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愛しの仮面夫婦  作者: 結塚 まつり


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仮面夫婦の悪夢

赤を零しながら、ゆっくりと、ヴィクトルの体が傾く。アンネリーゼは呆然と、まき散らされた赤を見下ろした。


赤だ。見知った鈍い紅の色。傷病者を見舞った時、兄が暗殺者に矢を射られた時、弟が転んで擦りむいた時に見た、赤。


「ヴィク、トル?」


――その赤を、どうして今、ヴィクトルが纏っているのだろう。


「いやぁあああっ、陛下!」「陛下、お気を確かに、陛下!」「誰か侍医を、侍医を早く!」「吐いてください陛下!」「毒味は何をしている!」「皿に触れたのは誰だ!」


自分の側付きの女官の悲鳴と、ヴィクトル付きの侍従の差し迫った声を耳にして、アンネリーゼはようやく我に返った。


「ヴィク.......ヴィクトル、ヴィクトル、しっかりして! ねえっ、ヴィクトルッ!」


縋りついた手は、機械人形かのように震えている。べったりと赤い血がその手について、ひっ、と浅い呼吸が漏れた。


「殿下、お下がりください! 血に触れてはなりません」

「いやっ.......ヴィクトル、ヴィク、返事をして、ねえぇっ.......!」


侍従や護衛に引き剥がされる。口から吐き出した血に沈んだまま、ヴィクトルは動かない。


「いやぁあぁぁあああああ!」


半ば強引に自室まで連れ戻され、アンネリーゼは呆然と周囲を見回した。滲んだ視界に映る部屋は、自室と言いながらも、生活味に乏しい。共同寝室ばかり使っていたからだ。いつだって、そこでヴィクトルが待っていてくれたから。

いつだって、笑ってアンネリーゼを受け止めてくれたから。


「妃殿下、どうか落ち着かれてください。大丈夫です、侍医が必ずや――」

「......さい」

「は?」

「今すぐ、下手人を突き止めなさい」


アンネリーゼ付きの女官は息を呑んだ。乱れた髪の下、涙で輝く瞳は、昏い光を宿している。


「王宮内の出入口をすべて封鎖なさい。料理人、侍従、護衛、門衛.......料理に触れた人間を全員洗い出し、下手人を捕らえよ」


何をしている、とアンネリーゼは己の護衛に凍えるような視線を向けた。


「今すべきことがなんであるか、分からないとは言うまいな?」



***



厨房は混乱状態に陥っていた。

なんと先程軽食を食べた国王が、血を吐いて倒れたというのだ。軽食を作った者は誰だ、と血相を変えた近衛騎士に問われ、厨房長は青ざめたまま、己とソニヤだと告白した。


「毒を盛ったのはあなたか!?」


騎士は怒りを抑えられない様子で、厨房長に詰め寄る。長身で強面の騎士に迫られる様は、見ているだけでも恐ろしい。違います、と厨房長は苦し気に言う。ソニヤは跪いたまま、誤解です、と声を張り上げた。


「ちがっ......違います、毒なんて知りません! フランは、元は妃殿下の為に作ったものだったんです! 甘い物が砂糖漬けくらいしかないと聞いて、それならとお渡ししただけで........!」


フラン、と騎士は口の中で呟いた。その顔が、さあっと青くなったのをソニヤは見た。


「細長い、硝子の器に入ったものですか」

「は、はい」


形状を言い当てられて、ソニヤはまさか、と青ざめた。

軽食を取りに来たのは、この騎士ではなく、まだ若い侍従だ。そして、騎士は給仕に関与はしない。だというのに、フランが入った器に言及したということは、


「――ソニヤといいましたね。あなたの他に、フランの器に触れたものはいますか?」

「い、いえ、わたしだ、け.........」


言いかけて、ソニヤはハッとして目を見開いた。慌てて振り向き、数日前に復帰した見習いの姿を探す。

先程まで共に作業をしていた、そばかすの散った顔で笑う少年の姿を。

――侍従にフランを渡してきますね、と言った少年を。


「い、ない」

「はい?」


かすれ声は、自分の耳にも届かないほど細く、小さかった。


「わたしの見習いが――イスモ君が、いません……っ!」


――それからまもなく、料理人見習いとして働いていた少年・イスモは、王宮内の池で遺体となって発見された。



***



パチン、パチン、とマルコの主人は上機嫌に花に鋏を入れている。俯きがちに咲く冬の薔薇――クリスマスローズを茎から離し、水を張った(たらい)に入れて楽しむのが、ここ最近の主人の楽しみだった。静かな部屋の中、主人の鼻歌とパチン、パチン、という無機質な鋏の音が響いている。

――上手く行っただろうか、とマルコは心の中で思った。

マルコが没落した男爵家の三男だと信じ込んだ愚かな女料理人――ソニヤ。彼女から聞き出した若い料理人・イスモは、主人の計画におあつらえ向きの存在だった。代行を頼んだ闇ギルドの男は、イスモが迷いながらも首を縦に振ったと笑っていた。

――ソニヤには、イスモに仕上げを任せないように伝えたけれど。

恨めしい、憎らしい。そのはずだった。グレーデンの王女など死んでしまえばいいと、心の底から思っていた。

――けれど、彼女はマルコの父を殺したわけではない。否、戦場に立ったことすらないのだ。

カイに突きつけられた現実から、マルコは目を背けた。それを認めてしまったら、誰を恨めばいいのか、分からなくなりそうだった。恨みの矛先を見失えば、自分の指針すら、消えてしまうようで。

――けれど、このまま殺していいのかと、囁く声に抗うこともまた、マルコにはできなかった。

なんと優柔不断で愚かなのだろう、とマルコは自問する。ソニヤがマルコの言葉の真意に気づく保証はなく、また、いつイスモが手を加える機会があるのかもわからないというのに。


「ねえ、キヴィランタ」

「......はい、殿下」


歌うような声音で呼ばれ、マルコはのろのろと顔を上げた。


「やはり、余計なものを取り除いたら、美しくなるわね」


ねえ?と笑う主人の視線の先には、分かたれた茎と花が散らばっている。されど、余計なものが何を指しているのか、分からぬほどマルコは愚鈍ではなかった。


「........そう、でござ」

「殿下ッ.........!」


マルコの小さな返事を掻き消すように、近衛騎士が部屋に飛び込んできた。


「何事です、騒々しい」


騎士は青ざめている。主人が口角を吊り上げるのを、マルコははっきりとその目で捉えた。

王妃が亡くなったのか、と何故か暗澹とした気分になったとき、騎士はありうべからざる言葉を紡いだ。


「陛下が.......陛下が、お倒れになりました!」


ガシャン、と主人の手から鋏が落ちる。は、と呟いた声は、ひどく掠れていた。


「どういう........どういう、ことです」

「軽食をお召し上がりになった陛下が、その場で吐血なさったと.......現在意識不明の重体とのこと、すぐに、すぐにいらしていただきたい........!」


馬鹿な、と主人は叫んだ。マルコも目を見開き、動けなかった。

何故、王妃ではなく国王が。ソニヤとイスモは王妃専属のはずで。


「どうか.......どうか、一刻もお早く!」


悲鳴じみた声が、天井の高い部屋に吸い込まれて、消えた。


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