閑話「幸せのはじまり」
俺がまだ、自分の足で歩くことすら覚束なかった頃。
これは、幼い俺が屋敷の古参の使用人たちから聞いた、レオンとテレシアが出会った日の昔話だ。
父レオン・アストリアは、昔から武勇と知性の双方に秀でた男だったという。
幼い頃から厳しい鍛錬を重ね、二十歳を過ぎる頃にはアストリア領軍の総司令官として兵を率いた。戦場では自ら前に立ち、領内では兵士や領民の声にも耳を傾ける。
そのため、先代当主が嫡男のレオンへ家督を譲ると決めた時も、異を唱える者はいなかった。
――ただし。
そんなレオンにも、一つだけ致命的な弱点があった。
身内以外の女性を前にすると、極端に口数が減るのだ。
屋敷の使用人とは普通に話せる。
ところが、縁談の席で年頃の令嬢を前にすると、途端に身体が固まり、何を話せばいいのか分からなくなる。
もともと、大樹のような体格に鋭い目つきをした男である。
ただでさえ威圧感があるのに、緊張して黙り込めばどうなるか。
当然、相手の令嬢は怖がった。
顔合わせの席で、数万の兵を率いる男が汗を浮かべ、一言も発せない。
そして相手から「恐ろしい方でした」と断られる。
それが一度や二度ではなかったらしい。
貴族同士の縁談は、本来もっと段階を踏む。
家同士で家柄や財産、条件を確かめ、顔合わせをし、茶会や舞踏会で何度か交流する。その上で互いの意思を確かめ、契約と指輪の交換へ進む。
だが、帝都から遠い東の辺境にあり、資源にも恵まれないアストリア家は、縁談先として決して人気のある家ではなかった。
だからこそ、最後はレオン自身の人柄を見てもらうしかない。
その本人が、女性を前にするとまともに話せないのだから、オスカーの苦労は相当なものだったという。
何度も近隣の貴族家を訪ねては縁談をまとめ、何度も破談になる。
しかもレオンには、愛人や側室を迎えて後継者だけを残すような器用さもなかった。
このままでは、千年以上続くアストリア家そのものが途絶えかねない。
そんな時に持ち上がったのが、テレシアとの縁談だった。
テレシアは、帝国三大貴族の一つ『メルヴィン家』の前当主と、その側室との間に生まれた娘だった。
帝国法では側室の子にも権利が認められている。
しかし、血統と格式を重んじる貴族社会で、現実までまったく同じ扱いになるわけではない。
テレシアの立場は、決して単純なものではなかった。
それでも、辺境のアストリア家にとって、帝国中央の大貴族と縁を結べることは大きい。
何より――レオンには、もう後がなかった。
「これが最後の機会です、レオン様」
オスカーがそう言った時の顔は、とても悲壮だったらしい。
こうして、アストリア家の屋敷で顔合わせが行われることになった。
場所に選ばれたのは、屋敷の庭園だった。
初対面の令嬢と二人で庭を歩くのは、貴族の顔合わせとしては少し変わっている。
だが、それを提案したのは意外にもテレシア本人だったという。
やがて、一台の馬車が屋敷へ到着した。
名門の姫君が乗るには質素な造りの馬車だった。
扉が開き、一人の女性が降り立つ。
その姿を見た瞬間、レオンは息を呑んだ。
透き通るような肌。
琥珀を溶かしたような淡い銀髪。
細い身体は触れれば折れてしまいそうに見えるのに、その立ち姿には静かな品があった。
幾度も見合いを重ねてきたレオンだったが、これほど美しい女性を目にしたことはなかった。
同時に、胸の奥へ諦めが落ちる。
(――今回も、駄目だろう)
これまでと同じだ。
自分の大きな身体と、この愛想のない顔を見れば、きっと怯えられる。
案の定、庭園の小道を二人で歩き始めても、レオンはまともに声を出せなかった。
何か話さなければならない。
そう思えば思うほど、頭の中は真っ白になる。
だが――テレシアは違った。
隣で巨大な男が黙り込んでいることなど気にしていないように、庭に咲く一輪の花へ目を留めた。
「あの星霊花……」
彼女の顔がぱっと明るくなる。
「見たことがないほど澄んだ青色をしていますね。とても綺麗です」
淑女らしい落ち着きの中に、宝物を見つけた少女のような無邪気さがあった。
テレシアは花を眺め、それから自然にレオンへ微笑みかけた。
怖がっていない。
無理に愛想を作っているようにも見えない。
こんなふうに自分へ笑いかけた女性は、レオンの記憶には一人もいなかった。
気づけば、言葉が口から出ていた。
「……あなたは、私が恐ろしくないのですか」
言った直後、激しく後悔した。
初対面の令嬢に何を聞いているのだ。
もっと他に話すことがあるだろう。
聞こえていなければいい。
そんな願いも虚しく、テレシアは足を止めた。
そして静かに振り返る。
「レオン様の瞳の奥には、あたたかさが宿っていますから」
何でもないことのように、彼女は言った。
穏やかな声だった。
けれど、その碧い瞳には迷いがなかった。
レオンは言葉を失った。
怖い。
無口で、何を考えているか分からない。
これまで何度もそう言われてきた。
けれど、この人は違う。
外見ではなく、その奥にあるものを見ようとしてくれた。
胸の奥から込み上げるものに押されるように、レオンはテレシアを見つめた。
「……テレシア」
「はい、レオン様」
「私は……あなたと、これから先ももっと多くの時間を重ねたい」
上手な言葉など浮かばなかった。
戦場で兵を率いることはできても、一人の女性へ気の利いた言葉をかけることはできない。
だから、思ったままを口にした。
「私の妻になっていただけませんか」
あまりにも真っ直ぐで、貴族の求婚としては不器用な言葉だった。
テレシアは少しだけ目を見開いた。
それから――庭園の花々まで明るくなったように見えるほど、柔らかく笑った。
「はい。喜んでお受けいたします」
こうして、二人の結婚は決まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
感想や評価などをいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。
次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。




