若王エーリクの選択
「よく来たわね、エーリク」
「ご無沙汰しております、伯母上。お変わりないようで、安心いたしました」
「あなたも。いえ、少し体がしっかりしたかしら」
「そうかもしれません」
エーリクは伯母――ユティラ王国王太后ヘレナの部屋に招かれていた。小国の王相手でありながらも、用意されたお茶や茶菓子は、一目見て高級品とわかる品揃えである。
「素晴らしいことだわ。エーリク、これからもノルドヴァル王として、しっかりと努めなさい」
「……はい、伯母上」
エーリクは愛想笑いを貼り付けた。
正直なところ、ノルドヴァル至上主義であるヘレナのことが、エーリクは密かに苦手だった。勿論、顔に出しはしないけれど。
「改めて、ヴィクトル従兄上のご結婚、おめでとうございます。ユティラの前途が輝きに満ちたものであることを、心よりお祈り申し上げております」
エーリクがそう言った瞬間、ヘレナは顔を歪めた。
「……グレーデン王女などを妻に迎えて、平穏にいくものですか」
「伯母上!」
「あんな小娘が相手だなんて……忌々しい。どうしてヴィクトルが、あのような小娘を」
歯噛みするヘレナは、エーリクがこの世で最も嫌う人に――母に、よく似ている。母の姉であることを思えば、当然かもしれないけれど。
「……伯母上。どうか、妃殿下を否定なさらないでください。それに、僕とて、グレーデンの血を引いているのですよ」
「あなたはノルドヴァルで育った、正真正銘のノルドヴァル国王です。あの娘とは違います」
言い切った伯母の目には、憎しみの色が濃い。
あぁ、とエーリクは嘆息した。
どうしてこうも、ノルドヴァル王家にはまともな人がいないのだろうか。
***
エーリク=ハルバード・フォン・ノルランデル=グレンダールは、ノルドヴァル国王夫妻の第一子としてこの世に生を受けた。
母はノルドヴァル女王、カトリーヌ。
父はグレーデン王弟、アーノルド。
両親の婚姻は、ノルドヴァル対グレーデンの戦後、和平条約の条項の一つとして結ばれた。
夫婦仲は、決して良好とは言い難かった。
母は、敗戦の処理の一環として己の婚姻が成立したことを恨み、嘆いた。父と顔を合わせようとすることもなく、エーリクに対しても、冷淡な態度だった。
それでもエーリクは寂しくなかった。
なぜなら父がいたからだ。
黄金色の髪と琥珀色の瞳を持つ、美しい父。体が弱く、季節の変わり目にはよく寝込んでいたけれど、寝台の上からでも国政を行うほど、鋭い頭脳を持っていた。エーリクを見つけると優しい笑みを浮かべ、忙しくとも本を読み聞かせてくれた。分からなかったことを尋ねると、手助けしながら自分で答えを求められるよう、導いてくれた。
そんな父が、エーリクは大好きで仕方がなかった。
自分が父の息子であることが誇らしく、また嬉しかった。
唯一悔しかったのは、自分が父に似ていないことだった。
エーリクは母に似た容姿をしていた。父のような輝かしい金の髪も、穏やかな琥珀色の瞳も持っていない。けれど、肩を落とすエーリクに、「お父様は、エーリクの柔らかな茶色の髪も瞳も好きだよ」と父が頭を撫でてくれたから、少しだけ自分の容姿が好きになった。
「王太子殿下が不義の子って、本当なのかしら」
――その「好き」が揺らいだのは、エーリクが6歳になって暫くしたある日のことだった。
読み聞かせをしてもらおうと思って父の寝室に向かったら、誰もいなかった。こちらでお待ちください、と言われたけれど、ただ待つのもつまらなくて、こっそりクローゼットに忍び込んだのだ。エーリクが来たことが分からないように、と護衛たちには副寝室に下がってもらった。
いつ来るだろう、父は驚くだろうか、と胸を躍らせていると、扉が開いた。父が来たのかな、とクローゼットの隙間から顔を覗かせようとして、その声を聞いた。
咄嗟にエーリクは手で口を覆った。
微かな隙間から見えた部屋の中には、何度か見た、父付きのメイドがいる。父に何か頼まれたのか、本棚の掃除をしていた。
「ちょっと、また根も葉もない噂を拾ってきたの? 王配殿下に怒られるわよ」
「えー、根も葉もないわけじゃないよ。だってほら、殿下の瞳の色! 女王陛下の青色でも、王配殿下の金色でもないじゃない」
どきりとした。
瞳の色。
それは、エーリクが一番気にしているところだった。せめて母に瓜二つであれば割り切れるのに、少しだけ違うのが、尚更父への憧憬を抱かせた。
「それは、まぁ……でも、確か、先代の王妃さまは茶色じゃなかった?」
「先代の王妃殿下は焦茶! 王太子殿下は栗色!」
「細かいなぁ」
「そもそも、女王陛下は、たった三日しか殿下を受け入れなかったんだよ? 初夜の三日だけ!」
三日、と強調するようにメイドは指を三本立てている。咎めていた方のメイドも、少し興味を持ったようで、止めるそぶりすら見せない。
「そんでもって、その時女王陛下を護衛していたのは、栗色の髪と瞳の騎士! 疑うなっていう方が無理ってもんでしょ」
「はいはい、それがほんとならね」
本棚の掃除をし終えたメイドたちが出ていく。
エーリクはそれを、声もあげずに見ていた。暫く経って、もう一度部屋が開けられてからも、ずっと動けないでいた。
「――エーリク!」
差し込んだ光と共に、柔らかな笑みを浮かべた父が見える。
普段ならばお父様、と喜んで飛びつくのに、どうしても、そうすることができなかった。
「エーリク、クローゼットは狭いだろう。早くおいで」
「お、とう、」
「ん?」
優しく首を傾げる父は、シャンデリアの光を受けて輝いていた。
首筋に流れる金色の髪も、細められた金色の瞳も、エーリクとは似ても似つかない。
「どうかし……エーリク!?」
父の顔をそれ以上見ていることができなくて、エーリクはクローゼットを飛び出した。待ちなさい、という父の声は、聞こえなかったふりをした。
***
「エーリク」
前方で手を上げて微笑む父の姿を捉えた瞬間、エーリクは踵を返してバタバタとその場から走り去った。はぁはぁと肩で息をして、胸に抱えていた本に顔を埋めた。
――あれから数日、エーリクは父を避けた。どんな顔で父を見ればいいのか、分からなかったから。料理も、わざわざ部屋に運んでもらった。父に読んでもらうはずだった本は、戸棚の奥深くに仕舞い込んだ。
「……お父様」
なのに、エーリクは父が恋しくてたまらなかった。
「……このままじゃ、だめだ」
エーリクは顔を上げる。
このもやもやを晴らす方法は、たったひとつ。
「……ねぇ、爺や」
「はい、殿下」
「お母様に、女王陛下に、お会いしたい」
爺やは驚いたように目を見開いたが、畏まりました、と深く頭を下げた。
面会が叶ったのは、それから数日後のことだった。
「ご機嫌うるわしゅう存じます、お母様」
「……なんの、用なの」
テーブル越しに向かい合っていながらも、母の声は固く、視線は一度も交わらない。これは常のことだった。
「お人払いを、お願いできますでしょうか」
「……なぜ?」
「どうしても、お願いしたいのです」
母は嫌そうな顔をしてから、己の侍従を下がらせた。エーリクの侍従も下がった。
「あの……ご機嫌を損ねてしまったら、申し訳ありません。ですが、どうしても確認したいのです」
「さっさとしてちょうだい」
かちこちと、柱時計が時を刻む音がする。
エーリクは深く息を吸い込んだ。
「僕、は……僕は、ほんとうに、お父様の子供なのですか?」
母と、目が合った。見開かれた青い瞳に、何が映っていたのか。母の唇が震え、ただでさえ白い肌が一層青白くなったように思われた。
次の瞬間、頬の横を何かが掠めた。カシャン、と甲高い音を響かせて、繊細な絵が描かれたティーカップが割れる。
「……え、」
「お前……お前、母に向かってなんてことを!」
母は鬼のような形相をしていた。気圧されて、エーリクは黙り込む。
「忌々しい、忌々しい忌々しい……大国の出だからと、戦勝国の王弟だからと、いつも偉そうなあの男……! あたくしが、このあたくしこそが、王なのに!」
母の声は、悲鳴のように高く長く耳に突き刺さる。向けられた憎悪に、エーリクは身じろぎもできなかった。
「どうして、あたくしは、あんな男と……」
「お、かあさ」
「母と呼ぶなっ!」
エーリクの喉が窄まった。視界が涙で滲む。
「お前のせいで、あたくしは二度と子を産めぬ体になった! お前を生んでいる間に、あの男があたくしから王としての権力を奪った!」
知らない。
エーリクは、そんなこと知らない。
「お前など……お前など、生まれなければ――」
「――カトリーヌ、そこまで」
冷ややかな声が、母の甲高い声を遮った。反射的に振り向くと、今まで見たこともないほど厳しい顔をした父が立っている。
「あたくしの行動を指図するな!」
「するつもりはないよ。けれど、エーリクを傷つけるのはやめてほしい」
言って、父は軽々とエーリクを抱き上げた。
「エーリク、行こう」
一転して、父は柔らかな笑みを浮かべる。
エーリクはもう、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
父はエーリクを、エーリクがお気に入りの庭まで連れてきてくれた。侍従に紅茶と茶菓子を運ぶように命じて、向かいの椅子に腰掛ける。
「お母様に、何を聞いたんだい?」
「……」
「……エーリクが言いたくないのなら、言わなくてもいいよ」
「……お、とうさま」
「うん」
「僕……僕、お父様の息子です、よね。お父様の、子供ですよね。お母様は不貞なんて、してませんよね?」
縋るような声音に、父は驚いたように目を見開いて、笑った。
だから、安心した。そんなわけはない、やっぱり侍女の勘違いなのだと。
「それは、分からないなぁ」
読み聞かせの時と同じような口調で紡がれるから、父の言葉を理解するのが一拍遅れた。
「――え?」
「カトリーヌは、事実として不貞を働いた。だから、エーリクが僕の子かどうか、本当のところは分からない。時期も近かったみたいだから」
父はなんてことないように告げて、侍従が運んできた紅茶を啜った。
エーリクは色を失った。
「そ、んな……じゃあ、僕は、」
「――それでも、エーリクがノルドヴァルの王子であることは決して揺るがない。カトリーヌの子なんだから」
父は穏やかに言葉を続ける。
けれど、カトリーヌの子、という言葉が、まるで父とエーリクの血縁を否定しているようで、エーリクは泣きたくなった。
あぁ、泣かないで、と父は困ったように笑う。
「僕は、エーリクをとても大切に思っているよ」
父は身を乗り出して、エーリクの頭を撫でた。
「似ていても、似ていなくても。僕の血を引いていても、いなくても。エーリクは、僕の大切な息子だよ」
だから泣かないで、と困った風に笑う父に、涙が止まらなくなった。
そんなことを言わないで、と泣き喚きたいのに、言葉は全く出なかった。
「うえっ……ふえ、うええぇん。うわぁあん」
「あぁ、エーリク、泣かないで。大丈夫だから、ね?」
「びゃあぁああ」
「エーリク、ほら、お菓子もあるよ」
宥める父の声を聞きながら、やっぱり父の子でありたいと思ったことを、今でも鮮明に覚えている。
***
「……伯母上。差し出がましいことを申し上げますが、あなたはユティラ王太后なのですよ」
「……? えぇ、その通りです」
「伯母上のご発言は、まるでノルドヴァル王女のものです」
当たり前でしょう、とヘレナはエーリクの言葉を切り捨てる。
「あたくしはユティラ王太后である以前に、ノルドヴァル王女なのですから」
エーリクは目を伏せた。
決してグレーデン王弟の立場は使わず、ノルドヴァル王配であり続けた父。ユティラ王妃の立場を崩さなかった従姉。
ノルドヴァル王女のまま、ユティラ王太后として振る舞う伯母。
――あぁ、これほどまでに。
「伯母上。アンネリーゼ従姉上は、決して賢しらなだけの小娘ではあり得ません」
「……エーリク。あなたまであの娘の肩を持つというのですか」
はい、とエーリクは微笑んで頷く。
「あの方は、ヴィクトル従兄上が認めた、唯一無二のユティラ王妃なのですから」
従姉弟かどうか、エーリクには分からない。否、母ですらきっと、分からない。
それでも、アンネリーゼが認めてくれるのならば、その関係性を名乗りたいと、そう、思う。
――父が、エーリクにそうしてくれたように。




