第30話 茶の前では剣を置く
第30話 茶の前では剣を置く
北方公爵が裁かれてから一年後、旧鉱山町の斜面には耐寒香木の若い苗が並んでいた。雪解けの土は黒くぬかるみ、作業道を歩くたびに長靴の底から水の音がする。細い苗は人の膝にも届かなかったが、枝先には柔らかな緑色の葉が開いていた。
閉鎖された鉱山の入口には頑丈な柵が設けられ、その隣に大きな乾燥場と薬草加工所が建っていた。収穫にはまだ数年かかるため、今は王室薬草園から運ばれた葉を使い、乾燥や選別の技術を学んでいる。木造の加工所からは蒸した薬草の匂いが流れ、昼休みを知らせる鐘が鳴ると、働く者たちは泥のついた靴のまま食堂へ向かった。
「クラリッサ監督官、また荷車を道の真ん中へ置いたな!」
農夫の太い声が斜面へ響いた。荷車の横には、粗末な灰色の作業着を着たクラリッサが立っている。髪は焦げ茶色の布でまとめ、両手には羊毛を詰めた厚い手袋をはめていた。
「端へ寄せたつもりです」
「これでは牛も通れない。お嬢様の馬車なら通れるかもしれんがな」
「もう馬車は持っていません」
「だったら荷車の扱いを覚えろ。前を持ち上げて、こっちへ引くんだ」
クラリッサは唇を引き結び、農夫に言われたとおり荷車の柄を持ち上げた。車輪がぬかるみにはまり、力を入れても動かない。彼女がもう一度引くと、泥が跳ねて頬と作業着の裾へ飛んだ。
「腰で引け。腕だけでは動かんぞ」
「先に言ってください」
「先月も言った!」
農夫たちが笑い、クラリッサは泥のついた顔で彼らをにらんだ。それでも荷車の柄から手を離さず、今度は腰を落として引く。車輪が泥から抜けると勢いよく前へ進み、積んでいた土の半分が道へこぼれた。
「動きました」
「土も落ちたぞ」
「今から拾います」
「先に昼飯を食え。朝から黒パン一枚しか食べていないだろう」
年配の農婦が布に包んだ芋の焼き餅を差し出した。クラリッサは断りかけたが、腹が小さな音を立てたため、黙って受け取る。熱い餅を半分に割ると、湯気と一緒に焦げた芋の甘い匂いが上がった。
そこへ、町の入口から二台の馬車が近づいてきた。先頭の馬車には王室の紋章がついていたが、後ろには苗木と茶箱が山のように積まれている。御者の隣には、紺色の外套を着たアルヴェインが座っていた。
「王太子殿下が御者台にいるぞ」
「中へ座ると荷物が入らなかったそうだ」
「うちの監督官も、昔は絹の服で馬車に乗っていたのにな」
「聞こえています」
クラリッサが農夫たちを振り返ったとき、馬車の扉が開いた。エレナは薄緑色の旅行着の上に茶色い外套を重ね、片手で帽子を押さえながら地面へ降りた。長旅のため裾には細かな埃がつき、革靴の先にも泥が跳ねていた。
「お久しぶりです、クラリッサ」
エレナが声をかけると、クラリッサは食べかけの芋餅を背中へ隠した。すぐに自分の顔や服が泥だらけであることにも気づき、手袋で頬を拭おうとする。しかし手袋の方が汚れていたため、茶色い筋が一本増えた。
「そのままでよいと思います」
「よくありません」
「農園で働いているのですから、泥がつくのは当然です」
「あなたはほとんど汚れていません」
「馬車から降りたばかりですから」
クラリッサは背中へ隠した芋餅を作業台へ置き、ぎこちなく一礼した。かつて王宮で見せた優雅な礼とは違い、厚い手袋が膝へぶつかっている。農夫たちは少し離れた場所に集まり、二人の様子を見守っていた。
「遠いところをお越しいただき、ありがとうございます。王宮茶師エレナ様」
「エレナで結構です。今日は茶師として働きに来ました」
「では、私もクラリッサとお呼びください。爵位はありませんので」
「分かりました、クラリッサ」
エレナが名を呼ぶと、クラリッサは一度まばたきをした。それから加工所へ案内し、完成したばかりの乾燥棚を見せる。棚には香草が種類ごとに並べられ、札には収穫地、乾燥時間、担当者の名が記されていた。
「以前のあなたなら、札の文字が曲がっていると書き直させていたでしょうね」
「今も直したいと思っています」
「直さないのですか」
「書いた本人が読めるなら、仕事に支障はありません。それに一度注意したら、三日間ほど口を利いてもらえませんでした」
棚の向こうから若い作業員が顔を出した。彼は前掛けで手を拭きながら、クラリッサへ紙包みを投げる。中には乾燥させた香木の葉が入っていた。
「監督官、昨日の分です。焦がしていないか、見てください」
「昨日は温度を上げすぎないようにと言いましたね」
「火を見ていたら、隣の婆さんが昼飯を食えと言うから」
「干した鱈を焼くのに夢中になったのでしょう」
「よく分かりましたね」
「加工所中が魚臭くなりましたから」
クラリッサは葉を一枚取り、指で折って乾燥具合を確かめた。葉は軽い音を立てて割れ、中から清涼な香りが広がる。彼女は何度も匂いを確かめたあと、エレナへ紙包みを差し出した。
「この町で育てた香木から、初めて採れた葉です。量は少なく、商品にはできません」
「十分です。お茶にしてみましょう」
「こちらの食堂を使えます。立派な茶器はありませんが」
「茶器は、割れずにお湯が入れば役目を果たします」
食堂には長い木の卓が三つ並び、昼食を終えた者たちの皿がまだ残っていた。豆と塩漬け肉の煮込みが鍋の底で冷め、壁際には洗った靴下が何足も干されている。香木の茶を試すと聞いた農夫たちは、食器を急いで片づけ、人数分の厚い陶器の茶碗を集めた。
「欠けている茶碗が三つあります」
「口を切らなければ使える」
「王宮では出せませんね」
「ここは王宮ではないよ、監督官」
年配の農婦に言われ、クラリッサは欠けた茶碗を卓上へ戻した。エレナは持参した小さな茶壺を取り出し、香木の葉を入れる。湯を注ぐと、森の中で枝を折ったときのような青い香りと、焼いた木の甘い匂いが食堂へ広がった。
「まだ香りが弱いですね」
クラリッサは茶碗へ鼻を近づけた。期待した味ではなかったらしく、眉間にしわを寄せている。エレナは一口飲み、舌の上に残った味を確かめた。
「若い木の最初の葉ですから、これでよいのです。来年には根が深くなり、香りも強くなります」
「慰めているのですか」
「茶師として答えています」
「あなたは昔から、そういうところがありますね」
「どのようなところですか」
「褒めているのか、注意しているのか分からないところです」
クラリッサは茶碗を置き、作業着の膝についた泥を手袋で払った。何度払っても乾いた土が落ちるため、途中で諦める。食堂の外では、農夫たちが午後の仕事に使う籠を運んでいた。
「エレナ。あなたへ謝れば、許していただけますか」
クラリッサは卓上の茶碗を見たまま尋ねた。周囲にいた農夫たちは手を止めたが、エレナはすぐには答えなかった。茶壺の中で葉が沈むのを待ち、二杯目の茶を二人の茶碗へ注いだ。
「許しを求める相手は、私だけではありません」
「分かっています。偽薬草茶を飲んだ人々にも手紙を書きました。返事をくださった方には直接会い、治療費を返しています」
「返事をしなかった方もいるでしょう」
「はい。会いたくないと言われた家へは行きません。謝罪を受け取ることまで強いるつもりはありません」
「鉱山の水で畑を失った方もいます」
「その方たちには、一生かけて返します。私が一生働いても、返しきれないかもしれません。それでも、返せないから何もしないとは言いません」
エレナはクラリッサの手を見た。厚い手袋の親指には何度も縫い直した跡があり、袖口も擦れて白くなっている。以前の彼女なら、ほつれた糸が一本あるだけで服を着替えていただろう。
「私は、あなたがしたことを忘れません」
「はい」
「あなたも、忘れないでください」
「毎朝、鏡を見るたびに思い出します。泥の筋がついていれば、少し見えにくくなりますけれど」
クラリッサが真面目な顔で言ったため、近くにいた農婦が吹き出した。エレナも口元を押さえたが、笑いを隠しきれない。クラリッサは頬の泥を拭こうとして、また手袋を上げた。
「余計に汚れます」
「先ほどもそう言われました」
「洗った布を持ってきますよ」
「その前に芋餅を食べなさい。まだ半分残っているだろう」
農婦は食べかけの芋餅をクラリッサへ返した。エレナにも新しい一枚を渡し、王太子だからとアルヴェインには二枚を押しつける。四人は同じ卓へ座り、薄い香木茶を飲みながら、焦げ目のついた芋餅を食べた。
エレナとクラリッサは友人にはならなかった。過去を忘れたふりをして、腕を組んで歩くこともない。それでも二人は同じ卓を囲み、北方で最初に収穫された香木の茶を最後まで飲んだ。
その春、王宮薬草茶室の入口に新しい決まりが掲げられた。大きな板へ文字を書いたのはエレナだったが、まっすぐ取りつける仕事はアルヴェインが担当した。彼は何度も位置を測ったにもかかわらず、板は右へ少し傾いていた。
「殿下、もう少し左を上げてください」
「これでまっすぐだ」
「傾いています」
「床の方が傾いているのではないか」
「王宮の大工を敵に回す発言ですね」
脚立を押さえていた侍女たちが笑った。アルヴェインは不満そうに板を掛け直し、今度は左へ傾ける。結局、通りかかった庭師が直すまで、二人は昼近くまで入口で言い合うことになった。
板には三つの決まりが書かれていた。
茶の前では、剣を置くこと。
相手が飲み終えるまで、結論を急がないこと。
身分ではなく、名を呼ぶこと。
最初にその決まりを守らされたのは、国境で争っていた二国の代表だった。二人は茶室へ入っても互いに顔を見ようとせず、腰の剣へ手を置いていた。エレナは挨拶をする前に、入口の木箱を指した。
「剣はこちらへお願いいたします」
「我が国の騎士に、武器を手放せと?」
「茶室の決まりです」
「もし相手が隠し持っていたら、どうする」
「その場合は、お茶菓子の胡桃パンを投げて止めます」
エレナが真顔で答えると、若い代表が思わず相手の顔を見た。年配の代表も鼻を鳴らし、先に剣を木箱へ置く。二人は胡桃パンの硬さについて文句を言いながら、同じ卓についた。
その次には、商売敵の商会長たちが訪れた。片方は派手な紫の上着を着て香油の匂いを漂わせ、もう片方は古い帳面を脇に抱え、相手の話へ何度も口を挟んだ。エレナは二人が茶を飲み終えるまで結論を出してはいけないと告げ、酸味のある木苺茶と塩味の焼き菓子を出した。
「この男の茶が先に出たぞ」
「茶を注ぐ順番で、商会の格は決まりません」
「菓子の大きさが違う」
「切った料理人へお尋ねください」
「私の方が小さい」
「では、私の半分をやろう」
「お前に借りを作るのは嫌だ」
言い争っていた二人は、最後には焼き菓子を物差しで測り、同じ大きさに分け始めた。話し合いは予定より長引いたが、互いの荷馬車を襲わせるという話は取り下げられた。商会長たちは帰り際にも言い合っていたものの、次の会談の日を決めてから茶室を出ていった。
王宮薬草茶室には、身分も国も異なる客が集まるようになった。壁際に新しい棚が増え、北方の香木、南方の果実、西の山岳地帯で採れる薬草が並んでいる。窓辺には銀月花の鉢が置かれ、給仕が食べかけの干し葡萄を茶筒の後ろへ隠していた。
その日も、若い外交官たちを迎える会談が開かれていた。エレナは銀月花と北方の香木を合わせた茶を全員へ配る。以前のように給仕を終えて壁際へ控えず、アルヴェインの隣に用意された椅子へ座った。
「エレナ様、今日はどのようなお茶なのですか」
向かいに座った若い外交官が尋ねた。彼は初めての会談に緊張しているのか、濃紺の上着の釦を一つ掛け違えている。隣の者が教えようとして何度も肘でつついたが、本人は茶の香りを確かめることに夢中で気づかなかった。
エレナは開け放たれた窓から庭園を見た。銀月花が春の風に揺れ、その隣では北方から届いた香木が新しい葉を広げている。二つの香りを合わせると、銀月花の柔らかな甘さのあとに、香木の清涼な香りが残った。
「意見の違う方々が、一つの席で飲むためのお茶です」
「そのような調合が、本当にあるのですか」
「完成した調合はありません。今日ここにいる皆様を見て、これから作るのです」
「もし失敗したら?」
「皆様にも飲んでいただきます」
「私たちもですか」
「同じ卓についたのですから、当然です」
茶室へ笑い声が広がった。上着の釦を掛け違えていた外交官もようやくそれに気づき、顔を赤くしながら掛け直す。アルヴェインは卓の下でエレナの手をそっと握った。
「殿下、会談中です」
「身分ではなく、名を呼ぶ決まりだろう」
「では、アルヴェイン。会談中です」
「茶を飲み終えるまで、結論を急いではいけない」
「都合よく決まりを使わないでください」
エレナはそう言いながらも、手を引かなかった。かつての彼女は、人が去らない席を作るため、自分の望みを飲み込んでいた。今は誰かに茶を淹れるだけでなく、自分のために淹れてもらった茶も、味を直さず飲めるようになっていた。
窓から入った風が、卓上の紙を一枚めくった。銀月花と若い香木の匂いが茶室を抜け、庭園の方へ流れていく。遠く離れた北方の町でも、今ごろクラリッサが農夫たちに叱られながら、乾燥棚の温度を確かめているはずだった。
一杯の茶だけで戦争を止められるとは、エレナも考えていない。けれど剣を抜く前に、相手の名を呼び、その顔を見て話す時間は作れる。彼女が守り続けてきたのは、誰もが同じ卓へ座れる、そのわずかな時間だった。
「それでは、始めましょう」
エレナは集まった人々の顔を見渡した。卓の上には国境の地図と帳簿が広げられ、その間には温かな茶と、少し焦げた蜂蜜菓子が並んでいる。王宮薬草茶室の扉は開かれたまま、次の客を待っていた。




