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第19話 春告げの口づけ

第19話 春告げの口づけ


 春の風が、薬草園を静かに揺らしていた。


 王宮の裏庭に広がる薬草園は、柔らかな夕陽に包まれている。


 薄荷の青い香り。

 乾いた土の匂い。

 白い花弁を揺らす甘い風。


 そして、その中央。


 銀月花が咲いていた。


 一面に。


 淡い銀色の花々が、夕暮れの光を受けて静かに輝いている。まるで月光を閉じ込めたような柔らかな色だった。


 エレナは立ち尽くした。


「……咲いた」


 声が震える。


 何度育てても駄目だった花。


 荒れた場所では育たず、人の感情に敏感で、少しでも空気が乱れれば葉を閉じてしまう繊細な薬草。


 それが今、満開だった。


 風が吹く。


 銀月花がさらさらと揺れ、ほのかに甘い香りが広がった。


 その時、背後から足音が近づく。


「見事だな」


 アルヴェインだった。


 エレナは振り返る。


 夕陽を背にした彼は、どこか柔らかい表情をしていた。


「殿下……見てください、本当に咲いたんです」


「ああ」


 彼は銀月花を見渡し、静かに息を吐く。


「これほどの数は初めて見た」


 エレナは花弁へそっと触れた。


「銀月花は、とても弱い花なんです」


「知っている」


「強い香りや荒れた空気の近くでは育ちません。怒鳴り声や不安が続くだけでも駄目になることがあります」


 彼女は少し笑う。


「だから昔は、咲かせるのが難しくて」


 フォルディア家の温室を思い出す。


 あの頃、自分は必死だった。


 皆が争わないように。

 疲れ切らないように。

 少しでも穏やかでいられるように。


 誰にも気づかれないまま。


 エレナは目を細めた。


「でも今は咲いています」


「つまり」


 アルヴェインが静かに言う。


「この場所が穏やかで安全だということだな」


 エレナは頷いた。


「はい」


 その返事を聞いたアルヴェインは、ふっと笑った。


 どこか安心したような笑みだった。


 夕陽が沈み始める。


 空は薄紫へ変わり、銀月花がより淡く輝き始めた。


 まるで夜を待っているようだ。


 アルヴェインはゆっくり薬草園を歩いた。


 エレナも隣へ並ぶ。


 土を踏む音だけが静かに続く。


 やがて彼はぽつりと言った。


「私は昔から、息をするのが下手だった」


 エレナは目を瞬かせる。


「殿下……?」


「王族だからな」


 苦笑。


「幼い頃から、人の顔色ばかり見て育った。何を言えば得か、誰を怒らせれば危険か。そんなことばかり考えていた」


 夕風が彼の黒髪を揺らす。


「誰も本音を言わない。笑っていても腹の底は違う」


 その声音には、長い疲労が滲んでいた。


「だから気づかなかった」


 アルヴェインは銀月花へ視線を向ける。


「人が安心できる空間というものを、私は知らなかったんだ」


 エレナの胸が静かに痛んだ。


 彼は王太子だ。


 誰より強く、

 誰より冷静に、

 立っていなければならない人。


 だからこそ、休めなかったのだろう。


 アルヴェインは小さく笑った。


「だが君といると、不思議と肩の力が抜ける」


 エレナの呼吸が止まる。


 彼は続けた。


「君が整えてくれた空気の中で、私は初めて安心して息ができる」


 夕風が吹いた。


 銀月花が一斉に揺れる。


 甘く優しい香りが、二人の間を通り抜けていった。


 エレナは何も言えなかった。


 胸の奥が熱い。


 苦しいくらいに。


 アルヴェインは立ち止まり、静かに彼女を見た。


「エレナ」


「……はい」


「私は君を必要としている」


 真っ直ぐな声だった。


 打算も命令もない。


 ただ、静かな本心。


「茶師としてだけではない」


 エレナの指先が震える。


「君自身を、大切にしたいと思っている」


 涙が滲んだ。


 そんな言葉を、自分が向けられる日が来るなんて思わなかった。


 昔はずっと、“役に立つこと”だけが価値だと思っていた。


 役に立てなくなれば、捨てられるのだと。


 だから必死に誰かを支え続けた。


 けれど今、この人は。


 何かをしてくれるからではなく、

 自分自身を見てくれている。


 エレナは唇を噛んだ。


 涙が零れそうになる。


「……私は」


 声がうまく出ない。


 アルヴェインは急かさなかった。


 ただ静かに待っている。


 その優しさが、余計に涙を溢れさせた。


「どうして……」


 涙が頬を伝う。


「どうして、そんなふうに……」


 アルヴェインは困ったように笑った。


「君がずっと、そうしてきたからだろう」


「え……」


「君は誰かが安心できるように、ずっと気を配ってきた」


 彼はそっとエレナの涙を指で拭う。


 温かい手だった。


「だから今度は、君が安心していい」


 その瞬間、堪えていたものが崩れた。


 エレナは泣いた。


 静かに。

 子どものように。


 苦しかったこと。

 認められなかった日々。

 捨てられた夜。


 全部が涙になって零れていく。


 アルヴェインは何も言わず、ただそばにいた。


 銀月花が風に揺れる。


 淡い香りが二人を包み込む。


 やがてエレナが涙を拭った時、アルヴェインはそっと彼女の額へ口づけを落とした。


 とても静かな口づけだった。


 誓うように。

 壊れ物へ触れるように。


 エレナは目を閉じる。


 胸の奥が、じんわり温かい。


 もう、自分は一人ではないのだと。


 春の風が吹き抜ける。


 銀月花は夜の気配の中で、優しく咲き続けていた。



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