第25話 廃鉱の町と苦いパン
第25話 廃鉱の町と苦いパン
王都を出て五日目の午後、エレナたちを乗せた馬車は北部の鉱山町グラウベルへ入った。山肌には溶け残った雪が灰色の筋を作り、道の両側には黒い煤をかぶった家々が並んでいる。風が吹くたび、精錬所から流れてきた鉄と灰の匂いが鼻へ入り、馬車の車輪が掘り返す泥水には赤茶色の泡が浮かんだ。
エレナは若草色の仕事着ではなく、厚い茶色の毛織り服を着ていた。上から焦げ茶色の外套を重ね、足元には泥道を歩くための革長靴を履いている。髪も銀の留め具ではなく、飾りのない黒い紐で束ねていたが、王宮の紋章がついた馬車だけは隠しようがなかった。
「窓から顔を出さないでください」
向かいに座る護衛隊長のロランが言った。三十代半ばの大柄な男で、黒い外套の下には軽い革鎧をつけている。左手には妻が持たせたという小さな包みを握り、中には蜂蜜を塗った胡桃パンが一切れ残っていた。
「様子を見たいのです」
「石を投げられるかもしれません」
「石で済めばよいのですが」
「済みません。怪我をします」
「では、窓を少しだけ開けます」
「閉めてください」
エレナが指一本分だけ開けた窓を、ロランはすぐに閉めた。リネットは隣の席で笑いをこらえながら、膝に載せた籠を抱き直す。紺色の仕事着の上には山吹色の外套を着ており、首には自分で編んだという赤い毛糸の襟巻きを何重にも巻いていた。
「ロラン隊長は、殿下から何と命じられたのですか」
リネットが尋ねた。
「エレナ様を無事に王都へ連れ帰れと」
「私のことは?」
「エレナ様と一緒に連れ帰れと」
「ついでのように聞こえます」
「実際、そのような言い方だった」
「もう少し気を遣ってください」
馬車が大きく揺れ、リネットの籠から乾燥林檎が一片落ちた。彼女は拾って前掛けで拭き、そのまま口へ入れようとしたが、エレナが手首をつかむ。床には馬車へ乗り込んだ者の泥が乾いて積もり、林檎にも黒い粒がいくつもついていた。
「食べてはいけません」
「三秒以内に拾いました」
「三秒なら汚れないという決まりは、どこで習ったのですか」
「子どもの頃から皆が言っています」
「私の故郷には、その決まりはありませんでした」
「地方によって違うのでしょうか」
「違いません」
馬車の外から怒鳴り声が聞こえ、三人は会話を止めた。坑道へ向かう道の入口には、仕事を失った鉱夫たちが集まっている。王室が新規採掘を止めたため、今朝から鉱山へ入れない者が百人以上いるらしい。
「王都の犬が来たぞ!」
「俺たちの仕事を奪いに来た女だ!」
「香草を植えれば食えるそうだ。牛じゃあるまいし、草でもかじれというのか!」
男たちは黒い作業着を着て、顔にも手にも煤をつけていた。荷車に載せるはずだった鶴嘴を肩へ担いだ者もおり、王室の馬車を睨みつけている。窓へ泥の塊が当たり、鈍い音を立てた。
リネットの肩が跳ねた。エレナも両手を膝の上で重ねたものの、右手の爪が左の手袋へ食い込んでいる。馬車を止めて話を聞きたいと考えたが、今降りれば護衛と鉱夫が衝突するだけだった。
「宿へ急がせます」
ロランが剣の柄へ手を置いた。
「武器は抜かないでください」
「囲まれた場合は抜きます」
「話しに来た者が、最初に剣を見せてはいけません」
「相手は鶴嘴を持っています」
「仕事道具です」
「頭へ振り下ろせば武器になります」
「そのときは守ってください」
「簡単におっしゃいますね」
御者が馬へ鞭を入れ、馬車は鉱夫たちの間をゆっくり抜けた。誰かが投げた泥がもう一度窓へ当たり、今度は茶色いしぶきがガラスいっぱいに広がる。外の景色が見えなくなると、リネットは籠から古い布を出し、内側から意味もなく窓を拭いた。
宿屋は町の広場から一本入った細い路地にあった。二階建ての石造りで、入口の看板には黒い山と鶴嘴が描かれている。以前は鉱石商や旅人で賑わっていたらしいが、食堂に客の姿はなく、壁際の長椅子には洗濯した布巾が何枚も干されていた。
宿屋の女主人ヘルガは、エレナたちを見るなり眉間へ深いしわを寄せた。赤茶色の髪を布で包み、色あせた緑色のワンピースの上に、小麦粉と煤で汚れた前掛けを巻いている。右手には皮を剥きかけた蕪を持ち、左手の人差し指には布が巻かれていた。
「部屋は三つ用意しています。王宮の方には狭いでしょうけれど、うちには天蓋つきの寝台も銀の風呂桶もありませんよ」
「寝台があれば十分です」
エレナが答えると、ヘルガは鼻を鳴らした。
「湯は一人一桶までです。井戸水に問題はありませんが、薪が値上がりしましたからね」
「承知しました」
「食事は豆の煮込みと黒パンです。肉を食べたいなら、隣町まで買いに行ってください。昨日、肉屋が店を閉めました」
「なぜ閉めたのですか」
「鉱山がなくなる前に、南へ移るそうですよ。商売のできる者から逃げていくのです」
ヘルガは蕪を持ったまま、二階への階段を指さした。階段の三段目には穴が開き、別の板で継ぎ当てられている。エレナが足を載せると板は大きく軋み、二階の廊下から干した靴下と石鹸の匂いが下りてきた。
エレナの部屋には細い寝台と小さな机、それに欠けた水差しが一つあった。窓枠には冷気を防ぐため古新聞が詰められ、壁際には前の客が忘れたらしい片方だけの毛糸靴下が落ちている。机の引き出しを開けると、乾いた豆が三粒と、折れた針が一本入っていた。
「本当に、狭いですね」
荷物を運び込んだリネットが言った。
「王宮茶室の物置より少し広いですよ」
「それは褒めていることになりません」
「寝台は柔らかそうです」
エレナが手で押すと、藁を詰めた敷布から、ちくりと一本が飛び出した。リネットはその藁を引き抜き、窓枠の隙間へ差し込む。外では鉱山の鐘が鳴り、仕事を終える時刻でもないのに、黒い服を着た男たちが町へ戻ってくるのが見えた。
夕食の豆の煮込みは、塩気がほとんどなかった。白い豆と蕪が水の中へ沈み、上には香草の欠片が一つ浮いている。黒パンは指で押してもへこまず、ロランが両手で割ろうとすると、中央からではなく端だけが欠けた。
「これは食べ物ですか」
リネットは黒パンを皿の縁へ打ちつけた。硬い音がして、近くで食器を片づけていたヘルガが振り返る。リネットはすぐにパンを膝へ隠したが、隠すには大きすぎて半分が卓の上へ出ていた。
「昨日焼いたパンです」
ヘルガが言った。
「昨日から、こんなに硬かったのですか」
「小麦粉がないのです。黒麦に豆の粉を混ぜ、いつもの倍焼いて日持ちさせています」
「塩も少ないですね」
「塩商人も今朝、町を出ました。鉱夫が給金をもらえなければ、売っても金にならないと言ってね」
「すみません」
リネットは黒パンを煮込みへ浸した。しばらく待ってから持ち上げたが、表面が少し濡れただけで、中心は硬いままだった。ロランは腰の短剣を抜こうとし、エレナが止める。
「食事の席で武器を抜かないでください」
「これを切るだけです」
「外では抜かず、パンに向かって抜くのですね」
「パンのほうが手強い」
ヘルガは口元をわずかに動かしたが、笑い声にはならなかった。エレナは黒パンを細かく割り、豆の煮込みへ沈める。噛むと黒麦の苦みと焦げた皮の匂いが広がり、薄い煮汁を飲んでも喉に引っかかった。
「町の方は、いつもこの食事を?」
エレナが尋ねると、ヘルガは蕪の皮を剥きながら答えた。右手の包丁が板へ当たり、一定の音を刻む。剥いた皮も捨てず、別の鍋へ入れていた。
「先週までは、腸詰めを一切れ入れていました。子どもには卵もつけましたよ」
「今週から、なくなったのですか」
「鉱山の噂が広がったのは十日前です。それから、商人が値段を上げ始めました」
「王室から食料を届ける手配をします」
「無料で配るのですか」
「仕事が止まっている間は」
ヘルガの包丁が止まった。彼女はエレナの顔を見たあと、煮込み鍋へ視線を戻す。鍋の縁には煮汁が茶色く乾き、何度も布で拭いた跡が残っていた。
「無料の食事に慣れた怠け者だと、王都の人間は言うのでしょうね」
「私は、そのようなことは申しません」
「あなたが言わなくても、帳面には『施しを受けた鉱夫』と書かれる」
「では、廃水池の修理や水路整備の仕事への前払いにします」
「閉じる鉱山を、鉱夫自身に片づけろと?」
「嫌なら、別の方法を考えます」
「ずいぶん簡単に言いますね」
「簡単だとは思っていません。だから、皆様の話を聞きに来ました」
ヘルガは返事をせず、蕪の皮を入れた鍋へ水を注いだ。水面には薄い泥が浮いたが、彼女は匙ですくって流しへ捨てる。エレナはその手元を見ながら、黒パンをもう一片、豆の煮込みへ沈めた。
翌朝、宿の食堂で茶会の準備が始まった。エレナは白い卓布を二枚敷き、持参した茶器を並べ、赤根草、白花茶、耐寒香木の試作茶を小瓶へ分けた。リネットは干し林檎と胡桃を皿へ盛りつけたが、宿の朝食に出た黒パンだけは、窓辺に置いたまま触ろうとしなかった。
「パンも出しますか」
エレナが尋ねると、リネットは黒パンを見た。
「お客様を追い返したいのなら」
「昨夜より少し柔らかいですよ」
「窓辺の湿気を吸っただけです」
「薄く切って焼き直しましょう」
「刃が通りますか」
ロランが短剣を抜き、三人がかりでパンを薄く切った。表面へ山羊乳の脂を塗り、暖炉の火であぶると、焦げた黒麦の香りが食堂へ広がる。リネットが一枚を味見し、しばらく黙って噛み続けた。
「どうですか」
「昨日よりは、歯に優しいです」
「味は?」
「苦いです」
「蜂蜜を少しつけましょう」
「町の方が毎日蜂蜜を買えるのですか」
エレナは答えられず、蜂蜜の壺を閉じた。代わりに干し林檎を細かく刻み、少量の湯で煮て、パンの上へ載せる。甘さは足りなかったが、何もつけないよりは食べやすくなった。
約束の時刻になっても、食堂には誰も来なかった。通りを歩く者は窓越しに茶器を見ても足を止めず、子どもが一人だけ覗き込んだが、母親に腕を引かれて連れていかれた。用意した椅子は空いたままで、壁際に干された布巾だけが暖炉の熱でゆっくり揺れている。
「知らせは出したのですよね」
リネットが窓の外を見ながら言った。
「昨日、町の掲示板へ張りました」
「剥がされたのでは?」
ロランが確かめに行くと、知らせの紙は掲示板に残っていた。ただし『王宮薬草茶師による説明会』という文字の上へ、黒い炭で大きく『鉱山を奪う女』と書かれている。紙の下には泥が投げつけられ、王室の印章だけが見えなくなっていた。
「別の日にしますか」
リネットは椅子を片づけながら尋ねた。声はいつもより小さく、干し林檎の皿を持つ手にも力が入っていない。エレナは冷め始めた三つの薬草茶を順番に味見した。
「場所を変えましょう」
「どこへ?」
「広場です」
「外は寒いですよ」
「赤根草の茶が必要になりますね」
「誰も来なかったら?」
「私たちで飲みましょう」
昼を過ぎる頃、エレナたちは町の中央広場へ大鍋を運んだ。広場には壊れた噴水と、鉱山を開いた初代公爵の銅像が立っている。銅像の靴には誰かが濡れた靴下を掛けており、風が吹くたび、片方だけが旗のように揺れた。
ロランが薪を組み、リネットが火を起こした。煤で黒くなった大鍋へ安全な井戸水を入れ、刻んだ赤根草、乾燥林檎、乾燥葡萄を加える。湯が沸き始めると、甘酸っぱい果実と、土に似た赤根草の香りが冷たい広場へ流れた。
「肉桂は入れないのですか」
リネットが尋ねた。
「値段が高すぎます」
「王宮から持ってきた分がありますよ」
「町で作り続けられないものを、最初から入れてはいけません」
「蜂蜜も?」
「今日は入れません」
「ますます苦くなります」
「果実を少し増やしましょう」
リネットは自分の物入れから乾燥林檎を二片取り出し、大鍋へ落とした。道中でこっそり食べるために隠していたものらしいが、エレナは何も言わず、長い木匙で鍋をかき混ぜる。湯気が頬へ当たり、外套についた鉄と煤の匂いを少しずつ薄めていった。
坑道から戻ってきた鉱夫たちは、鍋の香りに足を止めた。新坑道の採掘は止まっているが、廃水池の修理に必要な道具を運ぶため、一部の者だけが鉱山へ入っている。男たちは煤で黒くなった顔を互いに見合わせ、誰も鍋へ近づこうとしなかった。
「無料でお配りしています」
リネットが声を張り上げた。
「無料ほど高いものはない!」
誰かが男たちの後ろから叫んだ。
「飲んだら、香草を植えると約束させられるぞ!」
「王都の女が、俺たちの口へ草を詰めに来た!」
笑い声が上がったが、明るいものではなかった。鉱夫たちは広場の端へ集まり、鍋から離れたまま腕を組んでいる。エレナは何も言い返さず、自分の椀へ赤根草茶を注いだ。
最初のひと口には赤根草の土っぽい味があり、そのあとから乾燥林檎の酸味が広がった。王宮茶室で出すものより粗く、甘みも足りない。けれど寒風の中で飲むと、熱が喉から腹へ落ち、手袋の中の指先まで温かくなった。
「エレナ様、私にもください」
リネットが椀を差し出した。
「味見をしましたよね」
「あれは仕事です。これは休憩です」
「仕事中です」
「では、二度目の味見です」
エレナが半分だけ注ぐと、リネットは両手で椀を包んだ。ロランにも勧めたが、彼は周囲を警戒しているからと断る。しかし果実の匂いを何度も吸い込んでいることに気づき、エレナは彼のそばへ一杯置いた。
しばらくすると、集まった鉱夫たちの間から、一人の老人が出てきた。背は曲がり、灰色の髪にも眉にも黒い粉が入り込んでいる。継ぎの当たった作業着の胸元を押さえ、三歩歩くごとに乾いた咳を繰り返した。
「ギデオン爺さん、やめておけ」
若い鉱夫が腕をつかんだ。
「毒見なら、もうあの娘たちがしている」
「王都の人間には効かん毒かもしれんぞ」
「そんな便利な毒があるなら、鉱山より儲かるわ」
老鉱夫ギデオンは若者の手を払い、鍋の前まで歩いてきた。咳をした拍子に身体が揺れ、エレナは椅子を差し出す。だが彼は座らず、大鍋とエレナを交互に見た。
「これを飲めば、鉱山を奪われても腹が膨れるのか」
広場から声が消えた。リネットは椀を抱いたまま動かず、ロランは剣の柄から手を離した。エレナは木匙を鍋へ戻し、ギデオンの目を見て答えた。
「いいえ。お茶だけでは、お腹は膨れません」
「では、何をしに来た」
「今日は、お茶を飲んでいただいたあとに、皆様の話を聞きます」
「聞くだけか」
「はい」
「王都の帳面に書いて終わりだろう」
「終わらせない方法を、まだ知りません。ですから、何が必要か教えてください」
「香草を植えれば金になると言いに来たのではないのか」
「耐寒香木を育てる案はあります。ただし、収穫まで少なくとも二年かかります」
「その二年、土を食えと?」
「食料と給金を用意しなければ、その案は使えません」
「用意できるのか」
「王都へ戻って、必要な金額を示します。そのために、皆様が今いくらで暮らし、何を失うのか聞かせてください」
ギデオンは鼻を鳴らし、椀を取った。赤根草茶をひと口飲むと、顔に刻まれたしわがさらに深くなる。リネットが味を心配して身を乗り出した。
「苦いですか」
「苦い」
「乾燥林檎を増やしたのですが」
「今まで飲んだどの薬草茶より苦い」
「そこまでですか」
「だが、鉱山の粉塵よりはましだ」
ギデオンはもうひと口飲み、今度は椅子へ腰を下ろした。エレナは彼の向かいへ小さな椅子を置き、青い布張りの帳面を開く。これはリネットが『見えない香りの記録』とは別に用意したもので、表紙にはすでに大鍋の煤がついていた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「ギデオン・バルク。十五のときから鉱山へ入って、今年で五十三年だ」
「今も坑道へ?」
「若い者に掘る場所を教えている。今日は廃水池へ道具を運んできた」
「一日に、どれくらい働きますか」
「鐘が鳴る前に入り、暗くなってから出る。飯は二回。給金は週に銀貨六枚だ」
「ご家族は?」
「女房と、娘夫婦と、孫が四人。娘婿も鉱夫だ」
「鉱山が閉じた場合、別の町へ移れますか」
ギデオンは椀を口元へ運んだまま止まった。風が吹き、濡れた靴下を掛けられた銅像から水滴が落ちる。彼は大鍋の火を見つめ、やがて首を横へ振った。
「女房の足が悪い。長い旅はできん。家を売ろうにも、今は誰も買わん」
「移転するには、何が必要ですか」
「荷馬車、当面の宿代、新しい仕事。それから、女房を診る医者だ」
エレナは一つずつ帳面へ書いた。ギデオンの話を聞いていた若い鉱夫が、広場の端から近づいてくる。赤根草茶を受け取らず、腕を組んだままエレナの帳面を覗き込んだ。
「俺も妻と子どもが二人いる。家賃は月に銀貨四枚だ」
「あなたは呼ばれていませんよ」
ギデオンが言った。
「爺さん一人では、王都の女に都合よく書かれる」
「では、お名前を」
エレナが顔を上げると、若い男は少しひるんだ。右の頬に古い火傷の跡があり、作業着の釦は上から二つ取れている。胸元からは汗、煤、安い煙草の匂いが混じって漂った。
「ニールだ。二十八。十二から鉱山で働いている」
「ほかにできる仕事はありますか」
「ない」
「荷車を扱えますか」
「鉱石を運ぶ馬車なら」
「木材を運ぶ馬車は?」
「同じ馬が引くなら、運べる」
「では、それも書きます」
ニールは何か言い返そうとしたが、ギデオンが二つ目の椀を差し出した。赤根草茶を飲めということらしい。彼は不満そうに受け取り、一口飲んですぐに顔をしかめた。
「何だこれは。泥水か?」
「林檎が入っています」
リネットが言った。
「林檎の味などしないぞ」
「私の乾燥林檎を二つも入れたのに」
「それでは足りなかったようですね」
「エレナ様、味方をしてください」
話している間に、さらに三人が鍋へ近づいた。一人は鍛冶職人、一人は鉱山の荷を数える女、一人は坑道の支柱を作る大工だった。誰もエレナへ笑顔を向けなかったが、それぞれ椀を受け取り、自分の仕事と家族について話し始めた。
夕方までに帳面は十二頁埋まった。鉱夫の多くは別の仕事を知らなかったが、坑道で必要な木材加工、荷車の修理、鉄製品の製造、火薬の管理、負傷者の手当てなど、実際には複数の技術を持っていた。エレナがそのことを告げても、本人たちは「鉱山以外では役に立たない」と首を振った。
「この町には、仕立屋が何軒ありますか」
エレナが尋ねると、鉱石を数える女マルタが答えた。煤けた青いワンピースの上に革の前掛けをつけ、腰には数字を書き留める小さな黒板を下げている。黒板の端には子どもが描いたらしい、足が六本ある馬の絵が残っていた。
「三軒あったけれど、一軒は先週閉めたよ」
「なぜ仕立屋を聞く?」
ニールが尋ねた。
「香木を加工するなら、香り袋を縫う仕事が必要になります。石鹸を包む布もいります」
「女に袋でも縫わせるつもりか」
「縫える方にお願いします。男性でも構いません」
「俺は釦一つつけられん」
「それは見れば分かります」
リネットがニールの胸元を指さした。釦の取れた上着が大きく開き、下に着た灰色の肌着が見えている。周囲から小さな笑いが起こり、ニールは慌てて上着の前を手で閉じた。
「妻がつけてくれるはずだった」
「奥様もお忙しいのでしょう」
「子どもが熱を出している。こんなことをしている暇はない」
「医師には診せましたか」
「診療所の医者は南へ行った。薬屋も昨日閉めた」
エレナの炭筆が止まった。商人だけでなく、医師や薬屋まで町を離れ始めている。鉱山を閉鎖する前から、町の暮らしはすでに崩れ始めていた。
「お子さんを診せてください」
「お前は茶師だろう」
「診察はできません。ですが、同行している王宮医師に診てもらえます」
「王宮医師が、鉱夫の子どもを診るのか」
「そのためにも連れてきました」
ニールは椀を地面へ置き、何も言わず路地へ歩き出した。エレナがロランを見ると、彼は護衛二人へ医師を呼ぶよう命じる。ギデオンは空になった椀を大鍋の横へ置き、咳を二度してから立ち上がった。
「明日もここにいるのか」
「はい」
「この苦い茶も?」
「明日は少し味を変えます」
「林檎を増やせ。今の倍だ」
「乾燥果実は値段が高いのです」
「ならば、町の外れに残っている酸っぱい木の実を使え。誰も食わんが、煮れば甘くなる」
「毒はありませんか」
「五十三年食っているが、まだ生きている」
「ギデオンさんだけに効かない毒かもしれません」
リネットが言うと、ギデオンは声を上げて笑った。咳が混じり、途中で胸を押さえたが、笑い終えるまで椅子へ座ろうとしなかった。広場に残った者たちも、今度は先ほどよりはっきり笑った。
その夜、宿へ戻ったエレナは帳面を整理した。狭い机には燭台、茶器、鉱山町の地図、食べかけの黒パンが並び、紙を置く場所が足りない。寝台の端ではリネットが靴下を脱ぎ、濡れた足を暖炉へ向けていた。
「明日は誰も来ないかもしれません」
リネットが言った。
「今日は十二人来てくださいました」
「ギデオンさんが来なければ、ゼロでした」
「では、ギデオンさんへお礼を言わなくてはいけませんね」
「林檎を増やすのですか」
「町の外れの木の実を探します」
「毒見は私がします」
「今朝、床へ落とした林檎を食べようとした方に、毒見は頼めません」
「三秒以内でした」
「床の汚れは、三秒待ってくれません」
扉が叩かれ、ヘルガが夕食を運んできた。今夜も豆の煮込みと黒パンだったが、煮込みには小さな腸詰めが一切れ入っている。エレナが見つめると、ヘルガは鍋を卓へ置きながら目をそらした。
「最後に残っていた腸詰めです。三人で分けてください」
「ヘルガさんの分は?」
「私は昼に食べました」
厨房の隅に置かれた彼女の皿には、豆の煮汁と蕪の皮しかなかった。エレナは腸詰めを四つに切り、ヘルガの皿にも一切れ載せる。彼女は断ろうとしたが、エレナはすでに自分の席へ戻っていた。
「明日の茶会にも、誰も来ませんよ」
ヘルガは腸詰めを見ながら言った。
「それでも鍋を出します」
「王宮の人間は、何日ここにいられるのです」
「必要なら、予定を延ばします」
「柔らかいパンが恋しくなっても?」
「このパンも、煮込みへ長く浸せば食べられます」
「それでは煮込みが冷めるでしょう」
「もう冷めています」
ヘルガは豆の煮込みへ匙を入れた。腸詰めを半分だけ口へ運び、残りを小皿の端へ寄せる。あとで娘へ持ち帰るのだろうと分かったため、誰も勧めなかった。
二日目の朝、エレナたちは町の外れにある木から赤い実を集めた。小さく酸っぱい実で、そのまま噛んだリネットは目と口を同時にすぼめた。ギデオンの言葉通り、湯で長く煮ると酸味が和らぎ、乾燥林檎とは違う爽やかな甘い香りが出た。
広場へ鍋を運ぶと、昨日の十二人のうち七人が来ていた。ギデオンは最初から椅子へ座り、昨夜より厚い上着を着ている。ニールも遅れて現れ、釦のついていなかった上着の前を太い紐で縛っていた。
「子どもの熱は?」
エレナが尋ねると、ニールは足元を見た。
「風邪だった。薬をもらって、粥も食べた」
「それはよかったです」
「礼は言わんぞ。鉱山を止めたこととは別だ」
「はい。別のことです」
「今日も帳面に書くのか」
「お話しいただけるなら」
二日目には二十七人が集まった。鉱夫だけでなく、食堂の料理人、洗濯女、学校の教師、鉱山馬を世話する少年まで話をしに来た。教師は、親が町を出るため学校を辞めた子どもが八人いると告げ、洗濯女は鉱山が止まってから仕事が半分になったと話した。
「香木の林ができるまで二年だと言ったね」
マルタが尋ねた。
「苗の育ち方によっては、もう少しかかります」
「その間、女の仕事はあるのかい?」
「苗畑、香り袋、石鹸、食用の実の加工があります。ただし、どれを作るかは、売れる場所を調べてから決めます」
「王都で売れると言うんだろう?」
「今のところ、王宮茶室では虫よけと石鹸を買えます。それだけでは町全体を支えられません」
「美しい未来を語りに来たのではないのかい」
「まだ美しいかどうか分からないものを、美しいとは言えません」
マルタは赤い実を入れた茶を飲み、昨日より甘いと呟いた。隣にいた洗濯女が「これなら子どもも飲める」と答え、実をどこで採ったのか尋ねる。話は茶から、木の実の採取時期や保存方法へ少しずつ移っていった。
その夜、エレナの帳面は三十八頁まで埋まった。移転するなら家族四人で銀貨五十枚が必要な者、親の墓を置いて町を離れられない者、鉱山以外の土地を見たことがない者、文字を読めず新しい仕事の契約ができない者。それぞれの事情は違い、「仕事を用意する」という一言だけでは足りなかった。
「手が黒くなっています」
リネットが炭筆で汚れたエレナの指を見た。二人は宿の床へ座り、暖炉のそばで濡れた靴を乾かしている。椅子には洗った外套が掛けられ、部屋中に湿った羊毛と石鹸の匂いがこもっていた。
「リネットの鼻も黒いですよ」
「炭筆ですか?」
「鍋の煤です」
リネットが鼻をこすると、黒い汚れは頬まで広がった。手鏡を見た彼女はため息をつき、濡れた布で顔を拭く。拭き終えたときには鼻だけ白くなり、目の周りに煤が残っていた。
「明日は、何人来るでしょう」
「分かりません」
「椅子を増やしますか」
「増やしましょう」
「誰も座らなかったら?」
「荷物置きに使えます」
「エレナ様は、よく分からないところで前向きですね」
三日目、広場には朝から人が集まっていた。宿屋のヘルガが古い椅子を六脚出し、学校から長椅子が四つ運ばれ、食堂は空の酒樽を逆さにして座れるようにした。初代公爵の銅像には、昨日までの濡れた靴下の代わりに、『話を聞く席』と書かれた木札が掛けられている。
エレナが大鍋を運ぶと、椅子はすでにすべて埋まっていた。座れなかった者たちは広場の端に立ち、子どもたちは噴水の縁へ並んでいる。煤のついた作業着、継ぎだらけの上着、洗濯で色の抜けたワンピースが集まり、王宮の夜会とは違う人いきれと汗と鉄の匂いが広場を満たした。
「今日は茶が足りなくなるかもしれません」
リネットが大鍋を覗き込んだ。
「水を増やしますか」
「薄くなります」
「では、一人半杯ずつにしましょう」
「ギデオンさんが怒ります」
案の定、最初に椀を差し出したギデオンは、半分しか入っていない茶を見て眉を寄せた。今日は咳が少なく、灰色のひげも昨日より丁寧に整えられている。作業着の胸には、孫が縫ったらしい曲がった白い糸で、名前の頭文字が刺繍されていた。
「王宮は、茶まで減らしたのか」
「人が増えましたから、一人半杯です」
「昨日は二杯飲めた」
「昨日は三十人でした。今日は百人近くおります」
「ならば、もう一つ鍋を用意しろ」
「明日は用意します」
「明日も来るつもりか」
「皆様のお話が終わっていません」
ギデオンは茶をひと口だけ飲み、残りを後ろにいた孫へ渡した。十歳ほどの少年は両手で椀を包み、赤い実を探すように中を覗き込む。リネットが自分用に取っておいた実を一つ入れると、少年は歯を見せて笑った。
「今日は、最初にお話ししたいことがあります」
エレナが広場へ向かって声を上げた。ざわめきがすぐに消えることはなく、後ろでは椅子を巡って二人の男が言い合っている。ロランが止めに行こうとしたが、ギデオンが咳払いをすると、二人は酒樽へ半分ずつ腰掛けた。
「私は、耐寒香木を植えれば、すべてが解決するとは考えておりません」
「では、何をしに来た!」
人垣の中から声が飛んだ。
「それを皆様と決めるためです。香木が収穫できるまで、早くても二年かかります。苗が枯れることも、作った品が売れないこともあります」
「失敗したら、どうする!」
「鉱山を閉めたうえ、木まで枯れたら、俺たちは終わりだ!」
「はい。その心配はあります」
エレナが否定しなかったため、集まった者たちが顔を見合わせた。美しい言葉で安心させられると思っていた者ほど、次の言葉を待つように口を閉じる。エレナは煤のついた帳面を胸の前で開いた。
「ですから、香木だけに頼りません。廃水池の修理、水路の整備、坑道の安全な封鎖、木材加工、荷馬車の修理、石鹸作り、香り袋の縫製、木の実の保存食。それぞれの仕事に、何人が移れるかを調べます」
「給金は?」
ニールが尋ねた。
「公爵家の鉱山収益を差し押さえ、そこから支払う案を王都へ送ります」
「王室の施しではないのか」
「鉱山が水を汚した責任として支払わせます」
「公爵が断ったら?」
「王室が命じます」
「それでも払わなかったら?」
「財産を差し押さえます」
「公爵家を、本当に敵に回せるのか」
エレナはすぐに答えなかった。北方公爵家は国境を守り、王室さえ簡単には動かせない力を持っている。しかし、ここでできると約束し、王都へ戻って失敗すれば、この町の者は二度と王室を信じない。
「簡単ではありません」
広場から不満そうな声が上がった。
「ですが、皆様の食事を減らして、公爵家の財産だけを守る案には、私は賛成しません」
「お前に決める力があるのか」
「ありません」
「何もできない女が、三日も茶を配っていたのか!」
「私一人では決められません。けれど、皆様の話と必要な金額を、王太子殿下の前へ持っていくことはできます」
「殿下が聞かなかったら?」
「聞くまで話します」
「追い出されたら?」
「茶室で待ちます」
「それはお前の仕事場だろう!」
誰かが叫び、広場に笑いが起きた。三日前の笑いには棘があったが、今度の笑いには少しだけ温かさが混じっている。エレナもようやく口元を緩め、帳面を持ち直した。
「今日は、移転を希望する方と、この町へ残りたい方を分けて伺います」
「残りたいと言ったら、仕事をくれるのか」
「必要な仕事を一緒に探します」
「鉱山へ戻りたいと言ったら?」
「水を汚さない範囲で採掘を続けられる場所があるか、技師に調べてもらいます。ただし、以前と同じ規模には戻せません」
「何でも望み通りにはならないということか」
「はい。私も、何でもできるとは申しません」
ギデオンが椀を地面へ置き、ゆっくり立ち上がった。曲がった腰を伸ばそうとしたが、途中で咳が出て、胸元を押さえる。それでも彼は後ろに集まった鉱夫たちを振り返った。
「話をするだけなら、鶴嘴はいらん。名前と給金と、食わせている家族の数を言え。黙っていれば、王都の連中は俺たちが霞を食って生きていると思うぞ」
「霞なら、この茶より旨いかもしれん」
ニールが言った。
「今日は昨日より甘いです」
リネットがすぐに反論した。
「椀が半分しかない」
「人数が増えたからです」
「明日は鍋を増やすのだろうな」
「二つ用意します」
「林檎も増やせ」
「それは相談します」
人々は順番に椅子へ座り、自分の名前、仕事、家族の数、必要な給金を話し始めた。リネットは茶を配り、ロランは子どもが火へ近づきすぎないよう見張る。宿屋のヘルガはいつの間にか黒パンを薄く切って持ってきており、大鍋の脇に置いた鉄板で焼き始めた。
黒パンには山羊乳の脂も蜂蜜も塗られていなかった。それでも火であぶると、三日前より香ばしい匂いが立つ。ヘルガは焼き上がったものを一枚ずつ割り、茶を飲む者へ配った。
「まだ硬いです」
リネットが一片を噛みながら言った。
「三日でパンの作り方まで変えられると思うのかい」
ヘルガは鉄板を返しながら答えた。
「豆の粉を減らせませんか」
「小麦粉を持ってきてくれるならね」
「王都へ頼みます」
「無料では受け取らないよ」
「では、広場へ椅子とパンを運ぶ仕事の代金にしましょう」
「王宮は、何でも仕事にするんだね」
「施しだと思われたくないのでしょう?」
ヘルガは返事の代わりに、よく焼けた一枚をリネットへ渡した。端は少し焦げていたが、噛むと内側にはわずかな柔らかさが残っている。リネットは目を丸くし、半分をエレナへ差し出した。
エレナは帳面を書く手を止め、黒パンを受け取った。三日前に食べたものと同じ苦みがあったが、赤い実の茶を飲んだあとでは、黒麦の香りをはっきり感じられる。硬い皮を時間をかけて噛むと、豆の粉の甘みも少しだけ舌へ残った。
「美味しくなりましたね」
エレナが言うと、ヘルガは鉄板から顔を上げなかった。
「同じパンですよ」
「焼き直したからでしょうか」
「食べる相手が増えたからじゃないですか」
ヘルガは次のパンを鉄板へ並べた。広場には仕事を失った者の声、子どもが椀を求める声、炭筆が紙を擦る音が重なる。誰も未来を信じたとは言わず、誰もエレナを歓迎するとは言わなかった。
それでも、三日前には空いていた椅子がすべて埋まっていた。座れない者は酒樽や噴水の縁へ腰掛け、自分の順番を待っている。エレナは苦い黒パンを最後まで食べ、次の頁を開いた。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
目の前へ座った女は、煤のついた赤ん坊を抱き直した。赤ん坊の靴下は左右で色が違い、片方の踵には小さな穴が開いている。女はしばらくエレナを見たあと、ゆっくりと自分の名を告げた。
エレナはその名前を帳面へ書き、家族の人数と、失われる仕事を尋ねた。美しい未来を約束する代わりに、必要な食事、家賃、薬代、冬を越す薪の数まで、一つずつ書き留める。煤で汚れた頁は夕方まで増え続け、広場の大鍋は底が見えるほど空になった。




