陛下がおかしくなった日
陛下が可笑しい。
国王ヴィクトル三世の侍従、クリスティアン・ベイロンは奇異なものを見る目で、主人を眺めていた。
クリスティアンは幼い時からヴィクトルの側に控え、その成長を見守ってきた。おねしょをして半泣きで「お父様とお母様には内緒にして…!」と駆け込んできたことから、剣術で師範を打ち負かした日のことまで、鮮明に覚えている。もはや見守る眼差しは祖父のそれと言っていい。
些細な過ちはあっても、基本的には冷静沈着、眉目秀麗、勇壮活発。大国の王に相応しい姿であった。
――その主君は今、虚空を見つめて呆けている。羽根ペンを持ったまま微動だにせず、ペン先からはインクが滴り落ちて染みを作っていた。
何を考えているのか、青くなったり赤くなったり、ころころと顔色が変わる。束の間のことならばいいのだが、先程から四半刻近くこの状態だ。
――いや、思えば朝から様子がおかしかった。
遅かったのは初夜という大事な公務を終えた為であろう。何せようやく終戦を迎えたグレーデン国と、真の意味で同盟が結ばれたのである。疲れていて気が散ってしまうのは仕方のないこと、と思っていたが……服の前後を間違え、慣れ親しんだ道を間違え、花を眺めてほう、と溜息を吐く。
――何があったのだろうか。
クリスティアンは心の底からヴィクトルを心配し、声を掛けた。
「陛下」
「……ん? なんだ、ベイロン。あ゛っ」
手元の書類に視線を落としたヴィクトルは、蛙が潰れたような声を出して顔を顰めた。
「ようやくお気づきくださいましたか」
クリスティアンはヴィクトルのそばに跪いた。ヴィクトルは気を散じていた、と呟いてゴミとなった書類を傍にのける。
「陛下、どうなさったのですか。今朝から、ご様子がおかしい。もしや、グレーデンの姫君と何かあったのですか」
「ベイロン。彼女は我が国の王妃だ」
クリスティアンは目を見開いた。その言葉からは、どうしようもない情が滲んでいた。
思えば、初めて王女を見た時、らしくなく可愛いと呟いていた。その後の対応が普段通りだったから、気のせいかと思っていたが。
まさか。
「……失礼をいたしました。陛下は、妃殿下にほの字なのですね」
「ほのじ?」
「おや、今のお若い方は使いませんかな。陛下は妃殿下にベタ惚れなのですね」
「べっ」
ヴィクトルは顔を真っ赤にして絶句した。年若い国王の見知らぬ一面を垣間見て、クリスティアンは髭を震わせて笑う。
「い、いやっ、確かに惚れてはいるが、ベタ惚れというのは、ただ可愛らしくて可愛くてつまり、」
「言葉では言い表せないほど愛していると」
「んなっ」
「ははぁ、このベイロン、生きていた甲斐がありましたな。陛下のそんなお姿を見られるなんて」
クリスティアンがわざとらしく目元を手巾で拭うふりをすると、ヴィクトルはぐぬぬと低く唸る。
「……他言無用であるぞ」
「必要部署にのみ通達いたします。取り敢えず厨房にはいい感じの料理を作っておくようにとは言っておきますね。侍女とも連携を取らねば。あぁ忙しい忙しい」
「ちょ、ベイロン、話を聞けー!」
「ふぉっふぉっふぉっ。陛下のお子の顔を見るのも遠くなさそうですなー」
「子っ……いやそれは……って、早!?」
戻ってこい、と叫ぶ主人の声を背後に、クリスティアンはニヤニヤ笑いながら廊下を足早に歩く。
ーーあぁ、ようやく陛下にも春が来たのか。
よかった、とクリスティアンは胸を撫で下ろす。
政略結婚は王族として生まれた者の宿命だ。さりとて願わくは、そのお相手と心を通わせてほしいと思っていた。幼い頃から戦好きの父たる先王とは家族らしい関わりがなく、母ひとりに育てられたような方だ。それも母子というよりも、王妃と王太子という関係であった。
――そうか、あの方は陛下に寄り添ってくださったか。
婚姻の場で見た、美しい姫の顔を思い出す。捕虜となったのちに帰還した兵士の証言から、優しく美しいだけの姫ではないことは察していたが、ヴィクトルを短期間で恋に堕とすほどの猛者だとは。
「あぁ、全く。そろそろ引退しようかと思っておりましたのに」
これでは引退できないではないか。
クリスティアンは前方から歩いてくる侍女長を見つけ、逸る気持ちを押さえて声を掛けた。
「なぁ、聞いてくれ――」




