第22話 王太子の愛妾という噂
第22話 王太子の愛妾という噂
その噂を最初に耳へ入れたのは、王宮ではなく、城下町のパン屋だった。エレナは朝の薬草市場から戻る途中、茶室で出す黒麦パンを受け取るため、石造りの小さな店へ立ち寄っていた。外では夜明け前に降った雪が軒下から落ち、店内には焼けた小麦と溶かしたバターの匂いがこもっていた。
「王太子殿下も、ずいぶん物好きよね。離縁された女を王宮へ囲うなんて」
奥の棚で丸パンを選んでいた二人の婦人は、エレナが入ってきたことに気づいていないらしい。一人は狐の毛皮がついた赤い外套を着ており、もう一人は買ったばかりの葡萄パンを紙袋の上から押し、柔らかさを確かめていた。店主は窯から鉄板を取り出す手を止めたが、婦人たちは声を小さくしなかった。
「でも、ただの愛妾ではないそうよ。王宮のお金で、お友達の商人から薬草を買っているのでしょう?」
「まあ、それでは殿下のお金を二人で分けているようなものではないの」
「茶師の資格もないと聞いたわ。香草を煮るくらいなら、うちの娘にもできますよ」
婦人たちは喉の奥で笑った。赤い外套の裾には溶けた雪が染み込み、床へ細い水の跡を作っている。エレナは腕に掛けた藤籠の持ち手を握り直し、胸元まで留めていた灰色の外套の釦を一つ外した。
店内が急に暑くなったわけではない。それでも首筋へ汗がにじみ、乾燥させた薄荷を詰めた籠の匂いが、いつもより鋭く鼻へ入った。何も聞かなかった顔で帰ることもできたが、それでは次に店へ来たとき、店主まで困らせることになる。
「娘さんは、どのようなお茶がお得意なのですか」
エレナが尋ねると、二人の婦人は同時に振り返った。赤い外套の婦人は口を半分開いたまま固まり、もう一人は葡萄パンを強く押しすぎたらしい。紙袋の中から、柔らかな実が潰れる音がした。
「エ、エレナ様……」
「もし薬草茶にご興味があるのでしたら、春から王宮茶室で一般向けの講習会を開きます。薬草を煮るところから始めますので、娘さんも参加できますよ」
「いいえ、娘は、その……家の仕事がございますから」
「そうでしたか。お忙しいのですね」
エレナは店主から黒麦パンを受け取り、代金を数えて卓上へ置いた。銅貨の一枚に蜂蜜がついており、指先が少し粘ついたので、店主が慌てて湿らせた布を差し出した。婦人たちはパンを選ぶふりをしながら棚の端へ寄り、互いの顔を見ようとしない。
「エレナ様、今日のパン代は結構です」
店主が低い声で言った。白い前掛けには小麦粉が積もり、額にも汗が浮かんでいる。エレナは布で指を拭いてから、銅貨を彼の手元へ押し戻した。
「いつも通り、お受け取りください」
「ですが、あんな話を店の中で……」
「噂を流したのは、店主さんではありません」
「それでも、止めるべきでした」
「次に同じ話を聞いたら、茶室の帳簿を見に来るようお伝えください」
「帳簿、でございますか」
「はい。近いうちに、誰でも見られるようにいたします」
エレナが店を出ると、空は低い雲に覆われていた。雪をかいたばかりの石畳には泥水が流れ、荷車が通るたび、車輪の脇から黒いしぶきが上がる。外套の裾へ泥が跳ねたが、エレナは立ち止まらず、薄荷と黒麦パンの入った籠を抱えて王宮へ戻った。
王宮の西門では、いつも声を掛けてくれる老衛兵が、今日は妙に深く頭を下げた。洗いすぎて色の抜けた手袋をはめ、槍の柄ばかり見ている。エレナが朝の挨拶をすると、老衛兵は二度ほど口を動かしたあと、ようやく声を出した。
「エレナ様、どうかお気になさらず」
「何をでしょう」
「いえ、何でもございません」
「では、気にしないことにいたします」
それ以上問いたださず門を通ったものの、回廊へ入ると、噂がパン屋だけのものではないと分かった。窓辺で話していた三人の貴婦人は、エレナの姿を見るなり会話を止めた。一人は扇を開いて口元を隠し、もう一人は強い薔薇の香油を残して反対側の廊下へ曲がった。
薬草茶室の前には、朝一番に届けられた予約取り消しの札が積まれていた。昨日までは二週間先まで埋まっていた予定表に、赤い線が何本も引かれている。昼の商人組合との懇談会、午後の伯爵夫人たちの茶会、夕方の宮廷楽師との試飲会まで取り消され、今日の予約は半分になっていた。
「お戻りでしたか。ちょうど迎えに行こうと思っていました」
リネットは白いシャツに紺色の仕事着を重ね、腰には染みのついた前掛けを巻いていた。髪を結ぶ青い紐は片方だけ緩み、右の編み髪が肩から半分ほどほどけている。彼女は予約札を隠そうとしたが、枚数が多すぎて前掛けの物入れには収まりきらなかった。
「全部、今朝届いたのですか」
「今日は急に都合が悪くなった方ばかりだそうです。王都中で同じ風邪でも流行ったのでしょうか」
「それなら医師組合へ知らせなくてはいけませんね」
「笑いごとではありません」
リネットは予約札を卓上へ投げた。札の角が木箱へ当たり、乾燥させていたカモミールの花が床へ二つ落ちる。拾おうとしてしゃがんだ彼女は、途中で手を止め、ぎゅっと唇を結んだ。
「奥様がどれだけ働いてきたか、何も知らないくせに」
「そうですね。知らないのでしょう」
「茶師の資格がないとか、商人と結託しているとか、殿下の愛妾だとか。好き勝手に言っています」
「愛妾ですか」
「そこに驚くのですか?」
「パン屋では、殿下が私を囲っていると言っていました。同じ噂でも、少しずつ形が違うのですね」
「そんなことを調べてどうするのです。怒ってください」
リネットは床の花を拾い上げたが、指先に力を入れすぎて、乾いた花びらを粉々にしてしまった。カモミールの甘い香りが、二人の間へふわりと広がる。エレナは籠から黒麦パンを出し、まだ温かさの残る一つを彼女へ差し出した。
「先に朝食をとりましょう」
「食べている場合ですか」
「空腹のままでは、怒ることにも力が要ります」
「私はもう怒っています」
「だからお腹が鳴っているのですね」
「これは腹の音ではありません。窓が鳴ったのです」
外には風もなく、窓掛けは動いていなかった。エレナが黒麦パンをもう少し近づけると、リネットはしばらく睨んだあと、それを受け取った。厚い皮へ歯を立てるとぱりっと音がし、中から麦と胡桃の香りが立つ。
「硬いです」
「今朝焼いたものですよ」
「怒っていると、何でも硬く感じるのです」
「便利な発見ですね。帳面に書いておきましょうか」
「書かないでください」
リネットがパンを噛んでいる間に、エレナは予約札を日付順に並べた。取り消した者の多くは、貴族夫人と王室御用商人だった。一般向け講習会や薬草農家との打ち合わせは取り消されていない。噂は王宮へ出入りする者たちの間を狙って広げられているらしい。
さらに、どの札にも「都合により」という同じ言葉が使われていた。筆跡は違うが、誰かに取り消しを勧められ、理由まで教えられたように見える。エレナが一枚ずつ裏返していると、リネットは残ったパンを勢いよく口へ詰め込み、両頬を膨らませた。
「新聞社へ抗議文を送りましょう」
「どの記事へ抗議するのですか」
「今日出た『王都新報』です。ここにあります」
リネットは流し台の下から折り畳まれた新聞を取り出した。濡れた布巾の隣へ隠していたため、端が湿り、印刷された文字が少しにじんでいる。見出しには『資格なき女茶師に流れる王室予算』とあり、エレナが幼い頃から付き合いのある薬草商会へ、通常の三倍の金額を支払ったと書かれていた。
「三倍ではありません。去年は凶作で、市場価格そのものが上がったのです」
「分かっています。茶室の人間なら全員知っています」
「でも、茶室の外の方は知りません」
「だから説明すればよいのです。殿下に頼んで、書いた記者を捕らえていただきましょう」
「記事を書いた者を捕らえても、読んだ人の記憶までは捕らえられません」
「では、私が一軒ずつ回ります。パン屋でも市場でも広場でも、奥様がどんな方か話してきます」
「何軒回るつもりですか」
「全部です」
「夕食までに戻れそうにありませんね」
「そこは心配するところではありません」
リネットは頬についたパン屑を袖で拭き、新聞をつかんだまま扉へ向かった。エレナは彼女のほどけた編み髪を後ろからつかむ。強く引いたわけではないが、リネットは足を止め、首だけを振り返った。
「髪を引っ張らないでください」
「先に結び直しましょう。そのままでは、王都中を回る前に全部ほどけてしまいます」
「髪などどうでもよいのです」
「どうでもよい髪を毎朝きれいに編んでいるのですか」
エレナは青い紐をほどき、乱れた小麦色の髪を三つに分けた。子どもの頃、妹の髪を結ったことはあったが、リネットの髪はそれより硬く、ところどころ短い毛が指へ刺さる。リネットは大人しく椅子へ座ったものの、膝の上では新聞を何度も折っていた。
「もし私が殿下の愛妾なら、それを否定する記事を出せば終わるでしょうか」
「終わります。殿下に否定していただけばよいのです」
「薬草商会との不正を否定したら?」
「それも終わります」
「では、資格がないことは?」
リネットの手が止まった。エレナは王立薬師院の資格を持っていない。薬師の仕事は病人を診察し、薬を処方することであり、薬草茶師という職そのものが公的な資格として認められていなかったからだ。
「それは、資格の制度がないだけです」
「記事には、そこまで書かれていません」
「ずるいです」
「はい。よく考えて書かれています」
エレナは編み直した髪を青い紐で結んだ。左右の長さを揃えたつもりだったが、右のほうが指一本分だけ短い。リネットは手鏡を見てすぐに気づいたものの、文句を言わず、新聞を卓上へ戻した。
「何をすればよいですか」
「倉庫から、昨年と今年の仕入れ帳をすべて持ってきてください」
「抗議文を書くのですか」
「いいえ。公開します」
リネットは椅子から立ち上がりかけ、今度はゆっくり座り直した。茶室では仕入れ先ごとの価格だけでなく、品質、輸送日数、廃棄量まで記録している。さらにエレナの調合帳には、誰にどの茶を出したか、どのような体調だったかまで細かく書かれていた。
「すべてとは、どこまでですか」
「仕入れ価格、輸送費、保管料、茶室の利用目的、調合の種類です。個人の体調については名を伏せます」
「調合まで公開したら、真似をされます」
「真似をして安全に使ってくださるなら、困りません」
「粗悪な薬草で真似をする者も出ます」
「それを防ぐため、品質の見分け方と注意事項も載せます」
「奥様が何年もかけて覚えた知識ですよ」
リネットの声が低くなった。エレナは乾燥棚から薄荷の束を一つ取り、黒ずんだ葉を選り分ける。朝の市場で買ったばかりのものは茎にまだ青い匂いが残り、指で触れると冷たさを感じた。
「隠したまま疑われるより、見せて確かめていただきましょう」
「でも、噂を流した者が喜ぶだけではありませんか」
「香りは隠せても、記録は隠してはいけません」
「私は、やはり腹が立ちます」
「それは隠さなくてもよいですよ。ただし、帳面へ茶をこぼさないでください」
リネットは何か言い返そうとして、卓上に置いていた自分の器へ目を向けた。先ほど一息に飲んだ茶が一滴、受け皿から仕入れ伝票の端へ落ちている。彼女は急いで布巾をつかみ、にじんだ部分を押さえた。
二人は一日をかけて帳簿を運び出した。倉庫の一番奥から出てきた古い帳面には鼠がかじった跡があり、三年前の仕入れ帳からは、押し花にしていた月桂樹の葉が落ちた。昼食として運ばれてきた鶏肉と豆のスープは作業台の隅で冷め、表面に白い脂の膜が張った。
「この商会は、三年前より値段が下がっています」
リネットはスープへ硬くなったパンを浸しながら言った。朝から腹を立て続けて疲れたのか、椅子の背にもたれ、片足だけ靴を脱いでいる。靴下の親指には小さな穴が開いていたが、本人はまだ気づいていなかった。
「共同輸送へ切り替えたからです。空の荷馬車を減らした分、輸送費が下がりました」
「こちらは高くなっています」
「乾燥所を新しくした商会です。値段は上がりましたが、廃棄量が半分になっています」
「安いものを買えばよいわけではないのですね」
「安く買って半分捨てるより、高く買って全部使うほうが、支払うお金は少なくなります」
「これを記事にすれば、皆にも分かります」
「記事ではなく、帳簿そのものを見てもらいましょう」
夕方になると、アルヴェインが茶室へ入ってきた。黒い上着の上に深緑の外套を着たままで、肩には細かな雪が残っている。いつもなら従者へ預ける革手袋も握ったまま、散らかった卓と床に積まれた帳面を見渡した。
「引っ越しでもするのか」
「帳簿を公開する準備です」
「噂の件なら、私が対処する」
「記者を捕らえますか」
アルヴェインは返事をする前に、作業台の隅で冷たくなったスープを見つけた。匙を入れると脂の膜が破れ、下から豆が三粒浮かび上がる。彼は眉を寄せ、エレナとリネットを交互に見た。
「二人とも、これを昼食にしたのか」
「パンも食べました」
リネットが答えた。
「朝から黒麦パンを二つ食べています」
「それは私の朝食も含まれていますね」
「エレナ様が食べなかったからです」
「話をそらすな。温かいものを運ばせる」
アルヴェインが従者へ夕食を頼むと、リネットは「殿下がいらっしゃると食事が豪華になりますね」と呟いた。エレナは聞こえないふりをしたが、アルヴェインには届いたらしい。彼はわずかに口元を上げたあと、新聞を手に取った。
「私は君を寵愛している。その部分だけは、完全な嘘とも言えない」
「殿下」
リネットが目を丸くした。
「ですが、愛妾として王宮へ置かれた覚えはございません」
エレナが言うと、アルヴェインは新聞を四つ折りにした。紙の擦れる音が妙に大きく響き、窓の外では雪かきの木べらが石畳を削っている。彼は卓上の仕入れ帳へ視線を移し、端に付いた古い茶染みを指でなぞった。
「公式に否定する。君へ支払われた報酬も、茶室へ使われた予算も、王室の監査を受けていると発表させる」
「それだけでは、殿下が私をかばったと思われます」
「事実なのだから問題ない」
「事実を、疑われている者の近くにいる方が話しても、信じない人はおります」
「だから帳簿を公開するのか」
「はい。見たい方には、元の伝票まで確認していただきます」
アルヴェインはしばらく黙っていた。エレナは、その指が折り畳んだ新聞の角を何度も押していることに気づいた。怒鳴ることのない男だが、紙の角は指先の下で白く潰れていた。
「調合記録まで公開する必要はない」
「仕入れた薬草を、何のために使ったのか示すためです」
「君が積み上げてきたものだ」
「誰にも見せなければ、私が勝手に値段をつけ、勝手に使ったという話を否定できません」
「奪われるかもしれない」
「知識は、写されても私の中からなくなりません」
食事が運ばれてきたため、話はいったん止まった。大皿には香草を詰めて焼いた鶏肉、温かな根菜のスープ、柔らかな白パンが盛られている。リネットは靴を脱いでいたことを思い出して慌てて履き直し、その拍子に椅子へ膝をぶつけた。
「痛っ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。殿下の前で靴を脱いでいたことのほうが問題です」
「仕事が終わったあとなら構わない。だが靴下の穴は繕ったほうがよい」
リネットは両足を椅子の下へ隠した。張りつめていた空気がわずかに緩み、エレナは鶏肉を切り分ける。焼けた皮からローズマリーと肉汁の匂いが立ち、朝から冷えたものばかり口にしていた腹が、遅れて空腹を訴えた。
翌朝、王宮薬草茶室の前には長い卓が並べられた。仕入れ帳、納品書、輸送費の記録、調合の目的をまとめた写しが、誰でも読めるよう年代順に置かれている。王室会計官と薬師院の監査官も立ち会い、原本と写しに違いがないことを確認した。
最初に訪れたのは、例の新聞を書いた記者だった。痩せた若い男で、茶色い外套の袖口は擦り切れ、インクで黒くなった指を何度も上着へ隠している。背後には商人や貴婦人、城下町の住民まで並び、廊下は人いきれと濡れた外套の匂いで満ちていた。
「本当に、すべて見せるのですか」
記者が尋ねた。
「個人の名前と病状を除き、すべてお見せします」
「帳簿を書き替えた可能性は?」
「納品した商会にも記録がございます。王室会計院には、支払いごとの写しがあります。三つを比べてください」
「あなたの友人の商会ばかりではありませんか」
「長く取引をすれば、顔と名前を覚えます。私はそれを友人と呼びますが、値段まで友人扱いしたことはございません」
記者は帳簿をめくった。安い薬草を断った理由、輸送中に湿気を含んだ茶葉を返品した記録、薬草農家が病に倒れた年だけ前払いした代金まで残されている。前払い分は翌年から三年かけて納品され、すでに全額分を受け取っていた。
「これは、身内への利益供与ではないのですか」
「その農家が廃業すれば、銀月花の種が失われるところでした。王室会計官の許可を得ております」
「農家を救うために、王室の金を使ったと?」
「いいえ。今後も銀月花を仕入れるために、栽培を続けてもらいました」
「同じことでは?」
「慈善であれば、返していただく必要はありません。これは三年分を先に支払った契約です」
そばにいた王室会計官が契約書を示すと、記者は黙り込んだ。後ろに並んでいた商人たちも帳簿を覗き込み、一人が「この輸送費では、商会側の利益が少なすぎる」と声を上げた。別の商人が「共同便なら妥当だ」と答え、やがて廊下のあちこちで数字を確かめる声が始まった。
昼を過ぎる頃には、不正を示す記録は一つも見つからないことが明らかになった。それどころか、茶室の廃棄量は他の王宮厨房より少なく、薬草一杯当たりの費用も予算を下回っていた。監査官は正式な報告書を作り、王室会計官とともに署名した。
「不正な支出は確認されませんでした」
その言葉が告げられると、見物人の間から安堵した声が上がった。パン屋で噂をしていた赤い外套の婦人も群衆の後ろにおり、エレナと目が合うと、持っていた紙袋で顔を隠した。袋からは押し潰された葡萄パンの甘い匂いが漂っていた。
「エレナ様、これで終わりましたね」
リネットは朝から立ち続けてむくんだ足を、卓の下で交互に浮かせていた。今日は穴のない厚手の靴下を履いているらしく、靴の踵から赤い毛糸が少しだけ見えている。エレナは返事をする前に、廊下の奥へ視線を向けた。
人垣から離れた柱のそばに、クラリッサが立っていた。黒い外套に銀色の襟飾りをつけ、帳簿を見るでもなく、エレナの様子だけを眺めている。目が合うと、彼女は挨拶もせず、静かに背を向けた。
その夜、アルヴェインは執務室で公開された帳簿の写しを読み返していた。机には夕食として運ばれた牛肉の煮込みが置かれているが、湯気はもう消え、表面の脂が蝋のように固まっている。窓の隙間から入った風で燭台の炎が揺れ、散らかった書類の端を持ち上げた。
「不正の噂は晴れました」
側近のセドリスが報告した。眼鏡の位置を直しながら、帳簿公開に立ち会った監査官の署名を机へ置く。アルヴェインはそれを一度確認しただけで、冷めた煮込みの皿を端へ押した。
「早すぎる」
「何がでございますか」
「噂の広がり方だ。昨日の朝にはパン屋の客まで知っていた。王宮内の話だけでは、ここまで早く広がらない」
「新聞が出る前から、同じ話が広められていたということですか」
「しかも三つの事実が使われている。エレナが公的資格を持たないこと、商人と親しいこと、私が彼女を信頼していることだ」
「嘘ではないからこそ、否定しにくい」
「そうだ。さらに相手は、エレナが記者を捕らえろとも、商人を罰しろとも言わないと知っていた」
アルヴェインは窓辺へ立った。眼下の回廊では、使用人が夜の雪に備えて窓板を閉じている。遠くにある薬草茶室の明かりだけはまだ消えず、二つの影が卓の周りを動いていた。
「怒りに任せて反撃すれば、愛妾が王太子の権力を使ったと書ける。黙っていれば、不正を認めたと書ける。帳簿を公開すれば、調合と仕入れ先の情報を得られる」
「どの道を選んでも、相手に利益がある」
「エレナが帳簿を開くところまで読まれていた」
セドリスは眼鏡を外し、布でゆっくり拭いた。机の上には食べかけの林檎が一つあり、切り口が茶色く変わっている。彼は林檎へ手を伸ばしかけたものの、アルヴェインの横顔を見て、その手を引いた。
「心当たりがおありですか」
「北方三国の会談で、彼女の働きを最も近くから見ていた者がいる」
「クラリッサ公爵令嬢」
アルヴェインは答えず、薬草茶室の窓を見つめた。やがて明かりが一つ消え、リネットらしい小柄な影が、書類の束を抱えて廊下へ出てくる。その後ろから現れたエレナは、窓を閉めたあと、鍵を二度確かめていた。
「証拠がないうちは動くな」
「エレナ様へはお知らせしますか」
「今は知らせない。彼女は自分を狙った相手にも茶を出そうとする」
「それがエレナ様のお強さでは?」
「同時に、傷つける方法でもある」
アルヴェインは冷めた煮込みを一匙だけ口へ運んだ。香草の匂いは残っていたが、牛肉の脂が舌へ重くまとわりつく。彼は匙を置き、噂の出所を調べるよう命じた。
その頃、エレナは茶室の裏口で、公開を終えた帳簿を倉庫へ戻していた。腕には重い木箱が食い込み、若草色の仕事着の袖口には、古い帳面から落ちた黒い埃がついている。リネットは先を歩きながら、今日だけで五回目になる勝利の鼻歌を歌っていた。
「噂を流した人も、今頃は何も言えませんね」
「そうでしょうか」
「不正がなかったと証明されたのですよ」
「はい。けれど、私たちがどこから何を仕入れているか、王都中へ知られました」
リネットの鼻歌が止まった。二人は倉庫の前で足を止め、同時に木箱を見下ろす。蓋の上には、公開された調合記録の写しが載っていた。
「まさか、それが目的だったのですか」
「分かりません」
「また分からないのですね」
「分からないことを、分かったふりはできません」
エレナは倉庫の鍵を開けた。中から乾燥薬草と古い紙、それに鼠よけとして置かれた月桂樹の強い匂いが流れ出す。棚の一番上には、北方三国の会談で使った三種類の茶葉が、まだ半箱ずつ残っていた。
「ただ、次に何かが起きたとき、今日の帳簿と繋がるかもしれません」
「では、どうしますか」
「もう一冊、記録を作りましょう」
「まだ増やすのですか」
「噂が始まった日、広がった場所、誰がどの言葉を使ったかを書きます」
リネットは大きなため息をついたが、すぐに作業台から新しい帳面を持ってきた。今度の表紙には汚れも蜂蜜の染みもなく、青い布がきれいに張られている。彼女は最初の頁を開き、炭筆の先を丁寧に削った。
「題名は何にしますか」
「そうですね」
エレナは少し考え、昼間にクラリッサが立っていた柱を思い出した。紫香油の匂いは人混みのなかでも消えず、彼女が去ったあとまで残っていた。エレナは青い表紙へ手を置き、静かに答えた。
「見えない香りの記録、と書いてください」
リネットの炭筆が紙の上を走った。王宮の外では、積もった雪の上を誰かの馬車が通り、固い車輪の跡を残していく。その行き先を、まだ二人は知らなかった。




