第十七話「領主の仕事」
馬車に揺られながら、先ほどレオンが口にした言葉をぼんやりと反芻していた。
『領主だからな』
領民から次々と声をかけられ、その一人ひとりの事情を覚えている。困っている者を見つければ、自ら馬車を降り、泥に足を踏み入れて手を貸す。
これまで何度も見てきた父の大きな背中が、今日は少し違って見えた。
(……だから、あんなに頼もしく見えるのかな)
小刻みな振動に揺られながら、馬車は領都の南へと進んでいく。
市場から離れるにつれ、石畳は途切れ、車輪の下から砂利を踏む乾いた音が聞こえるようになった。
やがて前方に、小さな川と、それを跨ぐ石造りの橋が見えてくる。
「古い橋ですね」
思わず呟いた。
欄干の一部は崩れ、石組みのところどころには細い亀裂が走っている。橋の中央付近には太い木材で仮の補強が施され、その脇では数人の作業員が行き交う荷車を一台ずつ確認していた。
レオンは橋へ目を向け、小さく頷いただけだった。
作業員の合図を受け、馬車がゆっくりと橋へ進入する。
ギシッ――。
足元から不穏な軋みが響き、思わず肩が跳ねた。
向かいに座るレオンを見る。
けれど彼は特に反応することもなく、窓の外へ視線を向けたままだった。
***
さらに南へ進むにつれ、家々は少なくなり、代わりに畑が目立つようになった。その先には、鬱蒼と木々の茂る森が横たわっている。そして、人の暮らす土地と森を隔てるように、太い丸太を組み上げた柵が左右へ延々と続いていた。
「……あれは?」
目を凝らす。
ところどころ、周囲より明るい色をした木材が混じっている。最近になって取り替えられたものらしい。
馬車が近づくにつれて、さらに別のものが見えてきた。
丸太の表面を深く抉る、何本もの爪痕。
人間の手でつけられるような傷ではない。
すぐ傍には新しい丸太が数本立てかけられ、男たちが壊れた部分の修繕を進めていた。
「これ……なんですか?」
「魔獣だ」
レオンの答えは短かった。
先ほどまでと変わらぬ低い声だったが、その眼差しだけが傷跡へ鋭く向けられている。
魔獣が存在すること自体は、本で読んで知っている。けれど、その痕跡を実際に目にするのは初めてだった。
(こんな太い木を……)
傷は指を差し込めそうなほど深く、長い。
その向こうにいる生き物の大きさを想像し、背中を冷たいものが走った。
「こんな街の近くまで来るんですか?」
柵の向こうにあるのは森だ。
しかし反対側には、ついさっきまで目にしていた畑や家々がある。
「昔は少なかった」
レオンは森を見たまま答えた。
「だが、最近はこの辺りまで下りてくることが増えている」
その言葉の意味を考えていた、そのときだった。
「伯爵様!」
防獣柵に沿ってこちらへ走ってくる男の姿が見えた。腰には剣を佩き、胸元には衛兵の徽章がある。
男は馬車の前まで駆け寄ると、荒い息を整える間も惜しむように声を上げた。
「南東側の柵でも、二か所の破損を確認しました!」
その瞬間、レオンの表情が変わった。
「負傷者は?」
「現在のところ確認されておりません!」
「足跡は」
「二頭です。大きさから見て、成獣と幼獣かと」
「村側へ抜けた形跡は?」
「ありません。柵を破った後、森へ引き返したものと思われます」
「見張りは」
「応急修繕が終わるまで、五名を配置しております!」
衛兵の返答を聞きながら、レオンは柵の向こうの森を見つめていた。
ほんの短い沈黙の後、
「詰所へ行く」
そう即断した。
***
馬車を少し走らせると、防獣柵の近くに建つ木造の詰所が見えてきた。日が傾き始めているためか、室内にはすでに灯りがともされ、大きな窓から橙色の光が漏れている。
レオンとともに中へ入る。
「伯爵様! レイン様!」
中にいた衛兵たちが一斉に姿勢を正した。
レオンは小さく頷くと、そのまま部屋の中央へ向かう。
大きな長方形の机には、周辺の地図や修繕予定表、木材の必要数を書き込んだ紙が何枚も広げられていた。
そのうちの一枚を手に取ったレオンへ、責任者らしい男が歩み寄る。
「伯爵様。今回破損した箇所を含め、防獣柵を本格的に修繕するとなると、相当量の木材と人手が必要になります」
「どの程度だ」
男が必要な人数と木材の量を答える。
レオンは黙って紙へ視線を落とした。
「それと、もう一件ございます」
責任者が別の書類を差し出した。
「南橋です。先日の雨で亀裂が広がっております。現在は応急的に補強しておりますが、このままでは次の大雨に耐えられない可能性があります」
(さっきの橋か……)
渡ったときに聞こえた、あの軋んだ音を思い出す。
「どちらを優先なさいますか」
問いかけられ、レオンは答えなかった。
机の上に置かれた二枚の書類へ視線を落としている。
(両方を直せるだけの余裕はない、ってことか)
人手も、資材も、金も無限にあるわけではない。
それくらいは分かる。
ただ、一つ気になることがあった。
「あの、父さん」
「なんだ」
「修繕に魔法を使える人を回すことはできないんですか?」
この世界には、俺の前世にはなかった魔法がある。人の手では何日もかかる作業を、魔法なら短縮できる可能性もあるはずだ。
レオンは少しだけこちらへ目を向けた。
「できなくはない」
「なら――」
「だが、その技術を持つ者にも限りがある」
レオンは机の上の地図へ視線を戻した。
「ここへ回せば、その者が今担当している仕事を止めることになる。当然、雇うにも金がいる」
「……なるほど」
魔法があるからといって、人手そのものが増えるわけではない。やり方が変わるだけで、誰かの時間を使うことには変わりないのだ。
「……すみません」
「なぜ謝る」
顔を上げる。
レオンはすでに書類へ視線を戻していた。
「知らないなら、聞けばいい」
それだけ言うと、再び衛兵たちとの話へ戻っていく。
俺は口を閉じ、そのやり取りを黙って見守った。
どれほど経っただろう。
やがてレオンが地図の一点を指で押さえた。
「防獣柵を優先する」
室内の視線が集まる。
「破損箇所を修繕し、村にも魔獣が近くまで来ていることを知らせろ。避難経路も改めて確認させる」
「はい!」
「南橋は応急補修を続ける。作業員を常駐させ、亀裂が広がるなど変化があればすぐに報告しろ」
レオンの指が地図の南側へ移る。
「荷重を制限し、大型荷車は迂回させろ。次に大雨が降った場合は、状況にかかわらず通行を止める」
「承知いたしました!」
衛兵たちが揃って敬礼する。
レオンはそれを見届けると、机の上の地図へもう一度目を落とした。
***
長い一日を終え、馬車は屋敷への道を戻っていた。
辺りはすっかり暗い。
窓の外から聞こえるのは、鈴を転がすような虫の声と、一定の間隔で地面を打つ馬の蹄だけだった。
俺は座席に身体を預けたまま、ぼんやりと今日の出来事を思い返していた。
市場で何人もの領民に声をかけられていたレオン。
パン屋の息子の不調や、老人の怪我を覚えていたレオン。
泥へ足を踏み入れ、ヨハンの荷馬車を押していたレオン。
そして今度は、柵と橋の書類を前に、どちらか一方を選んだレオン。
(ニコたちは、あの橋を使うんだろうか)
ふと、昼間の少年の顔が浮かんだ。
荷重を制限すれば、大きな荷馬車は遠回りしなければならない。
今日のように、野菜を山ほど積んだ荷馬車なら――。
「父さん」
「なんだ」
少し迷ってから、尋ねた。
「父さんでも、できないことがあるんですか?」
レオンがこちらを見る。ほんの少しだけ目を見開いたあと、
「できないことだらけだ」
あっさりと言った。
「……そうなんですか?」
「ああ」
レオンは再び窓の外へ視線を戻す。
「だから選ぶ。何を先に守るか。誰に任せるか」
暗闇の向こうを見つめながら、静かに続けた。
「全部を一人でできる人間はいない」
俺は何も答えられなかった。
ただ、車輪の音だけが規則正しく響いていた。
***
その夜。
自室へ戻る途中、廊下の奥から細い光が漏れていることに気づいた。
執務室だ。
扉はわずかに開いている。
何気なく中を覗くと、レオンが一人、机へ向かっていた。
昼間の詰所で見たものとよく似た地図。
何枚もの報告書。
数字の書き込まれた書類。
その一枚一枚に目を通し、ときおりペンを走らせている。
声をかけようとして――やめた。
昼間、俺の前を歩いていた大きな背中が、今はほんの少しだけ疲れて見えた。
(父さんの手だけじゃ、届かないところがある)
馬車の中で聞いた言葉が蘇る。
『全部を一人でできる人間はいない』
たぶん、その通りなのだろう。
それでも――。
俺が、もっと魔法を使えるようになれば。
もっと、強くなれば。
父さんの手が届かないところにも、俺の手なら届くのだろうか。
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