第23話 枯れ始めた銀月花
第23話 枯れ始めた銀月花
王宮薬草園に朝日が差し込む前、エレナは銀月花の花壇の前で膝をついていた。厚手の焦げ茶色の外套の下には若草色の仕事着を着込み、膝が土で汚れないよう、古い麻袋を二つ折りにして敷いている。夜露を含んだ土からは湿った森のような匂いが立ち、石壁の向こうでは、朝食用のパンを運ぶ荷車が石畳を鳴らしていた。
銀月花は本来、夜の間だけ白い花を開く。朝になると花びらをゆっくり閉じ、細長い銀色の葉へ露を残すはずだった。しかし今朝の花壇には開いた跡すらなく、固く閉じた蕾が首を垂れている。葉の先は火であぶったように黒ずみ、触れると乾いた紙のような音を立てた。
「昨日より広がっていますね」
エレナは黒ずんだ葉を指の腹でそっと挟んだ。力を入れていないのに、葉先がぽろりと崩れ、手袋の上へ黒い粉となって落ちる。背後から走ってきたリネットは、片方の靴紐をほどけさせたまま花壇を覗き込み、白い息を何度も吐いた。
「本当です。昨日は、この一列だけだったのに」
「走ってきたのですか」
「銀月花が枯れたと聞いたので、朝食の途中で来ました」
「それで、口元に卵がついているのですね」
リネットは慌てて口の横を袖で拭いた。紺色の仕事着の胸元には黄色い染みがあり、半熟卵をパンへ挟んで食べている途中だったことがよく分かる。さらに左手には、ひと口かじった丸パンがまだ握られていた。
「これは後で食べます」
「冷たくなりますよ」
「花が元気になったら食べます」
「銀月花は、朝食を人質に取られても元気にはなりません」
エレナが言うと、近くで水桶を運んでいた老庭師のマルセルが喉を鳴らして笑った。灰色の作業着の肘には何度も当て布がされ、革の長靴には乾いた土が厚くこびりついている。彼は桶を花壇のそばへ置き、腰を伸ばすと、右手で背中を二度叩いた。
「この寒さですからな。銀月花だって、布団から出たくないのでしょう」
「先週より、朝の気温は上がっています」
「夜露が冷えすぎたのかもしれません。若い花は気難しいものです。わしの女房も若い頃は、朝に声を掛けるだけで機嫌を損ねましてな」
「奥様が機嫌を損ねたのは、寒さのせいだったのですか」
「たぶん違いますな。わしが前の晩に酒を飲みすぎたせいでしょう」
「それでしたら、銀月花と一緒にしてはいけません」
マルセルはまた笑い、水桶へ柄杓を入れた。井戸からくんだばかりの水は澄んでおり、朝の光を受けて底まで見える。彼がいつものように花壇へまこうとしたため、エレナは手を上げて止めた。
「今朝は、まだ水を与えないでください」
「乾いてはいませんよ。ですが、昨日もいつもと同じだけしかまいておりません」
「その水は、どこの井戸から?」
「薬草園の東井戸です。厨房の者も使っています」
エレナは柄杓を借り、少量の水を白い陶器へ取った。鼻を近づけても、腐った匂いや薬品の刺激はない。口へ含もうとすると、リネットが横から腕をつかんだ。
「飲むのですか」
「少し味を確かめます」
「何が入っているか分からないのですよ」
「口には入れません。舌先へ触れるだけです」
「それでも駄目です」
「では、リネットが代わりに?」
「もっと駄目です」
リネットは陶器を奪い、胸の前へ抱え込んだ。持っていた丸パンが水桶へ落ちそうになり、マルセルが素早く受け止める。表面に卵の黄身がついたパンを見下ろし、老庭師は少し考えてから、乾いている側をひと口かじった。
「マルセルさん、それは私の朝食です」
「花が元気になるまで食べないのでしょう。食べ物を粗末にしてはいけません」
「だからといって、勝手に食べてよいことにはなりません」
「あとで新しいものを買ってきますよ。卵は固焼きでよろしいか」
「半熟です。塩を少し多めにしてください」
二人が朝食の相談を始める間に、エレナは陶器の水へ銀の匙を入れた。しばらく待ってから引き上げると、匙の表面に曇りはない。毒に使われる硫黄や腐食性の薬品ではなさそうだが、水をかき混ぜたとき、陶器の底から土とは違う重い匂いがわずかに上がった。
それは雨の日の鍛冶場で嗅いだことのある匂いだった。濡れた鉄、削った石、火を落とした炉に残る灰。それらをすべて薄くして、冷たい水へ溶かしたような匂いがする。
「この井戸水は、いつから使っていますか」
エレナが尋ねると、マルセルは丸パンを噛みながら首を傾けた。パンの皮がひげに一片ついていたが、本人は気づいていない。リネットはそれを指さそうとして、銀月花の話を思い出したらしく口を閉じた。
「薬草園が作られたときからです。少なくとも二十年は使っていますな」
「最近、井戸を深く掘り直しましたか」
「いいえ。底の泥をさらったのは三年前です」
「水の量は?」
「少し増えました。冬にこれほど水が上がるのは珍しいですが、雪解けが早かったのでしょう」
エレナは花壇の土を小瓶へ詰め、銀月花の葉を一枚だけ切り取った。隣に植えられたカモミールと赤根草は、今のところ枯れていない。ただし赤根草の下葉には、昨日までなかった黄色い斑点が二つ浮かんでいた。
「マルセルさん、東井戸の使用を止めてください」
「原因が水だとお考えですか」
「まだ分かりません。だから確かめます」
「厨房にも知らせますか」
「すぐに。煮炊きにも飲み水にも使わないよう伝えてください」
「井戸が使えないとなると、南庭から水を運ばねばなりません。料理長が鍋を振り回して怒りますぞ」
「振り回すのは匙だけにするよう、私からお願いいたします」
厨房へ向かうと、朝食の片づけが始まっていた。大鍋には燕麦粥が三杯分ほど残り、表面に浮いた乳の膜が端へ寄っている。料理長のガストンは赤い首巻きをしたまま、余った腸詰めを昼の煮込みへ使うか、使用人の食事へ回すかで助手と言い合っていた。
「東井戸の水を止めるだと?」
ガストンは大きな包丁をまな板へ置いた。切りかけの玉葱から辛い匂いが立ち、エレナの目の奥が熱くなる。彼の白い帽子は後ろへ傾き、口ひげには朝食の粥が一粒ついていた。
「原因が分かるまでです」
「今朝の粥にも使ったぞ。殿下も召し上がった」
「体調に異変が出るほど濃いものではないと思います。ですが、今後は使わないでください」
「水がなければ昼のスープが作れん。王族に乾いたパンをかじれと言うのか」
「南庭の井戸水を運びます。茶室の者も手伝います」
「水桶が何杯必要か知っているのか?」
「四十二杯です」
ガストンは口を開いたまま黙った。厨房の助手たちは包丁を動かしながら、二人のやり取りへ耳を傾けている。エレナは壁に掛けられた献立表を見て、昼の豆スープ、蒸し魚、根菜煮に必要な水量を頭の中でもう一度数えた。
「洗い物を含めると六十杯ほどでしょうか」
「分かっているなら話が早い。若い者を十人よこせ」
「薬草茶室には、私とリネットを含めて六人しかおりません」
「では殿下にも運んでいただけ」
「料理長」
「冗談だ。そんな顔をするな」
ガストンは首巻きを外し、東井戸の水が入っている桶へ赤い布を掛けた。厨房にあった水差しや鍋にも同じ印をつけ、誰も使わないよう助手たちへ命じる。ぶつぶつ文句を言いながらも、彼は保存棚から水を使わずに食べられる干し林檎とチーズを取り出し、味見用の小皿へ載せた。
「調査が終わるまで、茶も禁止か」
「東井戸の水を使わなければ、問題ありません」
「南庭の井戸水で紅茶を淹れると、少し渋くなる」
「よくご存じですね」
「料理長を何年やっていると思っている。水が変われば、塩の溶け方も豆の柔らかさも変わる」
ガストンはそう言いながら、干し林檎を一枚つまみ食いした。エレナが見ていることに気づくと、もう一枚を差し出す。林檎は薄く切られ、噛むと歯に張りつくほど甘かった。
「腹へ入れておけ。朝食をとっていない顔だ」
「パンを一つ持ってきました」
「庭師に食われたのだろう。さっき窓から見えた」
「見ていたのですか」
「厨房の窓は薬草園に向いているからな。卵の黄身をひげにつけたまま、あの男は水桶を運んでいるぞ」
エレナが振り返ると、窓の外をマルセルが通り過ぎた。たしかに灰色のひげには、黄色い黄身がまだついている。リネットがその後ろを歩きながら何度も指さしていたが、彼は別の話だと思っているのか、楽しそうにうなずいていた。
午前中、エレナは王立薬師院へ向かった。薬師院の検査室には乾燥薬草、蒸留酒、酸を入れた瓶が棚いっぱいに並び、奥の炉では小さな銅鍋が煮立っている。白衣を着た検査官のオスカーは、昼食の焼き魚を机の端へ置いたまま、持ち込まれた水と土を順番に調べた。
「虫ではなさそうだ。葉の裏に卵もない。根腐れなら、もっと茎が柔らかくなる」
「病気でしょうか」
「カビの胞子も見当たらん。ところで、この魚を食べるか」
「検査室で食事をなさるのですか」
「今日は食堂へ行く時間がなかった。鯖の塩焼きだ。冷めているが、骨は少ない」
「お気持ちだけいただきます」
「そうか。では、あとで食べよう」
オスカーは焼き魚の皿へ紙をかぶせ、その上に薬草の本を置いた。鯖の脂と薬品の酸っぱい匂いが混じり、リネットは鼻を押さえた。エレナは慣れていたが、検査室へ来るたび、薬草と昼食を同じ机へ置く習慣だけは改めてもらいたいと思っていた。
オスカーは井戸水を透明な小瓶へ分け、それぞれに違う試薬を落とした。最初の二本には変化がなかったが、三本目の水が薄い橙色へ変わる。彼は眉を寄せ、別の小瓶へ同じ検査を二度繰り返した。
「鉱物が混じっている」
「種類は分かりますか」
「鉄だけではない。銅と鉛も、ごくわずかだが入っている」
「毒を入れられた可能性は?」
「この濃度なら、誰かが井戸へ直接投げ込んだとは考えにくい。水脈を通して少しずつ混じったのだろう」
リネットは両手を胸の前で握った。左の袖には厨房から水桶を運んだ際についた泥が乾き、茶色い筋になっている。彼女は試験瓶を覗き込み、橙色に変わった水から一歩離れた。
「今朝、王宮の皆が飲んでいます」
「一杯や二杯で倒れる量ではない」
「では、安全なのですか」
「安全とは言っていない。胃腸の弱い者、幼い子ども、それから毎日同じ水を飲み続けている者は、少しずつ体調を崩すかもしれん」
「どのような症状ですか」
「腹痛、吐き気、食欲不振。長く続けば、手足のしびれや頭痛も起こる」
オスカーは銀月花の葉を乳鉢へ入れ、少量の蒸留水とともにすり潰した。白かった液体に黒ずんだ葉が混ざり、灰色の泥のようになる。そこへ別の薬液を加えると、井戸水と同じ橙色が現れた。
「銀月花は、人より早く鉱物を吸い上げたらしい」
「ほかの薬草は、なぜ枯れていないのでしょう」
「植物ごとに吸い上げるものが違う。銀月花は土の中から鉱物を集めやすいのだろう。詳しく調べるには時間がかかる」
「時間はどれくらいですか」
「三日。急がせるなら二日だ」
「今日中には?」
オスカーは無言で、紙をかぶせた焼き魚を見た。魚はまだ昼食にもなっておらず、検査を待つ小瓶は棚に十本以上並んでいる。彼は白衣の袖をまくり、深いため息をついた。
「夕食までに終われば、鯖の代わりに温かい肉料理をおごれ」
「王宮厨房へ頼みます」
「料理長のガストンは、わしを嫌っている」
「なぜですか」
「去年、スープから薬草の茎を見つけて、厨房の衛生状態が悪いと報告した」
「それは香草では?」
「本人もそう言っていた」
「私からも確認しておきます」
検査結果を待つ間、エレナとリネットは王都の井戸を回ることにした。東地区の共同井戸、中央市場の井戸、南の職人街の井戸から水を採り、それぞれ違う色の紐を瓶へ結びつける。昼を過ぎると雪が雨に変わり、二人の外套は肩から重く濡れ、靴の中まで冷たい水が入り込んだ。
中央市場の井戸では、魚屋の女主人が水をくみながら腹を押さえていた。厚い赤毛糸の上着を着込み、腰には鱗のついた前掛けを巻いている。店先には塩漬けの鰊が木箱に並び、その脇では飼い猫が落ちた魚の尾をくわえて走り去った。
「最近、お腹の具合はいかがですか」
エレナが尋ねると、女主人は桶を地面へ置いた。水が縁からこぼれ、泥の上へ丸い染みを作る。彼女は魚の匂いがついた手を前掛けで拭き、何でもないことのように肩をすくめた。
「少し痛むけれど、冬はいつものことだよ。身体が冷えるからね」
「食欲はありますか」
「朝の粥を半分残した。うちの亭主は、私がつまみ食いをしすぎたと言っていたけどね」
「ご家族にも同じ症状が?」
「六つになる孫が、昨日から何も食べたがらないよ。甘い焼き栗さえ残したから、医者へ連れていこうと思っていたところさ」
エレナとリネットは顔を見合わせた。井戸水を小瓶へ取り、今後は飲まないよう女主人へ伝える。だが店には南地区から水を運ぶ余裕がなく、魚を洗うだけでも一日に何桶も必要だった。
「水を使うなと言われても、商売にならないよ」
「王宮から水桶を運ばせます」
「魚屋一軒のためにかい?」
「この井戸を使う家すべてへです」
「そんな数、どうやって運ぶんだい」
「これから考えます」
「考えていなかったのかい」
「異変が見つかったのが、今朝ですから」
女主人は呆れた顔をしたあと、大きな鰊を一尾、紙へ包んでエレナに押しつけた。受け取れないと断ったが、孫のことを知らせてもらった礼だと言って譲らない。結局、リネットが包みを抱え、王宮へ戻るまで二人の周りには塩魚の強い匂いがついて回った。
夕方、王立薬師院から最初の検査結果が届いた。薬草園の東井戸だけでなく、中央市場と王都北東部の二つの井戸からも、同じ鉱物が検出された。南地区の井戸水には異常がなく、汚染は北から南東へ伸びる地下水脈に沿っていると考えられた。
アルヴェインは直ちに緊急会議を開いた。会議室には王都管理官、薬師院長、水路技師、衛兵隊長が集まり、長机の上には王都の地図と井戸水の瓶が並べられている。夕食時刻を過ぎていたため、部屋の隅には薄い肉のサンドイッチと冷めた豆スープが用意されていたが、誰も手をつけなかった。
「該当する井戸をすべて封鎖する」
アルヴェインは黒い礼装の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっていた。前髪が一本だけ額へ落ちていたが、払うこともなく地図へ身を乗り出す。エレナが示した井戸の位置へ、自ら赤い印をつけていった。
「王宮と南地区の井戸から水を運ばせます。荷馬車だけでは足りません」
王都管理官が言った。
「酒造所の水車を止め、貯水槽を借りろ。浴場と染物工房には、三日間の休業を命じる」
「職人たちが反発します」
「補償金を出す。水が足りなければ、病人が増える」
「原因が分かる前に公表すれば、王都が混乱する恐れがございます」
衛兵隊長が口を挟んだ。革の胸当てをつけたまま椅子へ座り、冷めた豆スープの器を指で回している。アルヴェインは赤い印をつける手を止め、エレナへ視線を向けた。
「隠すべきだと思うか」
「いいえ。ただし、すぐに命へ関わる毒ではないことと、安全な水をどこで受け取れるかを同時に伝えてください」
「不安をあおらないためか」
「不安だけを取り上げることはできません。代わりに、何をすればよいかを渡します」
「分かった。そのように布告を出す」
会議が終わる前に、北部の水路図が運び込まれた。古い羊皮紙には地下水脈、河川、鉱山の排水路が細い青と黒の線で描かれている。端には以前の技師がこぼしたらしい珈琲の染みがあり、北東部の一部が茶色く読みにくくなっていた。
水路技師が新しい地図と重ね合わせると、汚染された井戸は一本の地下水脈でつながった。その水脈を北へたどると、ノルディス公爵領にある黒鉄鉱山へ行き着く。十年前まで小規模だった鉱山は近年急速に広がり、新しい採掘坑が王都へ続く地下水脈の近くまで掘られていた。
「黒鉄鉱山は、北方公爵家の所有です」
水路技師が言った瞬間、部屋の空気が変わった。誰かが椅子を引き、木の脚が床へ擦れる。アルヴェインは地図へ手を置いたまま動かず、エレナは先日の薬草茶室に残った紫香油の匂いを思い出した。
「鉱山から王都までは、かなり離れています」
エレナは地図を見ながら言った。
「ですが、地下水は土地の境界を知りません」
「鉱山の廃水が原因と断定できるか」
アルヴェインが水路技師へ尋ねた。
「調査が必要です。ただ、鉱山以外にこれだけの鉱物が混じる場所はございません」
「採掘記録を取り寄せろ。明朝、調査隊を出す」
「公爵家には、どのように伝えますか」
「隠さず伝える。だが罪を決めつけるな。今必要なのは犯人ではなく、安全な水だ」
夜遅く、エレナは薬草園へ戻った。雨はやみ、雲の切れ間から細い月が見えている。銀月花の花壇には東井戸の水が入らないよう布がかけられ、マルセルが南庭から運んだ水桶が六つ並んでいた。
老庭師は花壇のそばに椅子を置き、厚い毛布へくるまっていた。膝には夕食の皿が載り、冷めたじゃが芋と腸詰めが半分残っている。椅子の下にはリネットが約束させたらしい半熟卵の丸パンが置かれていたが、こちらもまだ手をつけていなかった。
「ここで夜を明かすおつもりですか」
「花を置いて帰れませんでな」
「見ていても、今夜すぐには治りません」
「分かっております。ですが、家へ帰っても銀月花のことを考えるだけです」
「奥様がお待ちでは?」
「女房は二年前に亡くなりました。朝に機嫌を損ねる相手も、もうおりません」
マルセルは腸詰めを一切れ食べ、冷たさに顔をしかめた。昼間は笑い話のように聞いていた妻の話が、夜露の下では違う重さを持っていた。エレナは隣の空いた椅子へ座り、花壇を覆っていた布を少しだけめくった。
南庭の水を与えられた銀月花は、まだ葉先を黒くしたままだった。しかし一番端にある小さな株だけは、固く閉じた蕾をわずかに緩めている。完全に開く力はなくても、白い花びらが細い隙間から覗いていた。
「少し開いておりますな」
「はい」
「助かりますか」
「傷んだ葉は戻りません。ですが、根まで枯れていなければ、新しい葉が出ます」
エレナは手袋を外し、黒ずんだ葉の根元へ触れた。冷たい葉脈の中に、わずかな張りが残っている。指先には湿った土と鉱物の重い匂いがついたが、その下から銀月花特有の、蜂蜜を薄めたような香りがかすかに立ち上がった。
「銀月花が、誰より先に知らせてくれたのですね」
「人間より花のほうが、水の違いに気づいたということですか」
「私たちが気づけなかっただけです。銀月花は、葉を黒くして知らせてくれました」
「花を育てているつもりが、助けられましたな」
「ええ。明日からは、私たちが助ける番です」
背後から足音がし、アルヴェインが外套を羽織って薬草園へ入ってきた。護衛を入口へ残し、手には湯気の立つ木の器を三つ持っている。王太子が自ら運んでいることにマルセルが立ち上がろうとしたが、アルヴェインは座ったままでよいと手で示した。
「料理長が、誰も夕食を食べないと怒っていた」
アルヴェインはエレナとマルセルへ器を渡した。中には鶏肉と根菜を煮込んだスープが入り、月桂樹と胡椒の香りが冷えた薬草園へ広がる。エレナがひと口飲むと、塩気と熱が舌から喉へ落ち、冷えていた腹がゆっくり温まった。
「殿下も召し上がっていないのでは?」
「私は会議室でサンドイッチを一つ食べた」
「皿には三つ残っていました」
「よく見ているな」
「食べていないことも分かります」
アルヴェインは言い返さず、自分の器から鶏肉を一切れ食べた。火傷をしたらしく一瞬だけ眉を動かしたが、何事もなかったように飲み込む。マルセルはそれを見て、小さく笑いながらスープへ冷めたじゃが芋を入れた。
「北方公爵家の鉱山が原因なのでしょうか」
エレナが尋ねた。
「可能性は高い。だが、明日の調査が終わるまでは断定できない」
「クラリッサ様は、ご存じなのでしょうか」
「分からない。鉱山の管理は公爵本人と鉱山長が行っている。彼女が採掘の細部まで知らされていないこともあり得る」
「噂のこととは、分けて考えるべきですね」
「君はそう考えると思っていた」
「殿下は違うのですか」
アルヴェインは答えず、スープの器を両手で包んだ。夜風が吹き、銀月花を覆う布の端がぱたぱたと鳴る。彼は足元へ落ちた小石を靴先で動かし、花壇から少し離れた場所へ押し出した。
「私は、彼女が無関係であってほしいと思っている」
「なぜですか」
「そうでなければ、君はまた、自分を傷つけた相手の事情まで考えることになる」
「事情を考えることと、罪を許すことは違います」
「君はいつも、そう言う」
「いつも同じことをなさる方が多いからです」
マルセルが吹き出し、慌てて咳払いへ変えた。アルヴェインはエレナを見たあと、仕方がないというように口元を緩める。三人は温かなスープを飲みながら、月の下で固く閉じた花を見守った。
翌朝、王都の各広場へ井戸の使用停止を知らせる布告が張り出された。同時に、安全な水を配る場所と時刻、体調に異変が出た場合の診療所も記されていた。王宮の荷馬車だけでは足りず、酒造所、商会、修道院から水桶と荷車が集められ、市場の魚屋も空いた樽を提供した。
中央市場では、昨日の女主人が孫を連れて水の列へ並んでいた。少年は赤い毛糸帽子をかぶり、祖母にもらった焼き栗を一つずつゆっくり食べている。医師の診察を受け、しばらく安全な水を飲めば問題ないと言われたらしい。
「昨日より食べられていますね」
エレナが声を掛けると、少年は焼き栗を一つ差し出した。殻は半分割られ、中の黄色い実が覗いている。エレナが受け取ると、少年は祖母の前掛けへ顔を隠した。
「照れているのさ。この子が栗を分けるなんて、滅多にないよ」
「では、大切にいただきます」
「昨日の鰊は食べたかい?」
「リネットが焼いてくれました」
「少し焦げました」
隣にいたリネットが小声で付け加えた。焦げた皮を削ろうとして身まで半分失い、結局は魚とじゃが芋を混ぜた平たい団子にしたことは黙っているつもりらしい。エレナもそれには触れず、温かな焼き栗を半分に割った。
昼前、北部鉱山へ向かった調査隊から最初の知らせが届いた。新しく掘られた坑道の脇に大きな廃水池があり、底に亀裂が入っていた。鉱物を含んだ水はそこから地中へ染み出し、王都へ続く地下水脈へ流れ込んでいた。
事故ではあったが、避けられない事故ではなかった。半年前、鉱山技師が亀裂を報告していたにもかかわらず、修理費を惜しんだ鉱山長が採掘を続けていたのだ。報告書には、北方公爵家へ提出した書類の写しも添えられていた。
薬草茶室で知らせを読んだエレナは、卓上に置いていた焼き栗の殻を一つずつ重ねた。窓辺には傷んだ銀月花の鉢が置かれ、黒い葉の間から小さな白い蕾が上を向いている。リネットは報告書を読み終えると、青い表紙の帳面を開いた。
「北方公爵は、半年前から知っていたのですね」
「報告書を受け取っています」
「クラリッサ様の名前はありません」
「はい」
「では、あの方は関係ないのでしょうか」
「まだ分かりません」
「また、その答えですか」
「分からないものが増えると、帳面が役に立ちます」
リネットは頬を膨らませながらも、『見えない香りの記録』へ日付を書き込んだ。噂が流れた日、帳簿を公開した日、銀月花の異変を見つけた日、北方鉱山の廃水が確認された日。それらを並べると、別々に見えた出来事が、細い線でつながり始めていた。
「これから、どうなるのでしょう」
「まず王都の水を守ります。鉱山の責任を問うのは、そのあとです」
「北方公爵家が、事故を隠そうとしたら?」
「記録を見せていただきます」
「記録を捨てていたら?」
「働いていた方々に聞きます」
「全員が口を閉ざしたら?」
「開いてくださるまで、話を聞きます」
リネットは炭筆を置き、窓辺の銀月花を見た。朝には下を向いていた蕾が、南庭の水を吸い、少しだけ膨らんでいる。エレナは焼き栗の最後の一欠片を口へ入れ、甘い香りをゆっくり飲み込んだ。
その頃、北方公爵邸では、クラリッサが父の机に置かれた王宮からの調査命令を読んでいた。深い紫色の室内着の上に白い肩掛けを羽織り、結い上げる前の金髪を背中へ流している。朝食の紅茶は冷め、蜂蜜を塗った薄焼きパンには一度も手がつけられていなかった。
「水質調査とは、どういうことですか」
クラリッサが尋ねても、北方公爵は書類から顔を上げなかった。机には鉱山の収益帳、北方三国との会談記録、王都の新聞が散らばり、その下から封蝋の割れた技師の報告書が半分だけ覗いている。公爵は羽ペンをインク壺へ戻し、ようやく娘を見た。
「お前が知る必要はない」
「黒鉄鉱山の廃水から、王都の井戸と同じ鉱物が見つかったそうです」
「まだ断定されたわけではない」
「半年前にも、亀裂の報告があったのではありませんか」
「誰から聞いた」
「お父様の机から、その報告書が見えています」
公爵はすぐに書類の束を動かし、古い報告書を隠した。だが封蝋に使われた黒い印は、すでにクラリッサの目へ入っている。彼女は紫香油をつけていなかったため、部屋には冷えた紅茶と暖炉の煤、それに父が昨夜飲んだ強い酒の匂いだけが残っていた。
「あの女が騒いでいるのか」
「エレナ様は、王都の水を守ろうとしているだけです」
「ずいぶん肩を持つのだな」
「肩を持ってはいません。私はあの方が嫌いです」
「ならば黙っていろ。いずれ、あの女の知識も人脈も、お前のものになる」
クラリッサの指が、白い肩掛けの端をつかんだ。父は再び羽ペンを取り、話は終わったというように収益帳へ数字を書き始める。暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉が一つ、黒い灰の上へ落ちた。
「お父様は、何をなさったのですか」
公爵は答えなかった。
クラリッサは机の下に積まれた書類へ目を向けた。そこには王都の薬草商会名簿と、エレナが公開した調合記録の写しが置かれている。紫色の瞳に映った文字を確かめるように、彼女はしばらく瞬きもしなかった。
王宮薬草園では、昼を過ぎた頃、銀月花が一輪だけ開いた。花びらの端は茶色く傷み、いつものような強い香りもない。それでもエレナが近づくと、蜂蜜に似た淡い匂いが冷たい風の中へ流れた。
「咲きました」
リネットがしゃがみ込み、両手を膝へ置いた。朝から水桶を運んだため、紺色の仕事着には水の染みがいくつもつき、髪を結ぶ青い紐も泥で汚れている。エレナは隣へ膝をつき、枯れかけた葉を指の腹で撫でた。
「銀月花が、誰より先に知らせてくれたのですね」
「この花が枯れなければ、私たちは井戸水を飲み続けていました」
「ええ。小さな変化を、見落とさなくてよかった」
「花は話せないのに、どうして分かったのですか」
「話さないものほど、よく見なくてはいけません」
マルセルが新しい水桶を運びながら、二人の後ろを通った。彼の灰色のひげには、今度は卵の黄身ではなく、昼食に食べた豆スープの豆が一粒ついている。リネットが指さすと、老庭師は銀月花のことだと思ったらしく、嬉しそうに何度もうなずいた。
「マルセルさん、ひげです」
「この花のひげがどうしました?」
「花ではなく、あなたのひげです」
「わしのひげも枯れましたかな」
「豆が咲いています」
マルセルが慌ててひげを拭い、三人の間に笑い声が広がった。開いたばかりの銀月花が風に揺れ、白い花びらから小さな露が一滴落ちる。それは黒ずんだ葉を伝い、汚染された土の上へ静かに染み込んでいった。




