第29話 あなたのための一杯
第29話 あなたのための一杯
北方公爵が拘束されてから七日後、北方三国との新しい条約が正式に結ばれた。偽薬草茶を飲んで寝込んでいた人々も回復し、最後まで王宮の治療所に残っていた老婦人が、その日の午後に家族と帰っていった。薬草園では汚染された川の水を使わず、山の湧き水を引く新しい水路が動き始めていた。
枯れかけた銀月花の根元からも、小さな芽が二つ出ていた。エレナは朝、その芽を見つけると、土のついた指で何度も葉の数を確かめた。庭師から触りすぎると芽が驚きますよと言われ、慌てて手を引いたものの、昼食の時間になっても口元は緩んだままだった。
ところが夜になると、エレナは一人で王宮茶室に残っていた。会談で着ていた深緑のドレスから、茶色い作業着と厚手の黒いスカートへ着替えている。髪は飾り気のない布でまとめられ、白い前掛けには土と茶葉の染みがいくつもついていた。
事件の捜査で荒らされた茶室には、まだ片づける物が残っていた。棚から落ちた植木鉢は割れ、乾いた土が床板の隙間へ入り込んでいる。誰かが昼に食べた林檎の芯も皿の上に置き忘れられ、冷えた部屋には土と古い果物の甘酸っぱい匂いが混じっていた。
「大きな欠片が一つ、二つ、三つ」
エレナは床へ膝をつき、割れた鉢を数えながら木箱へ入れた。細かな欠片は箒で集めたが、何度掃いても床の隅から新しい欠片が出てくる。明日は銀月花の植え替えがあり、その次の日には回復した被害者へ薬草茶を届けなければならないため、今夜のうちに片づけておきたかった。
「四つ、五つ……」
「六つ目は君の後ろにある」
突然声をかけられ、エレナは肩を跳ねさせた。振り向くと、茶室の入口にアルヴェインが立っている。紺色の上着は脱いで腕に掛け、白いシャツの襟元を少し緩めていた。
「殿下、まだお休みになっていなかったのですか」
「それはこちらの台詞だ。侍女から、夕食の皿が手つかずで戻ってきたと聞いた」
「昼に焼き菓子を食べました」
「小さなものを一枚だけだろう」
「二枚です」
「胸を張って言う量ではない」
アルヴェインは茶室へ入り、エレナの後ろに落ちていた鉢の欠片を拾った。尖った縁を見た彼は眉を寄せ、木箱へ入れる。床には割れていない鉢も転がり、そこからこぼれた乾燥豆が丸い音を立てて動いた。
「なぜ鉢から豆が出てくるんだ」
「私が隠しました」
「どうして?」
「料理長に見つかると、豆の煮込みにされるからです。春に植えようと思って取っておきました」
「茶室を食料庫にしてはいけないと、王宮茶師から注意を受けたことがある」
「それは香辛料を隠した殿下のお話です」
アルヴェインは返す言葉を探したが、見つからなかったらしい。以前、苦手な香辛料を料理長に使われないよう、この茶室へ持ち込んだことがある。エレナは床の乾燥豆を拾い、前掛けのポケットへ一粒ずつ入れた。
「この豆は別です。種にしますから」
「分かった。豆の裁判は明日にしよう」
「裁判にはなりません」
「公正な審理を行う。だから今夜はもう働かなくていい」
アルヴェインはエレナの手から箒を取った。エレナは反射的に柄を握り直したが、彼は手を放さない。二人で一本の箒を持ったまま、しばらく床の土を見つめた。
「まだ茶器が残っています」
「それは明日、皆で片づければいい」
「明日は皆にも仕事があります。私一人なら、あと一時間で終わります」
「昨夜もそう言って、夜明けまで帳簿を整理したそうだな」
「あれは必要な仕事でした」
「今朝は朝食の卵を殻ごとかじりそうになったと聞いた」
「誰から聞いたのですか」
「料理長だ。王宮では秘密が守られない」
エレナは箒から手を放し、前掛けについた土を払った。やることがなくなった両手が落ち着かず、棚の上の茶筒を並べ直す。大きさの違う筒を手前から順に置き、一つが少し斜めになっていると、指先でまっすぐに直した。
「条約は結ばれました。被害に遭った方々も回復しています。鉱山の町へ送る苗も、明日には用意できます」
「ああ。すべて君が気にかけていたことだ」
「薬草園の水路も完成しました。銀月花にも芽が戻りました」
「庭師が大喜びで知らせに来た。君が芽を数えすぎて、昼食に遅れたとも言っていた」
「余計なことまで話す人ばかりですね」
エレナは口を尖らせたが、茶筒から手を離さなかった。事件が終わったなら、休んでもよいはずだった。けれど椅子へ座ろうとすると、まだ見落としている仕事があるように思え、胸の奥が細い糸で引かれた。
「鉢を片づけたら、茶器を洗います。そのあと薬草の在庫を数えます。朝までには新しい札も書けます」
「エレナ」
「新しい水路の水質も、毎朝確かめなければなりません。銀月花の芽がまた枯れるかもしれませんし、被害者の中には再び体調を崩す方がいるかもしれません。北方へ送る苗に病気が出たら――」
「もういい」
アルヴェインは箒を壁へ立てかけた。それから暖炉の前へ行き、消えかけた火へ薪を一本足した。赤い火が広がると、冷えていた茶室へ白樺の匂いと柔らかな熱が戻ってきた。
「今夜の仕事は終わりだ。君はそこに座ってくれ」
「ですが」
「座ることも王宮茶師の仕事だと思えばいい」
「そのような職務はありません」
「今、王太子が追加した」
アルヴェインは丸い木の椅子を引いた。エレナは納得していない顔のまま座り、膝の上で前掛けを整えた。ポケットの中で乾燥豆がこすれ、小さな音を立てている。
アルヴェインは戸棚を開け、茶器を探し始めた。青い花模様の茶壺を取り出したあと、隣の缶を開けて匂いを嗅ぐ。すぐに顔をしかめたため、エレナは思わず身を乗り出した。
「それは乾燥させた苦根草です。花茶ではありません」
「危なかった」
「苦根草を一杯分飲めば、今夜は眠れなくなります」
「なぜ茶葉の隣に置いてある?」
「棚を荒らされたあと、まだ元の場所へ戻していないからです。ですから、私が片づけると申し上げました」
「今は私が覚えた。苦根草は一番下の棚へ移す」
「光に弱いので、蓋のある箱へ入れてください」
口を出さないつもりだったエレナは、結局、椅子から何度も指示を出した。花茶は丸い缶、蜂蜜は小さな壺、茶匙は布を敷いた引き出しに入っている。アルヴェインは言われるたびに別の戸棚を開け、最後には干した布巾まで引っ張り出した。
「茶匙が見つからない」
「右から二番目の引き出しです」
「ここには木の実が入っている」
「三番目です」
「二番目と言った」
「殿下から見て右です。私から見れば左なので、少し混乱しました」
「茶を淹れる前に日が変わりそうだな」
アルヴェインはようやく茶匙を見つけ、乾燥させた銀月花と香草を茶壺へ入れた。沸かした湯を注ぐと、淡い金色の湯気が立ちのぼる。エレナは癖で抽出時間を数えようとしたが、アルヴェインが砂時計を伏せたため、口を閉じた。
「前より手つきがよくなりました」
「雨の夜に淹れた茶は、ひどかったからな」
「あのときは花を入れすぎていました。蜂蜜も底に固まっていましたし、湯の温度も高すぎました」
「よく最後まで飲んでくれたものだ」
「殿下が初めて私のために淹れてくださったお茶でしたから」
「今夜が二度目だ」
アルヴェインは花茶を白い茶器へ注ぎ、蜂蜜を匙にすくった。慎重に一杯落とし、少し考えてから、もう半分を加える。エレナは止めかけたが、彼が真剣な顔で混ぜているため、そのまま見守った。
「どうぞ。味の保証はできない」
「王太子殿下のお茶に毒見は必要でしょうか」
「必要なら私が先に飲む」
「冗談です」
差し出された茶器から、銀月花の穏やかな香りが上がっていた。エレナは両手で包み、冷えていた指を温める。けれど唇へ運ぼうとすると、両腕がそこで止まった。
「熱すぎたか?」
「いいえ」
「蜂蜜を入れすぎた?」
「それは飲めば分かります」
「では、何を考えている?」
エレナは茶の表面を見つめた。金色の水面に自分の顔がぼんやり映り、暖炉の火が小さく揺れている。何から話せばよいのか分からず、前掛けのポケットに入れた豆を指先で転がした。
「フォルディア家にいたころ、私は毎朝、家族全員の茶を用意していました。夫の茶には眠気を覚ます葉を加え、義母の茶からは刺激の強い香草を抜きました。客が来れば好みを調べ、体調が悪い者がいれば薬草を選びました」
「君はずっと働いていたんだな」
「役に立っている間は、食卓にも席がありました。体調を崩して三日間寝込んだとき、誰も部屋へ来ませんでした。四日目に起きて茶を淹れると、ようやく義母が、怠け癖が治ったようねと言いました」
暖炉の薪がはぜ、アルヴェインの足元へ小さな火の粉が落ちた。彼は靴の先で火の粉を消したが、すぐには口を開かなかった。エレナは茶器を持ったまま、親指で縁をなぞった。
「だから、何もしていないと落ち着かないのです。働いて、整えて、誰かの役に立っていれば、ここに置いていただけます。けれど事件が終わり、薬草園が元に戻ったら、私がしなければならないことは少なくなります」
「少なくなってはいない。君は放っておけば、自分で百個ほど仕事を増やす」
「そういう意味ではありません」
「分かっている」
エレナは唇を結び、茶器を膝の近くへ下ろした。訊いてはいけないと思っていた言葉が、喉の奥に残っている。アルヴェインは答えを急がせず、向かいの椅子へ座って彼女を待った。
「役に立てなくなったら、私はここにいてもよいのでしょうか」
声にした途端、エレナの指から力が抜けた。茶器がわずかに傾き、花茶が一滴だけ前掛けへこぼれる。彼女は急いで拭こうとしたが、アルヴェインがその手を包んだ。
「君が何も整えられない日も、誰も救えない日も、私は君にいてほしい」
「一日や二日の話ではありません。病気になり、茶を淹れられなくなるかもしれません」
「そのときは私が淹れる。今夜よりは上達しているはずだ」
「薬草の名前を忘れるかもしれません」
「君が教えてくれた名前を、私が覚えておく」
「殿下のお役に立てなくても?」
「君がいてくれることと、役に立つことを同じ秤には載せない。笑えない日も、私に優しい言葉を返せない日も、寝台から起き上がれない日も、君にいてほしい」
アルヴェインの手は、茶器よりも温かかった。エレナは彼の顔を見たが、冗談を言ってごまかす様子はない。フォルディア家で何度も聞いた、役立たずなら出ていけという声が、今夜は少し遠い場所から聞こえるようだった。
「それでは殿下も、お役に立てない日は茶室にいてよいことにします」
「私は王太子だぞ。少しくらい役に立つと思うが」
「先ほど、花茶と苦根草を間違えました」
「あれは棚の配置が悪い」
「私がいなければ、今ごろ眠れなくなっていましたね」
「やはり君には、そばにいてもらわなければ困る」
エレナはようやく茶器を口元へ運んだ。銀月花の香りのあとに蜂蜜の甘さが広がり、舌の奥までべったりと残る。予想どおり、蜂蜜は少し多かった。
「いかがだ?」
「甘すぎます」
「やはり半匙でよかったか」
「それに、お湯が少し熱すぎました。銀月花は香りが飛びやすいので、沸騰してから少し待った方がよいです」
「淹れ直そう」
アルヴェインが立ち上がりかけると、エレナは首を横に振った。いつもなら香草を足し、湯を加え、味が整うまで何度でも直しただろう。今夜の一杯は誰かを治す薬でも、客をもてなすための茶でもなかった。
「このままで結構です」
「無理をしなくていい」
「無理ではありません。これは私のためのお茶ですから」
エレナはもう一口飲んだ。甘さに慣れると、奥に残った銀月花の香りが分かる。アルヴェインは彼女が茶器を置くまで何も言わず、暖炉へ薪を足しながら待っていた。
茶室には、まだ割れた鉢も、洗っていない茶器も残っていた。前掛けのポケットには拾い集めた豆が入り、卓上にはアルヴェインが出しっぱなしにした茶缶が三つ並んでいる。明日の朝になれば、侍女たちから片づけ方が悪いと叱られるかもしれなかった。
「殿下、茶匙は使ったあと、布で拭いて戻してください」
「今夜くらい、出したままでもいいだろう」
「そうですね。今夜だけです」
エレナは最後の一口を飲み、空になった茶器を卓上へ置いた。味を直さず、一滴も残さず飲み干したのは初めてだった。アルヴェインが満足そうに笑うと、彼女も蜂蜜の甘さが残った唇をゆっくりと緩めた。




