第5話:それでも、彼女は歩き続ける。
扉を抜けた瞬間、音が変わった。
建物の中にあった人の気配が、背後に遠ざかる。
外は、妙に静かだった。
風が吹いている。
だが、それだけだ。
ロザーリエはゆっくりと歩みを進める。
地面には、瓦礫と黒く焦げた跡。
遠くの建物は崩れ、煙が細く立ち上っている。
――来る。
理由は分からない。
けれど、確信だけがあった。
次の瞬間、空が光り輝く。
一体ではない。
二体でもない。
生きる現象そのものが、次々に宙を漂う。
それに加え、生物として不自然な形の何かが現れる。
共通しているのは、こちらを見ているということだった。
ロザーリエの足が止まる。
数が多い。
十……いや、それ以上。
思わず、息が浅くなる。
(……こんなに)
一歩、後ずさる。
だが、その瞬間。
背後にある建物の存在を思い出す。
スープの温もりが、まだ手に残っている気がした。
ロザーリエはゆっくりと息を吸い、震えを押し込める。
「……来ないでくださいまし」
願いにも近い、小さな声。
だが――
一つの光が、一直線に迫る。
ロザーリエの思考が先に動く。
来ないで。
その瞬間。
虚空そのものが発現された。
そのまま、飛び込んできた個体を呑み込んだ。
何もなかったかのように消える。
だが、それで終わらない。
他の個体が同時に動き出し、四方から迫る。
――数が多いな。
脳裏に、あの存在の気配が浮かぶ。
言葉はそれだけ。
指示でも、助言でもない、ただの認識。
ロザーリエは歯を食いしばる。
「……虚界穿孔……!」
来ないで、近づかないで、消えて。
次々と虚空が開き、異形の存在が抵抗する間もなく呑まれていく。
それでも。
数が減る気配は、まだ遠い。
一体がすぐ傍まで迫る。
腕のようなものが振り下ろされる。
避けきれない。
その瞬間。
――遅い。
時間が、ずれる。
振り下ろされるはずの動きが、途中で途切れる。
次の瞬間、その存在は地面に崩れ落ちていた。
二度と動かない。
ロザーリエは目を見開く。
(今のは……)
理解はできない。
だが、感覚だけが残る。
先を消した、そんな感触。
ロザーリエは息を整える。
恐怖は消えていない。
だが、それ以上に――
対処できるという確信が、わずかに芽生えていた。
一歩、踏み出す。
逃げるのではなく、迎えに行くように。
「……来なさい」
その言葉は、もう震えていなかった。
異形の群れが迫る。
ロザーリエは、その中心へと歩み出る。
足元が裂ける。
空間が歪む。
未来が断たれる。
近づいたものから順に、静かに消えていく。
音は少ない。
叫びもない。
ただ、いなくなる。
その光景はあまりにも静かで、だからこそ異様だった。
「……何だ、あれ……」
背後から、声がした。
ロザーリエの動きが、一瞬だけ止まる。
振り返る前に、気配で分かる。
――来てしまった。
玲司だった。
息を切らしながら、立っている。
その視線は、ロザーリエではなく――
目の前で起きている現象に向けられていた。
「お前……何をしているんだ……?」
信じきれていない声。
当然だった。
ロザーリエは、ゆっくりと振り返る。
「……来てはなりませんわ」
静かな声。
だが、その言葉とは裏腹に、足元ではまた一体、消えている。
玲司は一歩踏み出す。
「なりませんって……!」
その瞬間、別の個体が玲司の側面から迫る。
ロザーリエの瞳がわずかに揺れる。
(間に合わない――)
行かせない。
時間が、途切れる。
迫っていた個体が、唐突に崩れ落ちる。
玲司のすぐ横で、動かなくなる。
玲司の呼吸が止まった。
「……?」
何が起きたのか理解できていない。
当然だ。
ロザーリエは目を伏せる。
「……だから、申し上げましたのに」
小さく呟く。
玲司はロザーリエを見る。
その視線には、はっきりとした戸惑いがあった。
「ロザーリエ……それ……」
言葉が続かない。
能力、という言葉すら浮かばない。
目の前のものが、それに収まらないからだ。
ロザーリエは答えない。
ただ、前を向く。
まだ、終わっていないのだ。
残っている個体が、こちらを囲もうとしている。
「下がっていてくださいまし」
淡々と告げる。
さっきまで一緒に食事をしていた相手とは思えない声。
玲司の足が止まる。
止めるべきか、近づくべきか、分からない。
その迷いの間に――
ロザーリエは、もう一歩踏み出していた。
「ここは、私が」
その言葉には、もう迷いはなかった。
異形の群れが再び迫る。
ロザーリエは、その中心へと向かう。
玲司は動けない。
ただ、見ている。
目の前で、人が戦う姿ではないものが、静かに、確実に敵を殺していく光景を。
その中で、初めて理解する。
この少女は――
自分と同じ場所には、いない。
最後の一体が、音もなく崩れ落ちた。
動くものは、もうない。
風だけが、瓦礫の隙間を抜けていく。
ロザーリエは、ゆっくりと息を吐いた。
張り詰めていたものが、静かにほどけていく。
その時。
「……終わったのか」
後ろから、声がした。
玲司だった。
先ほどよりも少し近くにいる。
ロザーリエは振り返る。
「……ええ」
短く答え、沈黙が落ちる。
玲司は少しだけ迷うようにしてから、口を開いた。
「助かった」
まっすぐな言葉だった。
「中の人たちも……俺も」
ロザーリエの瞳が、わずかに揺れる。
そんな言葉を向けられるとは思っていなかった。
「……当然のことをしたまでですわ」
そう返す。
だが、その声はほんの少しだけ柔らかい。
玲司は小さく息を吐く。
「当然って顔ではなかったけどな」
ロザーリエは言葉に詰まる。
一瞬だけ、目を逸らす。
「……怖く、なかったわけではありませんわ」
正直な言葉だった。
玲司は少しだけ笑う。
「そうか」
それ以上は踏み込まない。
その距離感が、妙に心地よかった。
――人と話している。
その実感が、遅れて胸に落ちる。
だが、その空気は長くは続かなかった。
「……おい」
別の声が割り込む。
建物の方から、数人の大人がこちらを見ていた。
いつの間にか、他の避難民も集まっている。
視線が集まり、ざわめきが広がる。
「今の……何だ?」
「見たか……あの消え方……」
「普通じゃない……」
声が、少しずつ大きくなる。
ロザーリエは、その視線を受け止める。
嫌な予感が、胸の奥で膨らむ。
「……あの子がやったのか?」
誰かが言う。
沈黙の後、別の誰かが、はっきりと口にした。
「……悪魔だ」
空気が、凍る。
玲司の表情が変わる。
「やめろ、そんな――」
「だって見ただろ!」
声が強くなる。
「触れてもいないのに、奴らが消えたんだぞ!」
「普通じゃない!」
「ここにいさせていいのか……?」
その言葉が、決定的だった。
ロザーリエの中で、何かが静かに沈む。
ほんの少し前まで感じていた温度が、遠くなる。
「……私は」
言葉が出ない。
何を言えばいいのか分からない。
理解してもらえるとも、思えない。
ただ一つ、分かることがある。
――ここにも、居場所はない。
ロザーリエは視線を落とす。
そして、ゆっくりと後ずさる。
向けられる視線。
疑念と恐れが混ざった空気。
それを受け止めるように、ただ立つ。
「……ご安心くださいまし」
小さく、そう言った。
「すぐに、ここを離れますので」
誰に向けた言葉かは分からない。
だが、その場にいる全員に届いた。
ざわめきが、わずかに収まる。
ロザーリエは、それ以上何も言わなかった。
背を向ける。
建物の方は、もう見ない。
一歩。
また一歩。
瓦礫の上を、静かに歩き出す。
止める声は、ない。
引き留める者も、いない。
それが答えだった。
それでも、足は止まらない。
歩く。
ただ前へ歩く。
「……待て」
後ろから声がする。
ロザーリエは、振り返らない。
足音が近づいてきた。
「どこに行くんだ」
玲司だった。
少し息を切らしている。
ロザーリエは立ち止まる。
だが、振り返らない。
「……どこでも構いませんわ」
消え入りそうな、静かな声だった。
「ここ以外であれば」
その言葉には、感情がほとんど乗っていない。
玲司は言葉に詰まる。
何か言おうとして、飲み込む。
代わりに、短く言う。
「それなら、俺も行く」
ロザーリエの指先が、わずかに揺れる。
「……おやめなさい」
「何故だ」
即答だった。
ロザーリエはゆっくりと振り返る。
「あなたは、人として生きるべきですわ。
私は違いますもの」
その言葉は、はっきりとしていた。
自分で線を引いていた。
玲司は眉を寄せる。
「さっき、みんなを助けたのは誰だ」
ロザーリエは答えない。
答えられない。
その沈黙を、別の声が埋めた。
「玲司」
シオンだった。
少し離れた場所から、こちらを見ている。
その表情は穏やかだったが、決意がある。
「……一緒に行くわよ」
静かに言う。
玲司が目を見開く。
「母さん?」
「このままここにいても、何も変わらないわ」
視線がロザーリエへ向く。
「それに……あの子を一人にするのは、違う気がするの」
ロザーリエの呼吸が、わずかに乱れる。
理解できない言葉だった。
なぜ、そんなことを言うのか。
なぜ、離れないのか。
玲司は一瞬だけ迷う。
だが、すぐに頷いた。
「……分かった」
そして、ロザーリエの方を見る。
「行こう」
当たり前のように言う。
ロザーリエは、何も返せない。
拒絶する言葉が、出てこない。
ただ、立ち尽くす。
やがて、小さく息を吐く。
「……勝手になさいませ」
それは許可ではない。
拒絶でもない。
ただの、諦めに近い言葉だった。
ロザーリエは再び歩き出す。
その後ろに、足音が二つ続く。
一人ではない。
それだけで、ほんのわずかに、世界の色が変わる。
振り返らない。
けれど、確かに分かっている。
背後に、人がいる。
それでも――
胸の奥の冷たさは、まだ消えないままだった。




