具に淡い光が灯る。
「これは魔力操作の変化を記録するための測定器です。移動、圧縮、出力、変質。それぞれの操作が、いつ、どの程度起きたのかを記録できます」
「そんなものまで分かるんですか?」
「ええ。研究用としては、帝国でも最高級のものです」
そう答えながらも、セレナの手は止まらない。
いつもの訓練より言葉も少し早い。
(なんだか、楽しそうだな)
「まずは比較実験を行います。そのために基準を作りましょう」
セレナは測定器の前へ立った。
「小さき火よ、灯れ」
パチッ。
指先に小さな炎が灯る。
それを消すと、もう一度。
同じ点火魔法を、ほぼ同じ間隔で十回繰り返した。
そのたびに測定器が規則正しく音を立て、脇に置かれた記録紙へ細い線が刻まれていく。
やがてセレナが十回分の記録を重ねた。
「……」
俺も横から覗き込む。
十回分あるはずなのに、ほとんど一本にしか見えない。
(全部、同じだ)
魔力を動かす速さも。
圧縮の強さも。
外へ出す魔力量も。
変質するタイミングも。
俺なら、まだ少しずつずれる。
なのに先生は、十回ともほとんど同じ魔法を作っていた。
「これで基準値は取れました」
当の本人は、何事もなかったように記録を机へ置く。
改めて見ると、とんでもない精度だ。
「次はレインです。この測定器の正面に立って、点火魔法を詠唱、心内詠唱、完全無詠唱の順に使ってください」
「分かりました」
まずは普通に詠唱する。
「小さき火よ、灯れ」
測定器が規則正しく音を刻む。
パチッ、と指先に炎が灯った。
セレナは記録を確認すると、すぐに次を指示する。
「では、心内詠唱で」
「はい」
右手を前へ出す。
(小さき火よ、灯れ)
再び炎が灯った。
「最後です。完全無詠唱でお願いします」
「はい」
昨日と同じように、移動、圧縮、出力、変質。
一つの操作が終わるのを待たず、次の操作を重ねるように魔力を動かしていく。
パチッ。
小さな炎が灯った。
同時に、測定器からこれまでとは違う音がした。
規則正しく一つずつ鳴っていた音が、わずかに重なる。
「……」
セレナはすぐに三枚の記録を机へ並べた。
何度も視線を往復させる。
その横顔から、さっきまでの楽しげな色が消えていた。
「やはり……」
小さな声が落ちる。
「レイン。こちらへ」
俺はセレナの隣へ移動した。
「これを見てください」
三枚の紙には、いくつかの色の線が記録されている。
「横が時間、縦がそれぞれの操作に対する反応の強さです。黒が移動、赤が圧縮、青が出力、緑が変質を表しています」
一枚目と二枚目を見る。
黒。
赤。
青。
緑。
わずかな間隔を空けながら、それぞれの反応が順番に現れていた。
だが、三枚目は違う。
黒の反応が消えきる前に赤が立ち上がり、二つが重なる。
その赤が残っているうちに青が現れ、さらに青が消えきる前に緑が立ち上がっていた。
俺でも分かる。
明らかに、操作の起きている時間が重なっていた。
「工程は、消えていません」
セレナが言った。
「え?」
「昨日の時点では、一つずつの操作があまりに速く行われたせいで、私には重なっているように感じられただけ、という可能性もありました」
セレナの指先が三枚目の記録をなぞる。
「ですが、この記録を見る限り違います」
黒と赤。
赤と青。
そして青と緑。
それぞれの線が、わずかずつ重なっている。
「移動、圧縮、出力、変質。必要な操作そのものは、すべて存在しています」
セレナが俺を見る。
「本当に、前の操作が終わる前に次の操作が始まっている」
「……なるほど」
完全無詠唱だからといって、何かの工程を飛ばしているわけではない。
四つともやっている。
ただ、そのやり方が普通とは違うらしい。
「世界の理そのものを無視しているわけではありません」
セレナの声が少しだけ早くなる。
「ですが、既存の魔法理論が前提としているものを、一つ崩す結果ではあります」
「どういうことですか?」
「『分割』のように、複数の魔力を別々に操る技術はあります」
セレナは記録紙へ目を戻した。
「ですが、一つの魔力に対して、移動させながら圧縮する――というように、異なる工程そのものを重ねるのは別です。既存の術式は基本的に、工程を切り分けて処理することを前提に組まれています」
「先生にもできないんですか?」
セレナの動きが止まった。
「……学生の頃に、一度試したことはあります」
「あるんですね」
「制御が崩れるだけで、術式に使える形にはなりませんでした」
そこで、紫の瞳が俺へ向く。
「ですが、実際に成功例を目の前で見てしまった以上、話は別です」
セレナは立ち上がり、測定器の前へ移動した。
「レイン。見ていてください」
「はい」
セレナは目を閉じる。
呼吸がゆっくりと整っていった。
やがて胸元から、一塊の透明な魔力が左腕へ向かって流れ始める。
肩を過ぎたあたりだった。
(あ……)
魔力の輪郭が、ほんのわずかに縮んだ。
移動を続けながら、密度が上がっている。
しかし、それは長く続かなかった。
光が大きく揺らぎ、そのまま形を失って散っていく。
セレナが目を開けた。
「……やはり難しいですね」
「いや」
「?」
「今、少しだけできていました」
セレナがこちらを見る。
「肩を過ぎたあたりです。魔力が動いたまま、ほんの少し小さくなってました」
「……」
セレナはすぐさま測定器へ向き直った。
記録紙を確認する。
そこに残っていたのは、移動を示す反応だけだった。
圧縮の反応はない。
「測定器では、圧縮を検出していません」
「でも、確かに見えました」
「……もう一度お願いします」
再びセレナが魔力を動かす。
今度は先ほどより慎重に。
胸元から左腕へ。
肩を過ぎたところで、魔力の輪郭がほんの少し締まる。
やはりすぐに崩れてしまった。
「どうですか?」
「今もです。肩を過ぎたあたりから、少し圧縮していました」
「私も、そのタイミングから圧縮するよう意識しました」
セレナは記録を見る。
だが、やはり残っているのは移動の反応だけだった。
「……」
しばらく記録を見つめていたセレナが、ぽつりと呟く。
「圧縮の反応が小さすぎる……?」
そして、すぐに俺を見た。
「レイン。確認します」
「はい」
「一度魔力を指先まで移動させて、そこで止めてください。その状態で、今の私が行った程度だけ圧縮できますか?」
「やってみます」
測定器の前へ立つ。
魔力を右手の指先まで移動させ、そこで止めた。
そこから――ほんの少しだけ。
俺の目で見なければ分からない程度に、魔力の輪郭を縮める。
「先生、圧縮しました」
「そのまま」
セレナが記録紙を確認する。
数秒。
「もう戻して構いません」
力を抜く。
俺もセレナの横から紙を覗き込んだ。
圧縮を示す反応は、どこにもなかった。
「……なるほど」
セレナが呟く。
紫の瞳が、記録紙と俺の指先を行き来した。
「この程度の変化になると、検出限界を下回るんですね」
「この測定器でも?」
思わず尋ねる。
さっき、帝国でも最高級だと言っていたはずだ。
「ええ」
セレナは少し悔しそうに記録紙を見る。
「これ以上の精度を持つものは、少なくとも私は知りません」
「じゃあ、先生がさっきやったのは……」
「測定器では観測できないほど微弱だった。でも、確かに圧縮は起きていた」
セレナの視線が、ゆっくりと俺へ向く。
「あなたの目が正しければ、ですが」
「正しいですよ」
「でしょうね」
即答だった。
それからセレナは、もう一度記録紙へ目を落とした。
「……あと少し」
「え?」
「あと少し、圧縮を強くしたまま移動を維持できれば、測定器にも反応が出るはずです」
その声に、さっきまでとは違う熱が混じる。
「それができたら、何か分かるんですか?」
「分かるかもしれません」
セレナは俺の完全無詠唱の記録を横へ並べた。
「今は、あなたが重複操作をできるという事実しか分かっていません。ですが、私自身が測定可能な強さで再現できれば――」
赤と黒の線を指でなぞる。
「どの程度まで操作を重ねられるのか。いつ重ね始めれば安定するのか。二つの操作の強さにどんな関係があるのか。それを一つずつ測れます」
「それが分かれば……」
「再現条件を組み立てられるかもしれない」
セレナが顔を上げる。
紫の瞳が輝いていた。
「今は、あなたが感覚だけで行っている技術です」
一拍置いて、
「でも、条件を言葉と数字にできれば、術式へ落とし込める可能性があります」
「術式に?」
「はい」
セレナは頷いた。
「レインだけが使える特殊な技術ではなく、理論として説明できる魔力操作になるかもしれません」
俺は机の上の記録を見る。
昨日、たまたまできたこと。
自分でも、どうしてできるのかよく分かっていなかったこと。
それが、誰かに教えられる魔法になるかもしれない。
「……すごいですね」
「まだ仮説です」
そう言いながらも、セレナの口元はわずかに上がっていた。
「まずは、私が測定器に反応させられるところまで持っていかないといけません」
そう言って、再び測定器の前へ立つ。
「もう一度やります」
「はい」
***
それから、俺はセレナの実験に付き合い続けた。
セレナ自身も何度も移動と圧縮を重ねようと試し、そのたびに俺が見えた変化を伝える。
そして今度は、俺の方でも条件を変えていく。
「次は速度を半分にしてください」
「はい」
「今度は魔力量を減らして」
「はい」
「圧縮だけ、少し遅らせられますか?」
「やってみます」
「次は出力と変質の間隔を意識して広げてください」
条件を一つずつ変える。
試す。
測る。
結果を比べる。
どのくらい工程を重ねれば安定するのか。
どこから崩れるのか。
測定器に残る記録と、俺に見えている魔力の変化を比べながら、セレナは一つずつ条件を絞っていった。
「なるほど……」
記録を見比べていたセレナが立ち上がる。
壁際の大きな黒板へ向かうと、数式や図を次々に書き始めた。
俺にはほとんど意味が分からない。
なのにセレナは、何枚もの記録を確認しながら迷いなく式を繋いでいく。
(俺には、魔力が見える)
見えたものを真似することもできる。
でも。
(先生は、そこから「なぜ」を見つけていくんだな)
俺が感覚でやったことを、セレナは一つずつ切り分け、言葉と式に変えていく。
俺一人なら、できたことを「できた」で終わらせていたかもしれない。
けれど先生は違う。
どうしてできたのか。
どうすればもう一度できるのか。
そして、どうすれば他の人間にもできるようになるのか。
そこまで辿り着こうとしている。
改めて、俺と先生では得意なことがまるで違うのだと思った。
***
それから、どれくらい経っただろう。
「今度は、できるだけ工程を重ねるようにお願いします」
「はい」
この部屋には時計が見当たらない。
けれど、研究を始めた頃にはまだ低かった太陽が、窓の向こうですでに空の頂点を越えていた。
ぐぅぅ……。
静かな部屋に、情けない音が響く。
「先生……」
「はい」
「お腹、空きました」
「……」
セレナの手が止まった。
ポケットから懐中時計を取り出す。
「…………すみません」
どうやら、かなり昼を過ぎていたらしい。
その時だった。
「セレナ。その子を昼食抜きで研究に付き合わせるつもりかい?」
知らない男の声がした。
振り返る。
測定室の入口、その少し向こうに一人の男性が立っていた。
五十歳前後だろうか。
細身の身体に、柔らかな灰色の上着を羽織っている。短く整えた髪には白いものが混じり、頬も少し細い。
けれど、こちらを見る目元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「まったく。研究を始めると、昔から周りが見えなくなるんだから」
「父さん。実験中に入ってこないでください。危ないですから」
「だから扉の外から声をかけているだろう?」
(父さん?)
俺が男とセレナを見比べていると、セレナが気づいた。
「レイン。父のエドモン・ミレイユです」
「初めまして」
エドモンは穏やかに笑う。
「君がレイン君だね。セレナから話は聞いているよ」
「はい」
「娘がずいぶん世話になっているようだね」
「いえ、僕の方がお世話になっています」
「そうか。それならお互い様だ」
そう言って、また笑った。
それからセレナへ顔を向ける。
「ところでセレナ。朝から何か食べたのか?」
「食べました」
「パン一枚は食事に入らないよ」
「入ります」
「入らない」
きっぱり言い切られた。
(先生が言い負かされてる……)
「昼食を作ったんだ。よければレイン君も一緒にどうだい?」
「いいんですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
***
「さあ、冷めないうちに食べよう」
エドモンに促され、俺たちは食卓についた。
並んでいるのは、焼きたてのパンに野菜のスープ、薄く切った肉。
派手ではないが、湯気と一緒にいい匂いが立ち上っている。
「大したものはないけど、遠慮しないで食べてくれ」
「ありがとうございます」
「父さん。お客様なんだから、もう少しちゃんとしたものを用意できればよかったのに」
食事の時間まで忘れていたせいか、セレナが少しばつの悪そうな顔をする。
「昨日の夜に突然『明日、生徒を連れてくる』と言われて、どう準備しろというんだい」
「……それは」
セレナが珍しく言葉に詰まった。
エドモンは楽しそうに笑う。
「それに、レイン君も毎日ご馳走ばかりでは疲れるだろう?」
「はい。こういう食事、好きです」
「ほら」
「レインまで父さんの味方をしないでください」
「えっ」
フォークを持つ手が止まった。
訓練場で俺を指導している時とは、ずいぶん様子が違う。
「ははは。セレナが生徒を家へ連れてくるなんて初めてだからね。少しくらい私の味方をしてもらわないと」
「研究のためです」
「分かってるよ。珍しいから驚いただけだ」
「父さん」
今度は少し低い声だった。
帝国でも指折りの魔導師が、父親にからかわれている。
なんだか不思議な光景だ。
「ところでレイン君。セレナの先生ぶりはどうだい?」
「すごく分かりやすいです。……でも、厳しいです」
「そうかそうか。昔から、魔法のこととなると妙に真面目でね」
「余計なことを言わないでください」
「先生にも、こんな一面があるんですね」
つい口を挟む。
セレナの視線がこちらへ向いた。
「……レインまで父さんの味方をするんですか?」
「いや、その」
「明日の訓練、少し増やしましょうか」
「すみません」
即座に謝った。
(これ以上厳しくされたら、本当に困る)
エドモンが声を上げて笑う。
セレナは呆れたように息を吐いたが、その口元もわずかに緩んでいた。
学院の特任教授でも、帝国でも指折りの魔導師でもない。
その瞬間だけは、ただ父親と食卓を囲んでいる十八歳の娘に見えた。
ゴホッ。
向かいから、小さな咳が聞こえた。
セレナがすぐに顔を上げる。
「父さん」
「大丈夫だよ」
エドモンはそう言って笑った。
けれど、セレナの顔からは、ほんの一瞬だけ笑みが消えていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




