第十話「創世の魔導師」
「魔力を見るなんて……伝説でしか聞いたことがないわ……」
セレナは魂が抜け落ちたかのような茫然自失の表情のまま、ポツンと呟いた。その紫の瞳は、焦点を失ったまま虚空を彷徨っている。
「伝説……?」
俺が問いかけるても、セレナはピクリとも動かず、ただ言葉を失っていた。 見かねたように、傍らに控えていたオスカーが、静かに一歩前へ出た。興奮に震える手で眼鏡の位置を正すと、記憶の深層を探るような重みのある声で説明を引き継いでくれた。
「……レイン様。今から約二千年の昔、現在のアルカディア帝国が存在するこの地域は、群雄割拠する小国同士が争い合う、果てしない戦乱の世にございました。しかし、その塗炭の苦しみを終わらせ、全土を統一する国が現れました。それこそが、現在のアルカディア帝国の前身たる『アルカディア王国』にございます」
オスカーは胸の前に恭しく手を添え、低く静かな教えの口調を続ける。
「そのアルカディア王国を率いていたのが、現皇帝家の祖たるアルカディア家と、その腹心であり、現在の帝国三大貴族家として君臨するヴァレリウス家、セリウス家、メルヴィン家……そして最後に、伝説として語り継がれる『創生の魔導師』フィーネ様にございます」
「創生の魔導師、フィーネ……」
「左様にございます。フィーネ様は、『魔力を見ることができた』と伝承で語られております。現在、公に存在する最古の古文書である『創生録』の冒頭――『フィーネは世界に満ちる光の流れを見ていた』という一文は、現代の古代魔法史において、まさに魔力を視覚的に捉えていた証左であると解釈されているのです」
オスカーは一度言葉を切り、未だ呆然としているセレナへと視線を向けた。
「しかしながら……あまりに悠久の昔のことゆえ、フィーネ様に関する詳細な文献はほとんど残されておりません。そして、帝国二千年の歴史において、フィーネ様以降に魔力を視認できた者の記録が皆無であったためか、現代の古代魔法史学者の中には、その記述を『建国者を神格化するための、後世の創作に過ぎない』と断ずる者も少なくないのです」
―――
信じられない思いだった。
「術式を介さない無詠唱」と「魔力を見る力」。
私がこれまで血の滲むような思いで修め、体系化してきたあらゆる魔法理論、そのすべてをもってしても、目の前で起きた現象を説明することができない。
魔力操作の基礎すら習っていない五歳の子供が、術式構築のプロセスすら経ずに、補助輪である『詠唱』さえも一切口にせず、最高度に洗練された完璧な魔法を世界に刻んだ。
それだけに留まらない。
いまオスカーが語って聞かせている通り、彼は――あの伝説の『創生の魔導師』フィーネと同様に、魔力が「見えている」というのだ。
信じたくない。信じるわけにはいかない。
この私が――このアルカディア帝国において、誰よりも魔法の真理に近付いた、最高の天才なのだから。
オスカーの退屈な歴史講義が区切られた瞬間、私は急激に首をもたげ、目の前に座る幼い少年――レインを射抜くように睨みつけた。
絶対に何かの間違いだ。
「あなた……本当に、魔力が見えているのね?」
「はい……」
少年は碧い瞳を真っ直ぐに向け、素直に頷いた。
「そう……。なら、どちらの手に魔力が集まっているか、当ててみなさい?」
私はそう言い放つと、両手を胸の前で固く握りしめた。
どちらの手のひらにも、体内の魔力を均等に練り上げ、密かに込めてある。カマかけだ。片方にしか集めていないと思い込ませ、あてずっぽうの選択をさせて化けの皮を剥ぎ取ってやる。
(さあ……どちらか片方を言ってみなさい)
心の中で冷たく嘲笑う。 だが、少年は迷う素振りすら見せず、不思議そうに首を傾げた。
「えっと……どちらの手も、同じくらい光っているように見えるのですが……」
「……っ!?」
心臓が跳ね上がった。
(な……なんで分かるのよ……っ!)
激しい動揺が全身を駆け巡り、無意識のうちに手にギュッと力がこもる。 すると、レインはさらに目を細め、再び小首を傾げて言葉を重ねた。
「あ、今少しだけ光が強くなりました。左手の方が……若干明るいかな」
「――っ!?」
その指摘にハッと息を呑み、己の無様な醜態に気づく。
焦りのあまり、左手の魔力制御が無意識に揺らいでしまっていたのだ。利き手である左手には、先ほど床に落として拾い上げた金色の懐中時計を握りしめたままだった。手に物があると、動揺した拍子につい強く握り込んでしまう癖が出てしまったのだ。
いつもなら、こんな無様な失敗など絶対に犯さないのに。
認めたくない。認められるわけがない。
「……それでは、今度はどこへ魔力を集中させているか、分かりますか?」
胸の奥へ、思考を削ぎ落として魔力を集める。
「胸です」
間髪入れずに即答される。 ならば、と左手の指先、ほんのわずかな一点へ魔力を極限まで圧縮する。
「今度は左手。しかも指先です」
それすらも瞬時に見破られた。 私は奥歯を噛み締め、最後の悪あがきのように、頭頂部の髪の毛一本だけに魔力を極小の糸として通してみる。
「髪の毛です。一本だけ、すごく綺麗に光ってます」
無邪気な声が、私の自尊心を容赦なく撃ち抜く。
(……本当に、見えているというの。この少年の瞳には……)
めまいにも似た衝撃に、視界がぐらりと揺れた。 つい先ほど、この少年が何気なく口にした言葉が、脳裏で恐ろしい現実味を帯びて蘇ってくる。
――『セレナさんの全身からだって、綺麗な光がたくさん流れ出てますよ』
私は、帝国随一の魔力操作の達人だ。 学院の教授たちからも、宮廷の魔導師たちからも、今まで何度も称賛されてきた。 『セレナさんの魔力制御は完璧だ。莫大な魔力を秘めているというのに、外部にはその気配すら感じさせない』――と。
「あなた……さっき、私から魔力を『感じる』って言ったわよね」
震える声をどうにか抑え込み、問いかける。
「はい」
少年はさも当然であるかのように応え、無垢な碧い瞳を輝かせて言葉を続けた。
「今はもう慣れましたが、先ほどセレナさんが応接間に入ってきたときは......かつて見たことのない異次元の量の光の粒が入ってきて……眩しくて、美しくて、すごくびっくりしました」
「……っ」
血の気が引いていく。 私が「完璧に魔力を隠せている」と自負していたのは、己の狭い感覚の中でそう「感じて」いただけだったのだ。
この少年の持つ、異常なまでに繊細な魔力を「見る」力の前では、私の完璧な制御すら、だだ漏れのザルと同義だったというのか。
驚愕、恐怖、悔しさ、激しい嫉妬――あらゆる感情が胸の中で激しく渦巻き、そして一巡して、最後には乾いた呆れへと変わっていった。
私たち魔導士は、他者から溢れ出る膨大な魔力を「感じる」時、肌を刺すような静電気や重苦しい威圧感を覚え、恐怖に身を竦ませるのが常だ。
それなのに、この少年は。 私の中から溢れ出す莫大な魔力を「見て」、恐怖ではなく――ただ「美しい」と表現した。
本当に、見ている世界が違うのだ。
この少年の瞳には、この世界がどれほど鮮やかに映り、魔法という奇跡が、どれほど美しく輝いて映っているのだろう。
胸の奥で、カチリと何かが弾ける音がした。 嫉妬や敗北感の影から芽生えたのは、未だかつて感じたことのない、狂おしいほどの情熱と知的好奇心だった。
私が人生のすべてを賭けて追い求めてきた魔法の、そのさらに先にある未知の境界。
――それを、知りたい。この目で、確かめたい。
私は深く息を吸い込み、乱れた息を整えると、目の前に座る小さな少年をまっすぐに見つめ直した。
監視役としての冷徹な仮面も被らず、プライドに固執する愚かな人間でもなく、ただ一人の純粋な「魔導の徒」として。
「……改めて、私の名前は、セレナ・ミレイユです」
膝の上で拳を強く握りしめ、言葉に魂を込める。
「レイン。私は……あなたと一緒に、魔法を学びたい」
くだらない意地やプライドをすべて脱ぎ捨て、私は溢れ出る想いを言葉に変えた。
「あなたが見ている世界を……私にも見せてください」
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