第九話「レインの見る世界」
――セレナ視点。
レインが右手を上げる。
私は呼吸を浅くし、彼の周囲へ意識を集中させた。
魔法が成立するまでには、必ず過程がある。
魔力を捉え、必要な場所へ動かす。
密度を整え、体外へ出し、目的の性質へ変える。
術式によって細部は違っても、何もせずに結果だけが現れることはない。
無詠唱も例外ではない。
声に出す代わりに、術者の内側で詠唱し、術式を組み立てる。
熟練者ほど処理は速くなるが、それでも魔力は動く。
私なら、その兆候を見落とさない。
そう思っていた。
直前まで、レインからはほとんど魔力の気配がなかった。
だから私は、報告そのものを疑っていた。
だが次の瞬間。
「――っ」
空気が重くなる。
胸を押されるような圧。
床に置いた足へ、目に見えない重さがかかる。
レオンとテレシアが息を呑み、オスカーの顔からも余裕が消えた。
(何、この量……)
魔力が少ないのではない。
逆だ。
普段は外へほとんど漏らさず、身体の中へ閉じ込めていた。
その蓋が、魔法を使う瞬間だけ開いたのだ。
五歳の子供が、意識してできる制御ではない。
ならば無意識なのか。
疑問が浮かぶ。
だが、考える暇はなかった。
レインの右手へ魔力が移る。
――いや。
(速い)
捉えたと思った時には、もう次の変化が始まっていた。
移動。
圧縮。
出力。
変質。
本来なら順を追って感じ取れるはずの変化が、重なり合うように進んでいく。
どこからどこまでが一つの工程なのか、私の感覚でも切り分けられない。
「……そんな」
過程がないのではない。
私が、追えない。
その事実の方が恐ろしかった。
そして、ほとんど時間差もなく――。
レインの手のひらに、小さな炎が灯った。
爪先ほどの赤い火。
荒々しい暴発ではない。
形は安定し、余分な魔力もほとんど散っていない。
私は言葉を失った。
報告書の内容は、少なくとも誇張ではなかった。
床へ何かが落ちた。
自分の手から懐中時計が滑り落ちたのだと気づくまで、数秒かかった。
***
(これで……いいのか?)
手のひらの炎を見つめながら、俺は動けずにいた。
前回は大きすぎた。
だから今回は、料理人が薪へ火をつける時に見たものを思い出し、できる限り小さくした。
成功したようには見える。
でも、セレナの反応がない。
「先生?」
顔を上げる。
紫の瞳が大きく見開かれていた。
俺は一度、炎を保つのを止めた。
「これで、いいですか――」
言い終わる前に、セレナが立ち上がった。
次の瞬間には目の前にいる。
「レイン」
両肩を掴まれた。
「今、何をしました?」
「え?」
「何を、どういう順番でしました?」
普段の冷たい声ではない。
明らかに焦っている。
「えっと……火を出しました」
「それは見れば分かります!」
初めて、セレナの声が大きくなった。
「その前です。魔力をどこへ動かした? どの程度圧縮した? いつ出力して、どの時点で火へ変質させたんですか?―――どのように魔力操作したのですか?」
知らない言葉が、一気に飛んでくる。
「……ま、魔力操作?」
「そうです」
「圧縮?」
「……はい」
「変質……?」
セレナの顔が徐々に固まっていく。
「あの……すみません。僕、魔法の勉強をしたことがないので、その言葉の意味が……」
「…………」
応接室が静かになった。
暖炉で薪がぱち、と爆ぜる。
セレナは俺の肩から手を離し、額へ指を当てた。
「待ってください」
「はい」
「では、あなたは何を基準に、今の炎を作ったのですか?」
「基準……」
俺は暖炉へ目を向けた。
「火の魔力です」
「火の魔力?」
「はい。赤い光ですよね」
セレナの動きが止まる。
俺は暖炉を指さした。
「今も、あの火から赤い光が出ています」
「……赤い?」
「人の身体から出ている魔力は、ほとんど透明です。だから自分の透明な光を少しだけ外へ出して、あの赤い光と同じ状態になるようにしただけで……」
説明しているうちに、周囲の様子がおかしいことに気づいた。
レオンもテレシアもオスカーも、目を見開いている。
セレナに至っては、瞬きすら忘れたように俺を見ていた。
「それと、先生の魔力はすごく綺麗です」
「……私の?」
「はい。部屋へ入ってきた時、びっくりしました。たくさんあるのに、流れがすごく整っていて」
「ちょっと待って」
セレナが片手を上げた。
「私の魔力の『流れ』まで見えるんですか?」
「見えますけど……」
当たり前だと思って答える。
セレナは、ゆっくり息を吸った。
「レイン」
声が妙に慎重だった。
「あなたは……魔力を、目で見ているんですか?」
「はい」
「感じている、ではなく?」
「見えています」
長い沈黙。
やがてセレナの唇から、かすかな声が落ちた。
「……魔力が、見える……」
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