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Laplace's demon  作者: Norn
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第6話:残された灯火

 夜は、まだ完全には明けきっていなかった。

 灰色の空の下を、三つの影が歩いている。


 瓦礫の散乱した道路、崩れた建物、焼け跡。

 どこを見ても、世界は壊れたままだった。


 その中を、ロザーリエは無言で歩いている。


 足音だけが、静かに響く。

 背後には玲司、さらにその後ろをシオンが歩いていた。


 会話はない。

 何を話せばいいのか、誰にも分からなかった。


 ロザーリエは前だけを見る。


 人の気配を感じる。

 だが、振り返らない。


 「……ねえ」

 最初に口を開いたのは、シオンだった。

 柔らかな声。


 「少し休みましょうか」

 ロザーリエは立ち止まらない。


 「必要ありませんわ」

 即答だった。

 その声音は冷たいわけではない。


 ただ、慣れている声だった。

 休まず歩くことに。


 シオンは少しだけ困ったように笑う。

 「そう言うと思った」


 玲司が肩をすくめる。

 「母さん、この人はずっとこんな感じだ」

 「この人ではありませんわ」


 ロザーリエから、間髪入れずに返ってくる。

 そのやり取りに、玲司が少しだけ笑う。

 シオンも、小さく笑う。

 ロザーリエは眉を寄せる。


 「……何ですの」

 「いや、ちゃんと会話してくれるんだなって」


 その言葉にロザーリエは視線を逸らす。


 答えない。

 だが、その沈黙は以前より少しだけ柔らかかった。


 風が吹き、遠くで何かが崩れる音がした。

 それでも、三人の足は止まらない。


 一時間の時が過ぎた頃。

 玲司が口を開いた。


 「……腹減ったな」

 「あの時食べたでしょう?」

 シオンが呆れたように言う。


 「成長期だ」

 「便利な言葉ね、それ」

 二人のやり取りを、ロザーリエは少し前を歩きながら聞いていた。


 不思議な感覚だった。

 会話が続いている。

 それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ落ち着かない。


 玲司がふと振り返る。


 「ロザーリエは?」

 「何がですの?」

 「腹減ってないのかって」


 ロザーリエは少し考える。

 空腹はある。

 だが、慣れてしまっている。


 「……平気ですわ」

 「平気じゃない言い方のようだが」

 玲司が即座に返す。

 ロザーリエは眉を寄せる。


 「何ですの、その決めつけは」

 「何だか顔色が悪い」

 「元からですわ」


 「それで押し通すのは、無理があるな」

 その言葉に、ロザーリエは小さくため息を吐いた。

 その様子を見て、シオンがふっと笑みを零す。


 「仲良くなったわね」

 「なってませんわ」

 「なってない」


 二人の声が重なる。

 数秒の沈黙。


 「今のはちょっと面白かっただろ」

 「どこがですの」

 ロザーリエは不満そうに言う。

 だが、その声音には以前ほどの硬さがなかった。


 歩きながら、シオンが小さな包みを取り出す。


 「はい、これ」

 差し出されたのは、小さく割った乾パンだった。

 ロザーリエは目を瞬かせる。


 「……私は」

 「遠慮しないの」


 やわらかな声だった。

 「こういう時、一人だけ我慢する癖つけちゃ駄目よ」


 ロザーリエは言葉に詰まる。

 その言葉が、妙に胸へ刺さる。

 かつて、自分にもそう言ってくれる人がいた。


 暖炉の前、優しい声、柔らかな手。

 一瞬だけ、記憶が胸を掠める。

 ロザーリエは静かに乾パンを受け取った。


 「……ありがとうございます」

 小さな声だった。

 シオンは微笑む。


 「どういたしまして」

 その時だった。


 玲司が足を止める。


 「……あれ」


 視線の先。

 崩れた建物の陰に、何かが見える。


 小さな影が二つ。

 ロザーリエも視線を向ける。


 そして――

 その場にいた子どもたちを見つける。


 最初に動いたのは、玲司だった。

 「……子ども?」


 ゆっくり近づく。

 すると、その影がびくりと震えた。


 瓦礫の奥で、幼い兄妹が身を寄せ合っていた。


 兄は十歳にも満たない。

 妹はさらに幼い。

 汚れた毛布に包まり、怯えた目でこちらを見ている。


 逃げる力すら残っていないようだった。

 シオンが息を呑む。


 「こんなところに……」


 兄の方が妹を庇うように抱き寄せる。

 その小さな仕草が、あまりにも必死だった。


 ロザーリエは、その場で立ち止まる。

 胸の奥が、ゆっくりと痛み始める。


 視線を逸らせない。


 幼い少女の震える肩、怯えた瞳。


 それが――

 かつての自分と重なる。


 壊れた天井、血の匂い、冷たくなっていく身体。


 呼吸が浅くなる。

 ロザーリエの指先が、わずかに震えた。

 玲司はしゃがみ込み、できるだけ優しい声を作る。


 「大丈夫だよ。俺たちは――」


 その瞬間。

 妹の方が小さく怯えた。

 視線は玲司ではない、ロザーリエへ向いている。


 ロザーリエの足が止まる。

 当然だった。


 自分は、恐れられる側だ。


 避難所でもそうだった。

 人ではないもの。


 悪魔。


 その言葉が、まだ胸に残っている。

 ロザーリエは静かに目を伏せる。


 だが、次の瞬間。

 妹が小さく咳き込み、苦しそうに身体を丸める。

 シオンが慌てて駆け寄った。


 「熱がある……」

 兄の顔が強張る。

 「ご、ごめんなさい……」


 謝るように言う。

 その声が、妙に刺さった。


 どうして、この子は謝っているのだろう。

 何を悪いと思ったのだろう。

 ロザーリエは唇を噛む。


 胸の奥で、何かが軋む。

 自分は知っている。


 泣きたいのに泣けない感覚を。

 助けてほしいのに、声にできない感覚を。


 ロザーリエはゆっくりと歩み寄る。


 兄の身体が強張る。

 それでも、止まらない。

 そっと、自分が羽織っていた布を外す。


 そして、震える妹の肩へ静かに掛けた。

 妹が目を見開く。


 ロザーリエは目を合わせない。

 ただ、小さく呟く。


 「……寒いでしょう」


 それだけだった。


 優しい言葉ではない。

 慰めでもない。


 けれど、その声音はどこまでも静かだった。

 兄が戸惑ったようにロザーリエを見る。


 「お姉ちゃん……?」


 ロザーリエの呼吸が、一瞬止まる。


 その呼び方が、胸の奥へ深く落ちる。

 ロザーリエはすぐに視線を逸らした。


 「……そう呼ばれるような者ではありませんわ」


 小さな声。

 だが、その言葉はどこか弱かった。


 シオンは、その様子を静かに見つめていた。

 何も言わない。

 ただ、少しだけ優しく微笑む。


 その視線に気づき、ロザーリエは居心地悪そうに顔を背けた。


 風が吹く。

 壊れた世界を、静かに抜けていく。


 その中で。

 ロザーリエだけが、胸の奥に残る痛みから目を逸らせずにいた。




 朝焼けが近づいていた。

 灰色だった空に、わずかに赤が混ざり始めている。


 ロザーリエたちは静かに進んでいた。


 兄妹は玲司とシオンの間を歩いている。

 妹は、ロザーリエが掛けた布を小さく握り締めていた。


 その様子を見ないようにしながら、ロザーリエは少し前を歩く。


 「次の避難所まで行けば、きっと大丈夫よ」


 シオンが優しく言う。

 兄は小さく頷いた。


 玲司が周囲を見回しながら呟く。


 「……静かすぎるな」


 その言葉に、ロザーリエの足がわずかに止まる。


 風の流れが変わっていた。

 嫌な静けさ。

 肌の奥を撫でるような感覚。


 ――来る。


 ロザーリエが顔を上げる。

 その瞬間だった。


 雲の向こうで、何かが蠢く。

 白い影。

 一つではない。


 空そのものが裂けるように、複数の光がゆっくりと姿を現す。

 兄妹が息を呑む。

 玲司も言葉を失う。


 それは生物というにはあまりにも異質だった。


 輪郭が定まらない。

 空に浮かんでいるだけで、世界が歪んで見えた。


 そして地上でも。


 建物の影から、複数の人影や異形の存在がゆらりと立ち上がる。


 腕が異様に長い。

 顔の半分が崩れている。


 融合体だ。


 シオンが兄妹を抱き寄せる。

 玲司が歯を食いしばる。


 「またか……!」


 融合体の一体が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。


 濁った瞳。

 だがその奥には、

 微かに人間だった痕跡が残っている。


 ロザーリエは、その光景を見つめる。

 守らなければ、この子たちを。


 これ以上――

 失わせてはいけない。


 ロザーリエは一歩前へ出る。

 風が吹き、白銀の髪が揺れる。

 その背中を、玲司が見つめる。


 小さな身体。


 なのに、まるで一人で世界を止めようとしているようだった。


 「ロザーリエ――」


 玲司が声を掛ける。

 だが、ロザーリエは振り返らない。


 ただ静かに、前を見据えていた。


 空には異形。

 地には融合体。

 逃げ場など、どこにもない。


 それでも。

 ロザーリエは小さく呟く。


 「……大丈夫ですわ」


 その声は、誰に向けたものだったのか。


 自分自身か。

 それとも、背後にいる者たちか。


 次の瞬間、融合体たちが一斉に動き出した。

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