第十六話「父の背中」
雲一つない、よく晴れた日だった。
セレナとの特別訓練が始まってから、十日あまりが経った。『移動』はほとんど狙い通りにできるようになり、『圧縮』もあと少しでコツを掴めそうだ。
(今日こそ『圧縮』をものにして、次の課題に進みたいな)
テレシアとの朝食を終え、そんなことを考えながら、いつものように稽古場へ続く廊下を歩いていると、
「レイン」
背後から、聞き慣れた野太い声が飛んできた。
振り返ると、レオンがこちらへ歩いてくる。
「今日はセレナ殿との訓練は休め。すでに話は通してある」
「え?」
思わず足を止める。
「私と来い。お前に見せておきたいものがある」
(レオンの方から誘ってくるなんて、珍しいな)
伯爵として忙しいレオンと、二人で出かける機会はほとんどない。
「……わかりました」
そう答え、俺はレオンの大きな背中を追った。
屋敷の外へ出ると、玄関前には一台の馬車が待っていた。その傍らには、甲冑を身につけた護衛が二人控えている。
レオンに続いて馬車へ乗り込む。
大人が四人ほど座れそうな車内なのだが、向かいにレオンが腰を下ろすと、それだけで妙に狭く感じた。護衛は、俺とレオンが乗っている籠の前後に、一人ずつ位置を取った。
「それでは、出発いたします」
御者の声が前方から聞こえる。
「うむ。よろしく頼む」
馬がブルルッと鼻を鳴らした。
蹄が石畳を打ち、ガタリと車輪が回り始める。
(レオンと出かけるなんて、いつぶりだろう)
窓の外へ目を向けているうちに、馬車は屋敷の門へ差しかかった。そして門を抜けた、その瞬間。
それまで塀や木々に遮られていた視界が一気に開けた。
アストリア邸は、小高い丘の上に建っている。
眼下には赤褐色の屋根が幾重にも連なり、その間を細い道が縫うように伸びていた。街並みの向こうには畑や草地が広がり、さらに遠くの丘陵は朝の霞へ淡く溶け込んでいる。
屋敷の窓から、何度も見たはずの景色だった。
けれど、こうして街へ向かって下りていくと、少し違って見える。
あの一軒一軒に、人が暮らしている。そんな当たり前のことを、今さらのように意識した。
馬車は緩やかな坂を下り、領都へ向かっていった。
***
しばらくすると、窓の外から聞こえる声が次第に大きくなってきた。市場へ入ったらしい。
「今日は安いよ! 採れたてだ!」
「焼きたてのパンはいかがですかー!」
道の両側に店が並び、その間を大勢の人が行き交っている。
大きな籠を背負った男。
店先で値段を交渉する女。
荷車を引く商人の脇を、何人もの子供たちが器用にすり抜けていく。
馬車は人混みを避けながら、歩くほどの速さで進んでいった。
焼きたてのパンと肉の香ばしい匂い。
馬の匂いに、湿った土の匂い。
少し離れた鍛冶場からは、カン、カン、と槌を振るう音が一定の間隔で響いてくる。
客を呼び込む商人の声に、値段を巡るやり取り。それを横から冷やかす誰かの笑い声。
静かに整えられた屋敷とは、まるで違う。
騒がしく、雑然としている。けれど、不思議と嫌ではなかった。
(ここに住んでいる人たちのことを、俺はほとんど知らないんだな)
俺はアストリア家の嫡男だ。いずれ、この土地に関わって生きていくことになる。
それなのに、目の前を行き交う人々がどんな暮らしをしているのかさえ、ほとんど知らない。
「おお、伯爵様だ!」
不意に、道端から声が上がった。
「伯爵様! おはようございます!」
レオンに気づいた人々が、次々と声をかけてくる。深々と頭を下げる者もいれば、店先から笑顔で手を振る者もいた。
「レイン様もいらっしゃるぞ!」
「おはようございます、レイン様!」
「あ、おはようございます!」
突然こちらにも声が飛んできて、慌てて頭を下げる。
その様子を見て、近くにいた何人かが楽しそうに笑った。
レオンはそんな領民たちへ一つ一つ頷きを返していたが、やがて、とある店の前で御者へ声をかけた。
「少し止めてくれ」
馬車がゆっくりと止まる。
店先では、恰幅のいい女性が焼き上がったばかりらしいパンを棚へ並べていた。
レオンが窓から声をかける。
「息子の具合はどうだ?」
女性は一瞬目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「もうすっかり元気ですよ。先週から店にも出ております」
「そうか」
レオンは短く頷く。
「無理はさせるなよ」
「はい。ありがとうございます、伯爵様」
それだけのやり取りを終えると、馬車は再び動き始めた。
俺が何となくレオンの横顔を見ていると、今度は道端から老人の声が飛んできた。
「おお、レオン様。お久しぶりでございます」
一本の杖をついた白髪の老人だった。
「止めてくれ」
再び馬車が止まる。
今度はレオン自ら扉を開けて降りていった。
「足はもういいのか? 去年、収穫祭で転んだだろう」
「ほっほっほっ。覚えていてくださいましたか」
老人が嬉しそうに笑う。
「ええ。あのあと、お屋敷の方が治療院まで運んでくださったおかげで、もうすっかり良くなりましたよ。この杖も念のため持っているだけです」
(そんなことまで覚えているのか……)
「そうか。なら良かった」
レオンの厳つい顔が、ほんの少し緩む。
「これから暑くなる。身体には気をつけろよ」
「お気遣い、ありがとうございます」
老人が何度も頭を下げる。
レオンは小さく頷くと、何事もなかったかのように馬車へ戻ってきた。
市場を抜けると、人通りは次第にまばらになっていった。
道の両脇にはレンガ造りの家々が並び、庭先では竿に掛けられた洗濯物が風に揺れている。
軒下で籠を編む老人。
家の前を箒で掃く女性。
路地では、俺とそう変わらない年頃の子供たちが歓声を上げながら走り回っていた。
道端には、小さな草花がところどころ顔を出している。
市場の中心から離れるにつれ、石畳には少しずつ継ぎ目が目立つようになった。新しい灰色の石の隣に、日に焼けた古い石が並んでいる。何度も直しながら使い続けてきたのだろう。
ガタン。
車輪が窪みを拾い、身体が小さく跳ねた。
「っと……」
向かいのレオンは何事もなかったように座っていた。
窓の外では、洗濯物が風を孕んで膨らんでいる。
何か特別なものがあるわけではない。
ただ、人が暮らしていた。
***
それから少し進んだところで、一台の荷馬車が道を塞いでいた。
荷台には野菜が山のように積まれ、そのいくつかが地面へ転がっている。
石畳が途切れた先の土道には深い轍が残っており、片方の車輪がそこへすっぽりとはまり込んでいた。
荷馬車の傍らでは、日に焼けた農夫が困り果てた様子で車輪を覗き込んでいる。
「少し止めてくれ」
レオンが言った。
馬車が止まる。
護衛の二人がすぐに腰を浮かせた。
「伯爵様、我々が――」
だが、レオンはそれを待たずに馬車を降りていた。
「父さんも手伝うんですか?」
「ああ。人数は多い方がいい」
それだけ言うと、レオンは躊躇なく泥へ靴を踏み入れる。
「は、伯爵様!?」
農夫が目を剥いた。
「申し訳ありません! すぐに退かしますので!」
「構わん。車輪を上げるぞ」
レオンは荷馬車の後ろへ回る。
護衛二人と農夫も慌てて続いた。
(俺も手伝わなきゃ)
俺も馬車から飛び降り、レオンの隣へ駆け寄る。
「レイン様まで!?」
農夫がさらに目を丸くした。
「僕も手伝います!」
そう言って荷台の縁へ手を伸ばすと、横からレオンの太い腕が伸び、俺の手を遮った。
「そこは持つな。服を挟むぞ」
「え」
「お前は――」
「だったら、こっち手伝ってくれよ!」
突然、横から声が飛んできた。
振り向く。
俺より少し年上らしい少年が、大きな編み籠を抱えて立っていた。
短く切った栗色の髪に、日に焼けた頬。ズボンの膝にも靴にも、乾いた泥がこびりついている。
籠の中には、荷馬車から落ちたらしい野菜がいくつも入っていた。
少年は俺の足元に転がっていた玉葱を顎で示す。
「それ、拾うの手伝ってくれ」
「ニコ!」
農夫が素っ頓狂な声を上げた。
「レイン様になんて口の利き方を――!」
「……レイン様?」
ニコと呼ばれた少年は、籠越しに俺の顔をまじまじと見つめた。そして首を傾げる。
「お前、伯爵様の子だったのか?」
「……うん」
「へえ」
それだけだった。
慌てるでもなく、頭を下げるでもない。
ニコはもう一度、俺の足元を指差した。
「じゃ、それ頼む」
「あ、うん」
反射的に返事をして、玉葱を拾う。
(なんだ、この感じ……)
使用人でもない。
先生でもない。
俺を『伯爵家の嫡男』として見て、恭しく頭を下げてくる大人でもない。
同じくらいの年の子供に、こんなふうに何でもない顔で話しかけられたのは――たぶん、初めてだった。
拾った玉葱を籠へ入れる。
「ありがと。こっちも頼む」
「はい」
「なんで敬語なんだよ」
「え?」
「変なの」
ニコが笑った。
何がおかしいのか分からず、俺は返す言葉に詰まる。
その横では、農夫が青い顔で何度も頭を下げていた。
「申し訳ありません、レイン様! こいつは昔から口の利き方というものを知らなくて……!」
「あ、いえ。僕は別に――」
「ヨハン」
レオンの低い声が割って入った。
農夫の背筋がぴんと伸びる。
「は、はい!」
「構わん」
レオンは荷馬車へ手を掛けたまま、それ以上は何も言わなかった。
ヨハンと呼ばれた農夫は、一瞬戸惑ったように俺とニコを見比べる。やがて、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「よし。押すぞ」
レオンが声をかける。
「せーのっ!」
四人が一斉に力を込めた。
荷馬車が大きく軋む。
車輪が泥の中で空回りし――
ガクンッ。
勢いよく轍から抜けた。
「おおっ!」
ニコが歓声を上げる。
レオンは短く息を吐き、泥のついた手を払った。
ヨハンが慌てて駆け寄ってくる。
「ありがとうございます、伯爵様。本当に助かりました」
「ああ。雨の後はこの道を避けろ。少し遠回りでも東側から回った方がいい」
「はい!」
護衛の一人が外れていた荷台の留め具を確認している間、俺とニコは残った野菜を拾っていった。
やがて最後の一つを籠へ入れる。
「これで全部かな」
「たぶん」
ニコは籠を荷台へ載せると、こちらを振り返った。
「なあ」
「なに?」
「お前、普段何して遊んでるんだ?」
「遊ぶ?」
思わず聞き返す。
「うん。鬼ごっことか、木登りとか」
「……」
すぐには答えが出てこなかった。
普段していることといえば、オスカーとの勉強に、セレナとの魔力操作の訓練。本を読むことは好きだが、それを『遊び』と言っていいのだろうか。
黙り込んでいると、ニコが怪訝そうに眉を寄せた。
「なんにもしてないのか?」
「いや……本を読んだり」
「本?」
なんとも微妙そうな顔をされた。
「面白いんだけど……」
「ふーん」
どうやら理解してはもらえなかったらしい。
するとニコは何かを思いついたように、自分のポケットへ手を突っ込んだ。取り出したのは、紐が巻きつけられた小さな木製の独楽だった。
「じゃあ、これやってみろよ」
「独楽?」
「知ってんじゃん」
ニコは地面へしゃがみ込む。
手早く独楽へ紐を巻くと、立ち上がって腕を振った。
シュッ、と紐がほどける。
木製の独楽は地面へ落ちると、細い軸だけで器用に回り始めた。
「おお……」
思わず声が漏れた。
「ほら」
差し出された独楽と紐を受け取る。
やり方は見ていた。
紐を巻いて、投げて、引く。それだけだ。
(これなら……)
見よう見まねで紐を巻きつける。
「違う違う。そこ逆」
「え?」
「こうだよ」
ニコが俺の手から独楽を取り、巻き直す。
もう一度受け取る。
今度こそ。
腕を振った。
コトン。
独楽は地面へ横倒しになった。
「…………」
「へったくそ!」
ニコが声を上げて笑った。
「ちょ、ちょっと待って。今のは初めてだったから」
「じゃあもう一回」
二度目。
コロッ。
三度目。
独楽は一瞬だけ立ち――すぐに倒れた。
「あっははは!」
「……意外と難しいな、これ」
「紐引くのが遅いんだよ」
魔力なら、ほんの僅かな動きまで目で追える。それなのに、ただの木製の独楽一つが、まるで思い通りになってくれない。
なんだか悔しくなってきた。
「もう一回」
「いいぞ」
今度はニコが隣へしゃがみ込み、紐の巻き方から教えてくれた。
四度目。
また倒れる。
五度目。
今度は数回だけ回って、ころりと横になった。
「おっ、今の惜しい!」
「本当?」
「さっきよりはな」
「じゃあ、もう一回――」
「レイン」
低い声に振り返る。
いつの間にか留め具の確認も終わったらしく、レオンたちが馬車の前に立っていた。
「そろそろ行くぞ」
「あ……はい!」
独楽を拾い、ニコへ返す。
「ありがと」
「次はちゃんと回せよ」
「次があったらな」
「じゃあな、レイン!」
ニコが片手を上げる。
「ニコ! レイン様と呼べと言っているだろう!」
ヨハンの声が飛んだ。
それでもニコは気にした様子もない。
俺も少し迷ってから、手を振り返した。
「……またな、ニコ」
ニコが、にっと笑った。
馬車へ戻り、向かいの席へ腰を下ろす。
やがて馬車が動き始める。
窓の外では、ヨハンとニコが再び荷馬車へ野菜を積み直していた。その姿が少しずつ遠ざかっていく。
俺はしばらく黙って窓の外を眺めていたが、やがて向かいに座るレオンへ目を向けた。
「父さん」
「なんだ」
「父さんは、いつもああいうことをしているんですか?」
「何のことだ」
「市場の人たちのことを覚えていたり……荷馬車を押したり」
レオンはすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向けたまま、少しだけ間を置く。
そして、何でもないことのように言った。
「領主だからな」
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