第26話 クラリッサの茶会
第26話 クラリッサの茶会
鉱山町へ来て四日目の朝、宿屋の食堂に北方公爵家の使者が現れた。外では夜のうちに降った雪が路地を白く覆い、屋根から落ちた雫が軒先の桶を一定の間隔で鳴らしている。使者は煤の染みひとつない白い外套を着ており、豆の煮込みと焼き直した黒パンが並ぶ食堂では、その姿だけが別の場所から切り取られたように見えた。
「エレナ・フォルディア様へ、クラリッサ・ノルディス公爵令嬢より茶会の招待状をお持ちしました」
使者は銀の盆に載せた封書を差し出した。封蝋には北方公爵家の黒鷲が刻まれ、紙からは紫香油の甘い匂いが漂っている。エレナが封書を受け取ると、向かいの席で黒パンを豆の煮込みへ浸していたリネットが、匙を口へ運ぶのも忘れて身を乗り出した。
「本日の午後ですか。ずいぶん急ですね」
「クラリッサ様は、王宮薬草茶師であるエレナ様を、一刻も早くおもてなししたいと申しております」
使者はそう答えたが、雪道で冷えた指先を何度も擦り合わせていた。外套は上等でも、薄い革靴には雪が染み込み、爪先が濃い色へ変わっている。エレナは厨房から赤根草茶を一杯運ばせ、彼の前へ置いた。
「私は使いで参っただけですので」
「飲んでからお戻りください。公爵邸までの道も凍っています」
「しかし、クラリッサ様をお待たせするわけには……」
「お茶一杯で遅れるほど、近い場所ではないのでしょうか」
「馬車で二時間ほどです」
「でしたら、なおさらです」
使者はしばらく茶器を見つめたあと、両手で持ち上げた。赤根草と乾燥林檎の湯気が頬へ当たると、硬く閉じていた唇が少し緩む。彼は一口飲み、昨日から町の広場で配られているものより甘いと呟いた。
「今日は蜂蜜が入っています」
リネットが説明した。
「王都から届いた食料に蜂蜜が二壺入っていました。一壺は町の子どもたちへ、もう一壺は宿に置きます」
「それで、私が飲んでもよろしいのですか」
「冷えたまま帰って、御者へ八つ当たりをされては困りますから」
「私は八つ当たりなどいたしません」
「先ほど、御者の方に馬車をもっと近くへつけろと怒鳴っていました」
使者の耳が赤くなった。窓の外を見ると、公爵家の馬車のそばで御者が馬の鼻面を撫で、白い息を吐いている。使者は残りの茶を急いで飲み、茶器を丁寧に受け皿へ戻した。
「では、午後一時にお迎えへ参ります」
「承知しました。御者の方にもお茶をお持ちください」
リネットが蓋つきの器へ赤根草茶を注ぐと、使者は今度は断らなかった。封書を渡したときより少し軽い足取りで食堂を出ていく。扉が閉まったあとも、紫香油の甘い匂いが豆の煮込みの湯気に混じって残った。
「行くのですか」
護衛隊長のロランが尋ねた。彼は厚切りの黒パンへ腸詰めを挟み、顎が疲れないよう少しずつ噛んでいる。公爵家からの招待と聞いても顔色は変わらなかったが、左手はすでに腰の剣へ触れていた。
「招待を受けます」
「公爵家は、水質汚染の責任を問われている立場です」
「だからこそ、話を聞く必要があります」
「茶会で何を出されるか分かりません」
「毒見役を連れていけば、クラリッサ様を罪人と決めつけたことになります」
「では、私が先に食べます」
「隊長は護衛です。毒見役ではありません」
「殿下から、あなたを無事に連れ帰れと命じられています」
「私のことも一緒に連れ帰れと言われていました」
リネットが口を挟んだ。匙に載せていた豆が一粒、前掛けへ落ちる。彼女は指でつまんで皿へ戻そうとしたが、エレナと目が合い、そのまま布巾へ包んだ。
「リネットは宿に残ってください」
「嫌です」
「まだ理由を話していません」
「話を聞いてから断ると、二度手間になります」
「公爵邸には私とロラン隊長で行きます。リネットには広場の茶を任せたいのです」
「それは、私にしかできませんか」
「昨日、皆様の好みを聞いていましたね」
「ギデオンさんは林檎を倍、ニールさんは赤い実を多め、マルタさんは薄くして量を多くです」
「私よりよく覚えています」
「でも、クラリッサ様の前へ一人で行かせるのは嫌です」
「ロラン隊長もおります」
「茶の話になったら役に立ちません」
「聞こえているぞ」
ロランが黒パンを噛みながら言った。リネットは首をすくめたが、言葉を取り消そうとはしない。エレナは招待状を折り直し、紫香油の匂いが広がらないよう封筒へ戻した。
「茶の話をするために招かれたのなら、私一人で十分です」
「言い負かされたら?」
「話し合いは、言い負かすためにするものではありません」
「向こうは、そう思っていないかもしれません」
「そのときは、負けて帰ってきます」
「簡単に負けないでください」
リネットは不満そうに黒パンをかじった。昨日より薄く切られているため歯は通ったが、黒麦の苦みは変わらない。彼女はしばらく噛み続けたあと、豆の煮込みをひと口飲み、さらに眉間へしわを寄せた。
「今日の煮込み、昨日より塩が少なくありませんか」
厨房からヘルガが顔を出した。赤茶色の髪を布で包み、今日も色あせた緑色の服の上に前掛けを重ねている。片手には塩壺を持っていたが、中身は底に薄く残っているだけだった。
「塩は夕食の分も残さなければならないんだよ」
「王都から届いた荷物に、塩はなかったのですか」
「小麦粉と豆と干し肉は来たけれど、塩の樽は荷車が壊れて遅れているそうだ」
「では、公爵邸から少し分けていただけるか尋ねましょう」
「茶会へ招かれて、塩をせびるのかい」
「町で足りないものを聞くのも、今日の仕事です」
ヘルガは目を丸くしたあと、空に近い塩壺をエレナへ差し出した。さすがに壺を持って茶会へ行くことはできないため、エレナは帳面へ「塩」と大きく書き込む。リネットはその隣へ「蜂蜜も」と小さく付け足した。
午後一時、公爵家の馬車が宿の前へ到着した。エレナは煤で汚れた茶色の服から、深い緑色のドレスへ着替えていた。襟と袖に銀糸で小さな葉が刺繍されているが、王宮の夜会で着るものほど華美ではなく、腰にはいつもの調合帳を入れた革袋を下げている。
「髪飾りを、もう少し華やかなものにしますか」
リネットは黒い紐でまとめられた髪を見た。
「茶会へ行くのですから、銀の留め具くらいは」
「今のままで十分です」
「クラリッサ様は、きっと宝石をたくさんつけています」
「宝石の数を競うために行くのではありません」
「では、私の襟巻きを貸しますか」
「赤い毛糸は、このドレスに合いません」
「温かいですよ」
「リネットが使ってください」
エレナが外套を羽織ると、リネットは襟を整え、右肩についていた黒パンの粉を指で払った。どこでついたのか分からなかったが、宿で四日も暮らしていると、衣服のどこかに煤かパン屑がつくようになっていた。王宮の薬草茶室では気になっていた小さな汚れも、この町では生活の一部になっている。
北方公爵邸は、鉱山町を見下ろす丘の上に建っていた。黒い石壁と尖った塔を持つ大きな館で、正門から玄関までの道には、町の通りより丁寧に雪かきがされている。庭には寒さに強い針葉樹が並び、その根元へは白い砂利が敷かれ、泥の染みひとつ見当たらなかった。
馬車を降りると、玄関前に六人の使用人が並んでいた。全員が黒と紫の揃いの制服を着ているが、外套を持つ若い侍女の手には赤いあかぎれがあり、指の関節まで裂けていた。エレナが視線を向けると、侍女は慌てて両手を背中へ隠した。
「エレナ様をお連れしました」
使者が告げると、老執事が深く一礼した。白い手袋、銀色の髪、磨かれた革靴まで乱れはない。しかし彼の上着の第二釦だけ、ほかより少し色の違う糸で縫いつけられていた。
「クラリッサ様がお待ちでございます。護衛の方は控えの間へお願いいたします」
「私はエレナ様から離れられません」
ロランが答えた。
「茶室への武器の持ち込みはご遠慮いただいております」
「ならば、廊下で待つ」
「承知しました」
老執事は反論せず、二人を長い回廊へ案内した。壁には歴代公爵の肖像画が並び、どの人物も黒い軍服を着て、剣の柄へ手を置いている。磨かれた床からは蜜蝋の匂いが立ち、窓際の卓には生花ではなく、金色に染めた木の枝が飾られていた。
茶室の扉が開いた瞬間、エレナは息を浅くした。紫香油、薔薇油、南国の甘い花、焼いた砂糖、熟した果実の匂いが一度に押し寄せる。どれも単独なら上等な香りだが、閉め切った部屋に重なりすぎて、喉の奥へ甘い膜が張りつくようだった。
「ようこそ、エレナ様」
クラリッサは窓を背にして立っていた。濃い紫色のドレスには黒い毛皮が縁取られ、胸元には黒真珠と紫水晶を連ねた首飾りが輝いている。金髪は王宮で会ったときと同じように寸分の乱れもなく結い上げられ、唇には赤い紅が薄く塗られていた。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「鉱山町の宿では、お身体が休まらないでしょう。こちらへ滞在してくださってもよろしいのですよ」
「宿の方々に、よくしていただいております」
「石のような黒パンと、豆しか入っていない煮込みで?」
「ご存じなのですね」
「この土地のことですもの」
クラリッサは笑みを崩さず、金の茶器が並ぶ卓へエレナを案内した。卓布には紫色の糸で黒鷲が刺繍され、中央には南国産の果実が銀の大皿へ山のように盛られている。薄い皮の橙、赤い種を含んだ大きな果実、蜜を塗った無花果、砂糖漬けの花びらまで並び、鉱山町の食堂とは同じ領地とは思えなかった。
「お好きなものをどうぞ」
「ありがとうございます」
エレナは小さな橙を一つ取った。皮へ爪を入れると、爽やかな油が飛び、部屋を満たす甘い香りの中へ、鋭い酸味が一瞬だけ混じる。口へ入れる前に、クラリッサが金の薬缶を持ち上げた。
「本日は、旅のお疲れを和らげる茶をご用意しました。薄荷、甘草、白花、それに銀月花を少々」
「銀月花をお持ちなのですか」
「王都の商会から取り寄せました。あなたが公開した調合記録に、長旅のあとの疲労に適していると書いてありましたから」
クラリッサは薄い金色の茶をエレナの器へ注いだ。湯気からは薄荷の青い香りが強く立ち、そのあとに甘草と白花の甘みが続く。銀月花の匂いは、薔薇香油と南国の花に覆われ、ほとんど感じられなかった。
エレナは茶器を持ち上げたが、すぐには飲まなかった。色、湯気、薬草の細かさを確かめ、茶匙で少量をすくう。口へ含むと、薄荷の冷たさが舌へ広がり、直後に甘草の強い甘みが喉へ残った。
「いかが?」
クラリッサが尋ねた。
「薄荷は北部産ですね」
「ええ。王都のものより香りが強いでしょう」
「よく乾燥されています」
「調合について伺っているのです」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「私の体調について、誰からお聞きになりましたか」
クラリッサの笑みがわずかに固まった。彼女は自分の茶器へ手を伸ばしたが、持ち上げず、取っ手を指でなぞる。金色に磨かれた爪の先が、硬い音を立てた。
「王都から五日も馬車へ乗れば、誰でも疲れているでしょう」
「私は昨夜、よく眠りました。今朝の食事も残しておりません」
「それなら、旅の疲れを予防するためです」
「薄荷をこれほど強くすると、身体が冷えている方は腹を痛めることがあります。私は先ほど、雪道を二時間馬車で来ました」
「では、赤根草を加えればよかったのかしら」
「私は赤根草を多く飲むと、手に赤い斑点が出ます」
クラリッサの指が止まった。エレナが王宮で調合記録を公開した際、客の名前と個人的な体質は伏せていた。そのため、記録を暗記しても、エレナ自身が赤根草を多く飲めないことまでは分からない。
「ずいぶん細かなことをおっしゃるのね」
「薬草茶は、細かな違いで作用が変わります」
「毒ではないのでしょう?」
「毒ではありません。ですが、毒でなければ何を出してもよいわけではありません」
クラリッサは自分の茶を一口飲んだ。薄荷の強さに舌が驚いたのか、喉が小さく動き、すぐに南国の果実を一片口へ運ぶ。甘い果汁が唇の紅へつき、彼女は白い布で丁寧に拭った。
「あなたが薬草に詳しいことは認めますわ」
「ありがとうございます」
「でも、知識なら学べます」
クラリッサは卓の脇に置かれていた厚い本を取り上げた。表紙には『薬草効能大典』と金文字が入り、頁の間には紫色の紙片が何十枚も挟まれている。開かれた頁の余白には細かな文字で補足が書かれ、重要な部分には赤い線まで引かれていた。
「薄荷は胃腸を整え、甘草は喉と胃を守る。白花は苛立ちを和らげ、銀月花は身体へ入った不要な鉱物を集める。ただし銀月花は、強い香りと一緒に使うと効能が弱くなる」
「よくお調べになっていますね」
「それだけではありません」
クラリッサはもう一冊の帳面を開いた。そこには王宮薬草茶室が取引する商会の名前、扱う薬草、輸送経路、価格まで細かく記されている。エレナが公開した帳簿だけでなく、商会の設立年や店主の家族構成まで調べたらしい。
「銀月花はラーナ商会、赤根草はオルフェン農園、白花茶は南部の三商会から共同で仕入れている。冬の輸送にはフェルド運送組合を使い、荷馬車が空で帰らないよう、王都から北部へ織物と保存食を運ばせる」
「間違いありません」
「茶室の予約は春から秋に集中するため、冬は薬草の保存と新人教育に時間を使う。外交会談の前には、出席者の病歴、好み、家族関係まで調べる」
「それも公開した記録に?」
「会談へ出席した侍従たちから聞きました」
クラリッサは次々と頁をめくった。エレナが何年もかけて覚えたことを、彼女は数週間で整理している。単なる見栄や思いつきではなく、本気で王宮薬草茶室の仕事を奪うために学んだのだと分かった。
「銀月花が枯れたとき、あなたは井戸水を疑った。葉に現れた黒い変色が、虫や寒さによるものとは違うと見抜いたからでしょう?」
「はい」
「私も今なら分かります。鉱物を吸いすぎた銀月花は、葉先から黒くなる」
「本に書いてありましたか」
「薬師院の報告書を読みました」
「北方公爵家にも、写しが届いているのですね」
クラリッサは頁をめくる手を止めた。開かれていたのは銀月花の記録ではなく、鉱山からの廃水に関する調査書だった。右上には王室監査用の印があるものの、正式な写しではなく、誰かが書き写したものに見えた。
「公爵様は、水質汚染について、どこまでご存じなのですか」
エレナが尋ねると、クラリッサは帳面を閉じた。厚い表紙が卓へ当たり、金の茶匙が小さく跳ねる。室内を満たす甘い香りが、急に重くなった。
「今日は鉱山の話をするために招いたのではありません」
「では、何のお話でしょうか」
「王宮薬草茶室についてです」
クラリッサは背筋を伸ばした。椅子の背に触れず、顎を少し上げる。その姿は北方三国の使節を前にしたときと同じだったが、金の茶器を持つ指先だけが細かく震えていた。
「薬草茶室は、今や外交と王室の信用に関わる場所です。正式な資格も、家門の後ろ盾もない外国人へ任せ続けるべきではありません」
「薬草茶師の資格制度は、この国にはございません」
「だからこそ、王室がふさわしい者を選ぶべきです」
「クラリッサ様が、ふさわしいと?」
「ええ」
クラリッサは震える手を卓の下へ隠した。紫水晶の首飾りは胸元で光り、正面から見れば自信に満ちた公爵令嬢にしか見えない。しかし呼吸は先ほどより浅くなり、紅を引いた唇の端も固くなっていた。
「私は北方三国の関係を知っています。商会の力関係も、貴族の家系も、外交上の禁忌も学びました。あなたの調合記録も、すべて覚えています」
「短い期間で、よく学ばれましたね」
「私は幼い頃から、学ぶことだけは誰にも負けませんでした」
「大変だったのでしょうね」
「憐れまないでください」
「憐れんでいるのではありません」
「その顔が、そう見えるのです」
クラリッサは金の茶器を強く握った。茶の表面に小さな波が立ち、白花の欠片が縁へ寄る。彼女は一度息を整え、作った笑みを浮かべた。
「あなたにできたことなら、私にもできます。違いは、あなたが王太子殿下に先に見つけられたというだけですわ」
部屋の外で、食器を載せた盆が落ちた。硬い音に続いて、侍女の謝る声と、老執事が片づけを命じる声が聞こえる。クラリッサは扉へ目を向けたが、呼びつけることはせず、爪を掌へ押し込んだ。
「殿下が私を選んだとお考えなのですね」
エレナは尋ねた。
「違うとでも?」
「薬草茶室の仕事は、殿下からいただきました」
「同じではありませんか」
「いいえ。仕事を任せていただいたことと、私自身を殿下の所有物にすることは違います」
「あなたは殿下の信頼を使い、王宮の中心へ入った」
「クラリッサ様は、王太子妃になることを望んでいらっしゃるのですか」
クラリッサの顔から笑みが消えかけ、すぐに戻った。だが、戻った笑みは左右でわずかに高さが違っていた。彼女は果実の皿へ手を伸ばし、赤い実を一粒つまんだものの、口へ入れず卓上へ戻す。
「私は北方公爵家の娘です。国境を守る家の娘が王太子妃となれば、王室と北部の結びつきは強くなります」
「望んでいるかどうかを、お尋ねしました」
「私の望みなど、国の役に立つことと比べれば小さなものです」
「小さくても、なくなるわけではありません」
「あなたに何が分かるのです」
クラリッサの声が初めて揺れた。窓の外では雪が再び降り始め、白い粒が厚いガラスへ当たって溶ける。暖炉には大きな薪が何本も燃えていたが、エレナの手首には冷たい空気が触れた。
「十歳のとき、父から北方三国の系図を暗記させられました。間違えるたび夕食を抜かれ、十二歳には宴席で誰の隣へ誰を座らせれば争いになるか答えさせられました」
クラリッサは震えを止めるよう、両手を膝の上で重ねた。
「十五歳からは、王太子妃になるための教育です。歴史、外交、舞踏、礼儀、乗馬、六か国語。朝に少しでも寝坊をすれば、侍女ではなく教育係が寝台の布を剥ぎました」
「お父様は、王太子妃になれと?」
「北方公爵家を守れ。北部を衰退させるな。王室との婚姻で、家門を存続させろ。それが私の役目です」
「クラリッサ様が、茶室の責任者になりたい理由も同じですか」
「殿下のおそばへ行くためだけだと思うのですか?」
「分からないので、伺っています」
「あなたが握っているものを、私が持つべきだからです」
「茶室を?」
「殿下の信頼も、商会との繋がりも、外交で発言する力もです。北方公爵令嬢の私が持てば、北部を守るために使えます」
「鉱山を守るためにも?」
クラリッサは答えなかった。彼女の視線が一瞬だけ、閉じた調査書へ落ちる。エレナはその小さな動きを見逃さなかった。
「水質汚染をご存じだったのですか」
「知りませんでした」
「では、半年前の技師の報告書は?」
「最近、父の机で見つけました」
「公爵様へ、確かめましたか」
「鉱山長の管理不足だと言われました」
「報告書は公爵様へ届いていました」
「父にも事情があります」
「王都で百人以上が体調を崩しました」
「重症者はいないのでしょう?」
クラリッサが言った直後、暖炉で薪が割れた。赤い火の粉が炉の前へ飛び、敷物へ落ちる。彼女は自分の言葉に気づいたように唇を閉じたが、一度外へ出た言葉は戻らなかった。
「重症者がいなければ、隠してよいのですか」
「そうは言っていません」
「鉱山町でも、商人や医師が逃げ始めています。昨日まで食べられた腸詰めが、今日は食卓から消えています」
「だから香木の産業を作るのでしょう。あなたの案は読みました」
「まだ案です。町の方々の暮らしを調べ、必要な給金を計算しなければ使えません」
「計算なら私にもできます」
「できますか」
「もちろんです」
エレナは革袋から煤で汚れた帳面を取り出した。クラリッサの金文字の帳面とは違い、青い布張りの表紙には泥がつき、角は大鍋の湯気で波打っている。開いた頁には鉱夫の名前、家族の人数、家賃、薬代、移転に必要な荷馬車の台数まで細かく書かれていた。
「ギデオンさんは、奥様の足が悪く、移転できません。ニールさんは荷馬車を扱えますが、病気の子どもがおります。マルタさんは数字を扱えますが、読み書きのできない鉱夫の給金を代わりに確かめています」
「それが何です」
「香木産業へ移るとして、誰に何を任せますか」
「ギデオンという男には、若い者への指導を。ニールには輸送を。マルタには帳簿を任せればよいでしょう」
「ギデオンさんは、坑道の外で長時間働くと咳が悪化します。ニールさんの子どもは熱を出しやすく、父親が何日も町を離れる仕事は難しいそうです。マルタさんは数字を扱えますが、幼い子どもを三人育てているため、夕方以降は働けません」
クラリッサは帳面へ視線を落とした。先ほどまで震えていた指が動きを止めている。エレナは別の頁を開き、洗濯女、鍛冶職人、教師、宿屋のヘルガについて尋ねた。
「ヘルガさんへ、何を任せますか」
「宿屋の経営を続ければよいでしょう」
「商人が町から去り、宿泊客は減っています」
「では、香木製品を売る店にする」
「料理と宿の仕事しかしたことがない方へ、明日から香油を売れと言うのですか」
「教育すればよいでしょう」
「誰が、どれくらいの期間、どのように教えますか。その間の宿の収入は、誰が補いますか」
「細かなことばかり……」
「暮らしは、細かなことでできています」
クラリッサの呼吸が浅くなった。甘い香油が満ちた部屋で長く話し続けたためか、頬の血の気が少し引いている。彼女はこめかみへ指を当て、金の茶器へ手を伸ばした。
「そのお茶は、今はお飲みにならないほうがよいと思います」
「自分の調合をけなされたから、私の茶を飲ませたくないの?」
「先ほどから、呼吸が浅くなっています。薄荷の香りが強すぎます」
「私は薄荷で体調を崩したことなどありません」
「香油も重なっています」
「この香油は北方公爵家の最高級品です」
「上等なものでも、多すぎれば身体へ負担になります」
クラリッサは意地を張るように茶器を口へ運んだ。しかし一口飲んだ直後、眉を寄せ、こめかみを強く押さえる。エレナは椅子を離れ、窓へ向かった。
「何をなさるの?」
「空気を入れ替えます」
「外は雪です」
「少しだけです」
エレナが窓の留め金を外すと、冷たい風が部屋へ流れ込んだ。卓布の端が持ち上がり、紙片が一枚床へ落ちる。紫香油、薔薇油、熟した果実の甘い匂いが窓の外へ逃げ、代わりに雪と濡れた針葉樹の匂いが入ってきた。
クラリッサは文句を言おうとしたが、冷たい空気を吸うと呼吸が少し深くなった。エレナは金の茶器を彼女の手元から離し、水だけを別の器へ注ぐ。香りのついていない水を飲み、クラリッサはしばらく目を閉じた。
「いつから、頭が重かったのですか」
「別に、重くなど……」
「右のこめかみを、先ほどから五回押さえています」
「数えていたのですか」
「はい」
「気味の悪い方ね」
「よく言われます」
「誰に?」
「前の夫に」
クラリッサは目を開き、エレナを見た。ほんの一瞬、二人の間から公爵令嬢と王宮茶師という立場が消えた。だがクラリッサはすぐに背筋を伸ばし、乱れた呼吸を整えた。
「調合を間違えたことは認めます」
「効能は間違っていません」
「では、何が違うというのです」
「あなたは私の調合を覚えました。でも、目の前の人を見ていません」
エレナは開けた窓のそばに立った。冷たい風が深緑色の袖を揺らし、金色に染められた飾り枝から、乾いた葉が一枚落ちる。クラリッサの指先はまだわずかに震えていた。
「調合記録には、旅のあとの疲れへ薄荷と甘草を使ったと書かれていました。ですが、その日のお客様は暑がりで、馬車の中でも外套を脱いでいた方です」
「そんなことは記録になかった」
「すべては書けません。書く前に、目の前で見たことだからです」
「それなら、あなたにしかできないではありませんか」
「いいえ。見ることは、誰にでもできます」
「私が見ていないと?」
「今日は、そうでした」
クラリッサは唇を噛んだ。金の茶器、南国の果実、最高級の香油、分厚い薬草書、調べ上げた商会記録。そのすべてを揃えても、自分が頭を痛めていることにさえ気づかなかった。
「お茶を飲むのは、記録の中の症例ではなく、人です」
「きれいごとですわ」
「そうかもしれません」
「私は、あなたより多くを学びました。語学も外交も、家門の歴史も、王室の作法も。なぜ、殿下は私ではなく、あなたを信頼するのです」
エレナはすぐには答えなかった。クラリッサが求めているのは、茶の知識についての答えではない。十歳から家門のために学び、自分の望みを後回しにし続けた年月への答えだった。
「殿下に、直接お尋ねになったことはありますか」
「そのようなことを聞けるはずがないでしょう」
「なぜですか」
「もし、私に足りないものを言われたら、それを埋めなければならないからです」
「埋めればよいのでは?」
「もう、増やせるものがないのです」
クラリッサの声は小さかった。彼女は両手を卓上へ置き、爪の跡が残った掌を隠さなかった。窓から入った雪が一粒、紫色の袖へ落ち、すぐに水へ変わった。
「眠る時間を減らし、食事を減らし、誰より早く覚え、誰より間違えないようにしてきました。それでも、あなたが現れた。離縁され、家門の後ろ盾もないあなたが、私より先に殿下の隣へ立った」
「私は、殿下の隣へ立つために茶を淹れてきたのではありません」
「だから余計に腹が立つのです」
クラリッサは声を上げたあと、扉の外を気にして口を閉じた。侍女や執事へ聞かれないよう、再び公爵令嬢の顔を作ろうとする。しかし目元に入った力だけは戻らなかった。
エレナは窓を半分閉めた。香油の匂いは薄くなり、部屋には南国の果実と冷めた茶の匂いが残っている。卓上の橙は皮を半分剥かれたまま乾き始め、白い筋が表面へ浮いていた。
「クラリッサ様が努力してこられたことを、私は否定しません」
「では、茶室を譲ってくださる?」
「いいえ」
「結局、自分の地位が惜しいのでしょう」
「私が茶室を離れれば、今日のあなたのように、体調に合わない茶を出される方がいるかもしれません」
「一度の失敗で、そこまで言うの?」
「薬草を使う以上、一度で十分です」
「私なら学び直せます」
「学ぶことを止めるつもりはありません。ですが、私の仕事を奪うことと、学ぶことは別です」
クラリッサは立ち上がった。椅子が後ろへ倒れかけ、絨毯の上で重い音を立てる。扉の外にいたロランがすぐに開けようとしたが、エレナは声を上げて止めた。
「大丈夫です、ロラン隊長」
「何が大丈夫なのです!」
クラリッサは両手を卓へついた。金の茶器が揺れ、中の茶が卓布へこぼれる。紫色の刺繍に染み込んだ液体から、強い薄荷の匂いが立った。
「あなたは私を哀れみながら、結局何も譲らない!」
「はい」
「否定しないのね」
「クラリッサ様が置かれてきた状況は、おつらかったと思います。ですが、それを理由に水質汚染を隠すことも、私の仕事を奪うことも認められません」
「私は汚染を隠していません!」
「公爵様が報告書を受け取っていたと知ったあとも、公表しませんでした」
「父を売れと言うの?」
「王都の水と鉱山町の暮らしを守るため、知っていることを話していただきたいのです」
「家門を捨てろということではありませんか」
「家門を守ることと、家門がしたことを隠すことは同じではありません」
クラリッサの手が震え、卓布へこぼれた茶の上で止まった。十歳から教え込まれた役割と、目の前に置かれた汚染の事実が、彼女の中で初めて正面からぶつかった。エレナには、そのどちらかを簡単に選べと言うことはできなかった。
「私は、父から離れれば何者になるのです」
クラリッサは卓を見たまま言った。
「公爵令嬢でなくなり、王太子妃にもなれず、茶室もあなたのものなら、私には何が残るのです?」
「クラリッサ様ご自身が残ります」
「そのような答えで、生きていけると思うの?」
「分かりません」
「また、分からないと言うのですね」
「私も離縁したとき、自分に何が残るのか分かりませんでした」
「あなたには薬草があった」
「薬草遊びと呼ばれ、温室も燃やされました」
クラリッサが顔を上げた。エレナは焼けた温室から最後の鉢を抱えて出た日の、焦げた木と濡れた土の匂いを思い出した。自分の価値が薬草の数や、誰かに与えられた役目で決まるのなら、あの日の自分には何も残っていなかった。
「何も残っていないように見えても、覚えたこと、考えたこと、選ぶ力までは奪われません」
「私を味方へ引き込むつもり?」
「いいえ。クラリッサ様が、何を選ぶのか伺っています」
「私が父を選んだら?」
「水質汚染の責任を問います」
「あなたを選んだら?」
「私は選択肢ではありません」
「では、何を選べというの」
「これからも、クラリッサ様がご自分で飲むお茶を選べる道です」
クラリッサは意味を測るように、エレナを見た。窓の外では雪が弱まり、雲の間から薄い光が差し込んでいる。金色に染めた飾り枝ではなく、庭に植えられた本物の針葉樹が風に揺れていた。
扉が控えめに叩かれ、先ほど盆を落とした侍女が入ってきた。十七歳ほどの少女で、白い前掛けには拭ききれなかった茶の染みが残り、あかぎれた指には新しい傷が増えている。彼女は倒れかけた椅子を直し、こぼれた茶を布で拭こうとした。
「手を見せてください」
エレナが声を掛けると、侍女は動きを止めた。クラリッサは眉を寄せたが、追い出そうとはしない。少女は恐る恐る両手を差し出した。
「洗い物が多いのですか」
「はい。お客様が増えましたので」
「夜は眠れていますか」
「手が熱くて、少し……」
「香油の原液へ触れていませんか」
「茶会の前に、香炉へ注ぎました」
エレナは革袋から小さな軟膏入れを取り出した。蜜蝋とカモミールで作った保護膏を薄く塗り、清潔な布で指を包む。侍女はクラリッサの顔を気にしながらも、両手から力を抜いた。
「今日は水仕事を減らしてください」
「ですが、茶器が……」
「代わりの者に任せなさい」
クラリッサが言った。声はまだ硬かったが、先ほどより小さくなっている。彼女は侍女の手を初めて確かめるように見つめた。
「なぜ、言わなかったの?」
「クラリッサ様のお茶会を遅らせるわけにはまいりません」
「私は、そのように命じていないでしょう」
「申し訳ございません」
「謝れとは言っていません」
クラリッサは言葉に詰まり、額へ手を当てた。侍女は再び謝ろうとしたが、エレナが首を横へ振る。少女は濡れた布を持ったまま、どうすればよいか分からず立ち尽くした。
「まず、手を洗わずに休んでください」
エレナが言った。
「手を洗わなくてよいのですか」
「今は軟膏を塗ったばかりです」
「使用人が手を洗わずに休むなんて……」
「そのまま厨房へ行けば、料理長が働かせるでしょう。控えの間で休みなさい」
クラリッサが命じると、侍女は深く頭を下げた。部屋を出る前、包帯を巻かれた指を不思議そうに眺め、ほんの少しだけ口元を緩める。その表情を見たクラリッサは、自分の手へ視線を落とした。
「私には、あの手が見えていませんでした」
「今日、気づきました」
「あなたが指摘したからです」
「次は、ご自分で気づけます」
「それも、あなたのように?」
「私も見落とします。リネットが教えてくれることも、庭師や料理人に教わることもあります」
「責任者なのに?」
「責任者だから、すべて分かるわけではありません」
クラリッサは乱れた椅子を自分で戻し、もう一度腰を下ろした。金の茶器には手を伸ばさず、香りのない水を少し飲む。エレナも向かいへ座り、乾き始めた橙を一房口へ入れた。
「甘いですか」
クラリッサが尋ねた。
「少し酸っぱいです」
「最高級の果実ですわ」
「最高級でも、酸っぱいものは酸っぱいですね」
「あなたは本当に、言わなくてもよいことを言う方ね」
「よく言われます」
「それも前の夫に?」
「今回は、王宮料理長です」
クラリッサの口元が一瞬だけ緩んだ。しかしすぐに表情を戻し、閉じた鉱山の調査書へ手を置く。爪の先には、掌へ食い込ませたときについた赤い跡が残っていた。
「父が受け取った報告書の写しを、あなたへ渡すことはできません」
「そうですか」
「ですが、王室監査官が書庫を調べるなら、私は止めません」
「書庫のどこにありますか」
「答えられません」
「分かりました」
「聞き分けがよいのね」
「ご自分で選んでいただきたいので」
「私が何も選ばなかったら?」
「その結果も、クラリッサ様へ戻ります」
クラリッサは窓の外を見た。雪はほとんどやみ、遠くに鉱山町の黒い屋根が並んでいる。公爵邸の高い窓からは、宿屋も広場も、大鍋を囲む人々も小さくしか見えなかった。
「町の者たちは、あなたを受け入れたのですか」
「いいえ。話をしてくださるようになっただけです」
「同じでは?」
「違います。私を嫌いなままでも、話はできます」
「私とも?」
「はい」
「あなたのことは嫌いですわ」
「存じております」
「いつか、茶室の責任者は私のほうがふさわしいと証明します」
「そのときは、茶室へお越しください」
「仕事を譲るの?」
「お茶を一杯お出しします」
クラリッサは今度こそ、はっきりと眉を寄せた。だが先ほどのように声を荒らげず、卓上の金の茶器を遠ざける。代わりに空の器をエレナの前へ差し出した。
「あなたなら、今の私へ何を淹れるのです?」
「まず香炉を消します」
「お茶を聞いているのです」
「その前に、部屋の空気を整えます」
エレナは暖炉脇にある香炉の蓋を閉じた。残っていた香油の煙が細くなり、やがて消える。窓をもう少し開けると、冷たい風とともに、庭の針葉樹の清涼な匂いが入ってきた。
「今は薬草茶をお出ししません」
「なぜ?」
「頭が重いときに、さらに香りを重ねる必要はありません。温かな水へ、先ほどの橙を少し搾りましょう」
「それだけ?」
「はい。お飲みになったあとで、まだ必要なら考えます」
エレナは新しい湯を頼み、金の茶器ではなく、白い陶器を選んだ。薄く切った橙を一片落とすと、湯の中で皮の色が鮮やかに浮かぶ。香りは弱く、鼻を近づけたときだけ、酸味のある爽やかさを感じられた。
クラリッサは白い器を両手で包んだ。一口飲み、しばらく目を閉じる。温かな湯が喉を通ると、彼女の肩が初めて椅子の背へ触れた。
「こんなものなら、誰にでも作れますわ」
「はい」
「否定しないのね」
「今日のクラリッサ様には、難しい調合が必要なかっただけです」
「薬草をたくさん知っている者が、優れた茶師ではないの?」
「知識は必要です。でも、使わないと決めるためにも必要なのです」
クラリッサはもう一口飲んだ。卓上には最高級の茶葉と香油が残り、南国の果実は皿からこぼれそうなほど積まれている。しかし彼女が最後まで飲んだのは、橙を一片入れただけの湯だった。
帰り際、エレナは老執事へ塩について尋ねた。公爵邸の倉庫には十樽以上の備蓄があり、春の宴会へ使う予定だという。エレナが鉱山町の食堂や宿へ回せないか頼むと、執事は公爵の許可が必要だと答えた。
「二樽、町へ運びなさい」
背後からクラリッサの声がした。紫色のドレスの上へ白い肩掛けを羽織り、階段の上からこちらを見下ろしている。先ほどまでつけていた黒真珠の首飾りは外され、髪も少し緩んでいた。
「ですが、春の宴会がございます」
老執事が言った。
「宴会の料理を少し薄味にすればよいでしょう」
「公爵様がお許しになるかどうか」
「私の茶会用の予算から支払います」
「承知いたしました」
老執事が頭を下げると、クラリッサはエレナを見た。笑みはなく、敵意が消えたわけでもない。それでも、午前中まで町の食事へ向けられていなかった目が、丘の下にある黒い屋根を見ていた。
「これで、私が優れた茶師になったとは思わないことね」
「思いません」
「少しくらい気を遣えないの?」
「塩を二樽送ってくださったことには、お礼を申し上げます」
「あなたに礼を言われるためではありません」
「町の方々にも、そうお伝えします」
「それはやめなさい」
クラリッサは白い肩掛けを強く引き寄せた。雪のやんだ空から、雲の切れ間を通った光が差し、金色の髪を照らす。彼女はそれ以上何も言わず、公爵邸の奥へ戻っていった。
宿へ戻ると、食堂には塩の樽が二つ届いていた。ヘルガは信じられないという顔で蓋を開け、白い塩を指先でつまむ。隣ではリネットが夕食の豆の煮込みへ入れようと匙を構えていたが、ヘルガに手を叩かれた。
「一度にそんなに入れるんじゃないよ」
「四日分を取り戻そうかと」
「塩気は借金じゃないんだ。まとめて返す必要はないよ」
「今日くらいは濃くてもよいではありませんか」
「あなたは客だろう。厨房へ入らず、座っていなさい」
食卓には、少し塩気の戻った豆の煮込みと、薄く切って焼かれた黒パンが並んだ。エレナが匙を口へ運ぶと、豆の甘さと蕪の匂いが昨日よりはっきり分かる。ヘルガは別の卓で明日使う塩を小袋へ分け、袋ごとに食堂や学校の名前を書いていた。
「茶会はいかがでしたか」
リネットが黒パンを煮込みへ浸しながら尋ねた。
「部屋に香油が多すぎました」
「そこが最初に出てくるのですか」
「頭が重くなりました」
「クラリッサ様と喧嘩を?」
「話をしました」
「どちらが勝ちましたか」
「勝ち負けではありません」
「では、なぜ塩が届いたのです?」
エレナは答える前に、硬い黒パンを噛んだ。三日前と同じパンなのに、塩気のある煮込みと一緒に食べると、苦みは少し弱く感じられる。窓の外では公爵邸から戻る荷馬車が丘を上り、空になった荷台を揺らしていた。
「クラリッサ様が、目の前にあるものを一つ見つけたからです」
「塩を?」
「町の食事を、です」
リネットはよく分からない顔をしたが、すぐに煮込みをもう一匙食べた。塩気を確かめるように目を閉じ、それから黒パンを大きくかじる。今度は眉間へしわを寄せず、最後までゆっくり噛んだ。
丘の上にある公爵邸では、クラリッサが一人で茶室の窓を開けていた。使用人に香炉をすべて下げさせ、金の茶器も棚へ戻させる。卓上には白い陶器と、半分残った橙だけが置かれていた。
彼女は温かな湯へ橙を一片落とし、自分で器を持ち上げた。香りは弱く、薬草の効能もほとんどない。それでも、窓から入る針葉樹の匂いと重ならず、頭の奥に残っていた重さを増やすこともなかった。
「お茶を飲むのは、記録の中の症例ではなく、人……」
クラリッサはエレナの言葉を小さく繰り返した。視線の先では、あかぎれた手を包帯で巻いた侍女が、花瓶の水を替えている。少女が重い水差しを持ち上げた瞬間、包帯の下の指がわずかに震えた。
「それは置きなさい」
クラリッサが言うと、侍女は身体を固くした。
「申し訳ございません。すぐに終わります」
「違います。水差しは、別の者に運ばせなさい」
「ですが、私の仕事です」
「今日だけは休みなさい。手が治らなければ、明日も働けないでしょう」
侍女は水差しを置き、戸惑いながら頭を下げた。クラリッサは白い器へ口をつけ、窓の外へ目を向ける。丘の下の鉱山町では夕食の煙が上がり始め、その中のどこかで、公爵邸から送った塩が豆の煮込みへ入れられていた。




