第4話:温もりの外へ
煙の正体は、すぐに分かった。
建物だった。
森を抜けた先に、かつて学校か何かだったであろう建物が立っている。
壁は一部崩れ、窓ガラスも割れている。
だが、中には人の気配があった。
ロザーリエは足を止める。
遠くから、声が聞こえる。
泣き声、誰かを呼ぶ声、低く抑えられた会話。
――人がいる。
それだけで、胸の奥がわずかに揺れた。
足が、自然と前に出る。
入口付近には、簡易的なバリケードが組まれていた。
木材や瓦礫を積み上げただけのもの。
その隙間から、中の様子が見える。
床には布や毛布が敷かれ、人々が肩を寄せ合うようにして座っている。
横になっている者もいる。
動かない者もいる。
医療用の簡易ベッドのようなものも見える。
包帯を巻かれた人間。
虚ろな目で天井を見つめる人間。
ロザーリエは、その光景を見つめたまま動けなかった。
ここは、生きている場所だ。
同時に、多くを失った者たちの場所でもある。
「……」
喉が乾く。
声を出すべきか。
それとも、このまま去るべきか。
自分は、ここにいていいのか。
そんな考えが、頭を過る。
その時。
「……誰かいるのか?」
中から声がした。
ロザーリエの身体が、わずかに強張る。
視線が集まる。
数人の大人がこちらを見て、警戒している。
当然の反応だった。
ロザーリエは一歩だけ前に出る。
「……あの」
声がかすれる。
それでも、言葉を紡ぐ。
「……避難できる場所を、探していますの」
一瞬の沈黙。
空気が張り詰める。
やがて、一人の女性が小さく頷いた。
「……入っていい。けど、名前は?」
ロザーリエは、わずかに視線を落とす。
ほんの一瞬だけ、迷う。
「……ロザーリエ、と申しますわ」
その名は、まだ重くない。
まだ、誰も知らない。
ただの少女の名前として、そこにあった。
「……来なさい。食べ物は少ないけど、分けることはできる」
その言葉に、ロザーリエはゆっくりと中へ足を踏み入れた。
建物の中は、思っていたよりも狭く感じた。
人が多いからではない。
誰もが、余裕を持って動いていないからだ。
壁際には毛布が敷かれ、人々はそこに身体を預けている。
中央には通路のような空間があるが、そこも決して広くはない。
ロザーリエは、立ち尽くしていた。
どこに行けばいいのか分からない。
誰に従えばいいのかも分からない。
名前を聞かれ、受け入れられた。
それだけだ。
その先が、ない。
視線だけが、周囲を彷徨う。
――ここにいていいのか。
その疑問が、離れない。
やがて、力が抜ける。
ロザーリエは、壁際の空いた場所に静かに座り込んだ。
膝を抱える。
人の声が遠くに聞こえる。
泣き声、小さな笑い声、咳。
全部が混ざって、ぼやけている。
自分だけが、少しだけ浮いている気がした。
「……大丈夫か?」
不意に、声がかかる。
ロザーリエは顔を上げた。
そこに立っていたのは、青年だった。
年齢は自分より少し上。
その隣には、一人の女性がいる。
柔らかな表情をした人だった。
「ここ、初めてだよな」
青年が言う。
警戒はしていない。
ただ、様子を見ている。
ロザーリエは、少しだけ言葉に詰まる。
「……ええ」
短く答える。
それだけで精一杯だった。
女性が一歩前に出る。
「座る場所、まだ決まってないのよね?」
優しい声。
だが、どこか疲れが滲んでいる。
ロザーリエは小さく頷く。
「よかったら、あっち……少しだけ空いてるから、一緒にどう?」
指差された先には、毛布が敷かれた一角があった。
完全に余裕があるわけではない。
それでも、少しだけ空間がある。
「……よろしいのですか?」
思わず、そう聞いていた。
女性は微笑む。
「ええ。こんな状況だもの。助け合わないと」
その言葉は、綺麗すぎなかった。
現実を知った上での、静かな優しさだった。
ロザーリエは、ゆっくりと立ち上がる。
青年とすれ違う瞬間。
一瞬だけ、視線が交わる。
「名乗り遅れたな。俺は桜庭玲司。こっちは母の桜庭シオン」
名乗りは簡潔だった。
「……ロザーリエ、と申しますわ」
その名前を口にする時、ほんのわずかに、胸が揺れた。
三人は、並んで歩く。
ほんの数歩の距離。
それだけなのに、先ほどまでよりも、空気が少しだけ違っていた。
人の隣にいる。
それだけで、こんなにも感覚が変わるものなのかと、ロザーリエは初めて知った。
シオンに案内された場所に、三人は腰を下ろした。
毛布は薄く、床の硬さがそのまま伝わってくる。
それでも、外にいた時よりはずっとましだった。
少しして、配給が回ってくる。
簡素な器に入ったスープと、小さなパン。
それだけ。
だが、湯気が立っている。
温かい。
ロザーリエはそれを受け取り、しばらく見つめていた。
「……どうしたの?」
シオンがやわらかく声をかける。
ロザーリエは小さく首を振った。
「いえ……その……」
言葉を探す。
そして、静かに口にする。
「温かいものをいただくのが、久しぶりで」
シオンは一瞬だけ目を伏せ、それから微笑んだ。
「そう……ゆっくりでいいから、食べなさい」
ロザーリエは頷く。
スープを口に運ぶ。
ほんのりとした塩気。
薄い味。
それでも。
身体の奥に、じんわりと広がっていく。
「……美味しいですわ」
その言葉は、自然に出ていた。
玲司が少しだけ笑う。
「よかった。 味は薄いけど、温かいのは出るんだ」
軽い調子の言葉。
その裏にある現実も透けて見える。
ロザーリエはパンをちぎりながら、問いかける。
「ここには、どれくらいの方が……?」
「正確には分からないが……結構増えてる」
玲司が答える。
「他の場所がやられて、流れてきた人も多いし」
シオンが続ける。
「安全な場所なんて、もうどこにもないのよ」
その言葉に、ロザーリエの手が止まる。
安全な場所は、ない。
それは、すでに理解しているはずだった。
それでも、改めて言葉にされると、胸の奥に沈むものがあった。
「……そう、ですのね」
それ以上は、何も言えなかった。
しばらく、静かな時間が流れる。
スプーンと器の触れ合う音だけが、小さく響く。
その時――
甲高い音が、建物内に響き渡った。
サイレンだ。
一瞬で、空気が変わる。
人々の顔色が変わる。
「来た……!」
誰かが叫ぶ。
ざわめきが広がる。
子供が泣き出す。
「全員、奥へ! 急げ!」
指示の声。
混乱。
ロザーリエは顔を上げる。
胸の奥が、静かに冷える。
――近い。
理由は分からない。
でも、分かる。
あれが来る。
森で感じた何かと同じものが。
その時、脳裏にわずかな気配が揺れる。
何も言わない。
だが、確かにある。
ロザーリエは立ち上がる。
「待て」
玲司が腕を掴む。
「外に出る気か?」
ロザーリエは振り返る。
その瞳には、迷いがあった。
だが、同時に、別の光も宿っている。
「……守れるかもしれませんの」
小さな声だった。
「私なら、ここを」
玲司の表情が険しくなる。
「何言ってるんだ。外は――」
「行かせるわけにはいかない」
シオンも静かに言う。
その声には、はっきりとした拒絶があった。
ロザーリエは、一瞬だけ目を伏せる。
手を差し伸べられた場所。
それらが、胸の中で揺れる。
それでも。
ゆっくりと、首を振った。
「……それでも」
顔を上げる。
その瞳は、もう揺れていない。
「ここで何もせずにいることの方が、耐えられませんわ」
腕を振りほどく。
強くはない。
だが、確かな意志。
玲司の手が離れる。
ロザーリエは、そのまま歩き出す。
止める声は、もう届かない。
扉へ向かう。
一歩、一歩。
サイレンの音が、より強く響く。
そして――
彼女は外へ出た。




