仮面夫婦が出会う前
「寒くないか? もっと暖炉の近くに……いやでも火が毛布についたら」
「もう、ヴィクったら。心配しすぎよ。それにまだ秋なんだから、暖炉の傍に行ったら暑すぎるわ」
くすくすとアンネリーゼは笑った。兼ねてより心配性だったヴィクトルは、懐妊が分かってからというものの、輪をかけて過保護になった。軽い物であっても持ち運びは厳禁と言われ、動けなくて不満なくらいである。
「ねぇ、ヴィク。息子と娘、どちらがいい?」
「どちらでも。君と子供が無事に産まれてくれたら、それより他に望むことはない」
ヴィクトルには兄弟は愚か、男系の従兄弟さえもいない。再従兄弟にまで広げれば数人の血縁がいるが、やはり王子の誕生が望ましいことには違いないのだ。
それでも無事であれば、と本心から言い切ってくれるヴィクトルの言葉が、アンネリーゼには嬉しかった。
「……いや、でも、どちらかといえば息子がいい」
「あら、どうして?」
「娘は……娘は、いずれ嫁に行ってしまうだろう? 耐えられる気がしない」
アンネリーゼはポカンとしてから吹き出した。侍従と護衛も、肩を震わせている。
「ヴィクったら! まだ生まれてもないのに、先のことを考えすぎよ」
「そうだろうか……」
「それに、息子だって、お嫁さんを迎えたら、お父様のことなんて知ーらない、とか言うかもしれないわ」
「な、ん、だって……」
ヴィクトルの背後に、ガーンという効果音が見えるようだった。反応が可愛い人だ、とアンネリーゼはくすりと笑う。
「ほら、あなただってわたくしにメロメロでしょう?」
「ぐっ……」
「だから、未来のことはその時考えればいいの。ね?」
「……そうだな」
アンネリーゼはヴィクトルの肩に頭を預けた。ヴィクトルはアンネリーゼの手を強く握る。
「……君が嫁いでくる前は、こんなにも幸せになれるとは思ってもいなかった」
「わたくしも、少し不安だったわ。上手く出来るのか、ヴィクがわたくしのことを嫌っていないか……」
もう四年も前のことになるのか、とアンネリーゼは目を瞑る。
よねん。四年。そこまで長くはないはずなのに、どうしてか、ずっと前のことのように思える。
――四年前の春。
あの時アンネリーゼは、まだ王女だった。
***
グレーデン王国、春。
国王フィリップ四世の末娘、アンネリーゼは、婚姻の為祖国を旅立とうとしていた。
婚姻の相手は、二年前まで敵国だった隣国・ユティラの新王。これまでグレーデン軍に夥しい被害をもたらし、銀の死神と呼ばれた若き君主である。
『リゼ。どうか、元気でね』
『怪我をするんじゃないぞ。嫌なことがあったら知らせなさい』
『もう、お母様もお父様も心配性なんだから』
アンネリーゼは、瞳に涙を浮かべる家族に向かって胸を張った。
『わたくし、こんなに可愛いのですもの。ユティラ王陛下だって、イチコロですわ!』
『その自意識過剰なところ、お兄様は好きだよー』
『苦手な奴もいるからな!』
『それは見る目がないってことよ、オーロフ』
『弟に対して辛辣!!』
ぎゃんっ、と弟は吠える。その頭を笑いながら撫でた。
もうすぐ、アンネリーゼはユティラの王妃となる。こうして家族と笑い合えるのは、もう今後ないだろう。
けれど、それでいい。王女として生まれ落ちたその時から、国の為に嫁ぐことは覚悟していた。
なればこそ、家族の記憶に残る己は、美しく穏やかなものでありたかった。
『それでは、行って参ります!』
アンネリーゼは騎士の手も借りず馬車に乗り込んだ。窓から顔を覗かせれば、すぐに慣れ親しんだ王宮と家族が離れていく。
『……どうか、彼らの道に幸多からんことを』
王宮が見えなくなるまで、アンネリーゼは深く首を垂れ続けた。
『......姫様』
侍女の気づかわしげな声に顔を上げる。頬を流れた涙を指で払いのけた。
泣く理由は、ないはずだ。
「――いいえ、わたくしはもう、姫ではないわ」
ゆっくりと、アンネリーゼは頭を上げる。言葉の変化に、ハッとした様子で侍女は息を呑んだ。
「わたくしはユティラ王妃になる。あなたも言葉を改めなさい」
侍女は首を横に振る。
『ですが......相手は、銀の死神とまで呼ばれた御方。もしも姫様に何かあれば......』
「そんなことはきっと起こらないわ」
アンネリーゼはきっぱりと言い切った。侍女は涙目でアンネリーゼを見上げる。
『姫様は怖くないのですか……? 死神なのですよ』
「……怖くないと言ったら、嘘になるけれど」
指先の震えを隠すために、アンネリーゼは拳を握りしめた。
「……それでも、陛下はわたくしに危害を加えることはなさらないわ。どれほど陛下がわたくしを嫌っておられたとしても、この婚姻は講和条約の条項。違えることは許されていないのだから」
たとえ、ユティラの民に憎まれていようとも、アンネリーゼは国母となる。
――グレーデンとユティラの戦が終わってから、二年の月日が流れていた。
***
「――上の空ですね、陛下」
ユティラ国王、ヴィクトルは、側近の声を聞いて我に返った。
「......済まない。気を散じていた」
「いえ、仕方ないことでしょう――もうすぐ、花嫁をお迎えするのですから」
ヴィクトルは無言で窓の外を眺めた。
国王として即位して一年。二年前まで敵国だった隣国・グレーデンの王女が、ヴィクトルの妻となる。妖精姫と謳われ、戦争の間、傷病兵の救助やユティラ兵の捕虜の待遇改善に奔走したと伝わる。そのおかげで、一部のユティラ兵士からは好意的に受け入れられている。
「やはり、好ましくは思われませんでしたか?」
「お会いしていないから、今は何も。ただ――」
ヴィクトルはその先の言葉を飲み込んだ。
向けられた恐怖の眼差しと、引き攣った命乞いの声。肉を切り裂いた感触。目の奥に、悲鳴と血飛沫が舞って、消える。
ヴィクトルは知らず知らずのうちに拳を握っていた。
――そう、己は銀の死神とあだ名された人間だ。
「……姫は、どうお思いだろうな」
晴れ渡った青い空を、白い鳥が一羽横切った。




