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Laplace's demon  作者: Norn
8/11

第8話:夕陽の温度

 翌朝。

 窓から朝日が差し込む中、ロザーリエは静かに目を覚ます。

 周囲で横たわっている人数は少なかった。


 耳を澄ませると、外から子供たちの声が聞こえる。

 楽しそうな声だ。

 ロザーリエはゆっくり立ち上がると、避難所の出入り口から外を見る。


 「次は、この絵本にしよっか」

 その視線の先。

 手に絵本を持ったシオンが、子供たちに囲まれている。

 読み聞かせをしているようだ。


 「あれは……」

 その本のタイトルには見覚えがあった。


 父から読み聞かせてもらった、分厚い本。

 ハイドラが登場する伝承の物語。

 しかし、シオンが持っているのは絵本のようだ。


 それを聞く子供たちの瞳の中で、物語が生きているかのようだった。

 ロザーリエの脳裏にも、かつての記憶が浮かぶ。

 暖炉の火。父の声。母の笑顔。

 幸せだった日々が、遠い鐘の音のように蘇っていた。


 「それぞれの首が勇者をギロリと睨んで……。

迫力が足りないかな? 玲司、バイオリンで雰囲気に合った曲弾いて」

 近くに立っていた玲司は、静かに息を吐いた。


 「またか……」

 「海外に出たのも、それが理由じゃない」

 玲司は持っていた荷物の中から、バイオリンを取り出す。


 そっと構え、静かな入りから弾き始める。

 周囲が、まるで絵本の中の世界になったかのように。


 バイオリンの音色が、朝の空気へ溶けていく。

 玲司は決して上手く弾こうとしているわけではない。

 それでも、静かに流れる旋律は子どもたちの想像を広げるには十分だった。


 「そして勇者は、恐ろしい怪物の前へ立ちました」

 シオンが絵本をめくる。

 子どもたちは息を呑む。


 ページには、無数の首を持つ怪物が描かれていた。

 子供たちの小さな声が漏れる。

 シオンは少し笑った。


 「でもね、このお話で一番強いのは怪物じゃないの」

 「えっ?」

 子どもたちが顔を上げる。


 「怖くても前へ進んだ勇者よ」

 その言葉に、ロザーリエの胸が僅かに揺れた。

 怖くても前へ進む。

 その言葉は今の自分には遠かった。


 進んでいるつもりだった。

 だが本当は、失ったものから目を逸らせないまま歩いているだけなのかもしれない。


 「それでそれで!?」

 子どもたちが身を乗り出す。

 シオンは楽しそうに続きを読み始める。


 バイオリンの音色、子どもたちの笑い声、絵本を読むシオンの声。

 それらが混ざり合い、避難所の外だけは、まるで戦争など存在しない世界のように見えた。


 その時、ロザーリエの視線が、ふとシオンへ向く。

 シオンは変わらず笑っている。

 子どもたちも楽しそうだ。


 何も変わらない。

 何も――

 変わっていないように見えた。


 だが、ほんの一瞬だけ。

 シオンの首筋を、黒い筋のようなものが走った気がした。


 瞬きをした時には消えている。

 ロザーリエは目を細めた。


 「……?」

 違和感。

 だが、それが何なのかまでは分からない。


 遠くでは子どもたちの歓声が上がる。

 シオンも笑っている。

 だからこそ、その違和感は朝の光の中へ静かに溶けていった。


 「お兄ちゃん待て〜!」

 ロザーリエは声がした方を振り返る。

 自身より幼い少女が、男子を追いかけている。

 きっと兄妹なのだろう。


 あっという間に彼らはロザーリエのもとまで駆けてきた。


 「そこのお姉ちゃん、ちょっと手伝って!」

 走ってきた兄は息を切らしながら、ロザーリエの後ろに隠れた。


 「お兄ちゃんずるい!」

 後から追いついた妹は、ロザーリエの周りをぐるりと周り、兄へ向かって走る。

 兄も負けじと反対側へ回り込む。


 その時、妹の足が縺れる。

 視界が傾き、地面が急速に迫った。

 しかし、彼女を待っていたのは硬い地面の感触ではなかった。


 細い腕が、その身体を支えていた。


 「……危ないですわ」

 ロザーリエだった。


 妹は目をぱちぱちと瞬かせる。

 何が起きたのか理解できていないらしい。

 ロザーリエもまた、自分の行動を理解しきれていなかった。


 気づけば身体が動いていた。

 ただ、それだけだった。


 妹はゆっくりと体勢を立て直す。

 そして顔を上げた。


 「助けてくれたの?」

 「転ばれたら困りますもの」

 少しだけぶっきらぼうな返答。

 本当は何と言えばいいのか分からなかった。


 妹は数秒きょとんとしていたが、やがて満面の笑みを浮かべる。


 「ありがとう!」

 その言葉に、ロザーリエは僅かに目を見開いた。


 感謝されるようなことだろうか。

 転びそうな者を支える。

 ただそれだけのことだった。


 だが、妹は嬉しそうだった。

 まるで宝物でも貰ったかのように。


 「また俺の勝ちぃ!」

 兄は得意げだった。


 「お兄ちゃんもお姉ちゃんに隠れなかったら負けだった!」

 「でも転んでないもんねー!」

 「むー!」

 二人は言い合いを始める。


 ロザーリエは呆れたようにその様子を見つめた。

 理解できないけれど、不思議と嫌ではなかった。


 その時だった。

 妹が突然ロザーリエの手を掴む。


 「お姉ちゃんも来て!」

 「……は?」

 予想外の言葉に、ロザーリエは固まった。

 妹は構わず手を引く。


 「鬼ごっこ!」

 「ちょ、ちょっとお待ちなさい!」

 慌てるロザーリエ。

 だが兄妹は楽しそうに笑っている。


 遠くでは、その様子を見ていたシオンが小さく微笑み、玲司は思わず笑う。


 「何がおかしいんですの」

 「お前もそんな顔できるんだなって」

 「どんな顔ですの」

 「少なくとも戦ってる時の顔じゃない。 優しいんだな」


 ロザーリエは眉をひそめる。

 だが反論しようとして、ふと気づく。

 いつの間にか、自分は子どもたちの輪の中に立っていた。


 ほんの少し前までなら

 考えもしなかったことだった。




 朝から夕方にかけて、ロザーリエは遊びに付き合わされた。

 慣れない運動量に息を切らしながら、玲司とシオンのもとへ戻ってくる。


 「疲れましたわ……」

 「お疲れ様」


 シオンが優しく微笑む。

 近くでは子どもたちがまだ元気に走り回っていた。


 ロザーリエは近くの箱へ腰を下ろす。

 足が重い。

 戦闘とは違う疲労だった。


 「毎日あれをやっているんですの……?」

 「毎日は流石に無理ね」

 シオンは苦笑する。


 「でも、あの子たちは元気だから」

 「元気すぎますわ」

 思わず本音が漏れる。

 その言葉にシオンが小さく笑った。


 ロザーリエは少しだけ眉をひそめる。

 何がおかしいのか分からなかった。


 「でも」

 シオンが子どもたちへ視線を向ける。


 「楽しそうだったわよ」

 「誰がですの」

 「ロザーリエちゃん」


 即座に否定しようとして、言葉が止まる。

 シオンは続けた。


 「朝よりずっと良い顔をしていたもの」

 ロザーリエは視線を逸らす。

 認めたくなかった。

 だが、完全には否定できなかった。


 兄妹と遊んでいた時。

 ほんの少しだけ、何も考えない時間があった。

 父や母のことも、戦争のことも、宇宙外生命体のことも。


 忘れていたわけではない。

 それでも、考えずに済んでいた。

 そんな自分を認めることに、少し罪悪感があった。


 「……私は」

 ロザーリエは小さく呟く。


 「楽しんでいて良い立場ではありませんわ」

 シオンの表情が少しだけ柔らかくなる。


 「どうして?」

 「どうして、ですって……?」

 ロザーリエは戸惑う。


 まるで、そんなことを考えたこともないと言われたようだった。

 シオンは静かに言った。


 「亡くなった人を想うことと、自分が笑うことは別よ」

 ロザーリエの肩が僅かに揺れる。


 「そんな簡単な話ではありませんわ」

 「ええ」

 シオンは頷く。


 「簡単じゃないわ」

 否定しなかった。

 ただ、穏やかな声で続ける。


 「それでもね」

 夕陽が差し込む。

 橙色の光がシオンの横顔を照らしていた。


 「あなたのお父さんとお母さんは、きっと」

 そこで一度言葉を区切る。


 「あなたが泣き続けることより、笑える日が来ることを願うと思うの」


 ロザーリエは何も答えられなかった。

 胸の奥が少し痛む。

 その言葉を、受け入れたい自分がいたからだった。


 遠くでは子どもたちの笑い声が響いている。

 避難所は相変わらず粗末だった。

 世界は壊れたままだった。

 それでもこの場所だけは、ほんの少しだけ温かかった。

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