第十八話「完全無詠唱」
「おはようございます、レイン。今日もよろしくお願いします」
いつも通り訓練場で準備をしていると、白い魔導衣を身に纏ったセレナが、時間ぴったりにやってきた。
「おはようございます、先生。今日もよろしくお願いします」
セレナが先生になってから、およそ一ヶ月が経った。この一ヶ月は、基本的な魔力操作の訓練でいっぱいいっぱいだった。
魔力を思い通りに動かす『移動』。
魔力の密度を高める『圧縮』。
一つの魔力を複数に分ける『分割』。
体内の魔力を体外へ放つ『出力』。
どれも一筋縄ではいかなかった。
けれど、セレナに言われた通り、魔力をただ「感じる」のではなく、自分にしか見えない光の動きを意識するようになってから、少しずつ安定して操作できるようになってきた。
「今日から、『変質』に入りましょう」
セレナがそう告げる。
「そして――いよいよ、属性魔法を解禁します」
「ついに……ですね」
思わず声が弾んだ。一ヶ月間、魔法を使いたい気持ちを抑えながら、ひたすら地味な魔力操作を繰り返してきたのだ。
「はい。一ヶ月間、魔力操作だけの地道な訓練をよく頑張りましたね」
セレナの声が、わずかに柔らかくなる。
「ありがとうございます」
少し照れくさくなって答えると、セレナはいつもの教師らしい表情へ戻った。
「では、始めましょう」
そう言って、人差し指を立てる。
「今日扱う『変質』は、これまで練習してきた魔力操作とは少し性質が異なります」
「何が違うんですか?」
「これまでは、魔力を動かしたり、密度を高めたり、分けたり、身体の外へ出したりしてきました。ですが、どれも魔力そのものの性質は変わっていません」
セレナは少し考えてから、
「そうですね……粘土を想像してください」
と言った。
「粘土?」
「はい。粘土を移動させても、ちぎっても、押し固めても、粘土であることに変わりはありませんよね?」
「確かに」
「これまでの操作は、それと同じです」
なるほど。
移動させても。
小さく圧縮しても。
いくつに分けても。
俺の目には、同じ透明な光として見えていた。
「一方で『変質』は、その粘土そのものを別のものへ変えるような操作です」
セレナが右手を前へ伸ばす。
「見ていてください」
俺はその指先へ目を凝らした。
「小さき火よ、灯れ」
静かな声が響く。
胸元にあった透明な魔力の一部が動き、右腕を通って指先へ集まっていく。
体外へ出た光が小さくまとまり、密度を増していく。
そこまでは、これまで何度も見てきた操作だった。
しかし――。
透明だった光に、ほんのわずかに色が混じった。
(……変わった)
淡い赤。
それは次第に濃くなり、俺が厨房や暖炉で何度も目にしてきた、見慣れた色へと近づいていく。
そして、その色がぴたりと重なった瞬間。
パチッ。
小さな炎が、セレナの指先に灯った。
蝋燭の火より少し大きい程度の炎が、数秒揺らめく。
やがてセレナが指を閉じると、ふっと消えた。
「見えていましたか?」
「はい」
俺は頷く。
「透明だった魔力が、少しずつ赤くなっていきました。それで……先生の魔力が炎と同じ色になった瞬間、火に変わりました」
「やはり、そこまで見えるのですね」
セレナが興味深そうに目を細めた。
「自身の無属性の魔力を、炎や水など、目的とする性質へ変える。それが『変質』です」
それから俺を見て、
「あなたの見え方に合わせて言うなら、透明な魔力を『正解の色』へ近づける操作、と考えても構わないでしょう」
「正解の色……」
自分の手を見る。
これができれば。
ようやく――。
「先生、僕もやってみていいですか?」
セレナの眉がわずかに上がった。
「普通なら、最初は教師がもっと細かく補助しながら行うのですが……」
そこで言葉を切る。
魔力を見られない人なら、そうなのかもしれない。けれど、俺には目の前でセレナが作った『正解』が見えている。
あの透明な光を、あの赤い色へ近づければいい。
そう考えると、不思議とできる気がした。
「僕には、先生が作った炎の魔力の色が見えています」
「……」
「なんとなくですけど、できる気がします」
セレナはしばらく俺を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かりました」
俺の左側へ回り、その手を取った。
「ただし、少しでも制御が乱れたら私が止めます」
「はい」
「では、やってみてください」
俺は右手を前へ伸ばした。
一度、深く息を吸う。
「小さき火よ、灯れ」
言葉を口にした瞬間、身体の中心にある魔力が動き出した。
けれど、以前のように堰が外れたような勢いではない。
ほんの少しだけ。
一定の速さで。
安定した明るさを保ったまま、細い光が右腕を通っていく。
肩。
肘。
手首。
指先。
そこから必要な分だけを体外へ出す。
小さくまとめる。
密度を上げる。
そして――色を変える。
透明だった光が、少しずつ赤みを帯びていく。
(もう少し……)
セレナの魔力で見た色を思い出す。
さらにわずかに変える。
そして、二つの色が重なった。
パチッ。
指先で火花が散った。
そのあとに、小さな炎が灯る。
「……できた」
思わず声が漏れた。
「本当に、初めてで成功させてしまいましたね」
セレナがわずかに眉を上げる。
驚いてはいる。けれど、以前のように言葉を失うほどではなかった。
「本来なら、教師としてもう少し驚くところなのでしょうが……」
セレナは困ったように笑う。
「あなたを見ていると、だんだん驚く感覚が麻痺してきますね」
「それ、褒められてます?」
「一応は」
なんとも微妙な答えだった。
「何はともあれ、成功おめでとうございます」
セレナの表情が少し柔らかくなる。
「これでレインも、ようやく魔法使いの仲間入りですね」
***
「小さき火よ、灯れ」
パチッ。
小さな炎が灯る。
これで十回目だ。
最初こそ緊張したものの、何度か繰り返すうちに、魔力の量も、圧縮の度合いも、変質させる色も安定してきた。
「よし」
炎を消す。
気づくと、左手を握っていたセレナが手を離し、顎へ指を添えていた。
しばらく考え込んだあと、こちらを見る。
「十回とも問題ありません」
「本当ですか?」
「はい。流れる魔力を手から確認していましたが、大きな乱れはありませんでした」
少し胸を撫で下ろす。
ようやく、魔法が一つ使えるようになったのだ。
「先生、属性魔法って、実際にはどれくらいのことができるんですか?」
「そうですね」
と言いながら、セレナは四方を見る。
数十メートル先にある訓練用の標的を見つけ、セレナが指を向けた瞬間――
標的だけが、跡形もなく綺麗に吹き飛んだ。
周囲の地面には、土埃すら舞っていない。
何という精度だ。
「……」
「今のあなたが真似してはいけませんよ」
「はい、先生…」
セレナは再び俺の方を向いた。
「では、次へ進みましょう」
「次?」
「『無詠唱』です」
思わず姿勢を正した。
「……ですが、その前に」
セレナが続ける。
「レイン。そもそも『術式』と『詠唱』が何なのか、説明できますか?」
「術式と、詠唱……」
オスカーから単語は聞いたことがあった気はするが…
「……すみません。ちゃんとは分からないです」
「そうですか」
セレナは特に呆れる様子もなく頷いた。
「では、そこから説明しましょう」
俺も聞く姿勢を取る。
「まず『術式』とは、魔法を成立させるために必要な魔力操作の手順です」
「手順?」
「はい」
セレナが指を折りながら説明する。
「例えば点火魔法なら、必要な量の魔力を扱い、圧縮し、体外へ出し、炎へ変質させる。そうした一連の操作によって、一つの結果を生み出します」
「それが術式……」
「言ってしまえば、魔法のレシピですね」
その言葉なら分かりやすい。
材料そのものが魔力で、どのように扱うかが術式ということか。
「そして、その術式の実行を助けるのが『詠唱』です」
「『小さき火よ、灯れ』みたいな?」
「そうです」
セレナが頷く。
「詠唱を行うことで、術者は複雑な魔力操作を一つ一つ強く意識しなくても、術式に沿った形へ魔力を動かしやすくなります」
なるほど。
(補助輪みたいなものか)
自転車で言えば、術式がペダルを漕いだりハンドルを切ったりする一連の操作で、詠唱がそれを安定させる補助輪。
もちろん、補助輪があってもペダルの漕ぎ方すら知らなければ自転車は進まない。
「ただし、詠唱さえ覚えれば誰でも同じように魔法を使えるわけではありません」
セレナが続ける。
「基本となる魔力操作ができなければ、そもそも術式を正常に実行できませんから」
「だから先に、一ヶ月も魔力操作を?」
「その通りです」
思わず納得する。
もし最初から魔法だけを練習していたら、俺は詠唱任せで魔力を動かしていたかもしれない。
「では、『無詠唱』は?」
「一般に無詠唱と呼ばれているのは、口に出していた詠唱を、心の中だけで行う技術です」
「心の中で……」
「声に出す場合よりも術者自身で制御する部分が増えるため、より高い魔力操作能力や術式への理解が必要になります」
セレナが説明を終え、一度息をつく。
「何か質問はありますか?」
少し考える。
そこで、一つ気になった。
「僕が最初から無詠唱を使えたのは、どうしてなんでしょうか?」
初めてセレナと会った日。俺は応接室で、声に出さず点火魔法を使った。
あの時は、こんな訓練など何一つ受けていなかった。
「おそらく、一番大きいのは魔力視でしょう」
セレナはすぐに答えた。
「レインは幼い頃から、厨房や暖炉などで点火魔法を何度も見てきたのでしょう?」
「はい」
「普通の人間には見えない完成形を、あなたは何度も目で見ている。そして、その形へ自分の魔力を近づけることができる」
セレナは少し考えてから続ける。
「それに加えて、あなた自身の魔力操作能力が非常に高い。だから、術式を体系的に学んでいなくても、結果として正しい操作へ辿り着けたのだと思います」
「なるほど……」
自分ではただ、見えたものを真似していただけだった。
「ありがとうございます」
「いえ」
セレナは軽く答える。
「では、実際にやってみましょう」
一歩後ろへ下がった。
「心の中で『小さき火よ、灯れ』と唱えてください」
「はい」
右手を前へ伸ばす。
(小さき火よ、灯れ)
魔力が動く。
必要な量だけを右手へ。
体外へ出す。
小さくまとめ、密度を高める。
透明な光を、あの赤へ。
パチッ。
先ほどとほとんど変わらない炎が灯った。
「成功です」
セレナが頷く。
「さすがですね」
褒められて嬉しい。
けれど、セレナは炎ではなく、俺の腕のあたりをじっと見つめていた。
「……先生?」
「いえ」
小さく首を振る。
「感覚を忘れないうちに、何度か繰り返してください」
「はい!」
***
(小さき火よ、灯れ)
パチッ。
炎が灯る。
もう何度目だろう。
同じことを繰り返すうちに、少しずつ考える余裕が出てきた。
魔力を動かす。
外へ出す。
圧縮する。
変質させる。
一つ一つは、この一ヶ月で覚えてきた操作だ。
ただ――。
(これって、わざわざ一つずつやる必要があるのかな)
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
例えば移動。
今は魔力を指先まで動かしてから、次の操作へ移っている。
けれど。
(動かしながら、小さくしていけばいいんじゃないか?)
移動しながら圧縮する。
指先で一度止めず、そのまま体外へ。
そして、外へ出している最中から色を変える。
その方が、ずっと滑らかにできる気がした。
(やってみよう)
身体の中心にある光を見る。
今度は、心の中で詠唱することさえ忘れていた。
必要な魔力を抜き出す。
右腕へ動かす――その途中から、小さくする。
指先へ到達する頃には、すでに密度は十分だった。
止めない。
そのまま外へ。
透明な光が身体の境界を越えるのとほとんど同時に、赤へ変わる。
パチッ。
小さな炎が灯った。
「……できた」
見た目は、さっきまでの点火魔法と何も変わらない。
むしろ今までより、引っかかりが少なかった。
(このやり方でもいいんだな)
そう思った、そのとき。
「レイン」
肩を掴まれた。
「え?」
顔を上げる。
紫の瞳が、真正面から俺を捉えていた。
「今、何をしました?」
普段より明らかに早い口調だった。
「何って……点火魔法を」
「それは分かっています」
セレナがすぐに遮る。
「魔力操作です。今、どういう順番で動かしました?」
「順番……」
少し考える。
「順番には、やってないです」
セレナの動きが止まった。
「……どういう意味ですか?」
「移動してから圧縮して、それから出力して変質するんじゃなくて……」
思い出しながら説明する。
「動かしながら圧縮して、指先まで来たら止めないで、そのまま外に出しました。それで、外に出しながら色を変えて……」
言いながら、自分の右手を見る。
「その方が、滑らかにできるかなって」
「…………」
セレナは何も言わなかった。
俺の手を見ている。
いや。
その周囲に残る魔力の気配を探っているようだった。
やがて、小さく呟く。
「……あの日と同じ」
「あの日?」
「私たちが初めて会った日です」
セレナの声が少し低くなる。
「あの時も、あなたの魔力操作を追えませんでした」
俺は黙って聞く。
「移動、圧縮、出力、変質。本来なら一つずつ切り分けて感じ取れるはずの操作が、あの時は重なり合うように進んでいた」
セレナの表情から驚きが消え、代わりに何かを考える研究者の顔へ変わっていく。
「私は、単に処理速度が速すぎるのだと思っていました」
紫の瞳が、再び俺を見る。
「ですが……」
少し間を置く。
「レイン。今、心の中で詠唱しましたか?」
「え?」
聞かれて、初めて気づいた。
さっきは魔力をどう動かすかばかり考えていて――。
「……してないです」
セレナの眉がぴくりと動いた。
「本当に?」
「はい。そういえば、完全に忘れてました」
「…………」
また沈黙。しかし今度は長くなかった。
「もう一度やってください」
「え?」
「今とまったく同じ方法で」
「分かりました」
先ほどと同じように魔力を動かす。
移動と圧縮。
出力と変質。
それぞれをきっちり区切らず、重ねていく。
パチッ。
炎が灯る。
「もう一度」
セレナの視線は俺の指先から離れない。
「今度は、できる限りゆっくりできますか?」
「ゆっくり?」
「はい。今行っている操作を、一つずつ止める必要はありません。ただ、できる限り速度を落としてみてください」
「分かりました」
今度は意識して遅くする。
移動させながら。少しずつ圧縮する。
外へ出しながら。ゆっくりと赤へ。
パチッ。
炎が灯った。
「……」
セレナはじっと俺の指先を見ていた。
やがて目を閉じ、顎へ指を添える。
「あの……先生?」
反応がない。
しばらくして、紫の瞳が開いた。
「少なくとも」
静かな声だった。
「これは、一般に『無詠唱』と呼ばれているものとは違います」
「違う?」
「はい。通常の無詠唱は、心の中では詠唱を行っています。しかし今のレインは、それすら行っていない」
セレナは少し考え込む。
「詠唱に頼らず、自分で魔力そのものを制御して魔法を成立させている……」
そして、小さく呟いた。
「仮に呼ぶなら――『完全無詠唱』、でしょうか」
「完全無詠唱……」
口の中で言葉を転がす。なんだか大層な名前だ。
けれど、セレナの表情は晴れない。
「ただ……まだ分かりません」
「何がですか?」
「あなたが行っているのが、単に複数の操作を高速で繋げているだけなのか。それとも、本当に複数の操作を重ねているのか」
セレナは俺の右手を見る。
「私の感覚では、正確に切り分けられないんです」
「あ……」
あの日も同じことを言っていた。
過程がないのではない。
セレナにも、追えない。
「もう少し詳しく調べたい」
独り言のように呟いたあと、セレナは何かを決めたようにこちらを見る。
「レイン、頼みがあります」
「何でしょう?」
「明日、私の研究館へ来てもらえませんか?」
「先生の……研究館?」
「はい」
紫の瞳に、見慣れてきた研究者の光が宿る。
「ここにある器具だけでは、今の現象を正確に調べるのは難しい。研究館なら、必要な測定器も資料も揃っています」
そこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「せっかく面白いものを見つけたのです。何が起きているのか、きちんと確かめましょう」
「……はい!」
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