第10話:答えはまだ。
――い。
――ねがい。
――お願い、目を覚まして。
ロザーリエは目を覚ます。
白い天井が見える。
体の感覚はほぼ無いに等しい。
瞼をゆっくり動かす。
霞んでいた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
そして、一人の女性の顔が映った。
「……良かった」
安堵したように微笑むシオン。
ロザーリエは数秒ほど彼女を見つめた後、小さく呟く。
「私……」
起き上がろうとする。
だが全身に激痛が走り、再びベッドへ沈んだ。
「無理しないで」
シオンが肩へ手を添える。
「丸一日眠っていたのよ」
「一日……」
その言葉にロザーリエは目を見開く。
脳裏に夜の出来事が蘇った。
黒いフード。
赤い瞳。
圧倒的な力。
そして――戦争の真実。
ロザーリエの表情が曇る。
シオンはその変化を見逃さなかった。
「何かあったの?」
優しい声だった。
だからこそ答えられない。
宇宙外生命体、人類、どちらが悪いのか。
何を憎めばいいのか、自分でも分からなくなっていた。
「……何でもありませんわ」
小さな嘘だった。
シオンはしばらくロザーリエを見つめていたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに近くに置いてあった器を差し出す。
「スープよ」
温かな湯気が立ち上る。
質素な物だったが、避難所では十分贅沢だった。
「玲司が心配してたわ」
「玲司が?」
「あなたが目を覚ますまで何度も様子を見に来てた」
思わず苦笑が漏れる。
あの青年らしいと思った。
「変な人ですわね」
「そうかしら」
「そうですわ」
ロザーリエは器を受け取る。
温かい。
その熱が指先から伝わってくる。
気づけば、父と母を失ってから初めてだった。
誰かが自分のために用意してくれた、温かい食事は。
ロザーリエは静かに視線を落とす。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
その痛みの正体を、まだ言葉にはできなかった。
数日間、ロザーリエはベッドの上で生活をしていた。
宇宙外生命体は現れない。
穏やかな数日間だった。
昼には玲司やシオン、避難所の子どもたちと会話をし、夜にはフクロウの声を聞く。
そんな日々を過ごしていた。
その中の、とある一夜。
『ロザーリエ』
ハイドラが、不意に話しかける。
「……何ですの」
ロザーリエは、窓の外を眺めたまま答える。
『以前、我が何者か問うたことがあるな』
「そうですわね」
静かな夜だった。
普段は鳴いているフクロウも、今夜は黙り込んでいた。
聞こえるのは風の音だけ。
『我は本来、お前と出会うはずではなかった』
「……?」
『本来ならば、別の存在に取り込まれるはずだった』
ロザーリエが眉をひそめる。
「取り込まれる?」
『そうだ』
ハイドラは続ける。
『我は力を授けるために存在する。 能力を与え、権能を与え、器を完成へ導く。 それが役目だ』
ロザーリエは自らの掌を見る。
虚界穿孔
未来断絶
魔神顕装
確かに、自分はハイドラから力を得ている。
「本来の相手は誰ですの?」
少しだけ、夜風が吹いた。
ハイドラは沈黙する。
そして。
『ネヴ=ソス』
その名だけを告げた。
聞いたこともない名前だった。
「それは誰ですの?」
『皇帝候補』
「皇帝?」
『我らの頂点となる存在だ』
ロザーリエは少しだけ考え込む。
「そのネヴ=ソスは今どこにいますの?」
『知らぬ』
「会ったことは?」
『ない』
「それで皇帝候補だと?」
『厳密には、そう定められていた』
心の臓を這うように、ハイドラは少し蠢いた。
『だが今は違う。 我はお前の中にいる』
ロザーリエは目を閉じ、一言呟いた。
「嫌なこと、ですわね」
翌朝。
歩けるようになったロザーリエは、避難所の外に置かれた木箱へ腰掛けていた。
朝日が森を照らしている。
以前ならば当たり前だった光景。
しかし今は、その穏やかさがどこか遠く感じられた。
「起きてたのか」
聞き慣れた声がする。
振り返ると玲司が立っていた。
手にはスープが入った缶が二つ。
片方を差し出してくる。
「はい」
「ありがとうございますわ」
しばらく二人は無言だった。
鳥の鳴き声だけが響いている。
先に口を開いたのは玲司だった。
「体調はどうだ?」
「だいぶ良くなりましたわ」
「そうか」
短い返事。
それでもどこか安心したように見えた。
玲司は空を見上げる。
そしてぽつりと呟いた。
「お前、変わったな」
「そうですの?」
「最初に会った頃より」
ロザーリエは少し考える。
確かにそうかもしれない。
以前の自分なら、子供たちと遊ぶことなど考えもしなかった。
「玲司」
「何だ」
「貴方はどうして、私にそこまで優しくしてくださるんですの?」
玲司は少し驚いたような顔をした。
だが答えは早かった。
「一人だったからだ。 俺も母さんも、一人になる辛さは知ってる」
静かな声だった。
だからこそ、胸に刺さる。
ロザーリエの瞳が揺れた。
「だから放っておけなかった」
ロザーリエは返事ができない。
その時だった。
「二人とも朝から難しい顔してるわね」
明るい声。
振り返るとシオンが立っていた。
いつものような笑顔だが、少し顔色が悪い。
ロザーリエは気になったが、本人は気付いていないようだった。
シオンは二人の間へ座る。
「何の話をしてたの?」
「別に」
「絶対別にじゃない顔してたじゃない」
玲司はため息を吐く。
ロザーリエは少しだけ笑った。
それを見てシオンも微笑む。
そして、不意に真面目な表情になった。
「ロザーリエちゃん」
その呼び方に、ロザーリエは顔を上げる。
シオンは真っ直ぐ見つめていた。
「一つ聞いてもいい?」
「何ですの?」
少しの沈黙の後、シオンは言う。
「これからも私たちと一緒に来ない?」
ロザーリエの呼吸が止まった。
言葉の意味を理解するまで数秒かかる。
「それは……」
シオンは優しく続ける。
「もちろん、お父さんやお母さんの代わりにはなれない」
「……」
「でもね」
彼女は小さく笑った。
「家族にはなれるかもしれない」
胸が痛む。
家族、その言葉だけで。
父の顔が浮かぶ。
母の声が聞こえる。
花壇に作った墓。
朝日。
別れ。
全てが脳裏を過った。
「私は……」
答えようとして、言葉が出なかった。
欲しかったはずだ。
居場所も、温かさも、誰かと生きる未来も。
だが、失う恐怖も知っている。
シオンは急かさなかった。
玲司も何も言わない。
長い沈黙の後、ロザーリエは静かに答えた。
「……少しだけ、考えさせてくださいまし」
シオンは微笑んだ。
「ええ。 ゆっくりでいいわ」
その言葉が、何故だか酷く温かかった。
ロザーリエは俯く。
まだ答えは出ない。
だが、少なくとも嫌ではなかった。
そんな風に思えた。
その時だった。
「――っ」
隣でシオンの肩が僅かに震える。
シオンが胸元を押さえている。
「シオン?」
ロザーリエは立ち上がり、駆け寄る。
玲司も気付いたようだった。
「母さん?」
「大丈夫よ」
シオンはすぐに笑顔を作る。
しかし、その顔色は明らかに悪い。
額には薄く汗も浮かんでいた。
「少し立ちくらみがしただけ」
「休んだ方が良いんじゃないか」
玲司の言葉にシオンは苦笑する。
「最近、少し働き過ぎたかもしれないわね」
避難所では誰もが忙しい。
子供たちの世話、怪我人の手当て、食料の管理。
シオンはその多くを担っていた。
疲労が溜まっていても不思議ではない。
「今日はゆっくりしてくださいまし」
ロザーリエがそう言うと、シオンは少し驚いたような顔をした。
そして柔らかく微笑む。
「ありがとう」
その瞬間だった。
避難所全体を震わせるような音が響く。
三人の表情が変わる。
避難所の人々も一斉に顔を上げた。
空気が一変し、先程までの穏やかな朝は消え去っていた。
避難所の人々が動き出す。
悲鳴、怒号、泣き声。
様々な音が混ざり合う。
ロザーリエは立ち上がると、胸の奥で何かが脈打つのを感じた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
戦わなければならないという感覚だった。
シオンが息を呑む。
玲司は周囲を見回した。
そして再びサイレンが鳴る。
長く、重く。
まるで災厄の到来を告げるように。
ロザーリエは避難所の出口へ視線を向けた。
その先には森がある。
そして、空にはまだ見えない敵がいる。
静かな朝は終わった。
戦いが、始まろうとしていた。




