表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/14

第九話「レインの見る世界」

(どうせ、何も起きやしない)

手に握りしめた金色の懐中時計が、刻一刻と刻む無機質な秒針の音。静まり返った応接室の重苦しい空気の中、私は冷徹な仮面を完璧に貼り付けたまま、対面にちょこんと座る五歳の子供――レイン・アストリアを静かに観察していた。


仮に世間の下らない噂通り、この幼い子供が『無詠唱』という神業を試みているのだとしても、魔法という現象がこの世界に顕現するには、絶対に回避できない物理的・理論的な工程が存在する。


どれほど卓越した手練れの魔導師であろうと、体内で魔力を循環させ、一箇所に高密度に集めて練り上げ、それを体外へ解き放ち、火や水の性質へと変化させる――この一連の『魔力操作の工程』を踏む以上、周囲の大気には必ず微小な振動が走り、肌を掠める静電気のような魔力の乱れや予兆が生じるはずなのだ。


私は帝国魔法学院の最年少特任教授であり、魔法理論を極限まで究めた魔導師だ。


己の体内の魔力を完璧に統御し、気配の一片すら消し去る技術においては絶対的な自負がある。


だからこそ、断言できる。

いま目の前にいるこの子供から、魔力の巡りどころか、体外へ漏れ出る微かな気配すら一切感知できないのは――単に『制御するほどの魔力など、この身体には最初から存在しない』からに他ならない。


(ほら見なさい。やっぱりただの無知な子供によるボヤ騒ぎじゃない。さっさと失敗させて、こんな辺境の館から帰らせてもらうわ)


胸の内で呆れた溜息を吐き出し、不毛な茶番劇を終わらせるべく冷ややかな言葉を口にしようとした――まさに、その瞬間だった。


「――っ!?」


声が、喉の奥で息ごと凍りついた。


応接室の空間そのものが、一瞬にして高密度の鉛へと塗り替えられたかのような異常な錯覚。皮膚を直に灼くような重苦しい気配と、肋骨を内側から押し潰すような恐ろしい重圧が、全身の皮膚を粟立たせる。


(な……何……これ……っ!?)


目の前の子供が、小さく息を吐き出した、ただそれだけの動作。


次の瞬間、私は底なしの深海に叩き落されたかのような、恐るべき魔力の気配に呑み込まれていた。


部屋に同席している両親とオスカーの三人までもが、喉を詰まらせて恐怖に身を竦ませている。特に魔力感知に長けているはずの老家令オスカーに至っては、膝を激しくガタガタと震わせ、壁に手をついて立っているのがやっとの様相だった。


違う。私の見立ては根本から間違っていたのだ。


この子供は、魔力が乏しかったのではない。


外に微塵の気配すら漏らさぬ神業のごとき精度で、その体内に膨大すぎる魔力を完全に、完璧に閉じ込めていただけだったのだ。


そんな芸当が可能なのか。魔力制御の基礎すら習っていない、わずか五歳の幼児に。


あまりの理論外の事態に、私の天才と自負する脳の理解が追いつかない。

だが――本当の戦慄は、ここからだった。


魔法陣の展開もない。言葉による詠唱もない。それどころか、体内で魔力を巡らせ、属性を変質させて術式を組み上げるという、魔法が成立するために絶対に不可欠な『魔力操作の工程』の気配すら、この空間のどこにも存在しない。


物理的なタイムラグすら存在しなかった。


過程のすべてを軽々とすっ飛ばし、ただ『結果』だけが、世界へ直接刻み付けられたのだ。


レインが小さな幼い手のひらをそっと上へ向け、開いた――その一瞬。


何もない虚空に、ポツンと、ゆらめく一閃の炎が浮かび上がっていた。


音もなく、それでいて恐ろしいほどの純度と密度を保って静かに揺らめく、その小さな『赤い光』を目にした瞬間――


私がこれまで人生のすべてを捧げ、血を吐くような努力で積み上げてきた最高峰の魔法理論が、音を立てて粉々に砕け散った。


―――


(これで……よかったのか……?)


俺は手のひらの上にぽつんと浮かべた小さな炎を見つめながら、背中に冷たい汗が伝うのを感じていた。


以前、早朝の書庫で本を読んだ時は、加減が分からずに巨大な火球を出して大惨事になってしまった。だから今回は、感覚を極限まで研ぎ澄まし、爪の先ほどの大きさにまでキュッと圧縮してみたつもりだったのだ。


恐る恐る顔を上げて対面を見た。


すると、先ほどまで氷のように冷徹で、付け入る隙もない態度だったセレナが、紫色の目を見開き、口を半開きにしたまま石像のように固まっていた。


カタン、と彼女の手から零れ落ちた小ぶりな金色の懐中時計が、分厚い絨毯の上へ転がる。その無機質な音が、凍りついた静寂の中に虚しく響き渡った。


「これで、いいで――」

彼女の納得のいく出来だったかどうかを確認しようと、口を開きかけた、次の瞬間だった。


「――っ!」


セレナは弾かれたように床を蹴ると、一瞬で俺との間合いを詰め、両手で俺の幼い両肩をガシッと掴んできた。自由を奪うように、そのまま激しい勢いで俺の身体を揺さぶる。


先ほどまでの特任教授らしい威厳や冷淡さは、跡形もなく吹き飛んでいた。その紫色の瞳はけだるげな陰りを完全に失い、未知の法則と遭遇した研究者特有の、狂気すら孕んだギラギラとした熱量を帯びている。指先が肩に痛いほど食い込む強靭な力で、彼女は擦れた声でまくしたててきた。


「……あなた、今……何を、どうやったの!?」


「……え」


俺は突然の脈絡のない剣幕に、完全に言葉を詰まらせた。セレナがなぜここまで取り乱し、必死な形相をしているのか、本気で理由が分からなかったからだ。


「えっと……言われた通りに、炎を出しただけですけど……」


「だから! その前のプロセスよ!」


セレナは俺の肩を掴んだまま、顔を至近距離まで寄せてくる。


「魔力操作は!? 術式構築はどこへ行ったの!? 圧縮と変質の気配すら無かったじゃない! 物理的なタイムラグがゼロで魔法が成立するなんて、そんなの理論上あり得ないでしょ!?」


普段の冷静沈着な佇まいを完全にかなぐり捨て、口早に専門用語を畳みかけてくる。あまりの過熱ぶりに、彼女の美しい唇からは少し呂律すら怪しくなった言葉が飛び出していた。


「えっと……」


俺は本気で頭を抱えたくなった。


マニョクソウサ? ジュツシキ?


前世で凡庸なサラリーマンとして生きてきて、この世界に転生してからも一度も魔法の専門教育を受けたことがない俺に、そんな難解な専門用語を捲し立てられても理解できるはずがない。


「あの……魔力操作とか、術式って……なんですか?」


「……は?」


セレナの顔から一瞬で血の気が引き、鳩が豆鉄砲を食ったような呆然とした表情へと変わった。


「……あなた、この私を馬鹿にしているの? 自分の体内の魔力を感知して巡らせ、与えられた術式に乗せて出力する……それが魔法という現象の『絶対的な大前提』でしょ!?」


「あ、あの、本当にすみません! 僕はまだ魔法の勉強を一度もしたことがないので……そういう難しい専門的なことは、本当に何も分からなくて……」


応接室から、完全に一切の音が消え去った。


パチパチ、と部屋の隅にある石造りの暖炉で薪が爆ぜる音だけが、虚ろに室内に響いている。


母さんも父さんもオスカーも、口を挟むことすら忘れたように、真っ青な顔で俺とセレナのやり取りを見つめていた。


「……じゃあ、どうやって炎を出したというのよ」


セレナの声からそれまでの高圧的な威圧感が消え、底なしの狼狽だけが重く残されていた。


「どうやって、と言われても……」


俺は困惑に幼い眉をひそめながら、物心ついた時から自分に見えている『当たり前の光景』を、そのまま素直に言葉にするしかなかった。


「火の魔力って、赤い光の粒ですよね? 今も部屋の暖炉の火からだって、たくさんパチパチと溢れ出ていますし」


「……何、を言っているの……?」


「僕たちの身体の周りにも、透明な光の粒がいつも綺麗に漂っているじゃないですか。セレナさんの全身からだって、綺麗な光がたくさん流れ出てますよ。だから……自分の体からその透明な魔力を少しだけ外に出して、あの暖炉の赤い光と同じ色になるように『変われ』って頭の中でイメージしただけです」


長い、息が止まりそうなほど長い沈黙が部屋を支配した。


セレナは呼吸することすら忘れたように全身を硬直させ、紫の瞳を限界まで見開いたまま、恐ろしいものでも見るかのように俺を凝視している。


老家令のオスカーに至っては、俺が口にした言葉の意味を理解した途端、顔面を蒼白にし、恐怖すら混じった手つきで口元を覆っていた。


「……魔力の……色……?」


かろうじて静寂を破ったセレナの声は、かすかに、けれど確実にか細く震えていた。


「魔力が……目に見えているというの……?」


その問いに、俺はただ幼い首を傾げることしかできなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

感想や評価をいただけるととても励みになります。お気軽にお寄せください。

次話もお楽しみ頂ければ幸いです。よろしくお願いします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ