第24話 正しいことを言えない席
第24話 正しいことを言えない席
北方公爵家の処分を決める会議は、朝から三時間を過ぎても終わらなかった。王宮会議室の長机には、鉱山の採掘記録、水質調査書、北部の地図、黒鉄の輸出量を記した帳面が重なり、端には誰も手をつけない焼き菓子が置かれている。窓の外では春を前にした冷たい雨が降り、濡れた馬車が正門を通るたび、泥を踏む馬の蹄が鈍い音を立てた。
アルヴェインは濃紺の礼装を着て、長机の上座に座っていた。銀糸で刺繍された襟は朝と変わらず整っているが、左の袖口にはインクの染みがつき、指先で何度も机を叩いた跡が白く残っている。目の前に置かれた紅茶からは湯気が消え、表面に薄い膜が浮いていた。
「黒鉄鉱山を直ちに閉鎖すべきです」
王立薬師院長が調査書を開いた。白髪を短く刈り、黒い外套の下には襟の高い白衣を着ている。彼は汚染された井戸の数を赤い線で囲み、その紙をアルヴェインの前へ押し出した。
「王都では、すでに百三十七名が腹痛や吐き気を訴えております。幸い重症者はおりませんが、このまま鉱山から廃水が流れ続ければ、南部の水源にも影響が出ます」
「坑道を封鎖し、廃水池を修理すれば止められるのか」
「地下へ染み込んだ水までは、すぐに取り除けません。少なくとも半年は、該当する井戸を使えないでしょう」
「ならば、なおさら公爵家を処罰すべきだ」
財務大臣が太い指で机を叩いた。緑色の上着は腹の辺りで釦が引っ張られ、椅子の脇には朝食の残りらしい林檎の芯が小皿へ載っている。彼は黒鉄鉱山の収益帳を開き、採掘量が増えた箇所を指でなぞった。
「亀裂の報告を半年も前に受けていた。それを隠して採掘を続けたのは、明らかな罪です。北方公爵を拘束し、鉱山を王室の管理下へ置くべきでしょう」
「公爵を拘束した翌日、北の国境は誰が守る」
軍務大臣の低い声が会議室へ響いた。灰色の軍服の胸には勲章が三つ並び、雨に濡れた革手袋を暖炉のそばで乾かしている。髭の端には朝食のパン屑が一つ残っていたが、誰も指摘できる空気ではなかった。
「北方軍八千のうち、五千は公爵家の私兵だ。給金も食料も、鉱山の収益から出ている。黒鉄鉱山を閉鎖し、公爵の財産を差し押さえれば、来月から兵士へ給金を払えなくなる」
「王室から支払えばよい」
「五千人分を、何年払うおつもりですかな」
「罪を見逃せというのか」
「国境を空にするなと言っている」
二人の声が次第に大きくなり、重なった書類の端が机を叩くたび、乾いた音が鳴った。会議室の隅に立っていた若い書記官は羽ペンを動かし続けていたが、緊張で力が入りすぎたらしく、紙を一か所破ってしまった。彼は周囲の視線を集めないよう、破れた部分へそっと別の紙を重ねた。
アルヴェインは二人を止めず、北部の地図を見ていた。黒鉄鉱山の周囲には、小さな町が七つある。鉱夫だけでなく、荷馬車を扱う者、道具を作る鍛冶職人、宿屋、食堂、衣服を繕う仕立屋まで、鉱山の金で暮らしていた。
「鉱山で働いている者は何人だ」
アルヴェインが尋ねた。
「坑道に入る鉱夫は二千四百人です」
財務大臣が帳面を確かめた。
「精錬所と輸送に関わる者を含めれば、四千人を超えます。家族まで数えれば、二万人近いでしょう」
「閉鎖すれば、その者たちはどうなる」
「公爵家の責任です」
「その答えでは、明日食べるパンは手に入らない」
財務大臣は口を閉じた。軍務大臣も腕を組み、濡れた手袋から暖炉へ落ちる雫を見ている。誰も北方公爵を無罪だとは思っていなかったが、有罪と宣言したあとのことを答えられなかった。
会議室の扉が開き、侍従が昼食を運び込んだ。大皿には冷製の鶏肉、茹でた豆、固い黒麦パンが並び、銀の蓋を外すと、酢と香草の匂いが広がった。食事の時間を取れないと考えた厨房が、片手でも食べられる料理を選んだらしい。
「一度、休憩を取りましょう」
アルヴェインが告げても、誰もすぐには席を立たなかった。財務大臣は鶏肉を一切れ皿へ取り、軍務大臣は黒麦パンを二つ外套の物入れへ入れた。後で護衛兵へ渡すつもりなのだろうと気づいたが、アルヴェインは何も言わず、自分の前へ置かれた豆を一粒ずつ匙で集めた。
「殿下は、どのようにお考えですか」
薬師院長が尋ねた。
「水質汚染は止める。公爵家にも責任を負わせる」
「では、直ちに鉱山閉鎖を?」
「まだ命じない」
「その間にも廃水は流れ続けます」
「廃水池の修理と、新坑道の採掘停止はすでに命じた。完全閉鎖については、働く者たちの行き先を決めてからだ」
「それでは、北方公爵へ逃げる時間を与えます」
財務大臣が鶏肉を噛みながら言った。口元へ酢のついた香草が張りついていたが、本人は気づいていない。アルヴェインは布巾を差し出し、それから答えた。
「公爵家の財産と鉱山の帳簿は、王室監査官が押さえる。国外へ逃げようとすれば拘束する」
「罪を公表しないのですか」
「事実は公表する。だが処罰だけを先に決めれば、北部の民に王室への反発を残す」
「殿下が迷っている間に、別の井戸が汚染されるかもしれません」
薬師院長の声は責めるようなものではなかった。それだけに、アルヴェインは手元の匙を強く握った。銀の柄が掌へ食い込み、冷たさが皮膚の奥へ伝わる。
「迷わず命令を出せるのなら、とっくに出している」
会議室が静まり返った。雨粒が窓を叩き、暖炉の中で湿った薪が低くはぜる。アルヴェインは皿に残った豆を見たまま、次の言葉を続けた。
「王都の水を守るために鉱山を閉鎖し、北部の家族から食事を奪う。それを正義と呼べるのか、私は答えられない」
会議は夕刻まで続いたが、完全閉鎖の時期は決まらなかった。決まったのは、新規採掘の停止、廃水池の修理、北方公爵家の財産監査、そして王都への飲料水供給を継続することだけだった。大臣たちが退出したあと、会議室には食べ残された黒麦パンと、何度も書き直された議事録が残った。
その頃、エレナは王宮薬草茶室で、北部の農業記録を読み込んでいた。今日は来客がないため、薄い灰色の仕事着に生成りの前掛けを重ね、袖を肘までまくっている。卓上には北方公爵領の地図、過去十年分の収穫記録、薬草農家から届いた手紙が広げられ、茶器を置く場所さえほとんど残っていなかった。
「寒冷地で育つ薬草なら、赤根草があります」
リネットは本を膝へ載せ、椅子の上で片足を折り曲げていた。紺色の仕事着の下から赤い靴下が覗き、足元には昼に食べた蜂蜜菓子の包み紙が落ちている。エレナが包み紙へ視線を向けると、彼女は急いで拾い、前掛けの物入れへ押し込んだ。
「赤根草だけでは、四千人分の仕事は作れません」
「では、白花茶は?」
「北部の土は酸性が強すぎます」
「銀月花なら、寒さに強いですよね」
「土から鉱物を吸い上げてしまいます。汚染された土地へ植えれば、薬草茶には使えません」
「何処でも育ちそうな顔をしているのに、銀月花は難しいのですね」
「花の顔が分かるのですか」
「白くて丸いので、大らかそうです」
「それはリネットの判断基準ですね」
リネットは頬を膨らませ、本の頁を勢いよくめくった。その拍子に、挟まれていた古い紙片が床へ落ちる。拾い上げると、十年前の北部交易祭で配られた菓子屋の広告だった。
広告には、黒糖を塗った香木菓子の絵が描かれている。北方公爵領で昔から採れる香木の実を粉にし、小麦粉へ混ぜて焼いたものらしい。紙の端には、前の持ち主が書いたと思われる「硬い、歯が欠ける」という感想まで残っていた。
「香木の実を食べるのですか」
リネットが紙を鼻へ近づけた。
「この紙からは、古い本の匂いしかしません」
「十年前の広告ですからね」
「それでも、歯が欠けるほど硬い菓子は気になります」
「食べたいのですか」
「一度は試したいです。二度は食べないかもしれません」
エレナは北部の交易記録から香木を探した。現在は採取量が少なく、現地で薪や香りづけに使われるだけで、王都へほとんど出荷されていない。しかし三十年前の記録には、香木から採った香油、虫よけ、石鹸、乾燥させた実、家具材まで載っていた。
「昔は、香木を多く育てていたようです」
「今はなぜ少ないのでしょう」
「鉱山を広げるため、林を切ったと書いてあります」
「では、もう木がないのですか」
「山の北側には、自生している林が残っています」
エレナは本の挿絵へ指を置いた。細い針のような葉を持ち、冬でも緑を保つ木だった。樹皮と実の両方に香りがあり、寒さだけでなく、鉱物を含んだ痩せた土にも強いと記されている。
「耐寒香木……」
エレナが呟いたとき、茶室の扉が開いた。アルヴェインが濃紺の礼装姿のまま入ってきたが、いつもの侍従も護衛も連れていない。雨に濡れた外套を腕へ掛け、反対の手には会議資料を詰めた革鞄を持っていた。
「会議は終わったのですか」
「いったん終わらせた。何も決められない者たちが座り続けても、椅子が減るだけだ」
「それは、椅子に失礼です」
「君まで椅子をかばうのか」
「毎日磨いているのは、茶室の者ですから」
リネットが立ち上がり、アルヴェインの外套を受け取った。濡れた布から冷たい雨と革の匂いが立ち、床へ小さな水溜まりができる。彼女は慌てて古い布巾を足で寄せたが、勢い余って卓の脚へ額をぶつけた。
「またぶつけましたね」
「今日は頭が考えごとで重いのです」
「昨日も同じ場所へぶつけていました」
「昨日から考え続けているということです」
「冷やすものを持ってきなさい」
アルヴェインが言うと、リネットは額を押さえながら厨房へ向かった。扉を閉める直前、彼女は床に落ちていた蜂蜜菓子の包み紙をもう一つ見つけ、素早く拾って物入れへ隠した。アルヴェインはその様子を見ていたが、何も言わず、エレナの向かいへ座った。
「何を調べていた?」
「北部で育つ作物です」
「私が来ることを知っていたのか」
「いいえ。鉱山を閉じれば、働いている方々が困りますから」
「君も、同じところで止まったのだな」
アルヴェインは革鞄から会議資料を取り出した。公爵家の収支、鉱山労働者の人数、北方軍の給金、国境にある砦の維持費まで、細かな数字が並んでいる。彼が書いた印や短い言葉が頁のあちこちへ残り、何度も読み返した場所だけ、紙が指の脂で少し濃くなっていた。
「王都の井戸を守るだけなら、今夜にも鉱山閉鎖を命じられる」
アルヴェインは地図の上へ手を置いた。
「ですが、そこには四千人が働いています」
「家族まで含めれば二万人だ。さらに鉱山の収益がなくなれば、国境を守る兵士の給金も止まる」
「北方公爵家の私兵ですね」
「公爵のために剣を持っている者もいる。だが大半は、給金を持ち帰り、家族にパンを食べさせている普通の男たちだ」
「王室が給金を負担することは?」
「一年ならできる。だが鉱山を閉じれば、北部からの税収も減る。二年目からは南部の税を上げなければならない」
「南部の農家や商人が、その分を負担するのですね」
「水を汚した者ではなく、遠くで暮らす者が払うことになる」
エレナは茶器を用意した。アルヴェインには疲れた夜に出す白花茶と薄荷のブレンドを選び、自分には同じ茶を少し薄く淹れる。湯を注ぐと、白い花びらが器の中で回り、冷えた部屋へ淡い甘さと青い香りが広がった。
「同じお茶ですね」
アルヴェインが言った。
「今日は同じものが必要に見えました」
「外交の席で客ごとに違う茶を出すのではなかったか」
「違うものを出すことが目的ではありません。必要なものを出すのが目的です」
「では、今の私にはこれが必要なのか」
「少なくとも、強い酒ではありません」
「会議のあと、財務大臣には勧められた」
「お断りになりましたか」
「一緒に飲んだら、軍務大臣の悪口を朝まで聞かされる」
アルヴェインが白花茶を飲むと、固くなっていた肩がわずかに下がった。エレナはその変化を確かめ、自分の器へ手を伸ばす。だが書類を一枚読む間に飲むのを忘れ、茶は少しずつ冷めていった。
リネットが濡らした布と夕食を持って戻ってきた。額に布を当てたまま、湯気の立つ大皿を卓の空いた場所へ置こうとしたが、資料が広がりすぎて置く場所がない。結局、二人で帳面を端へ寄せ、北部の地図の上に厚い板を載せ、その上へ皿を置いた。
「地図の上で食事をするのですか」
アルヴェインが尋ねた。
「地図へスープをこぼさないため、板を敷きました」
「そういう問題か?」
「厨房へ持って帰ると、ガストン料理長が怒ります。殿下が昼食をほとんど召し上がらなかったことも、すでにご存じでした」
「誰が知らせた」
「会議室へ食器を下げに行った助手です。豆が一粒ずつ中央へ集められていたので、殿下の皿だとすぐに分かったそうです」
「妙なところで知られているのだな、私は」
夕食は羊肉と根菜の煮込み、焼きたての白パン、酢漬けの赤蕪だった。羊肉は匙で切れるほど柔らかく、肉桂と月桂樹の香りが染み込んでいる。エレナは温かな汁へパンを浸したが、考えごとをしている間に崩れ、匙ですくう前に器の底へ沈んだ。
「エレナ様、パンが行方不明です」
リネットが言った。
「器の底にいます」
「助けてあげないのですか」
「今、北部の二万人を助ける方法を考えています」
「パン一切れも助けられない人に、二万人は難しいと思います」
アルヴェインが匙を置き、口元を手で隠した。笑ったのを見られたくないらしいが、肩が一度だけ揺れた。エレナは器の底から崩れたパンをすくい、リネットへ見せる。
「助けました」
「形がなくなっています」
「食べるときには同じです」
「では、二万人も形がなくなってよいことになります」
「なりません。食事の話と人の暮らしを一緒にしないでください」
食事を終える頃には、外の雨が強くなっていた。リネットは空いた皿を重ね、濡れた外套と一緒に厨房へ戻る。茶室にはエレナとアルヴェインだけが残り、窓を打つ雨音と、壁の時計が時を刻む音が続いた。
「公爵家を糾弾すれば、王都の者たちは納得するでしょう」
エレナは鉱山町の人口が書かれた紙を見つめた。
「罪を隠してはいけない」
「はい。ですが、公爵を処罰し、鉱山を閉鎖したあと、働いていた方々へ『正しいことをしたので我慢してください』とは言えません」
「言わなければならないのは、私だ」
「私も、この水を見つけました」
「見つけた者が責任を負う必要はない」
「見つけなければよかったとは思いません。でも、銀月花が枯れた朝には、井戸を止めれば終わると思っていました」
エレナは冷めた茶へ口をつけた。薄荷の香りは残っているが、冷えると白花茶のわずかな苦みが強く感じられる。茶器を持つ指先は温まらず、窓の隙間から入る湿った風が、仕事着の袖を揺らした。
「人を救うための正しさが、別の人を追い詰めることもあるのですね」
アルヴェインはすぐに答えなかった。椅子の背へ身体を預け、襟元の釦を一つ外す。王太子として人前へ出るときには見せない仕草だった。
「子どもの頃、正しい王になれと教えられた」
彼は冷めた茶器を両手で包んだ。
「嘘をつくな。罪を見逃すな。民を守れ。国境を守れ。教本には、どれも一行ずつ書いてあった」
「すべて正しいことです」
「ああ。だが、罪を裁けば民の仕事がなくなり、民の仕事を守れば王都の水が汚れ、国境を守れば鉱山を止められない。教本には、三つが同時に起きたときの頁がなかった」
「先生にお尋ねにならなかったのですか」
「尋ねた。『王になれば分かる』と言われた」
「分かりましたか」
「まったく分からない」
アルヴェインは片手で顔を覆った。指の隙間から覗く目元には、数日眠れていない者特有の深い影がある。エレナは新しい茶を淹れようと薬缶へ手を伸ばしたが、湯はすでに冷えていた。
「私は、正しい王になりたいと思っていた。だが正しさを選ぶだけなら、秤でもできる」
「秤は、載せられたものしか量れません」
「私は何を量り忘れている?」
「鉱山を閉じたあとの暮らしです」
「それが見つからない」
「まだ、見つけている途中です」
エレナは北部交易祭の広告を取り出し、香木菓子の絵をアルヴェインへ見せた。紙は古く、折り目の部分から裂けかけている。歯が欠けると書かれた感想を読んだアルヴェインは、眉を上げた。
「これを鉱夫に食べさせるのか」
「違います」
「食料を硬くして、食べる量を減らす案かと思った」
「そのような代替産業があるはずありません」
「君が急に恐ろしいことを考えたのかと」
「殿下は、私を何だと思っているのですか」
「茶を使って三国の使節を座らせる女だ」
「間違ってはいませんが、褒められた気がしません」
エレナは広告の裏に書かれた香木の用途を示した。香油、石鹸、虫よけ、家具材、保存食の香りづけ、樹脂を使った防水剤。現在の鉱山町には木工職人も鍛冶職人もおり、荷車で黒鉄を運んでいた者は、同じ道を使って香木製品を運ぶことができる。
「北部に耐寒香木の林が残っています。痩せた土でも育ち、強い寒さにも耐えます」
「収穫まで何年かかる」
「実は三年、香油に使える枝葉なら二年です。苗を大きく育ててから植えれば、一年半まで短くできます」
「それまで、鉱夫の仕事はない」
「廃水池の修理、汚染された土の入れ替え、苗畑の整備、植林があります。坑道を閉じる作業にも人手が必要です」
「全員分の仕事になるか?」
「分かりません。鉱山の職種を一つずつ調べる必要があります」
「北部は薬草栽培に向かないと聞いたが」
「薬草には向きません。でも、薬草茶室で使うものは、薬草だけではありません」
エレナは棚から小瓶を取り出した。中には耐寒香木の乾燥した葉が入っている。蓋を開けると、針葉樹に似た清涼感のある香りと、柑橘の皮のような苦い匂いが茶室へ広がった。
「香りが強いな」
「虫よけや石鹸に使えます。樹脂は木箱の防水にもなります」
「実は、歯が欠ける菓子になる」
「作り方を改良すれば、もう少し柔らかくできると思います」
「リネットなら食べるだろう」
「一度は食べたいと言っていました」
「二度目は?」
「食べないかもしれないそうです」
アルヴェインは瓶の香りをもう一度確かめた。目を閉じると、清涼感のある香りが冷たい夜気と混ざり、鉱山町の黒い煙とは異なる景色を思い描ける。しかし未来の景色だけでは、明日の食事を用意できない。
「植林の資金は、どこから出す」
「公爵家の鉱山収益を差し押さえ、その一部を使います」
「罰金ではなく、働く者のために使うのか」
「水を汚した責任は、公爵家にあります。その責任を、鉱夫の空腹へ置き換えてはいけません」
「北方公爵は反対する」
「公爵家の財産を守るための案ではありません」
「鉱山町の者も、すぐには信じないだろう。王都から来た者が、鉄の代わりに木を植えろと言うのだからな」
「でしたら、話を聞きに行きます」
アルヴェインは瓶を置く手を止めた。茶室の時計は夜半を過ぎ、雨はさらに強くなっている。卓上の燭台では蝋が片側へ流れ、地図の隅へ落ちそうになっていた。
「君が北部へ行くのか」
「現地を見ずに、仕事を作ることはできません」
「水質汚染が公爵家の責任だと公表されれば、王宮の人間は歓迎されない」
「歓迎されるために行くのではありません」
「危険だ」
「護衛をつけてください」
「そういう問題ではない」
「では、どのような問題ですか」
アルヴェインは言葉を探すように口を閉じた。王太子として命じるなら、行くなと言えばよい。しかしエレナが鉱山町へ行こうとする理由を、彼自身が最もよく理解していた。
「君は茶師だ」
「はい」
「薬草園を整え、茶室を守り、王宮の客へ茶を出す。それだけでも十分な仕事をしている」
「それでも、今は茶室の外に、話を聞かなければならない方々がいます」
「また君の仕事が増える」
「戻ってきたら、リネットに減らしてもらいます」
「減らしてくださるのですか?」
扉の外から声がした。いつから聞いていたのか、リネットが空になった食器を載せた盆を持って入ってくる。盆の隅には自分用らしい蜂蜜菓子が二つ置かれ、口元にはすでに粉砂糖がついていた。
「聞いていたのですか」
「お茶を入れ替えようと思って来たら、鉱山へ行く話が聞こえました」
「茶を入れ替える前に、菓子を食べていましたね」
「厨房から茶室までの間に、一つ減っただけです」
「盆には二つあります」
「最初は三つでした」
リネットは冷めた茶器を下げ、新しく湯を沸かし始めた。火を起こすと、炭の弾ける匂いが耐寒香木の香りへ混じる。彼女は薬缶を火へ掛けながら、エレナとアルヴェインを交互に見た。
「北部へ行くなら、私も行きます」
「茶室を空にできません」
「一人で行くおつもりですか」
「護衛をつけていただきます」
「護衛は薬草を知りません」
「リネットは、耐寒香木を見分けられますか」
「今から覚えます」
「明日の出発までに?」
「明日なのですか?」
「まだ決めていない」
アルヴェインが二人の会話を止めた。だがリネットは、すでに香木の本を開き、挿絵と小瓶の葉を見比べている。彼女の横顔を見て、アルヴェインは息を吐いた。
「出発は三日後だ。それまでに調査団から詳しい報告を集める」
「行くことを許可してくださるのですか」
「許可しなければ、君は商人の荷馬車へ乗って行くだろう」
「そのようなことはいたしません」
「本当か?」
「王宮の馬車を貸していただけるなら」
「やはり行くつもりではないか」
リネットが笑いをこらえ、薬缶の蓋を必要以上に何度も開けた。湯が沸くまでの間、エレナは耐寒香木の栽培記録をまとめ、アルヴェインは必要な資金と人数を計算する。北方公爵家を処罰する前に、鉱山町の暮らしを支える道を作る。その方針が、ようやく一枚の紙へ書き記された。
「鉱山は段階的に縮小し、廃水池の修理と植林へ労働者を移す。香木の加工所を整備し、収穫までの生活費は公爵家の資産と王室の貸付金で支える」
アルヴェインが読み上げた。
「貸付金は、香木製品の利益から少しずつ返していただきます」
エレナが付け加えた。
「返せなかった場合は?」
「すぐに取り上げず、収穫量を見て期間を延ばします」
「財務大臣が倒れるぞ」
「そのときは白花茶をお出しします」
「茶で国家財政を説得できると思うな」
「お茶を飲んでいただいてから、数字で説得します」
新しい茶が三人の前へ置かれた。耐寒香木の葉を少量混ぜた試作茶で、青々とした森の香りのあとに、干した蜜柑の皮のような苦みが残る。リネットは一口飲むと、眉間へしわを寄せた。
「苦いです」
「蜂蜜を少し入れてみましょう」
「二匙でもよいですか」
「一匙です」
「では、蜂蜜菓子を食べます」
「それでは味の調整になりません」
リネットは構わず菓子をかじり、香木茶をもう一口飲んだ。今度は眉間のしわが消えたが、蜂蜜菓子のおかげなのか、茶に慣れたのかは分からない。アルヴェインも試し、しばらく舌の上で味を確かめた。
「肉料理のあとなら合うかもしれない」
「脂を流す香りがありますね」
「鉱山の男たちが、仕事のあとに好むだろうか」
「それも現地で聞きます」
「何でも聞くのだな」
「飲む方を見ずに、お茶は作れませんから」
雨は夜明け近くまで降り続いた。茶室の窓は細かな水滴に覆われ、外の灯りがにじんで見える。エレナとアルヴェインが資料を片づけ始める頃には、最初に淹れた白花茶は完全に冷え、器の底に花びらが沈んでいた。
リネットは椅子を二つ並べ、その上で丸くなって眠っていた。紺色の仕事着には菓子の粉がつき、片方の靴が床へ落ちている。手には耐寒香木の本を握ったままで、開かれた頁へ頬を押しつけていた。
「連れて帰らなくてはなりませんね」
エレナが小声で言った。
「起こせば歩くだろう」
「昨日からほとんど眠っていません」
「君もだ」
「殿下もです」
アルヴェインは返事をせず、自分の外套をリネットへ掛けた。王太子の紋章が刺繍された濃紺の外套に包まれても、彼女は起きず、寝返りを打って本を床へ落とした。エレナが拾うと、耐寒香木の頁には、リネットの頬の跡が丸く残っていた。
「正しい答えが見つかったと思うか」
アルヴェインは窓の外を見た。雨雲の向こうが少しずつ明るくなり、薬草園の濡れた土が灰色の朝日に浮かび始めている。銀月花の花壇には布がかけられ、その隙間から一輪だけ白い花が覗いていた。
「いいえ。まだ案が一つ見つかっただけです」
「失敗するかもしれない」
「はい」
「北部の者に拒まれるかもしれない」
「そのときは、何が必要なのか聞き直します」
「君は、怖くないのか」
エレナは床へ落ちたリネットの靴を拾い、椅子の下へ揃えて置いた。濡れた外套、散らかった資料、冷めた茶、食べ残された蜂蜜菓子が、夜を越した茶室に残っている。彼女は自分の前掛けについたインクの染みを指でこすったが、乾いていて落ちなかった。
「怖いから、先に答えを決めないのです」
「決めないことを、弱さだと言う者もいる」
「決められないまま放っておくのは、弱さかもしれません。でも、決めるために話を聞くのなら、まだ途中です」
アルヴェインはエレナを見た。王太子の顔ではなく、長い夜を過ごし、襟の釦を外し、袖へインクをつけた一人の男の顔だった。彼はしばらく黙ったあと、卓上に残っていた耐寒香木の小瓶を手に取った。
「では、続きを北部で考えよう」
「殿下もいらっしゃるのですか」
「王太子が突然鉱山町へ行けば、警備だけで町が埋まる。私は王都に残る」
「そうですね」
「ずいぶん簡単に納得するな」
「殿下がいらっしゃると、毎回食事が豪華になりますので、少し残念です」
「君もリネットと同じ理由なのか」
「冗談です」
「本当に?」
エレナは答えず、耐寒香木の茶をもう一度淹れるため薬缶へ水を足した。今度使ったのは、南庭から運ばれた安全な井戸水だった。火を起こすと、冷えていた茶室へ炭の熱が広がり、薬缶の中で水が小さく鳴り始めた。
やがて、リネットが外套の下から顔を出した。寝ぼけたまま鼻を動かし、耐寒香木の香りを嗅ぐ。彼女は椅子から起き上がらず、目を閉じたまま口を開いた。
「蜂蜜を二匙入れてください」
「起きていたのですか」
「今、起きました」
「殿下の外套へ菓子の粉をつけていますよ」
「洗えば落ちます」
「洗うのは誰ですか」
「王宮の洗濯係です」
アルヴェインが額を押さえ、エレナは湯を注ぎながら口元を緩めた。窓の外では雨がやみ、濡れた薬草園から土と若い葉の匂いが入り込んでくる。夜通し悩んでも、北部の二万人を救う答えはまだ完成していなかった。
それでも、鉱山を閉じるか、見逃すか、その二つしかなかった卓上へ、耐寒香木という三つ目の道が置かれた。エレナは新しい茶をアルヴェインへ差し出し、自分の器にも同じものを注いだ。今度の茶は冷める前に、三人で最後まで飲み干した。




