第27話 奪われた栽培帳
第27話 奪われた栽培帳
王都へ戻った翌朝、エレナは王宮薬草茶室の倉庫で、空いた棚を見つめていた。深緑色の旅装から若草色の仕事着へ着替えたばかりで、前掛けの紐はまだ片方しか結ばれていない。開け放した扉からは乾燥薄荷と古い紙の匂いが流れていたが、いつも棚の中央に置いてあるはずの革表紙の栽培帳だけが消えていた。
「リネット、銀月花の栽培帳を持ち出しましたか」
エレナが声を掛けると、茶室の奥で荷物を片づけていたリネットが顔を上げた。紺色の仕事着の袖には鉱山町の煤が残り、首には旅の間に使っていた赤い毛糸の襟巻きをまだ巻いている。彼女は干し林檎の袋を抱えたまま倉庫へ入り、空いた棚を見て目を見開いた。
「いいえ。北部へ持っていったのは写しだけです」
「ここへ戻した覚えは?」
「ありません。原本は、ずっと倉庫に置いてありました」
「最後に見たのは、いつですか」
「出発の前日です。棚の下に干し林檎を隠したときに見ました」
「薬草を保管する棚へ、食べ物を隠さないでください」
「今は、そこを注意する場面ではありません」
リネットは棚の下へ膝をつき、木箱を一つずつ引き出した。乾燥させた白花、薄荷、赤根草、月桂樹の葉、虫よけ用の香木が順番に床へ並ぶ。最後の箱からは、小さく硬くなった干し林檎が一片だけ出てきた。
「やはり隠していたのですね」
エレナが言った。
「忘れていました」
「棚へ戻すときに見つけなかったのですか」
「一枚くらいなら、薬草と仲良くしていると思って」
「薬草は干し林檎と仲良くする必要がありません」
リネットは林檎を前掛けの物入れへ押し込み、再び棚の奥を探した。帳面が裏へ落ちた形跡はなく、床の埃にも引きずった跡はない。しかし窓の下には、泥を落とした靴で踏んだような薄い足跡が一つ残っていた。
倉庫の窓は閉じていたが、留め金が正しい位置まで下りていなかった。外から細い刃物を差し込めば、傷をつけずに開けられる。窓辺に置いていた月桂樹の鉢も、いつもより指二本分だけ右へ動いていた。
「盗まれたのでしょうか」
リネットの声が小さくなった。
「そう考えたほうがよいでしょう」
「王宮の中ですよ」
「窓の外は、納品用の通路です。商人も荷運び人も通ります」
「でも、なぜ栽培帳を?」
エレナは空いた棚へ手を置いた。革表紙の栽培帳には、銀月花をはじめ、王宮薬草園で育てている草木の種まき、土の配合、乾燥方法が記されている。それだけでなく、どの部位をどの季節に採り、何と組み合わせれば安全に使えるかも書いてあった。
「調合帳ではなく、栽培帳を選んだのですね」
「調合記録は、先日公開しました」
「では、公開していない部分が欲しかったのでしょうか」
「おそらく」
「すぐ衛兵へ知らせます」
リネットは立ち上がり、干し林檎を物入れから落とした。拾う暇もなく廊下へ走り出したため、襟巻きの端が扉の取っ手へ引っかかる。首を後ろへ引かれて短い声を上げ、戻って紐を外してから、今度こそ茶室を飛び出した。
エレナは一人で倉庫に残り、窓の下の足跡を調べた。大きさは成人男性ほどで、踵だけが深く、爪先はほとんど残っていない。盗みに入った者は急いでいたのではなく、音を立てないよう踵から慎重に歩いたらしい。
鉢の後ろには、灰色の糸が一本引っかかっていた。王宮使用人の制服には使われない、粗い毛織りの糸だった。納品商人や荷運び人の外套なら珍しくないため、これだけで犯人を探すのは難しかった。
「エレナ様、朝食をお持ちしました」
新人茶師の一人、ソフィが盆を抱えて倉庫へ入ってきた。栗色の髪を白い布で覆い、淡い青色の仕事着を着ている。盆には山羊乳の粥、焼いた腸詰め、蜂蜜を薄く塗ったパンが載っていたが、エレナが床へ並べた薬草箱を見て足を止めた。
「倉庫の整理中でしたか」
「栽培帳がなくなりました」
「リネットさんが持っているのでは?」
「持っていないそうです」
「では、机の下ではありませんか。昨日もリネットさんの帳面が、机の脚へ挟まっていました」
「探してみます」
ソフィは盆を作業台へ置き、床に膝をついて棚の下を覗いた。白い頭巾の端が埃を払い、すぐに灰色へ汚れる。彼女は帳面の代わりに小さな木匙と、乾いて縮んだ豆を二粒見つけた。
「なぜ倉庫に豆があるのでしょう」
「昨日の昼食では?」
「私たちは昨日まで北部にいました」
「では、もっと前の豆ですね」
「食べないでください」
「食べませんよ」
ソフィは豆を掌へ載せ、少し残念そうに見つめた。エレナは栽培帳を盗まれたことより、その場にいた者が何を口へ入れるかを先に心配している自分に気づく。習慣とは妙なもので、落ち着かないときほど、食事や服の乱れのような小さなことが目についた。
衛兵が倉庫を調べている間、エレナは冷め始めた朝食を食べた。粥には干し葡萄が三粒浮き、山羊乳の甘い匂いがする。だが匙を口へ運んでも、何度噛んだか分からないまま喉を通り、焼いた腸詰めには手をつけられなかった。
「奥様、腸詰めが冷めます」
戻ってきたリネットが言った。彼女の後ろには王宮衛兵と、茶室の管理を担当する侍従が立っている。走ったため編み髪が片方ほどけ、赤い襟巻きも肩から垂れていた。
「あとでいただきます」
「昨日の夕食も、黒パンを半分残しました」
「移動中に干し林檎を食べました」
「それは食事に数えません」
「今は栽培帳の話をしましょう」
「逃げましたね」
リネットは腸詰めの皿へ布をかぶせてから、衛兵へ窓の状態を説明した。衛兵たちは足跡と窓枠を調べ、昨日茶室へ出入りした者の名簿を集める。だが北部から戻った荷物が多く、運送人、庭師、侍女、厨房の助手など、三十人以上が納品通路を使っていた。
昼前には、アルヴェインも薬草茶室へ来た。黒い執務服の上に銀鼠色の上着を重ね、左手には未開封の手紙を何通も抱えている。朝から会議が続いていたらしく、襟元は少し曲がり、右の袖には赤い封蝋の欠片がついていた。
「盗まれたのは、一冊だけか」
「今のところは」
「複製はあるのか」
「栽培の基礎部分は写しています。ただ、銀月花の新しい調合と、耐寒香木の加工法は原本にしか書いていません」
「耐寒香木も?」
「北部へ向かう前に、試した抽出法を記しました」
アルヴェインは棚へ視線を向け、窓の留め金を自分で確かめた。留め金の下には、衛兵が見つけた小さな擦り傷がある。刃物を差し込んだ跡だろうと説明されると、彼の指が傷の上で止まった。
「この窓を最後に開けたのは?」
「出発前日の午後です。月桂樹の鉢を日に当てるため、リネットが開けました」
「閉めました」
リネットがすぐに言った。
「三回確かめました」
「なぜ三回も?」
「一度目は閉めたつもりで開いていました。二度目は閉めました。三度目は、閉まっているか確かめました」
「それなら二回では?」
「閉める動作と、確かめる動作は別です」
「今は、数え方の話ではない」
アルヴェインが額を押さえると、リネットは口を閉じた。エレナは窓辺の月桂樹へ水を与えながら、落ちた灰色の糸を小さな紙へ包む。濡れた土から立つ匂いには異常がなく、鉢そのものにも手を入れられた形跡はなかった。
「殿下、北方公爵家へは知らせますか」
エレナが尋ねた。
「なぜ公爵家へ?」
「耐寒香木の加工法が含まれています。北部の産業計画にも影響します」
「先に知らせれば、こちらが公爵家を疑っていると受け取られる」
「疑っていらっしゃるのですか」
「栽培帳を欲しがる理由がある者の一人ではある」
「クラリッサ様は、薬草についてご自分で学んでいました」
「だから盗まないとは限らない」
「だから盗むとも限りません」
アルヴェインはエレナを見た。彼女がクラリッサをかばっているのではなく、証拠がない段階で決めつけまいとしていることは分かっている。それでも、噂、帳簿の公開、水質汚染、栽培帳の盗難が続いている以上、偶然として片づけることはできなかった。
「北方公爵家にも、盗難の事実だけは知らせる。ただし、栽培帳に何が書かれていたかは伏せる」
「分かりました」
「君は、別の帳面へ覚えていることを書き戻してくれ」
「すぐに始めます」
「その前に、朝食を食べろ」
アルヴェインは作業台に残っていた腸詰めの皿を見つけた。布を外すと脂が白く固まり、香草の匂いも薄くなっている。リネットは味方を得たという顔で、皿をエレナの前へ押し出した。
「殿下からも言ってください」
「言った」
「もっと強くお願いします」
「命令すれば食べるのか?」
「そのような命令を出さないでください」
エレナは冷えた腸詰めを半分だけ口へ運んだ。皮が硬く、噛むと中から冷たい脂が出たが、二人が見ている前で残すわけにもいかない。最後まで飲み込むと、アルヴェインはようやく茶室を出ていった。
盗難から三日後、王都の市場に新しい薬草茶が並んだ。北方公爵家と長く取引するベルガ商会の商品で、金色の箱には王冠と銀月花を組み合わせた紋様が描かれていた。箱の中央には『王宮秘伝・銀月の癒やし茶』と大きく書かれ、その下には『不眠、胃痛、頭痛、しびれ、あらゆる不調へ』という文句が並んでいる。
最初に箱を持ち込んだのは、城下町のパン屋だった。店主はいつもつけている白い前掛けの上から外套を羽織り、息を切らして茶室へ駆け込んできた。手には商品を二箱抱え、片方は封が切られていた。
「エレナ様、これは王宮茶室の商品でございますか」
「違います」
「ですが、王宮秘伝と書いてあります」
「王室の許可印がありません」
エレナは箱を開け、乾燥茶葉を白い皿へ出した。見た目は銀月花と薄荷、白花茶を混ぜたものに似ているが、銀月花の花びらは色が濃すぎ、薄荷の葉には茶色い染みがある。鼻を近づけると、湿った藁と古い油の匂いに混じり、甘い香料の刺激が鼻の奥へ刺さった。
「これをお飲みになりましたか」
「妻が一杯。私は半分ほど」
「体調に変化は?」
「私は口の中がしびれました。妻は朝から吐いております」
「すぐに医師を呼びます」
「この茶が原因なのですか」
「まだ断定できません。残りは検査へ回します」
「王太子殿下の茶だと聞いたので、安心して買ったのです。銀貨二枚もしました」
パン屋の店主は箱を睨みつけた。普段なら黒麦パンを何個も買える金額だった。エレナは商品代の領収書と、購入した店の場所を尋ね、青い帳面へ書き込んだ。
その日の午後までに、同じ商品を飲んだ者が十七人、王宮茶室へ来た。吐き気、腹痛、口のしびれ、目眩、動悸を訴え、廊下の長椅子だけでは座りきれない。中には幼い娘を抱いた母親や、杖をついた老人もいた。
「王太子の茶だから信じたのに」
赤い帽子をかぶった婦人が言った。膝の上には八歳ほどの娘が横たわり、頬から血の気が引いている。娘の青い服には吐いた跡が残り、酸っぱい匂いを消すためか、母親は強い薔薇水を何度も振りかけていた。
「王宮では、この商品を製造しておりません」
リネットが答えると、婦人の顔が歪んだ。
「では、私たちは偽物を買った愚か者だと言いたいの?」
「そうではありません」
エレナは娘の額へ触れた。熱はないが、手のひらに汗をかき、呼吸が浅い。商品を否定する説明より先に、医師へ診せる必要があった。
「娘さんを診察室へ運びます。いつ、どれくらい飲んだか教えてください」
「昨夜、半杯です。不眠に効くと書いてあったから」
「食事は?」
「焼いた魚と豆のスープを少し」
「ほかに薬を使いましたか」
「何も飲ませていません」
「分かりました。こちらへ」
薬師院と医師組合へ連絡すると、昼過ぎには茶室の隣に臨時診療所が作られた。客用の長卓を壁へ寄せ、白い布を張って診察場所を区切り、薬草茶の器の代わりに水差しと吐いたものを受ける桶が並んだ。いつもは蜂蜜菓子の匂いがする部屋に、酢を薄めた消毒水と汗の匂いが広がった。
料理長ガストンは厨房から薄い燕麦粥を大鍋で運んできた。白い帽子は急いでいたため片側へ傾き、首には赤い布を巻いたままだった。彼は鍋を火へ掛け、食べられそうな者へ少量ずつ配る。
「今日の昼食用だった粥だ。豆を入れる前で助かった」
「味がありません」
一口食べたリネットが言った。
「病人へ香辛料を入れた粥を食わせる気か」
「私も病人扱いですか」
「味見をしたのだろう?」
「はい。被害を受けたお茶ではなく、粥の味見です」
「なら黙って配れ」
ガストンはリネットへ大きな匙を持たせ、次の鍋を取りに厨房へ戻った。エレナは診察を受けた者の話を一人ずつ記録し、残っている商品を回収した。同じ箱でも症状に差があり、何ともない者もいれば、数口で吐いた者もいる。
王立薬師院のオスカーが商品を調べると、銀月花に似せた別の花が混じっていることが分かった。北部の湿地に生える灰月草で、花の色と形は似ているが、乾燥が不十分なまま使うと、胃腸を刺激する成分が残る。さらに薄荷も古く、香りを補うため人工の香料がかけられていた。
「銀月花は、ほとんど入っていない」
オスカーは白い皿へ茶葉を広げた。白衣の袖には試薬の黄色い染みがあり、物入れからは食べかけの焼き芋が半分覗いている。検査室から急いで来たため、昼食の途中だったらしい。
「灰月草を銀月花として使ったのでしょうか」
エレナが尋ねた。
「値段は十分の一だからな。花びらだけを乾燥させれば、素人には見分けにくい」
「症状が重い方と軽い方がいるのは?」
「箱ごとに混ぜ方が違う。ひどい品には灰月草が多く、比較的ましな品には薄荷が多い」
「調合の比率が一定ではないのですね」
「大鍋で混ぜただけだろう。それに、病気が治る量など、どちらにせよ存在しない」
オスカーは食べかけの焼き芋を取り出し、齧ろうとしてエレナに止められた。診察中の部屋で食べるものではないと伝えると、彼は不満そうに芋を白衣へ戻す。物入れには芋の皮から出た蜜がつき、黄色い染みをさらに広げていた。
「商品をすべて回収しなければなりません」
リネットが言った。
「市場に何箱出ているのでしょう」
「ベルガ商会の記録を押さえる必要がある」
オスカーが答えた。
「すぐに販売停止を出しましょう」
「王室の許可が要るぞ」
「殿下へお知らせします」
エレナが侍従を呼ぼうとすると、茶室の入口からアルヴェインが入ってきた。今日は濃紺の上着の上に黒い外套を羽織り、後ろには衛兵隊長と王室会計官が続いている。廊下に座る病人たちを見ると、彼は足を止めず、エレナの前まで来た。
「市場の商品について報告を受けた。ベルガ商会の店舗と倉庫を封鎖する」
「すでに購入した方が大勢います」
「王都中へ販売停止の布告を出す。商品を持参した者には代金を返し、診察費も王室が負担する」
「王室の商品ではありません」
「王宮秘伝と名乗られた以上、知らぬふりはできない」
「同じことを考えておりました」
「君ならそうすると思った」
アルヴェインは回収された箱を手に取った。王冠の紋様は王室の正式なものとわずかに違い、左右の葉の数が一枚少ない。しかし一般の客が遠目に見ただけでは気づけないほどよく似ていた。
「栽培帳が盗まれた直後に、この商品が出た。偶然ではない」
「調合記録は公開されていました」
「粗悪な代用品の選び方と、耐寒香木の香りづけは、公開した記録にないそうだな」
エレナは茶葉をもう一度嗅いだ。古い油と甘い香料の奥に、微かな針葉樹の香りがある。北部で使う予定だった耐寒香木の抽出液で、灰月草の青臭さを隠していた。
「栽培帳の記録を使っています」
「ベルガ商会を調べる。君は患者を頼む」
「はい」
「エレナ」
アルヴェインは低い声で呼び止めた。彼の視線は回収箱ではなく、朝から何も食べていないエレナの顔へ向いている。作業台には冷えた燕麦粥が一杯残り、表面に薄い膜が張っていた。
「倒れる前に、それを食べろ」
「あとで」
「その言葉は、今日は聞かない」
「患者さんが待っています」
「三分で食べられる」
「熱いものを三分で食べると、舌を火傷します」
「もう冷めている」
アルヴェインが粥の器を押し出すと、リネットも無言で匙を添えた。オスカーまで腕を組み、食べるまで動かないという顔をしている。エレナは三人に見られながら粥を口へ運び、味のない燕麦を五口で食べ終えた。
「三分もかかりませんでした」
「自慢することではない」
アルヴェインは衛兵を連れ、ベルガ商会へ向かった。昼から夕方までに王都の店舗四軒と倉庫二か所が封鎖され、未販売の商品五百三十箱が押収された。帳簿によれば、すでに二百七十一箱が売られており、そのうち半数近くは王都の外へ運ばれていた。
商品を運んだ荷馬車の行き先を追うため、王都の門が一時閉鎖された。回収を知らせる布告が広場、市場、宿場へ張り出され、鐘を持った役人が通りを歩いて注意を呼びかける。夕方には診療所へ来る者が四十人を超えたが、幸い命を失う者はいなかった。
幼い娘を連れてきた婦人も、夜には自分で歩いて帰れるまで回復した。青い服の汚れは王宮の洗濯係が落とし、代わりに白い肩掛けを借りている。母親は回収代金の銀貨を握り、エレナの前で何度も頭を下げた。
「先ほどは、ひどいことを言ってしまいました」
「娘さんの具合が悪かったのですから、当然です」
「でも、あなたの商品ではなかったのでしょう?」
「はい」
「それなのに、どうして診てくださったのですか」
「目の前で苦しんでいる方へ、商品の印を確かめてから手を差し出すことはできません」
婦人は何か言おうとしたが、口元を押さえた。娘は母親の手を引き、腹が減ったと小さな声で訴える。リネットが蜂蜜を入れた燕麦粥を運ぶと、娘は匙を両手で持ち、ゆっくり食べ始めた。
夜が更けても、薬草茶室の明かりは消えなかった。長椅子には診察を待つ者が残り、卓上には回収した箱、診療記録、空になった粥の器が重なっている。エレナは若草色の仕事着の袖をまくったまま、商品を買った場所と時刻を一人ずつ尋ね続けた。
一方、アルヴェインはベルガ商会の帳場で、押収した書類を調べていた。壁際には上等な葡萄酒の空瓶が何本も転がり、帳場の隅には食べかけの肉入りパイが置かれている。商会長は連行される直前まで夕食を取っていたらしく、切り口から流れた肉汁が帳簿の表紙へ染み込んでいた。
「この商会だけで、二百七十一箱を作れる設備はない」
王室会計官のセドリスが言った。眼鏡を外して布で拭き、机の上に並べた納品書を確かめる。商品はベルガ商会の名で売られているが、茶葉の混合と箱詰めは北部にある別の加工所で行われていた。
「加工所の持ち主は?」
アルヴェインが尋ねた。
「公爵家の傍系が経営するハルド商会です。ベルガ商会は販売だけを担当しています」
「灰月草の仕入れ先は?」
「黒鉄鉱山の東にある湿地です。採取許可を出したのは北方公爵家です」
セドリスは別の納品書を差し出した。耐寒香木の抽出液も同じ加工所へ運ばれている。日付は栽培帳が盗まれた翌日で、抽出方法を急いで試したためか、納品量の半分以上が失敗品として廃棄されていた。
「盗んだ翌日に製造を始めている。準備はそれ以前から進めていたということか」
「商品箱は一か月前に発注されています」
「栽培帳を盗む前から、王宮秘伝と名乗るつもりだった」
「はい。盗難は調合を真似るためだけでなく、販売開始の時期をエレナ様の北部訪問後へ合わせるためと思われます」
アルヴェインは金色の商品箱を裏返した。小さな文字で『北方の薬草文化と王宮の知恵を結ぶ』と書かれている。エレナが北部の産業を立て直すと発表した直後なら、彼女が監修した商品だと誤解する者は多い。
「商会長を連れてこい」
衛兵に連行されてきたベルガ商会長は、茶色い上着の釦を掛け違え、靴も片方しか履いていなかった。夕食中に捕らえられたため、口の端にはパイの皮がついている。彼は椅子へ座らされると、手の震えを隠すよう膝の上で指を組んだ。
「私は頼まれただけです。王宮の許可は取ってあると聞きました」
「誰から聞いた」
「ハルド商会の主人です」
「ハルド商会へ指示した者は?」
「知りません」
「知らない相手の商品へ、王冠をつけたのか」
「北方公爵家が後ろについていると聞きました。公爵令嬢が、近く王宮薬草茶室の責任者になるとも」
「誰が言った」
「ハルド商会の主人です」
「クラリッサ公爵令嬢本人と会ったのか」
「いいえ。ですが、公爵家の印がある命令書を見ました」
商会長が保管場所を話すと、帳場の床板の下から命令書が見つかった。封蝋には北方公爵家の黒鷲が刻まれ、薬草茶の製造、王宮秘伝という名称の使用、売上の一部を公爵家へ納めることが記されている。最後には、問題が起きた場合、王宮薬草茶室の管理責任を追及するよう新聞社へ働きかけることまで書かれていた。
「署名は北方公爵本人のものです」
セドリスが筆跡を確かめた。
「クラリッサ公爵令嬢の名前はありません」
「公爵は、娘が茶室の責任者になると言わせた」
「クラリッサ様も利用されたのでしょうか」
「それだけではない」
アルヴェインは別の書類を手に取った。王都へ最初の噂を流した新聞記者への支払い、仕入れ帳の公開を促すための指示、薬草商会へ送られた匿名の手紙まで、一つの帳簿に記録されている。エレナが不正を疑われれば記録を公開することも、粗悪品の被害者を見捨てないことも計算されていた。
「公爵は、エレナが責任を取って茶室を去ると考えた。空いた席へ娘を置き、王室との結びつきを作る。その力で鉱山の閉鎖を止めるつもりだった」
「しかし、殿下がクラリッサ様を選ばなければ成立しません」
「公爵は、北部の混乱を収められるのは娘だけだと示すつもりだったのだろう。鉱山町へ食料を送り、香木事業の情報を先に使えば、クラリッサがエレナより有能に見える」
「そのために栽培帳を?」
「そして、粗悪品の被害まで利用した」
アルヴェインは命令書を折らずに革袋へ入れた。紙には公爵家の正式な印があり、言い逃れは難しい。だが北方公爵を拘束すれば、国境軍と鉱山町へ直ちに影響が出るため、ここでも証拠を得た瞬間に剣を振り下ろすことはできなかった。
「北方公爵邸へ監査官を向かわせる。書庫、執務室、鉱山関係の帳簿をすべて押さえろ」
「公爵が拒んだ場合は?」
「王室命令だ。抵抗した者は拘束する」
「クラリッサ様へも知らせますか」
アルヴェインは少し考えた。クラリッサが父親の計画に加わっていないことは、命令書からほぼ明らかだった。しかし彼女が父と家門を守るため、証拠を隠す可能性までは否定できない。
「知らせる。ただし、監査官が公爵邸へ入ったあとだ」
翌日の昼、王宮からの使者が北方公爵邸へ到着した。クラリッサは白いブラウスと濃い紫色のスカートを着て、自室で薬草書を読んでいた。卓上には橙を一片入れた湯と、昨日から手をつけていない蜂蜜菓子が置かれている。
「王室より、緊急の書状でございます」
老執事から受け取った封を切ると、盗まれた栽培帳、偽の薬草茶、被害者の数、ベルガ商会で発見された命令書について記されていた。公爵家の印と父親の署名が確認され、王室監査官がすでに書庫を調べているという。
クラリッサは書状を最後まで読み、最初の頁へ戻った。もう一度読んでも、書かれている内容は変わらない。自分がエレナへ勝つために集めた知識も、茶室の責任者になるという話も、父が粗悪な商品を売るために使っていた。
「お父様は、どちらに?」
「執務室にいらっしゃいます」
「監査官は?」
「書庫を調べております」
「止めてはいませんね」
老執事は答えるまでに少し間を置いた。白い手袋をはめた指が、上着の色違いの釦へ一度触れる。クラリッサはその小さな動きを見て、父がすでに証拠を隠そうとしていることを悟った。
「公爵様は、帳簿の一部を北塔へ移すよう命じられました」
「誰が運んでいますか」
「鉱山から来た者が三人ほど」
「北塔を閉鎖しなさい」
「クラリッサ様?」
「監査官が確認するまで、誰も出入りさせてはいけません」
「公爵様のご命令に逆らうことになります」
「王室命令を妨害すれば、公爵家の使用人まで罪を問われます」
老執事は白い眉を寄せた。長年仕えてきた主人へ背くことと、屋敷の使用人を守ることの間で、すぐには動けない。クラリッサは椅子から立ち上がり、自分で呼び鈴を鳴らした。
「私が行きます」
廊下へ出ると、あかぎれた手を包帯で巻いた侍女が、洗濯物の籠を抱えて歩いてきた。休むよう命じられた翌日から仕事へ戻ったらしい。白い布の間には、公爵の黒いシャツとクラリッサの紫色の寝間着が重なり、洗い立ての石鹸の匂いが漂っていた。
「その籠を置いて、衛兵長を呼びなさい」
「何かございましたか」
「北塔を閉鎖します」
「公爵様からは、誰も近づけるなと……」
「だからこそです。急いで」
侍女は籠を床へ置き、階段へ走った。白い布の中から靴下が一枚落ちたが、拾うために戻らない。クラリッサはそれを拾い上げると、踵に小さな穴が開いていることへ初めて気づいた。
北塔へ着いたとき、三人の男が木箱を荷車へ載せているところだった。灰色の毛織り外套を着た一人の袖から、糸が長くほつれている。王宮薬草茶室の窓辺で見つかった糸と同じ色だった。
「その箱を置きなさい」
クラリッサが命じると、男たちは動きを止めた。先頭の男は、公爵の命令書を差し出す。箱の中身は古い鉱山記録で、別の倉庫へ移すよう書かれていた。
「王室監査官が調べます。北塔から何も出してはいけません」
「公爵様のご命令です」
「私は公爵令嬢です」
「ですが、当主ではありません」
「その通りです」
背後から北方公爵の声がした。黒い軍服の上に毛皮の外套を羽織り、二人の護衛を連れて立っている。朝食の席から急いで来たのか、胸元には葡萄酒の小さな染みがあり、口ひげには白いパン屑がついていた。
「クラリッサ、部屋へ戻れ」
「この箱には、何が入っているのですか」
「鉱山の古い記録だ。お前には関係ない」
「王宮から届いた書状を読みました」
公爵の目が細くなった。男たちは木箱から手を離さず、父娘の顔を交互に見ている。北塔の窓から入る冷気が床を這い、積まれた書類から古い紙と湿気の匂いが立った。
「偽の薬草茶を作らせたのは、お父様ですね」
「王室は誤解している」
「公爵家の印がある命令書が見つかっています」
「印など、いくらでも偽造できる」
「ベルガ商会へ、私が王宮薬草茶室の責任者になると伝えたそうですね」
「いずれ、そうなる」
「殿下も私も、そのような話をしたことはありません」
「お前がエレナより優れていると示せばよいだけだ」
公爵は当然のことを教えるように言った。彼の声には迷いがなく、娘が何に気づいたのかを理解しようともしていない。クラリッサは書状を握る手へ力を入れ、紙の端を小さく折った。
「栽培帳を盗ませたのも、私のためですか」
「お前はあの女から茶室を奪いたがっていた。必要な知識を与えてやっただけだ」
「粗悪な商品で、四十人以上が体調を崩しました」
「死者はいない」
「子どもも飲んだのです」
「王都の者は騒ぎすぎる。多少腹を下しただけで、王宮へ押しかける」
「その責任をエレナ様へ負わせるつもりだったのですか」
「責任者なら、責任を取るのが当然だ」
クラリッサの唇が白くなるほど強く結ばれた。茶会で自分が口にした「重症者はいない」という言葉と、父の「死者はいない」という言葉が重なった。あのときエレナが自分を見つめた理由を、今になって身体の奥で理解した。
「噂を流したのも、お父様ですね」
「お前が動かないからだ。王太子妃になるために何年教育したと思っている」
「私は、殿下から選ばれていません」
「だから選ばせるのだ。あの女を失脚させ、北部の混乱をお前が収めれば、王室も認めざるを得ない」
「香木事業も、私の功績にするつもりだったのですか」
「お前が北部のために働くのだから、間違いではない」
「考えたのはエレナ様です。鉱山町の人々の話を聞いたのも、必要な給金を調べたのも、あの方です」
「帳面へ数字を書いただけだ。お前なら、もっと早くできる」
「私にはできませんでした」
クラリッサの声が北塔へ響いた。父は初めて、娘が命令に従わない者を見る顔になった。クラリッサは自分の指先が震えていることに気づいたが、卓の下へ隠す場所はない。
「私は、薬草の効能を覚えました。商会の関係も、調合記録も、全部覚えました。でも、エレナ様へ出した茶で、あの方の体調を見ませんでした」
「一度の失敗だ」
「侍女のあかぎれにも、町の食卓から塩が消えたことにも、気づきませんでした」
「公爵令嬢が使用人の手など見る必要はない」
「それでは、人が飲むお茶は淹れられません」
「何を言っている」
公爵の口ひげについていたパン屑が、話すたびに揺れた。クラリッサは以前なら、そのような小さな乱れを見ても気づかないふりをしていた。今日は目に入ったが、指摘する言葉は出なかった。
「私がエレナ様へ勝っても、最初から私の力ではなかったのですね」
「勝つために家の力を使って何が悪い」
「それを私の力と呼ばないでください」
「公爵家の力は、お前の力だ」
「では、失敗した罪も私の罪ですか」
公爵は答えなかった。彼は男たちへ箱を運ぶよう、顎で命じる。だが男たちは動かず、クラリッサの背後へ集まった屋敷の衛兵と王室監査官を見ていた。
「その箱を開けてください」
クラリッサが王室監査官へ言った。
「クラリッサ!」
「私には、お父様を無罪にする力はありません。ですが、証拠を隠す手伝いもしません」
公爵が娘へ歩み寄り、腕をつかんだ。黒い手袋の指が紫色の袖へ食い込み、布に深いしわが寄る。クラリッサは顔をしかめたが、腕を引かなかった。
「この家を潰すつもりか」
「お父様がなさったことを、王室に調べてもらいます」
「私が捕らえられれば、北方軍は動かなくなる。鉱夫の給金も止まるぞ」
「だから、エレナ様は先に働く場所を用意しようとしています」
「あの女の話を信じるのか」
「信じるのではありません。私も確かめます」
「お前は私の娘だ」
「はい。だから、お父様が何をしたのか、最後まで見ます」
公爵は腕をつかんでいた手を離した。クラリッサの袖には黒い手袋の跡が残り、腕の皮膚には指の形に赤みが浮いている。彼女は袖を下ろして隠そうとしたが、途中でやめた。
王室監査官が木箱の蓋を開けると、中から鉱山技師の報告書、ベルガ商会への支払い記録、新聞社へ渡した金の帳簿が見つかった。その一番上には、見覚えのある革表紙の栽培帳が載っている。表紙には銀月花の印が押され、角にはリネットが以前こぼした蜂蜜の染みが残っていた。
「これが、盗まれた帳面ですね」
監査官が尋ねた。
クラリッサは革表紙へ手を伸ばしたが、触れる直前で止めた。自分が欲しがった知識が、粗末な木箱の中へ証拠として投げ込まれている。頁の間からは、耐寒香木の細い葉が一枚覗いていた。
「王宮へお返しください」
「承知しました」
「それから、この箱にあるものを、すべて記録してください。一枚も抜かさずに」
「公爵令嬢としての命令ですか」
「いいえ」
クラリッサは父の顔を見た。黒い軍服、毛皮の外套、公爵家の指輪、長年見上げてきた北方の当主が、今は書類を隠そうとして監査官の前に立っている。彼女は胸元へ手を当て、一度だけ深く息を吸った。
「不正を知った者としての証言です」
その夜、クラリッサは自室の机で、王室へ提出する証言書を書いた。紫色のドレスから飾りのない白い寝間着へ着替え、金髪もほどいて背中へ流している。机の上には冷めた橙湯、食べかけの黒パン、包帯を巻いた侍女が運んできた豆の煮込みが並んでいた。
黒パンは鉱山町の宿から取り寄せたもので、冷えると石のように硬くなっていた。クラリッサは小さくちぎろうとしたが指では割れず、煮込みへ沈めて柔らかくなるのを待つ。以前なら銀の蓋つき皿に載らない食事だったが、今日は南国の果実も蜂蜜菓子も頼まなかった。
「お嬢様、手をお止めになっては?」
侍女が尋ねた。包帯の下の傷は少し治り、今日は水差しではなく軽い盆だけを持っている。クラリッサは羽ペンを置かず、父から聞いた言葉と、北塔で見た書類を順に書き続けた。
「止めたら、書けなくなる気がするのです」
「ですが、夕食が冷めます」
「もう冷めています」
「黒パンが煮込みを吸いすぎます」
クラリッサが器を見ると、沈めたパンは汁をすべて吸い、豆の間で大きく膨らんでいた。匙ですくうと形が崩れ、見栄えのよいものではない。口へ運べば黒麦の苦みが広がったが、三度噛むと豆の甘さが残った。
「鉱山町では、毎日これを?」
「最近は、肉がほとんど入らないそうです」
「町へ送った塩は届きましたか」
「はい。学校と食堂にも分けられました」
「明日は小麦粉を送ってください」
「公爵様の許可が必要では?」
「私の宝石を売ります」
侍女は驚き、クラリッサの顔を見た。鏡台には黒真珠と紫水晶の首飾りが置かれている。北方三国の会談で身につけ、エレナの茶会を見下ろしたときにも使っていたものだった。
「大切なお品ではありませんか」
「首につけているだけでは、パンになりません」
「公爵様がお怒りになります」
「もう、怒っていらっしゃいます」
クラリッサは羽ペンを動かし、証言書の最後へ自分の名を書いた。文字はいつもより少し震えていたが、書き直さなかった。公爵家の印ではなく、自分の名だけを残す。
一方、王宮薬草茶室では、最後の患者が帰ったあとも片づけが続いていた。床には空の水桶と汚れた布が残り、窓辺には洗った茶器が逆さに並んでいる。リネットは椅子へ座り、疲れた足を交互に揉みながら、食べ残した蜂蜜粥を少しずつ口へ運んでいた。
「今日は、何杯配ったでしょう」
「粥ですか、お茶ですか」
エレナが尋ねた。
「両方です」
「数えていません」
「記録の人なのに?」
「必要な数字はソフィが書いています」
ソフィは卓の向こうで、患者数、回収した箱、使った水の量を帳面へまとめていた。白い頭巾には粥の粒が一つついている。本人は気づかず、羽ペンの先を舐めようとしたため、リネットが慌てて止めた。
「それは消毒水へ落とした羽ペンです」
「危ないところでした」
「いつも舐めているのですか」
エレナが尋ねると、ソフィは目をそらした。
「インクが出ないときだけです」
「今後は禁止します」
「はい」
茶室の扉が開き、夜遅くに戻ったアルヴェインが入ってきた。彼の手には革表紙の栽培帳があった。煤と泥がついているものの、リネットがこぼした蜂蜜の染みも、銀月花の印も間違いない。
「見つかったのですか」
リネットは粥の器を置き、椅子から立ち上がった。長く座っていたため足がしびれ、最初の一歩で膝が折れる。エレナが支える前に、彼女は卓へ両手をつき、何もなかったように立ち直った。
「転びかけましたね」
「立ち方を忘れただけです」
「それを転びかけたと言うのです」
「帳面はどこにあったのですか」
アルヴェインは栽培帳をエレナへ渡した。革表紙は冷え、北部の古い書庫にあったためか、湿った紙と煤の匂いがする。頁を確かめると、一部に写しを取った跡はあるものの、破られたり書き加えられたりした箇所はなかった。
「北方公爵邸の北塔だ。処分される直前に、監査官が押さえた」
「クラリッサ様が隠したのですか」
リネットが尋ねた。
「違う。盗ませたのも、偽商品を作らせたのも北方公爵だ」
「では、あの方は?」
「証拠を隠そうとする父親を止めた。公爵家の帳簿と命令書も、自分の証言を添えて王室へ提出するそうだ」
エレナは栽培帳の端を指でなぞった。クラリッサが父を止めたと聞いても、すぐに喜ぶことはできなかった。その決断が彼女から何を奪うのか、北方公爵家で育った本人が最もよく知っているはずだった。
「公爵様は、どうなりますか」
「明日、北方三国との会談へ出席させる。その場で証拠を示し、弁明を聞く」
「すぐに拘束しないのですか」
「国境軍と鉱山町へ出す命令を整えてからだ。公爵を捕らえた瞬間、給金も食料も止まるようでは意味がない」
「クラリッサ様も会談へ?」
「彼女から出席を求めてきた」
「お父様の前で証言するのですね」
「そうなる」
リネットは口を閉じた。今日一日、偽商品を飲んだ者たちから浴びせられた言葉を思い出しているのか、粥の匙を強く握る。やがて椅子へ座り直し、冷めた蜂蜜粥を一口食べた。
「私は、クラリッサ様が盗んだと思っていました」
「私も疑った」
アルヴェインが答えた。
「エレナ様は?」
「分かりませんでした」
「それは、信じていたということですか」
「証拠がなかっただけです」
「明日、謝りますか」
「私たちは、直接疑いをぶつけていません」
「心の中で疑ったことは?」
「それは、クラリッサ様には見えません」
「でも、自分には見えます」
リネットは粥の器を見つめた。蜂蜜は底へ沈み、上のほうは味が薄かったらしい。匙で底から大きく混ぜると、甘い香りがもう一度立ち上がった。
「では、私は自分の中で謝ります」
「それでよいと思います」
「いつか、ご本人にも言います」
エレナは戻ってきた栽培帳を新しい布で拭いた。革についた煤は薄くなったが、完全には落ちない。盗まれる前と同じものには戻らなくても、書かれている文字は残っている。
「エレナ、もう一つある」
アルヴェインが言った。
「北方公爵は、君が被害者を見捨てないことまで計算していた。偽商品が出れば、君が診療費を負担し、責任を引き受けようとすると考えていた」
「当たっていましたね」
「笑うところではない」
「笑ってはいません」
「君のやり方を知る者は、それを利用できる」
「それでも、目の前の方を見捨てる理由にはなりません」
「分かっている。だから、私が利用した者を止める」
アルヴェインは回収された金色の箱を一つ手に取った。偽物の王冠、銀月花、病気が治るという文句。そこに書かれた文字は甘くても、中に入っていたものは粗悪で、人の身体を傷つけた。
「明日の会談で、すべて終わらせる」
「終わるでしょうか」
「公爵の計画は終わらせる。北部の問題は、そのあとも続く」
「でしたら、私も出席します」
「患者たちは?」
「今夜で急を要する方の診察は終わりました。明日は医師組合に任せます」
「茶室の片づけもあります」
リネットが口を挟んだ。
「私たちでやります。エレナ様は会談へ行ってください」
「リネットも休んでください」
「私は蜂蜜粥を食べたので元気です」
「先ほど、立ち方を忘れていましたよ」
「もう思い出しました」
ソフィが笑った拍子に、頭巾についていた粥の粒が卓上へ落ちた。三人が同時にそれを見る。ソフィは何も言わず、布巾で素早く拭き取った。
夜明け前、クラリッサの証言書が王宮へ届いた。封筒には公爵家の黒鷲ではなく、紫色の小さな花が一輪だけ描かれている。エレナが開くと、最後の頁に短い言葉が添えられていた。
『私は父の罪を軽くしてほしいとは申しません。ただ、鉱山町の者たちを父と同じ罪人として扱わないでください』
文字の最後は少し乱れ、インクが一滴だけ紙へ落ちていた。その染みを隠すための花も、言い訳も描かれていない。エレナは証言書を閉じ、戻ってきた栽培帳の隣へ置いた。
窓の外では、夜の色が少しずつ薄くなっていた。薬草園の銀月花は、汚染された土を入れ替えた花壇で、白い蕾を一つ開きかけている。茶室には診療に使った消毒水の匂いが残っていたが、その奥から、夜明けに開く銀月花の淡い香りが流れ込んできた。




