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第28話 北方公爵の断罪

第28話 北方公爵の断罪


 北方三国との再会談が開かれる朝、王宮の会議室には新しい長卓が運び込まれていた。磨かれた卓上には各国の旗と水差しが並び、窓際の暖炉では白樺の薪が小さな音を立てて燃えている。給仕が用意した朝食のパンはすでに冷め、銀皿に載った薄切りのハムから脂の匂いが漂っていた。


 エレナは深緑のドレスに白い襟飾りを合わせ、王宮茶師の銀章を胸につけていた。昨夜は被害者の診察記録を読み直し、眠れたのは空が白み始めてからだった。指先が冷えていたため、彼女は茶碗を両手で包み、香木を加えた薄い薬草茶を一口だけ飲んだ。


「ほとんど眠っていないだろう」


 隣に座ったアルヴェインは、紺色の正装の袖口を直しながらエレナを見た。彼の前には蜂蜜を塗ったパンが置かれていたが、まだ一口も減っていない。エレナは茶碗を静かに受け皿へ戻した。


「殿下も同じでしょう。髪の後ろが少し跳ねています」


「侍従が何も言わなかった」


「言えなかったのでしょう」


 アルヴェインは髪を押さえ、わずかに眉を寄せた。こんな朝にもいつもどおりの会話ができたことで、エレナの肩から少し力が抜ける。けれど扉の向こうから重い足音が聞こえると、彼女は膝の上で両手を組み直した。


 北方三国の使節に続き、北方公爵が会議室へ入ってきた。公爵は黒い毛皮の外套をまとい、太い指には大粒の青玉をはめている。外套には雪と馬の汗が混じった匂いが残っていたが、本人は気にする様子もなく、上座に近い椅子を引いた。


「まず申し上げておきたい。今回の騒動について、北方公爵家に責任はございません」


 公爵は席に着くなり、卓上の水差しへ目を向けた。その水は、北方公爵領を流れる川から採取されたものだった。以前は澄んでいたはずの水が、今は薄く黄ばんでいる。


「鉱山周辺の水質汚染については、王宮薬草園の調査が遅れたために被害が拡大しました。偽の薬草茶が出回った件も同じです。茶の調合を管理する者が職務を果たしていれば、防げたはずでしょう」


 公爵はそこで言葉を切り、エレナを見た。机の下で靴の先が敷物をこする音がしたが、エレナは顔を上げたまま動かなかった。北方三国の使節たちは、互いの表情を確かめるように視線を交わしている。


「そもそも、離縁歴のある外国人女性へ国家の薬草事業を任せること自体が間違いなのです。どれほど王太子殿下のお気に入りであろうと、身元の確かな我が国の貴族とは違う。王宮茶師などという地位を与えた結果が、今回の混乱ではありませんか」


「私の離縁と、川へ毒を流した者が誰であるかに、どのような関係があるのでしょう」


 エレナが尋ねると、公爵は鼻を鳴らした。彼女の胸元で銀章が小さく揺れている。離縁した直後、着替えを詰めた鞄一つで雨の港へ立っていた日のことが頭をよぎったが、今は隣にアルヴェインがおり、卓上には彼女が集めた記録があった。


「管理者としての資質を申しているのだ。国を追われた女に、北方の事情など分かるはずがない」


「その発言は、三国との会談に招いた王室の判断まで侮辱するものだ」


 アルヴェインの声が会議室へ響いた。暖炉で薪が崩れ、赤い火の粉が上がる。公爵は一瞬だけ口を閉じたが、すぐに白い口ひげを撫でた。


「殿下はその女に近すぎます。だから事実が見えなくなっておられるのです」


「事実が見えていないのは、どちらでしょうか」


 会議室の端から声が上がった。淡い灰色のドレスを着たクラリッサが、椅子の背へ手をついて立ち上がっている。朝食を取る暇がなかったのか、彼女の袖には乾いたパンくずが一つ残っていた。


「クラリッサ、座りなさい」


 公爵の声が低くなった。クラリッサの指が椅子の背を強く握り、爪の周りが白くなる。それでも彼女は座らず、足元に置いていた革鞄を持ち上げた。


「お前が口を出す場ではない」


「いいえ。私が口を閉ざしてはいけない場です」


 クラリッサは鞄を開け、数冊の帳簿と封書の束を取り出した。古い帳簿には鉱山の粉塵が染みつき、紙を開くと湿った土と油の匂いが立ちのぼる。彼女は震える手で最初の書類を卓上へ置いた。


「これは父上が鉱山監督官へ出した命令書です。浄化槽の修理費を削り、壊れたまま採掘を続けるよう命じています。廃水は夜間に川へ流せとも書かれています」


「偽物だ!」


 公爵が椅子を蹴るように立ち上がった。銀の食器が揺れ、水差しの水面に細かな波が広がる。クラリッサは肩を震わせたが、次の帳簿を開いた。


「こちらは鉱山の廃水記録です。雨の日を選び、汚水を川へ流していた日付が記されています。記録係の署名もあります。そして、こちらが偽薬草茶を販売した商会の売上帳簿です」


「黙れ、クラリッサ!」


「商会から北方公爵家へ、売上の四割が送られています。盗まれたエレナ様の栽培帳をもとに見た目だけ似せ、安い毒草を混ぜた商品を作らせたのも父上です」


 北方三国の使節の一人が帳簿を引き寄せ、眼鏡をかけて数字を確かめた。別の使節は命令書の印章を指でなぞり、持参した公爵家の公文書と見比べている。やがて二人は顔を上げ、黙ってうなずいた。


「印章は本物です」


「送金の日付と金額も、商会側の記録に一致しております」


 クラリッサは最後の一枚をエレナの前へ置いた。それは栽培帳を盗んだ使用人への指示書であり、報酬として金貨三十枚を渡すと記されている。エレナは紙の端についた赤黒い染みを見つめ、薬草園で帳面が消えた朝に飲み損ねた苺茶のことを思い出した。


「王宮茶師エレナを陥れ、鉱山の罪を隠したのは、北方公爵家です」


「誰にそそのかされた!」


 公爵が卓を回り込み、娘へ近づこうとした。衛兵がすぐに間へ入り、その腕を押さえる。公爵の毛皮の外套がずれ、床へ落ちた青玉の飾りが乾いた音を立てた。


「お前は私の娘だ。公爵家が潰れれば、お前もすべてを失うのだぞ!」


「分かっています」


「ならば黙れ!」


「いいえ」


 クラリッサの声は細かったが、会議室の一番奥まで届いた。彼女は唇を一度噛み、エレナの方を向いた。目の下には化粧でも隠せない青い影があり、耳元の真珠飾りも片方だけ少し傾いている。


「私はエレナ様が嫌いです。何年も礼儀作法を学び、薬草の名を覚え、父上の望む娘になろうとしました。それなのに、エレナ様は外国から来て、私が欲しかったものを次々と手に入れました」


 エレナは何も言わず、クラリッサを見た。彼女に盗品の嫌疑をかけられ、人前で侮辱された夜のことは消えていない。腕に残った爪痕を袖で隠しながら、厨房で冷えた豆のスープを飲んだ夜もあった。


「努力しても届かず、悔しくて仕方ありません。エレナ様を傷つければ、自分が上になれると思いました。だから噂を流し、調査を邪魔し、父上の計画にも途中まで従いました」


 クラリッサは乱れた呼吸を整え、背筋を伸ばした。父親から顔を背けず、卓上の証拠へ手を添える。その指先には、金庫を探ったときについたらしい小さな切り傷があった。


「それでも、私が劣っていることと、父上が罪を犯したことは別です。私自身がエレナ様へしたことと、今日ここで真実を話すことも別です。私の罪までなくしてほしいとは申しません」


「この恩知らずが!」


 公爵が衛兵の腕を振りほどこうとした。アルヴェインは椅子から立ち、右手を上げる。窓から差し込んだ冬の日が、彼の金糸の肩章を白く光らせた。


「北方公爵を拘束せよ。鉱山の不法操業、河川の汚染、王宮文書の窃盗、偽商品の製造と販売について取り調べる。関係する商会の資産も直ちに凍結する」


「王太子ごときが、私を裁けると思うな!」


「これは国王陛下の裁可を得た命令だ」


 アルヴェインが封書を開き、国王の署名と王印を示した。公爵はなおも何か叫んでいたが、衛兵たちは両腕を押さえ、会議室の外へ連れ出した。扉が閉まると、床には彼が落とした毛皮の外套と、割れた青玉の飾りだけが残った。


 しばらく誰も声を出さなかった。給仕が冷めた茶を新しいものへ替えようとしたが、手元が狂い、受け皿へ少しこぼしてしまう。エレナは卓上の布巾を取り、その茶を拭いた。


「鉱山で働く者たちは、どうなるのでしょう」


 北方三国の使節が尋ねた。公爵の罪が明らかになっても、鉱山を突然閉鎖すれば、多くの家族が冬を越せなくなる。アルヴェインは用意していた計画書を開き、一同へ配るよう侍従へ命じた。


「鉱夫や荷運び人に罪を負わせるつもりはない。鉱山は廃水処理を行いながら段階的に閉鎖する。王室の支援金を用い、土地は香木農園と薬草加工所へ転換する」


「採掘しか知らない者もおります」


「農園の開墾、乾燥小屋の建設、運搬、加工、帳簿管理が必要になる。希望者には賃金を支払いながら技術を教える。公爵家と商会から没収した資産は、川の浄化と住民の治療を優先して使う」


 エレナも自分の計画書を開いた。泥のついた手で何度も書き直したため、右下には薄い指跡が残っている。彼女は北方の寒さに強い薬草と、荒れた土地でも育つ香木の名を一つずつ説明した。


「農園が収穫を迎えるまでには時間がかかります。その間は、王宮薬草園から苗を提供します。加工所では解毒薬や胃腸薬だけでなく、日常用の香草茶も作れます。働く人々が、公爵の罪と一緒に暮らしまで奪われる必要はありません」


「私たち三国も苗と技術者を出しましょう」


 一人の使節がそう答えると、別の使節も賛同した。朝から誰も手をつけなかったパンが配られ、蜂蜜と温かい山羊乳が運び込まれる。張りつめていた会議室に、焼き直したパンの香ばしい匂いが広がった。


 会談が終わるころ、クラリッサはまだ窓際に立っていた。彼女の前の皿には、半分に割っただけのパンが残っている。エレナが近づくと、クラリッサは何かを言おうとして口を閉じた。


「証拠を出してくださったことには感謝します」


「お許しいただけるのですか」


「いいえ」


 エレナははっきり答えた。クラリッサの指がパンの表面を押し、小さなへこみを作る。窓の外では、使用人たちが雪の積もった植木鉢を日当たりのよい場所へ運んでいた。


「あなたにされたことを、なかったことにはできません。偽の噂を流された人たちも、毒の茶を飲んだ人たちも、すぐには元の暮らしへ戻れません」


「分かっています」


「ですが、今日あなたが真実を選んだことまで否定するつもりもありません。それは、あなたが自分で選んだことです」


 クラリッサはうつむき、傾いていた真珠飾りを外した。片方の留め金が壊れており、朝から耳を痛めていたらしい。彼女は二つの真珠を掌へ載せ、長いあいだ見つめた。


「私は裁きを受けます」


「はい。あなた自身がしたことについて、きちんと受けてください」


「そのあと、私にも働く場所はあるでしょうか」


「それを決めるのは私ではありません。ですが、鉱山の町には、読み書きや帳簿を教えられる人が必要になるでしょう」


 クラリッサは顔を上げた。エレナはそれ以上何も約束せず、自分の茶碗を取りに戻った。茶はすっかり冷めていたが、香木の甘い匂いはまだ残っている。


「エレナ」


 アルヴェインが新しい茶を差し出した。湯気の向こうで、跳ねていた彼の髪はいつの間にかきれいに直されている。エレナは茶碗を受け取り、熱を確かめてから一口飲んだ。


「今度は温かいうちに飲めそうです」


「次の問題が来る前にな」


「それでは急がなければなりませんね」


 二人の後ろで、クラリッサは残していたパンを小さくちぎり、ようやく口へ運んだ。罪が消えたわけでも、三人の間にあった傷が塞がったわけでもない。それでも会議室の卓上には隠されていた記録が開かれ、冬の光が、その一枚一枚を明るく照らしていた。


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